夏の終わり、秋のはじまり
Written by Eiji Takashima
第六話:夢から続く悲しみ
パチン!!
机の上に置いた時にシャープペンシルが立てた音。
それは私の内心をよく表していた。
「…………」
私は今日、何故か早くに家に帰ってきた。
千鶴姉さん達には私は今日忙しいと言っていたけれど、それは私のちょっとし
た嘘だった。
「…………」
独りでいるはずなのに、妙に自分の沈黙が気になる。
梓姉さんや初音はいつも楽しそうに騒いでいるけど、私はあまりそんな輪には
加わらなかった。
みんなは私がまだ叔父様の死から立ち直れないからだということにしてくれて
いる。
でも、実際はそうじゃなかった。
「…………」
耕一さんが今日うちに来る。
そのことが私の心を揺り動かしていた。
叔父様が亡くなったこと、それは私達四姉妹にとっては大きな問題だった。
それは鶴来屋にとってだけでなく、柏木家という家族にとっても、軽視するこ
とは出来なかった。
でも、私は知っていた。
いつかこういう日が来るということを。
叔父様の中の鬼は、随分前から私と千鶴姉さんの気付くところとなっていた。
叔父様も私達が知ってしまったことを知ると、そっとその心のうちを打ち明け
てくれた。
でも、聞いても何も出来なかった。
私はただ、叔父様が死を迎えるまで本当の娘のように振る舞うことだけしか出
来なかった。
そして、叔父様が愛してやまない妻と息子、失われし半身を想う時、傍にいて
あげるだけだった。
時は繰り返す。
私は耕一さんの鬼が今どういう状況なのかを全く知らない。
でも、耕一さんはあの川辺での事件で自らの鬼を一時的に覚醒めさせたという
経験を持つ。
それがどういう事を意味しているのか……それは千鶴姉さんにも私にもわから
なかった。
「叔父様……」
私の呟き。
こういう時、いつも私を支えてくれたのは叔父様だった。
耕一さんも、叔父様と同じ運命を辿るかもしれない。
そして耕一さんは……。
最近頻繁にあの夢を見る。
そう、エディフェルという名の少女と、次郎衛門という侍の夢。
私がエディフェルとなり、相手はいつも次郎衛門だった。
特に耕一さんが来るという事実を知らされてからの夢は、この数年間で幾度と
なくこのような夢を見てきたにもかかわらず、初めて見る情景すらあった。
つまり、それは私にとって耕一さんが特別であるという証。
耕一さんが次郎衛門の生まれ変わりではないかという私の考えは、より強めら
れた。
柏木家の男の呪いと私の想い。
それらがぶつかり合って、私の心を苛立たせる。
パチン!!
またシャープペンシルで音を立てる。
私は自分自身の逃げている気持ちがよくわかるだけに、一層心は乱れた。
こんなことをさっきからずっと繰り返している。
開いた参考書のページも、一時間ほど前からずっと変わっていない。
時計の針が時を刻む音が妙に響く。
私は耕一さんに会うのを恐れているくせに、耕一さんが来るのを待ち焦がれて
いる。それは矛盾であり、そんな事実が私を苦しめていた。
でも、誰も私を助けてくれない。
私を助けてくれる唯一の人は、もうこの世にはいない。
そして千鶴姉さんは、自分のことだけで精一杯で、とても人の苦しみにまで手
が回らない。
「……耕一……さん…………」
呼びたくはなかった名前。
でも、叔父様以外で私をやさしく包み込んでくれるとすれば、それは耕一さん
以外にはありえなかった。
そして千鶴姉さんも、それを耕一さんに求めている。
千鶴姉さんは父親とも呼ぶべき叔父様を失っただけでなく、鶴来屋、ひいては
隆山温泉全体を支えるという重責を一気に負わされた。
そして、それが千鶴姉さんに与えた影響は殊のほか大きかった。
もともと千鶴姉さんはのんびりとしていて、いい姉、いい母親にはなれるかも
しれないけど、大勢の人の上に立てるような女性じゃなかった。
千鶴姉さんはそんな自分をよく理解している。
でも、だからといってそれを放棄できる千鶴姉さんでもなかった。
だから千鶴姉さんは苦しむ。
鶴来屋グループの頂点に立つものとしての自分と、明るくやさしい柏木家長女
としての自分との狭間に立って……。
何も口には出さないけど、きっと千鶴姉さんはもうどうしようもなくなったん
だと思う。だからこそ、迷惑がかかるのを承知の上で耕一さんを呼んだのだろ
う。
姉さんは耕一さんには何も望まない。
ただ傍にいてくれるだけでいいんだと思う。
そして私も……耕一さんが傍にいてくれれば、それだけでいいと思う。
たとえ私が耕一さんを避けても、耕一さんが同じ屋根の下にいてくれるのならば……。
私はそう思うと、手につかない勉強を諦め、ベッドの上に横になった。
エディフェルの夢は悲しい夢。
でも、今の私にはまだそっちの方が現実よりもましなように思えてならなかった。
「エディフェル?」
「なに、次郎衛門?」
小さな火の傍で、次郎衛門が私に話し掛けてきた。
「いいのか、仲間から離れても?」
「……構わない」
「何故?」
「私はエルクゥの中でなく、あなたの中に自分を見出した。だから私はあなた
の傍にいるの」
「……よくわからないな。しかし、俺だってもうお前のせいでエルクゥの一人
になったのではないのか?」
次郎衛門は首をかしげながらそう言う。
長い時を生きるエルクゥとは違い、次郎衛門は妙に子供っぽさを残している。
そして私はそれこそが次郎衛門の持つ「人間らしさ」だと思い、それを愛した。
「確かにあなたの身体は私のエルクゥの細胞でほとんどエルクゥと変わらなく
なったわ。でも、心までは変えることが出来ない。あなたの本質はまだ、あの
時の次郎衛門のままよ。」
「……そうかも知れんな」
次郎衛門は火に手をかざしてひとこと応えた。
オレンジ色の揺らめく灯りに照らされた次郎衛門の顔は、何故か妙に寂しげに
見えた。
「……悲しいの、次郎衛門?」
「どうして?」
「私には、そう見える」
私ははっきりとそう言った。
物事をはっきりと言うのは、エルクゥの特徴とも言えた。
すると次郎衛門は少し考えるような顔をして、静かに私に答えてくれた。
「……お前の言う通りかも知れんな、エディフェル」
「…………」
「俺はもう、人間ではなくなった。確かにお前の言う通り、心はまだかつての
次郎衛門のままかもしれないが、身体が変わると言うことは、心も変わらざる
を得ない。違うか?」
「……いいえ、違わない。もし私とあなたの間に子供が出来たら、間違いなく
エルクゥの心を持っていることでしょう」
「子供、か……」
「…………」
沈黙がよぎる。
幾度となく、次郎衛門と肌を触れあわせてきた。
しかし、私も次郎衛門も、その行為が自分達の子供につながると言うことを全
く考えていなかった。
ただお互いを愛するが故に求める。
それだけのことだった。
しかし、現実はまた別に存在する。
私達二人がここに隠れるように住んでいることと同じように、これもまた一つ
の現実だった。
「……俺はこうしてお前を手に入れた。しかし、その代償として沢山のものを
失った」
「私はあなたという人を得て、そして仲間を捨てた……」
「捨てたと言いきれるのか?」
次郎衛門に重ねた私の言葉を耳にして、次郎衛門は少し驚くように訊ねてきた。
そして私は、次郎衛門を安心させる為に、よどみなくはっきりと答える。
「言い切れるわ。もはや今の私は、仲間にとって裏切り者以外のなにものでも
ない……」
「そうか……俺の場合、死んだことにされているだろうからな……」
次郎衛門は私を想い、そして下界での自分の噂に思いを馳せた。
私はそんな感傷に浸りそうな次郎衛門にひとこと告げた。
「……そのうち追手が来るかもしれません」
「追手? 俺を追ってか?」
「いいえ、私と、そしてあなたを狩る為にです」
「……狩る?」
「そうです。今では私もあなたも、狩猟者たるエルクゥの獲物となったのです」
「戦うのか?」
私の言葉に驚きを隠しきれなかった次郎衛門も、やはり元々が戦士だっただけ
に、怖じ気づいたりはしなかった。
しかし私は、彼とは違って女だった。
だからいくら狩猟者とは言え、戦いを前にして興奮したりはしなかった。
「……わからない」
「何故!? 相手は容赦したりはしないんだろう!?」
確かにそう。
エルクゥは獲物を前にして容赦したりはしない。
でも……。
「……きっと名乗りをあげるわ」
「何のことだ?」
「姉さん。きっとリズエル姉さんは、他人に任せず自らの手で私を狩りに来る」
「……何とか見逃してもらえないのか?」
「エルクゥは猟犬と同じよ。諦めを知らないし、その力で同族を感じることが
出来る」
「…………」
次郎衛門はもう何も言えなかった。
彼は私を知っても、大きな意味でのエルクゥをほとんど知らなかった。
私は彼に教えたくないと思っていたけれど、それでも言わなければならないこ
とは存在した。
「それで私、どうしようかと思って……」
「倒せばいい。それしか手の打ちようがないなら」
「でも、相手は姉さんよ。だからいっそのこと私が姉さんの手にかかって……」
「駄目だ!!」
「でも、他に方法がないのよ」
「逃げればいい。いくら諦めを知らないエルクゥでも、ずっと逃げ続けていれ
ば、悲しい思いはせずに済む」
彼の言う通りだった。
今の私にも、それが一番だと思えた。
「あなたの言う通りかもしれないわね、次郎衛門」
「だろう? 確かに逃げ続けるのは辛いかもしれない。でも……」
「なに?」
「でも、俺はお前がいてくれるなら、お前さえいてくれるのなら、どんな艱難
辛苦にでも耐えられる気がするよ」
「次郎衛門……」
「寒かったらあたためあえばいい。腹が減ったら二人で分け合えばいい」
「そうね……」
「エディフェル……」
私は知っていた。
結局二人は逃げ切れなかったことを。
そして全ての流れを知っているにもかかわらず、私はいつものように涙を流した。
この悲しみが一夜の夢のものではなく、永遠に近いくらい夜と昼とを繰り返し
ても尚、ずっとずっと続いていることを、私は知っているから……。
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