夏の終わり、秋のはじまり
Written by Eiji Takashima
第一話:新月
夏の終わり。
そして、秋のはじまり。
夜風に乗せて、もう虫の音が私の耳に届いてくる。
今日は新月の日。
月の出ない日。
青白く照らされる世界に魅せられて、月夜の散歩を楽しむこともある私だった
けれど、今日は、今日だけはわざわざこの新月の日を選んで外に出た……。
「……千鶴姉さん?」
物思いに耽る私を不思議に思ったのか、傍らを歩く楓が声をかけてきた。
「……なに、楓?」
私は楓に余計な心配をかけないように、少しだけ明るく応えてみせた。
「……なんでもない」
「そう……」
不思議な子。
そう、この子は小さい時からずっと、夢見がちな不思議な女の子だった。
私はいい姉として、そして父と母が亡くなってからはいい母親として、きちん
と振る舞ってきたつもりだった。
楓だけでなく、梓も初音も、私の振る舞いに微かな演技が入っていることを知
っているに違いない。でも、梓や初音は黙ってそんな私を受け入れてくれた。
しかし楓は――
「千鶴姉さん?」
私が思考を巡らせた時、再び楓が私に声をかけてきた。
さっきと同じ言葉。
しかし、それは少しだけ強さを帯びていたように、私には感じられた。
まるで私を確かめるかのように……
「ごめんなさいね、楓。少し考え込んじゃって」
私は少し照れたように笑う。
しかし、梓や初音とは違って、そう、この子だけは私の演技に乗ってこなかった。
そしてそれは、先日亡くなった叔父様と同じだった……。
「……何を考えているの、千鶴姉さんは?」
この子は鋭い。
しかし、そんなことはずっと以前からわかりきっていたことだ。
確かに妹の初音もそういうところは楓とさほど変わりはなかったけれど、初音
はまだまだ子供の純粋さを、おひさまの暖かさをなくさずにいた。
だから私は、ことある毎にこの楓に相談しているのかもしれない。
私の次に年上と言うこともあって、梓はしっかりした娘だけれど、私達姉妹の
中では一番現実的だった。
だからこそ、叔父様が亡くなって私が鶴来屋を取り仕切らなくならねばなくな
り、家のことにあまり時間が割けなくなってからは、この梓に家のこと全般を
任せた。そして今現在、それが正解だったことを、梓は私に証明してくれてい
る。
でも、柏木家の忌まわしい血、鬼の力のこととなると、今私の隣にいて透き通
るような瞳で私を見つめているこの楓にしか相談できなかった。
この闇の世界についてこれるのは、姉妹の中でも楓しかいなかったのだ。
「いろいろと……ね」
私はごまかすように楓に言う。
私だってこんなごまかしなど楓には全く通用しないことくらい知っていた。
でも、私がそう言えば、楓は自分が感じ、理解していることをわざわざ口には
出さなかった。
「…………」
やはり楓は黙り込む。
楓は元々自分からあまり話をするタイプの子ではなかったけれど、特に叔父様
が亡くなって以来、その傾向は日増しに強くなっていった。
私達が話し掛ければ当然普通に返事をする楓。
しかし、自分から話を切り出すことは、最早今の楓には不可能になってしまっ
たのかもしれなかった。
私達姉妹が叔父様を本当の父親のように慕っていたのは事実だった。
しかし、皆それぞれ同じように愛情を持って接していたのに、何故か楓のそれ
は特別であるように私には見えた。
叔父様と話をする時の楓の目は、まさに誰にも見せないもう一つの楓を露にし
ていた。
当然、私は楓が叔父様に恋をしているのではないかと思ったこともあった。
それは叔父様の死によって、真偽を確かめることは出来なくなってしまったけ
れど、今の楓を見れば、恋かどうかはともかく、私達の中で一番叔父様を慕っ
ていたのが楓なのだと言うことはわかりきったことだった。
「楓……?」
私はいつまでも楓を苦しめるのが辛くなって、少しだけ話を早めることにした。
「なに、千鶴姉さん?」
「……お星様が綺麗ね……」
「うん」
そううなずく楓は、少しだけ年相応の少女に見えた。
さっきまでの楓の表情の原因は、わざわざ楓ひとりだけをこうして連れて来た
ことにあったにも関わらず、私は自分の妹としての顔を見せてくれた楓をうれ
しく思った。
「今日は新月だから、この明かりはお星様だけのものなの。思っていたよりも
案外明るいものなのね」
「そうね、千鶴姉さん」
私の話は脱線しているかもしれない。
楓もそれを感じたのか、わずかな笑みを見せている。
「普通の人は、新月の夜に好き好んで散歩なんてしないでしょうからね」
「ええ……」
楓の表情が語っている。
ならどうして?と。
そしてそれが私の創り出したきっかけだった。
「今日だけは、純粋な人間として、あなたと話をしたかったからよ……」
「千鶴姉さん……」
楓の表情は少し驚いたものへと変わった。
当然なにか大切な話があって自分を呼び出したのだと言うことくらい、聡い楓
にはとうに察しがついていたはずだった。
しかし、私がここまで重要な話であるということを示すとは、流石の楓も思い
至らなかったのだと思う。
微風に揺れ動く樹々、心地よい虫の音、そしてそれらと一緒に、水の流れる音
が聞こえてきた。
そう、私は楓との会話の場所に、あの彼の思い出の地を選んだのだった……。
「楓も充分知っていると思うけど、柏木家の鬼の血は、月に呼応するの」
「うん……」
「父さんや母さん、そして叔父様までをも悲劇に導いたこの忌まわしい私達の
血だけれど、私達にはどうすることも出来ない……」
「…………」
沈黙が走る。
楓はただじっと、私の言葉を静かに待っていた。
「……楓?」
「なに、千鶴姉さん?」
「…………耕一さんを、うちに呼ぼうと思います……」
唐突だったかもしれない。
でも、私にとってはずっと考えに考え抜いてのことだった。
耕一さんにも、父親の死を悲しみ、その父が最後に生活していたここで数日間
滞在することは、とてもいいことだと私には思えた。
しかし、やっぱり私は自分勝手だった。
耕一さんが柏木家を欲している以上に、私達には叔父様のいなくなった隙間を
埋めてくれる存在が必要だった。特にここ数日の楓の落ち込み様は、叔父様の
実の息子たる耕一さん以外には、どうにも出来ないような気がしてならなかっ
た。
……ううん、やっぱり楓のことも言い訳。
私自身が耕一さんを欲している。
耕一さんならば、私を慰め、支えてくれるのではないかと。
そう、両親が亡くなった時に、私達姉妹を温かく包み込んでくれた、あの叔父
様のように……。
そして私は信じていた。
この楓ならばそんな私を肯定してくれる、と。
もちろん梓や初音も、私がこの話をすれば喜んで賛同してくれると思う。
しかし、何故か楓だった。
楓なら私がわざわざ何も言わずとも私の気持ちを、ひとりの柏木千鶴としての
気持ちを理解した上で、私を受け入れてくれると思えた。
しかし――
「……どうして?」
「えっ!?」
私の驚きの声が、新月の闇夜に響き渡った。
蝙蝠か梟か、何かが慌ただしく飛び立ち、この静謐を掻き乱した。
「どうして千鶴姉さんはそういう事を言うの?」
驚く私に、楓は続けて訊ねた。
「そ、それは……楓は嫌? 耕一さんがうちに来るのが」
「…………」
私には信じられなかった。
まさか楓が私の意見に反対するなんて。
私は何かの間違いなのだと言うかのように、重ねて楓に訊ねた。
しかし、そんな私の問い掛けに楓は答えようとはせず、ただそっと目を伏せる
だけだった。
「……楓は耕一さんが嫌い?」
「!!!」
私のなんとなしの問い。
しかし、私の予想に反して、楓の反応は大きかった。
「楓……?」
「…………」
楓は激しい動揺を見せて顔を上げた後、またすぐに顔を伏せた。
そして私には顔を見せずに、小さく首を横に振った。
「嫌いっていう訳じゃない……のね?」
私は楓に確かめるように問うた。
すると楓は先程と同じ感じで、今度は首を縦に振ってうなずいた。
「ならどうして……楓は耕一さんを呼びたくないの?」
「…………」
楓は口を開こうとしない。
むしろ唇を固く閉ざしているような、そんな感じさえした。
「…………」
そして沈黙が続いたまま、私達は目的の場所へと辿り着いた。
先程までは薄暗かった周囲も、星の輝きが水面に反射して私達に光をくれた。
自分の殻に閉じこもろうとする楓。
私には今の楓の様子で、なんとなくそれが感じ取られた。
「楓……」
私は楓に呼びかける。
星々が楓を照らし、闇を消し去る。
月の明かりも太陽に比べたら微々たる物だけれど、それ以上に微かな星の光が
楓を包み込んだ。
鬼の、狩猟者としての狂気をもたらす月。
しかし、星はそれとは違って、穏やかに私達を包んでくれた。
そしてそんな星明かりが、楓の心を開いてくれた。
「……悲しむのは、一度きりでいい……」
「楓……」
「耕一さんが来れば、また悲しみが訪れるから。だから……」
「悲しみ?」
「ええ。耕一さんも柏木家の男の一員なのよ、千鶴姉さん……」
「…………」
「きっと耕一さんも叔父様と同じ。だから私は……」
「…………」
「私は……」
「……楓?」
「…………」
私には、楓の頬をひと雫の涙が伝い落ちるのが見えた。
それが夏の終わり、新月の夜の出来事だった……。
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