ゆっくりと。だけど、それは絶対に止まらない。そういうものなの……



『転入生』

第四話:駆け抜ける時


西陽が校舎を染める。
既に人気は少なく、窓ガラス越しのグラウンドでクラブ活動に励む生徒達の姿
が見えるだけだった。

音のない世界。
心臓の鼓動さえも聞こえてきそうな、不思議な緊迫感の中にあった。

「あ、綾波……?」

この無音の中に息苦しさを感じたシンジは、唯一の同居人とも言える綾波に声
をかけずにはいられなかった。

「なに、碇君?」

しかし、綾波にはシンジの感情は届かない。
ただ、こうしてシンジと二人で時を過ごし、傍で声をかけてもらえることに、
純粋な喜びを感じていた。

「い、いや、黙ってても何だし……」
「それもそうね」

強ばるシンジの表情。
反対に綾波の笑顔は透き通るほどだった。
シンジはかつての綾波の笑顔を今でも忘れていない。
そしてそれを今の綾波と少しも変わらずに重ねることが出来る。
だから、綾波の微笑みに違和感こそ感じなかったものの、それをすっと自然に
受け止めることが出来なかった。

「色々お互いがいなかった時のこと、話し合ってもいいけど……」
「無意味?」
「綾波は、そう思うの?」
「……ええ。折角そう思ってくれた碇君には申し訳ないけど」

綾波はクスッと笑う。
軽く音を立てて笑う綾波の姿は、シンジにとっても新鮮だった。
そのことが、綾波の言葉の意味を問おうとした思考を打ち消してしまう。

「そ、そんなことはないよ、綾波」
「ありがとう、碇君。そう言ってくれて」
「でも……」
「うん」
「今日は驚きの連続だったけど、でも……楽しかった」
「私も。それに嬉しかった」
「僕もだよ。やっぱり綾波がいなくなってから、どこかにぽっかり穴が空いて
しまったような感じで……」

どこか遠く、ここではない場所を眺めるようなシンジの視線を、綾波は穏やか
に受け止めていた。

喪失感。
それはただ辛いだけ。
でも、それが幸せで埋め尽くされる時、そんな喪失感を感じていた自分を嬉し
く思う。
やっぱりこの人がいなくて辛い想いをしていた自分は正しいんだと。

「でも、それももう過去のものなの」
「……そうだね、綾波」
「あの時、碇君がああ言ってくれて、本当に嬉しかった……」
「うん……」

シンジは敢えて問わない。
アスカを振り切って綾波を選んだ自分を少しも後悔していなかった。
シンジにとって、どう考えてもアスカの意見は無茶苦茶だったし、そもそも幼
馴染の綾波と今日知ったばかりのアスカと同列に置くことは出来なかった。

「でも、ごめんなさい、私のために……」
「あ、いいんだよ、別に。でも、あの惣流さんには可哀想なことをしたかな?」
「えっ?」

ほんの僅かなずれが生じた。
綾波の謝罪はあくまでシンジの選択によって下校を夜まで引き延ばしてしまう
と言うことに対して。
しかし、シンジはそんな綾波に気付かずに、アスカを気遣う発言をしてみせた。

「物騒な女の子だったけど、でも、僕は人に拒絶されることがどういうことか、
よく知ってるつもりだから」
「碇君……」
「ちゃんと考えていれば、誰も悲しまなくて済む解決方法が見つかったかもし
れないのに……やっぱり僕っていつまで経っても安直だよね、綾波?」

シンジは軽く笑う。
しかし、それは笑顔とは形容できないような、そんな表情だった。
自分の無力さを笑ってみせる。
綾波の眼には、かつて自分と別れる時に見せたシンジの姿が重なっていた。

両親によって引きあわされ、そしてまた両親によって離れ離れにさせられた二人。
大人の事情と言うのは、子供には重荷だった。
逆らえない力と言うものが絶対的に横たわっていて……それを前にして、シン
ジは諦めを見せた。
そしてそれが、今のシンジの後悔に繋がる。
綾波はあの時、諦めたくなかった。
ずっとずっと、シンジの傍にいたかった。
でも、その想う相手のシンジが諦めてしまう。
これでは綾波も、諦めざるを得なかった。

「でも……」

でも、綾波はシンジを責めることが出来ない。
人に流される生き方しか知らなかった綾波に、人としての喜びを教えてくれた
のは、他ならぬシンジだったから。
だから、シンジがいなければ、諦めたくないと言う綾波の想いも存在しなくな
ってしまう。
綾波は今の自分が好きだったから、シンジを想える自分が好きだったから、シ
ンジを否定することは自分を否定することにも繋がるのだ。

「でも、碇君だから……碇君だから、そう思えるんだと思う」
「綾波……」
「あんな目に遭わされて、普通はそんなにやさしくなれない。やっぱり碇君は
碇君なのね」

自分だけを想って欲しかった。
でも、自分以外の人間も同じように想えるシンジを綾波は愛していた。
シンジは昔と少しも変わっていない。
それが綾波を無性に落ち着かせる。
今までずっと違和感を感じていたはずのこの教室が、不思議と自分の世界のよ
うに思えてくる。
シンジがいるってだけなのに、それが綾波の全てを変えていった。
しかし、そんな綾波とは裏腹に、シンジの心は凍てついていた。

「でも、そんなのは偽善だ。無意味な良心を振り撒いて……それが綾波にも悲
しみを与えてしまったんじゃないか」

冷たい壁。
それは、今初めて感じた訳じゃない。
綾波はシンジと知り合ってからずっと、どんなに近づいても、どんなに触れ合
っても、この壁を乗り越えることが出来なかった。

「碇君、それは……」
「いや、僕は変わりたかった。でも、結局少しも変われずに、昔の自分を、綾
波を悲しませてしまった自分の姿を晒しているんだ」
「そんなこと言わないで、碇君。私は……」
「でも、事実だ。僕は今でも自分を否定し続けている。そうすることで、自分
は苦しまずに済むんだって信じ込んで……」
「碇君……」

誰かが傍に近づくだけで、シンジは傷ついてしまう。
それは綾波でも同じだった。
こんな時、綾波は何も出来ない。
ただ、シンジが落ち着いて気分を変えるのをじっと見守り続けるだけだった……





「なに、あいつ?」

アスカは二人の会話の一部始終を盗み聞きしていた。
当初は憤慨することしきりで、ヒカリにも手がつけられない状態だった。
しかし、それ以上にアスカは好奇心旺盛だ。
あのいわくありげな二人が誰もいない教室で夜まで二人っきりとあっては……
何も想像するなと言う方が無理な話だろう。

「ちょ、ちょっとアスカ、声が大きい……」
「いいの。聞こえた時はその時よ。人の独り言を盗み聞きした罪、その身体で
償ってもらうから」
「って、盗み聞きしてるのはあたしたち……」

呆れてそう言うヒカリ。
でも、こんな時のアスカに何を言っても無駄だと言うことは、ヒカリも長いつ
きあいでよく知っていた。

「でもヒカリ、ちょっときな臭くなってきたわよ」
「どういうこと、アスカ?」
「あの二人なら、今のこのシチュエーションに任せていかがわしい行為に走る
かと思ってたんだけど……」
「い、いかがわしいって……」
「でも、そうじゃないのよ。あのレイがべたべたなのは変わらないみたいだけ
ど、どうもあのシンジの方が乗り気じゃないみたいね」
「……そう?」
「そうよ! ほら、死んだコイみたいな目をしてる。アタシと対峙した時とは
比べ物にならないじゃない。ったく、あれじゃレイをがばっと押し倒すなんて
夢のまた夢……」

遠目にも、シンジの異様さはアスカに伝わっていた。
ヒカリはそれほど興味もなかったし、盗み聞きや覗きと言う行為には否定的な
見解を持っていた。そもそもここにいるのだって、いつ暴走しかねないアスカ
を制御するためだ。そんなヒカリの考えをアスカに知られようものなら、ヒカ
リの半殺しは確定的だったが。

「うん……言われてみればそうかも」
「でしょう? ったく、反対に男が女に押し倒されるなんて、一生の恥よ」

アスカはどうしても押し倒す倒されるの関係に持って行きたいらしい。
ヒカリはそんなアスカに苦笑していたが、それと同時にアスカが妙な拘りを見
せることに驚きを覚えていた。

「まあ……ね。アスカなら、碇君に押し倒されたい?」
「まあ、アタシも女の子なんだしやっぱりされる時には押し倒されたいわよ……
って、誰があんな奴にっ!」
「冗談だって。碇君がアスカを押し倒そうものなら、巴投げかなにかで投げ飛
ばされちゃうのが落ちよね?」
「そうよ。あんな軟弱そうな奴にこのアタシが押し倒されてなるもんですか」
「まあまあ……」

アスカをなだめるヒカリ。
でも、アスカはこうしていつも強がってはいるけれど、本当は誰よりも女の子
らしい気持ちを持っていることを知っていた。
アスカに言い寄ってくる男は数知れず。
でも、大抵は無視を決め込むか向うずねを痛烈に蹴り飛ばしておしまいだった。
そんなアスカなのに、いつも恋に恋焦がれている。
いつか自分を女の子に変えてくれる人を求めて……
ヒカリはそれがシンジだとまでは思わなかった。
ただ、明らかにアスカはシンジに対して特別な視線を送っていた。
それがたとえ、女が男に向けるような視線ではなかったとしても。

「でも、シンジの貞操だけはこのアタシが守ってやらないといけないわね。あ
のレイが色情魔だと判明した今、事故を未然に防ぐのが天才たるこのアタシの
役目よ」
「はいはい。確かにあたしも委員長として、夕暮れの校舎での不純異性交遊は
看過出来ないわね」
「でしょう? 見てなさい、日頃の恨み……殴ってやる」

アスカは物騒に拳を握り締める。
アスカが殴ると言う時は冗談ではないので、流石にヒカリも少し身を震わせた。
しかし、結局のところ、何も起こらない。
アスカの妙な決意が空回りするだけだった。





「ごめん……」
「いいの。別に私は……」

時が、二人を解決する。
綾波が与えた空気はオレンジ色の教室を満たし、やわらかいイメージを与えて
いた。

「でも、僕は……」
「謝らないで。碇君は別に、謝るようなことはしていないわ」

謝罪を拒む綾波。
謝られれば、それだけ綾波が苦しむだけだった。

「碇君が来てくれた。そして私の傍にいてくれる。それだけで、私は充分だか
ら。他に何も要らないから」
「綾波……」
「会話が碇君の苦痛を生むなら、何もしゃべらなくたっていい。こうしてほら、
教室の色が少しずつ変わって行くのを、ただじっと眺めていましょ?」
「…………」

オレンジ色が濃くなる。
でも、それは本当に少しずつ。
だからこそ、一瞬たりとも目を離せなかった。

「少しずつ、少しずつ変わるの。今は気付かなくても……きっといつか、誰か
が気付いてくれるわ」

同じだけど、どこかが違う。
それが何なのかまでは綾波にもわからない。
でも、シンジは明らかに昔と同じシンジじゃなかった。
背が伸び、声が変わり始め……

時が駆け抜けて行く。
一瞬一秒が途切れることなく流れている。
そしてその中には必ず何かがあった。
綾波はそれを確かめようとする。
二人の空白を埋めて行くように、ゆっくりと静かに……




戻る