ほら、やっぱりあなたは、私が知ってる通りの人でした……
『転入生』
第三話:屈辱
ドン!!
不満の色を露にした少女が、木製の机を大きく叩いた。
「アスカ……」
隣の席のヒカリは、そんな物騒なアスカを見て、心配そうに呟く。
しかし、そんなものはアスカの耳に届いた様子もなく、吐き捨てるようにアス
カは言った。
「風紀が乱れてるわ!」
アスカとは縁もゆかりもないような言葉。
しかし、隣でそんなアスカの様子を見ていたヒカリにとっては、何を指し示し
ているのか、嫌になるほどわかりきっていた。
「ア、アスカ……まぁ、落ち着いて……」
「これが落ち着いていられると思うの!? 全く、一日中ところかまわずべた
べたと……」
「た、確かにそうかもしれないけど……」
鬼のアスカをなだめようとするヒカリ。
ヒカリはこんな時のアスカには何を言っても無駄だとわかりつつも、少しでも
事態をよくする為、虚しい努力を続けたのだ。
「レイの隣の娘を見た!? 休み時間になる度に自分の席を追っ払われて……
可哀想じゃない」
……気に食わないだけでしょ。
ヒカリは心の中で呟いた。
しかし、口に出してしまうとアスカの逆鱗に触れてしまうことがわかりきって
いたので、ヒカリはしっかと口をつぐんでいた。
「アタシはちゃーんと見てたんだから。お昼休みもふたりでべたべた。とにか
く時間が空けばべたべた。ううん、時間がなくったって、あの色惚け娘は不謹
慎にも何度も後ろを振り返ってバカシンジのことばっかり見てたし……」
「綾波さんが!?」
「そうなのよ! もう頬を真っ赤にしちゃって、小憎らしい……」
アスカはその光景が脳裏に蘇ったのか、苦々しいと言うどころではない表情を
浮かべてそう言った。
「そ、それよりアスカ?」
「なによ、ヒカリ?」
アスカの声、いや、顔は物騒だ。
ヒカリはそれを見てビクッとしたが、取り敢えず口に出してみた。
「その……バカなんて言うのは、碇君に失礼なんじゃないかなぁ?」
恐る恐る言ったヒカリ。
そんな微妙なヒカリのアプローチだったが、そのちょっとした意見は、アスカ
を鬼から修羅へと変えた。
「バカシンジはバカシンジなのよっ!!」
さっきの比ではない激しさで机を殴り付けると、アスカは怒鳴って立ち上がっ
た。そして……立ち上がってみて、アスカは今がどんな時間なのか、ようやく
思い出したのだった……
「あ゛……」
「アスカ……元気が有り余ってるのもわかるけど、もうちょっとで終わりなん
だから、静かにしててくんないかしらぁ?」
ちょっとからかうようなミサトの声。
そしてそれに伴ってクラス中から失笑の声が漏れた。
「くっ……」
アスカは真っ赤な顔で歯噛みして、大きな音を立てて席に着いた。
「アスカ……」
「黙ってて」
「…………」
「この屈辱、あのバカシンジに100倍にして返してやるんだから……」
碇君のせいじゃないのに……
ヒカリはそう思いつつも、心の中でアスカにずたぼろにされるシンジを思って、
ご愁傷様と手を合わせるのだった。
「シンジも大変やなぁ……」
シンジの隣のトウジが、今のアスカを見てそうこぼす。
「そ、そうだね。何だか惣流さんって、過激そうだし……」
「お前、絶対あいつに目ぇーつけられたで。難儀なこっちゃなぁ」
「……どうしよう? これから一緒に住むなんて言うし……」
「ま、生傷が絶えんやろけど、あんじょう気張りや。少なくとも学校ではわい
がかばってやるさかいに」
「あ、ありがとう、トウジ……」
「お互い様やて、シンジ。わいもお前に助けられることもそのうちあるやろか
らな。ギブアンドテイクちゅうやつや」
「…………」
こんなのはギブアンドテイクなんて言わない。
それがシンジがストレートに感じたことだった。
トウジは自分に対して見返りなんて求めちゃいない。
ただ自分に恩を感じさせない為にそう言っただけで……
シンジはこのトウジ少年の隣の席になれて、本当によかったと思った。
こんなことの言える人間は、今まで自分の周りにはいたことがなかったのだから……
すると、ふと斜め向こうからシンジは視線を感じた。
「綾波……」
綾波だった。
シンジが馬鹿なんて言われたもんだから、心配して見てくれたのだ。
シンジは軽く微笑みを返して綾波を安心させると、再び前を向いた。
そしてトウジはそんなシンジを興味深げに見守る。
シンジがトウジを特別に思ったように、トウジにとってもシンジと言う少年は、
今までに見たことのないタイプだったのだ……
そして最後のホームルームも終わり、シンジの転入初日目は波乱に満ちながら
も何とか終わりを迎えた。
「碇君……」
ホームルーム中にもう帰り支度を済ませていたのか、綾波は終わるや否やシン
ジの元に駆けつけた。
「やぁ、綾波。今日一日お疲れ様」
にこっと微笑んでそう言うシンジ。
シンジがそういう少年だと知ってはいたものの、随分と久し振りだったため、
綾波は驚きと戸惑いに顔を真っ赤に染めた。
「…………」
「一緒に……帰ろうか?」
「う、うん……碇君がいいなら……」
もとより綾波はそのつもりだった。
だからこそシンジが誰かに誘われる前にと思って、健気にも急いで駆けつけた
のだった。そんな綾波の気持ちと言うのは脇で見ていたトウジにも伝わったよ
うで、シンジが綾波に返事をする前にこう申し出た。
「わいはシンジと一緒に帰ろうかと思っとったんやけど、綾波、お前に譲った
るわ」
「…………」
「まあ、気にすんなや。そのうち一緒に帰ることもあるやろ。それよりすまん
かったな、授業中、シンジを一人占めにしてもうて……」
「えっ……?」
思いも掛けなかったトウジの言葉に、綾波は驚きの声を隠せなかった。
まさかここまで自分を気遣ってくれる人間がこのクラスの中にいるとは思って
も見なかったのだ。
だが、驚く綾波をよそに、トウジはひとこと言い残して退散してしまった。
「ま、二人水入らず、仲ようやりや。わいはこれで帰るさかい……」
「あっ……」
そして二人が残された。
シンジも綾波も、鞄を乱暴に引っつかんで去って行くトウジの背中を見届けた
後、同時に目と目を合わせた。
「……帰ろっか、僕達も……?」
「うん」
シンジの呼びかけに、綾波は軽くうなずいて応えるのが精一杯だった。
しかし……そんな二人だけの甘い時も、完全に保証されたものではなかった。
「よっくもさっきはこのアタシを笑い者にしてくれたわねぇ、バカシンジ……」
修羅、アスカである。
後ろに心配そうな顔をして胸に学生鞄を抱えるヒカリを従え、アスカは拳をぷ
るぷるとさせながら二人に迫ってきた。
「…………」
シンジを守ろうと、すっと綾波はシンジとアスカの間に立ちはだかる。
そんな綾波を見たアスカは、面白そうにこう言った。
「面白いじゃない。アンタとはさっき決着をつけられなかったんだし……ここ
で決めるのも、悪くないわね」
「……許さない」
雄弁なアスカに対して、綾波の言葉は短く小さい。
しかし、どっちの言葉に重みがあるかと言わせれば、間違いなく綾波に軍配が
上がった。
綾波は自分の愛するシンジを傷つけたアスカを許せなかったのだ。
それに比べアスカの戦う動機と言うのは……それが如何にも貧困なのは、誰の
目にも明白だった。
「ふ、二人とも……そんなケンカなんてしないで……」
ケンカと言うレベルではなくなりつつあるのだが、ともかく自分はその為にこ
こに来ているのだと言うようなヒカリが二人をたしなめた。
綾波はヒカリのような全くの部外者の言葉などには耳を傾けるつもりもないの
か、きつく拳を握った。
しかし、実はアスカもそんなつもりでここに来たのではないらしく……
ころっと態度を変えて、こう言った。
「それもそうね……アタシも元々そんなつもりじゃなかったんだし……」
「…………」
自分を油断させる手口かと、綾波は警戒を一層強める。
アスカはそんな綾波に眉をひそめたものの、それはおくびにも出さずに普通の
しゃべり方でこう言った。
「帰るわよ、シンジ。いいわね?」
「えっ……?」
シンジは驚きの声を上げる。
確かに同じ屋根の下に暮らすことになるとは言え、自分を目の敵にしているア
スカが、まさか一緒に帰ろうと申し出てくるなど、思いも寄らなかったのだ。
そしてそんなシンジの反応を確認したアスカはちょっぴりやさしい自分を演じ
てこう言った。
「アンタ、アタシ達のうちの場所、知らないんでしょ? だから……アタシが
道順、教えてあげる」
「アスカ……」
そう声を漏らしたのはヒカリ。
まるで別人と化してしまったアスカに、シンジ以上の驚きを感じていたのだ。
「あ、ありがとう……その……惣流さん」
「ん、気にしなくってもいいわよ。どうせこれから一つ屋根の下に暮らすこと
になるんだしさぁ……」
アスカの表情が少しずつ馴れ馴れしいものへと変わる。
それを見ながらヒカリはアスカの真意を悟ったような、そんな気がした。
そして綾波も、そんなアスカに気付いたのか、シンジに警告を発する。
「……碇君、彼女を信じちゃ駄目。何か考えてるわ」
「うるさいわね、レイ! これはアタシとシンジとの会話なのよ。部外者は口
を挟まないでくれる!?」
「…………」
アスカの言葉に綾波は口を閉ざした。
しかし視線ではより強くシンジに訴えかけていた。
綾波はそれほどアスカを知っている訳でもなかったが、アスカの意地悪い性格
はつとに有名だったのだ。
そして口を閉ざした綾波を見たアスカは、余計な邪魔者が消えたと思い、最後
の本音を口にした。
「二人っきりで帰るのよ、シンジ。いいわね?」
「えっ?」
「レイの家からは遠いのよ。アンタだって余計な手間、掛けたくないでしょ?」
「そ、それはまぁ……」
アスカの手管は巧妙だった。
綾波を想うシンジの気持ちを逆手にとって、それを利用したのだ。
「だから……ほら、一緒に帰ろ?」
そう言ってアスカはシンジに手を差し出す。
綾波はそんなアスカの手を妨げなかった。
もしシンジがアスカの手を受けたにしても、それは自分を想ってのことなのだ
から……
しかし、シンジはアスカの手を受け取らず、ひとこと訊ねた。
「途中まで……途中まで綾波と一緒に帰るんじゃ……駄目かな?」
「碇君……」
綾波が喜びの声を漏らす。
そしてアスカは、自分の計画に大きな穴があったことを、その時はじめて気が
ついた。
「駄目よ、駄目」
「えっ?」
シンジにとっては大した申し出ではなかったのだが、アスカはそれを無碍に拒
絶した。
「駄目ったら駄目なのよ。うるさいわね。アタシと最初から最後まで二人っき
りで帰ることが、家を教えてあげる条件」
「そ、そんな……」
アスカの仮面は剥がれた。
とにかくアスカはシンジと綾波を引き剥がしたかったのだ。
だからこその今の話であったのだが、元々我慢強くないアスカは、諦めの悪い
シンジに業を煮やして、とうとう本音を出してしまった。
「あいにくだけどミサトは今日、職員会議で遅いわよ。だから待っても無駄ね。
諦めてアタシと一緒に帰りなさい」
止めを刺そうとアスカはシンジに言った。
自分にはどうすることも出来ない綾波は、ただ黙ってシンジの出す結論を待っ
た。シンジがどういう判断を下そうとも、綾波は黙ってそれに従おうと、覚悟
を決めていたのだ。
そしてシンジは……少しうつむいて考え込んでいたが、顔を上げた時にはもう
迷いの色は見えなかった。むしろ今までとは別人のように力強い表情で、アス
カにはっきりと告げた。
「惣流さんには悪いけど……僕はミサトさんを待つよ」
「えっ!?」
「僕は綾波を置いて行く訳には行かない。だから……とにかく夜までミサトさ
んを待つ」
「碇君……」
期待はあった。
しかし、それは確信ではなかった。
その淡い期待がシンジの言葉で現実のものへと変わり……綾波は感激に胸を打
ち震わせた。これが自分の愛するシンジなのだと……
そしてアスカにとっては、まさに予想外の結末であった。
自分の張り巡らせた策は完璧のはずであった。
多少漏れがなくはなかったものの、根幹を揺るがすものではなかった。
しかし……まさかここまでシンジが強情だとは、流石のアスカも想像できなか
ったのだ。たかが一緒に帰るか否かと言うことだけの為に、ここまで拘るなん
て……アスカにとっては信じられないことだった。
「じゃあ、そう言うことで、惣流さん……ごめんね」
最後に軽く謝罪の言葉を投げ掛けると、シンジは自分の鞄を手に取った。
「行こっか、綾波?」
「うん!!」
そしてシンジは綾波の手を取って、さんざめく教室を後にした。
残されたアスカは……うつむいてその長く美しい栗色の髪で顔を隠しながら打
ち震えていた。
その表情は隣にいたヒカリにも読み取れなかった。
しかし、ヒカリは見ずとも今のアスカがどういう顔をしているか、はっきりと
わかっていた。
「……ちくしょう…………」
それは、屈辱と言う名のものだった。
そしてヒカリは……そんなアスカに、掛けてあげる言葉を見つけることが出来
なかった……
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