…………今からだって、取り戻せるわ…。

 

2月14日、AM0:13

静まり返ったキッチンで、アスカは材料の入った紙袋を開けた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

キャッチボール

 

 

 

 

 

2月11日、PM2:16

「ヒカリー、ちょっと話があるんだけどさ…。」

「ん、何?」

午後一番の授業が終わった休み時間、次の授業の用意を机の上に出していたヒカリの席にアスカがやって来た。

「んー…」

そう言いながら、アスカはちょっと後ろに目をやる。

「屋上にいかない?」

「え、いいけど…」

アスカとヒカリは連れ立って教室を出た。

 

 

ぶるっ。

2月の風が頬を撫でる。

ヒカリは思わず身震いをした。

この時期に屋上に出てくる生徒はほとんどいないであろう。

この日も例外でなく、こんな休み時間に屋上にやって来たのは、アスカとヒカリくらいなものであった。

「うー、さっむいわねー!」

アスカは自分の両肩を抱くと、眉間に皺を寄せて吹き付ける北風に文句をつける。

澄んだ空には雲一つ無く、それが一層寒さを際立たせていた。

二人は、屋上の扉を出たところで寒さに身を縮こませながら、空を見上げた。

アスカは、腕組みをし、肩を竦めて寒さに耐えている。

ヒカリは、そんなアスカをそっと横目で見る。

 

何だろ、屋上なんかで…

 

相変わらずアスカは肩を震わせながら、空を眺めている。

自分で誘っておきながら一向に話を切り出そうとしないアスカに堪り兼ねて、ヒカリが口火を切った。

「話って、何?」

「ん?んん・・たいしたことじゃないんだけどさ…」

アスカは、ヒカリにチラッと視線を投げると、その割には言いにくそうに切り出した。

「もうすぐ・・だよね。」

「え?」

「ん、バレンタイン…デーよ!」

ちょっと怒ったような口調。

そんなアスカを見て、ヒカリの頬がちょっと緩む。

「あっ、そうね。」

答えながら、ヒカリは、口元に浮かんでくる笑みを抑えるのに必死だった。

 

チョコレートの相談ね…。

 

ヒカリの心にアスカがチョコを渡すであろう線の細い少年の姿が浮かぶ。

「ま、バレンタインデーなんて、それを口実に告白なんかぶちかまそうっていう女心に漬け込んで、お菓子メーカーが大量にチョコレートをさばいて大儲けしようっていう日本経済の悪しき風習のようなもんなんだろうけどさっ!」

アスカは自分はそんなもの興味ないと言わんばかりにサラッと言う。

ヒカリは、そんなアスカを母親のような微笑みを浮かべて見つめる。

「…まぁ…そうかもしれないけど…私は嫌いじゃないな…」

「あたしも嫌いってわけじゃないんだけどさー。でも、なんか乗せられてるようで腹が立つのよねー。」

そう言いながら、アスカはトントンと両の踵を鳴らす。

そして、急に会話の方向を変えた。

「ヒカリは、誰かにあげるの?」

「えっ!」

突然話を自分のことにふられて、ヒカリはどぎまぎしてしまった。

頭の中を先程とは別の一人の少年の姿がよぎる。

「ん…んん…」

「隠さなくったって分かるわよ、あの鈍感熱血バカでしょ。」

ヒカリの顔が赤くなる。

そんなヒカリを見て、アスカは思わず微笑んでしまう。

 

ヒカリったら、かわいい…こんなに想ってもらってるってのに、あんのぉぶわぁかは…。

 

ぶるぶるぶるぶ。

ヒカリのじれったさを思って拳を握り締め、勝手にヒートアップする。

アスカはそんなことを考えながらも、どう切り出そうか悩んでいた。

しかし、隣に立つ少女は自分の世界に入ってしまって、再び会話の糸口を見付だしてくれそうもなかった。

仕方なく自分から切り出す。

「あ、あたしも今年は作ってみようかな、…とか思っちゃたりして、あははは…」

乾いた笑いが澄んだ空に吸い込まれていく。

ビクゥッ!!

横を見ると、いつのまにかヒカリがジト目で自分を見ている。

「なーんだ、そんなことか……相手は碇君ね。」

形勢は逆転していた。

「な、何よ!ち、ちっがうわよ!!何であんなヤツにこのあたしがチョコをあげなきゃいけないわけ?

優柔不断で、

 

(でも優しくて)

 

内罰的で、

 

(でも、あたしを庇ってくれて)

 

いつも人の顔色ばっか窺って、

 

(いつもあたしのことを気遣ってくれて)

 

そのくせ肝心なことにはぜんっぜん鈍い鈍感バカなヤツにっ!

 

(…そう…全然気付いてくれないのよね…)

「はいはい、分かってるわよ。」

そんなアスカに、微笑みながら答えるヒカリ。

「わ、分かってないわよっ!アイツはヒカリが思ってるよりずっとウスラぶわぁかなのよ!!」

「分かったわ、で、そのウスラお馬鹿さんでなきゃ誰にあげるの?」

意地になって否定するアスカを見て、ヒカリはちょっと意地悪をしてみたくなる。

「うっっ、そ、それは…ひ、秘密よ!秘密!!…」

「私の知らない人?」

「そうっ、そう!全然知らない人!すっごくかっこいいのよ!」

本当のことには素直になれない女心である。

 

アスカったら、かわいいっ!

 

今度はヒカリがそう思う番であった。

「ふーん、そうかぁ…それで?」

「え、う、うん…・ま、あげるからには…喜んで欲しいのよね…それで、どんなのを作れば喜んでもらえるかな…っとか思って…ヒカリ、お料理とか得意だしって思ってさっ!」

「そんなことないけど…でも、ちょっとくらいならアドバイスできるかな…」

「うんっ!お願いっ!ヒカリ様!」

アスカは両手を合わせてヒカリに頼み込む。

そこで、この日最後の授業の始業ベルが響いた。

「分かったわ、じゃ、今日の帰りにでも材料を買いにいきましょ…さ、早く戻らないと先生来ちゃうわ。」

「ありがとっ!恩にきるわ!!」

恋する二人の少女は話を終え、流れるチャイムの中を軽やかに階段を駆け降りていった。

2月13日PM8:37

惣流家、リビングにて。

アスカはエプロンを着けると、ソファーに座ってテレビを見ているシンジを横目で睨む。

この日、シンジは、数学の宿題をアスカの家で一緒に(と言っても、アスカに怒られながら教えてもらって)済ませ、そのまま夕食をご馳走になっていた。

アスカの家は、シンジにとって第二の我が家のようなものである。

この夜もシンジは、夕食が済んだ後も勧められるままリビングでテレビを見て寛いでいた。

しかし、いつもとは違い、番組に文句をつけながらも隣で一緒にテレビを見ているアスカの姿がなかった。

だが、そんなことには一向に気がつかないのがこの少年である。

イライラしたアスカが、その場を行ったり来たりする。

「どうしたの、アスカ?」

シンジは、ようやくそれに気付いて、不思議そうに問い掛ける。

「べ、別に何でもないわよ!それよりもあんたもさっさと帰って寝たら!」

シンジは、時計に目をやる。

テレビからは、バラエティー番組の賑やかな笑い声が響いている。

「まだ9時前じゃないか…これ、面白いよ。アスカもこっちに来て見たら?もう宿題も終わったんだし…」

 

宿題が終わってからが大事なのよ!ちょっとは気付かないの!鈍感バカシンジッッ!!

 

アスカは心の中で怒鳴り散らしながらも、腕組みをしたまま黙ってシンジを睨み付けていた。

そんなアスカの姿を怪訝そうに見ながら、シンジはふとアスカがエプロンを着けていることに気付いた。

「アスカ…夕食も終わったのに料理でもするの?」

 

ああーっ!もぉうぅぅ…じれったいわねぇっ!!どうして気付かないのよっ!!明日は…明日はバレンタインデーなのよっ!!ちょっとは気を遣いなさいよっっ!!

 

しかし口に出しては言えない。

そんなことをしては昨日の夜遅くまでヒカリの特訓を受けた意味がなくなってしまう。

アスカの苛立った様子に、シンジは見当違いの気を遣って言った。

「なんだか分からないけど、料理を作るんだったら手伝うよ、明日のお弁当のおかずでも作るの?珍しいなぁ…」

ぴくっ

アスカのこめかみが脈打つ。

「エプロンどこ?最近自分で作ってないから腕慣らしになるね…あ、アスカのお弁当で腕慣らしなんかしたら怒られちゃうよね…」

そんなアスカに気付くこともなく、どこまでも鈍感な少年はエプロンを探し出した。

ふいにアスカは寂しいような、悲しいような気分になった。

自分はこんなに目の前の少年のことを想っているのに、こんなに近くにいるのに、程遠い、この少年の心は遥か彼方にある…そう感じた。

一陣の風が心の中を拭きぬける。

エプロンを探す少年をぼんやりと見ているうちに、その悲しみは怒りへと姿を変え、どうにも収まらないものになってきた。

「チョコよ…」

「え?」

「……チョコレートを作るのよっっ!!明日が女の子にとってどんな日か分かってるの!!どうしてそうも鈍感なのよっ!帰ってよ!出てってよ!!」

急に怒鳴り散らされたシンジは、驚いて少しの間、呆然とアスカの方を見ていた。

「ご、ごめん……」

そして、すまなそうに謝ると、テーブルにおいてあった自分のノートと筆箱をもって、静かに帰っていった。

「アスカちゃーん?どうしたのー?」

奥から母の声がした。

「なんでもないわよっ!」

怒鳴るように返事をした後も、アスカはしばらく肩で息をしてその場に立ち尽くしていた。

喉の奥に何か鬱陶しい物が絡み付いている感じがした。

胸が押しつぶされそうに苦しかった。

それがアスカの呼吸を荒げていた。

 

あんなヤツ……あんなヤツのためにチョコレートなんか作ってやるもんかっっ!!

あたしがどれほど…どれほどあんたのことを想ってるかなんて…どれほど…どれほど…

 

カーペットの模様がぶわんと膨張してきた。

色彩が滲む。

視界の中の色の判別ができなくなるくらいになった時、それは一滴の水となって落ち、カーペットに染みをつくった。

「あら、シンちゃん、もう帰ったの?」

リビングにアスカの母、キョウコが入ってきた。

アスカはグッと腕で目を拭うと、していたエプロンの紐を素早く解いてソファーに投げ付け、顔を伏せたまま、キョウコの傍をサッと摺り抜けた。

そして、そのまま大きな音をたてて階段を上がっていってしまった。

「アスカ………」

キョウコは心配そうに階段の方を見遣る。

「このエプロン、そんなに気に入らなかったのかしら…・」

そう言って、投げ捨てられたエプロンを拾い上げる。

熊さんの刺繍が胸元にしてある。

「やっぱりお猿さんのほうが良かったのかしらね…」

……この母親はシンジ以上のようである(汗)。

 

 

『チョコレートを作のよっっ!!』

 

アスカ…チョコレート作るんだ…。

 

その夜、シンジはなかなか寝付けなかった。

頭の中に、アスカが数時間前に言い放った言葉がリフレインしていた。

布団を頭まですっぽりかぶった暗闇の中、何も見えるはずのない闇に何かを探すように目を凝らす。

 

『明日が女の子にとってどんな日か分かってるの!!』

 

そうか、そう言えばバレンタインデーだったっけ……。

アスカ、今年は手作りチョコってやつ、やるんだな…。

………なんか、遠くなっちゃったな…。

 

シンジの頭の中に、幼い頃の思い出がよみがえる。

無造作に目の前に突き出されたチョコレート。

「なーに?これ?」

「あんたばかぁ!?きょうはばれんたいんでーなのよ!」

幼いアスカが、手を腰にあて、もう片方の手に持ったチョコレートを更にぐいっとシンジに突き出す。

勢い、シンジは半歩後ろに仰け反ってしまう。

「ばれんたいんでぇ?」

「そおよ、ばれんたいんでーよ!きょうは、おんなのこがすきなおとこのこにちょこをあげるの!」

「ふーん、そうなの。」

「あたしはしんじがすきだから、これ、あげるっ!」

「わぁ、ありがとう、あすか。」

「さ、はやくたべるわよ!」

「うん。」

シンジは、アスカから板チョコを受け取ると、銀紙をべりべりと剥がす。

しかし、出てきたチョコはシンジの口には入らず、アスカがベキッと折って、自分の口に放り込んでしまった。

それに泣き出してしまう幼いシンジ。

「ないちゃだめでしょ!おとこのこなんだから!まだはんぶんあるじゃない。」

それでもシンジは泣き止まない。

そんな昔の遠い記憶をやけに鮮明に思い出してしまって、シンジは布団の中で苦笑していた。

 

あの頃は、泣き虫だったな……。

 

記憶はまだ続いていた。

「もう、なかないでよっ!もうたべないから…そうだ、おまじないしてあげる!だからなかないの!」

そう言って、アスカはシンジのほっぺたにチュッとキスをしたのだった。

シンジは一瞬びっくりして泣き止んだが、なんだかよく分からないうちに恐くなってしまい、さらに大きな声で泣き出してしまったのだった。

そこで記憶は終わっていた。

その後どうしたのかは良く覚えていない。

しかし、その部分だけは、古びた黴臭い記憶の中にあって燦然と輝いて存在していた。

 

キス…してくれたんだよな…ほっぺただったけど。

 

シンジは、自分の顔が熱くなっているのに気付いた。

それにハッとなると同時に、幼い頃にはなかった自嘲的な笑みが浮かんでしまう。

 

…馬鹿みたいだな…幼稚園の頃の話じゃないか…。

何ドキドキしてるんだ…僕は…。

 

『どうしてそうも鈍感なのよっ!帰ってよ!出てってよ!!』

 

そして、アスカが最後に投げつけるように言った言葉が蘇る。

 

…そうなんだ…僕は鈍感なんだ…いつまでも変わらないと思ってた…。

でも、もう、あの頃とは違うんだ…アスカも僕も、大きくなっちゃったんだ…。

そして、アスカにも好きな人ができて、単純だったあの頃とは違った“好きな人”ができて、どんどん遠くなっていく…。

もう、一緒にキャッチボールして遊んでたあの頃とは違っちゃったんだ…。

 

シンジの記憶の中に、大きく弧を描いて飛んでくる白いボールが浮かんだ。

その白は眩しくて、眩し過ぎて、いつまでもシンジを寝付かせなかった。

 

 

男の子の頭の上を、白いボールが飛び越えていった。

あたふたとボールを追っかけていく男の子。

そんな後ろ姿に不満の声を浴びせる。

「なにやってんのよっ!ばかしんじっ!!ちゃんととりなさいよっ!」

「ごめーん、あすか、つぎはちゃんととるよ!」

白い球が帰ってくる。

しかし、飛距離が短く、自分に届く前に地面に落ちてしまう。

アスカにはそれが不満だった。

もっと離れてキャッチボールしたかったが、シンジはアスカほど遠くにボールを投げることができなかった。

それで、いつもシンジがボールを投げて届く範囲でキャッチボールをしていた。

「いくよっ!」

足元にころころと転がってきたボールを拾い上げると、アスカはまたブイッとシンジの方に放り投げる。

しかし今度は、シンジの遥か右手の方にボールが飛んでしまった。

当然のことに取れないシンジ。

「もうっ!だめでしょ!ちゃんととらないと!!」

「うん。ごめん、つぎはとるよー!」

 

そんな光景がなぜか急に記憶の奥底の錆付いたドアを開けて流れ出してきた。

とうにどこにあるのか忘れてしまっていたドア。

もうすっかり開けることも、開くことないと思っていたそのドア。

アスカは口元に薄っすらと笑みを浮かべていた。

自然に表情が優しいものになる。

目を開けると、暗い部屋の中であった。

時刻は、PM11:24。

デジタル時計の表示がちょうど変わったところであった。

 

そっか、いつのまにか、寝ちゃってたんだ…あたし…。

 

急激に現実に引き戻される。

あの後、自分の部屋に引きこもって、そのままベットに入ってしまったのだった。

数時間前、シンジに対して妙に苛立っていた自分と、幼い頃、やはり同じ少年に苛々して怒鳴っていた自分の姿が心の中で時間を飛び越えて重なり、急におかしくなって吹き出してしまった。

 

…あたしはあの頃も怒ってばかりいたなぁ………。

 

そんな記憶や考えは、いつもなら頭がはっきりしてくる頃には決まってどこかへ行ってしまうはずであったが、この夜は違った。

幼かった頃の思い出は、留まることを知らないように、まるで記憶を抑えておく留め金が壊れてしまったかのように止めど無く流れ出し続けた。

 

今夜は、なんだか変ね…。

 

ベットの上で寝返りをうった。

そして、また迸る記憶の奔流の中に意識を放つ。

 

そう、シンジ、コントロールだけは良かったっけ…。

 

シンジの投げる球には、勢いがなかった。

ちょっと離れると、すぐに届かなくなってしまう。

それに比べて、アスカの投げる球は勢いに満ちていた。

勢いはあり過ぎるくらいにあるのだが、コントロールはまるっきりで、ほとんどシンジの手に収まることなく、別の方向や、シンジの遥か後ろに転がっていってしまう。

 

自分のコントロールのことを棚に上げて、シンジが取れないことばっかり怒ってたな、あたし…。

 

シンジは、アスカの投げるボールに文句をつけることもなく、いつも謝ってはとてとてとボールを取りに走っていった。

そのため、自然にアスカとの距離は開いてしまい、シンジが投げてよこすボールはアスカに届く前に地面に落ちてしまうのだ。

ころころころ。

記憶の中を、白いボールが転がる。

間にある長い長い時間を事も無げに超えて、アスカの足元に真っ白なボールが、汚れなどどこにもないような鮮やかな白のボールが、転がってくる。

シンジの球は、すべてにおいてアスカの球と正反対であった。

コントロールは絶妙だったのだ。

帰ってくる球は、いつもアスカの足元に帰ってきた。

だから、アスカはその場からほとんど動かずにボールを再び投げることができた。

そんな光景は、今になって思うと、“取って来い”の練習をさせている飼い主と犬のようであったかもしれないな、と思い、アスカはシンジにちょっと済まない気持ちになった。

しかし、その頃はお互いそんな事などまったく考えずに、その“キャッチボール”に夢中で興じていたものだった。

 

どうして他の子とやらなかったんだろう…あたしも、シンジも…。

 

考えてみると、そうである。

まったく正反対の球質。

ちゃんとしたキャッチボールになるはずもなく、飼い主と犬のようになってしまうのは当然の事であった。

しかし、なぜかシンジ以外とキャッチボールしたことはなかったように思うし、シンジが自分以外の誰かとキャッチボールをしているのを見た記憶もない。

シンジ以外とボール遊びをすることなど考えもしなかったように思える。

でも……ひょっとしたら、そういう事もあったのかもしれない。

しかし、その記憶は、すっぽりと抜け落ちており、まったく覚えてはいない。

それはすなわち、なかったことと同じである。

今も記憶の中に焼き付いているのは、どこまでも白い、汚れのない白いボール。自分へと、正確に帰ってくる、白い、白いボール。

そして……その向こうに見える、少年の…笑顔…。

 

……………………

 

アスカは、自分が泣いているのに気付いた。

どうしてかは分からなかったが、涙が止まらなかった。

何か大切なものを落としてきてしまった、もう、二度と取り戻すことのできない何か大切なものを失ってしまった、そんな気持ちに胸が締め付けられた。

その上、その“何か”は、漠然としていて、はっきり形を捉えることができなかった。

それは、ボールであっただろうか…清らかな白の、汚れのない、純粋な白のボールであっただろうか。

頬を涙が伝って行く。

次から次へと。

埋めることのできない時間の溝を埋めようとするように、涙は流れ続けた。

不思議と嫌な感じはしなかった。

その涙の成分は、何時間か前にリビングで流した涙のそれとは違うように思えた。

アスカは、一つ鼻を啜ると、再び記憶の中をさ迷う。

 

いつ頃からだったかな…シンジとキャッチボールしなくなったのは…。

 

そう、あれは小学校に上がってしばらくしてから。

相変わらず二人はキャッチボールをしていた。

しかし、どこかが、少しずつ変わってきていた。

それは、成長という言葉に近いのかもしれない。

ある日、シンジがキャッチボールの誘いに戸惑いを示した。

それまでそんなことは一度もなかった。

そんなシンジを突き飛ばさんばかりの剣幕で問い詰めると、クラスの男の子に、“女とあそぶなんて、おしっこプーだ(意味不明)”と言われたらしい。

アスカは、それを言った男の子をひっ捕まえると、泣き叫ぶまで引っ叩いた。

その場はそれで過ぎ、また二人はキャッチボールをするようになったが、だんだん回数は減ってきた。

その頃から、アスカは女の子の友達と、シンジは男の子の友達と遊ぶことが増えてきたように思う。

そして、少なくなったキャッチボールの内容も、以前とは異なるようになってきていた。

シンジの球が、地面に落ちずに、アスカの手元に帰るようになってきたのだった。

その上、アスカのすっぽ抜けコントロールの球を、シンジはカバーして取るようになってきた。

そして、ある日それは起こった。

アスカの球が、大きく左に外れた。

シンジはそれを拾いに行く。

「ちゃんととってよねー!」

アスカの文句は、反射のようなものになっていた。

それに、シンジが言葉を返したのだった。

「アスカこそ、ちゃんとこっちへなげてよ!」

悪いのは自分だ、分かっていた。

分かっていたはずだ。

ごめーん……謝ろうと思った。

でも、できなかった。

自分の非を認めるのが嫌だったわけではない。

ただ…そう、寂しかった。

何か見えないものが、音もたてずに崩れていってしまう、そのすぐ傍にいながら、それをどうすることもできない、傍観者の悲しみ。

そんな感じだった。

アスカの口から出たのは、憎まれ口だった。

「ぬ、ぬわんですってぇえ!!あんたこそあたしにちゃんとボールをとどかせなさいよ!それから文く言いなさいよね!!」

シンジは無言だった。

黙ってボールを振りかぶると、アスカの方にボールを投げてよこした。

「まったく、自分だってちゃんとできないくせに、そんな文くなんて………!」

アスカのセリフはそこで止まった。

アスカの頭上を、ボールが飛び越え、遥か後ろの方でバウンドする音が聞こえた。

アスカは愕然とした。

いつのまにか、シンジのボールは、自分と同じくらい、いや、自分より遠くまで届くようになってしまっていたのだ。

それに気付かなかったわけではなかった。

しかし、今になって気付いたような、ずっと目をそらし続けていたものが、急に鮮烈な映像となって眼前に現れたような、そんな気持ちであった。

シンジは、黙って、こちらを見ていた。

ただ、ただ黙って見ていた。

気がつくと、アスカは走り出していた。

そのまま家に走り帰って、自分の部屋で、泣いた。

なぜだか分からなかったが、無性に悲しくて、わんわん泣いたのを覚えている。

今は、その気持ちが分かるような気がする。

その後、すぐにシンジとは仲直りして、以前のように一緒に遊ぶようにはなった。

しかし、それ以来、シンジとキャッチボールをする事はなかった。

 

………そうなんだ…寂しかったんだ……あたしは…

 

アスカはベットの上で、半身を起こした。

 

あれからあたしは、変化球、ばっかだな…シンジに投げるボール……

取れないよね…これじゃ。

でも…そのボールは…シンジに投げるボールは…まだ、真っ白なまま、曇りのない白のままだと思うから……

 

ぐすっと涙をしゃくりあげる。

帰るところを見つけた涙は、もう止まりつつあった。

「今からでも、遅くないよね……」

時計はAM0:01を表示している。

日付は変わり、セント・バレンタインデーとなっていた。

アスカはベットから起き出すと、電気をつけ、鼻をかみ、涙を拭って鏡を見た。

鏡の中の自分に微笑みかけてみる。

目はちょっと涙に潤んでいたが、爽やかな笑顔だと感じた。

「よし!…アスカ、行くわよ!」

静かに掛け声を掛けると、部屋を出て、階下に降りていった。

両親も寝てしまったのであろう、キッチンもリビングも電気は消されていた。

アスカはパチリとキッチンの電灯のスイッチを入れた。

すると、奇麗に畳まれたエプロンと、調理道具一式がテーブルにのっているのが目に飛び込んできた。

 

 

小首をかしげて近寄ると、傍にメモが置いてあった。

メモを手に取る。

 

あすかちゃんへ

シンちゃんにおいしいチョコレートをプレゼントしてあげなさい

調理道具を用意しておきます

それと、昔、パパをメロメロにノックアウトした秘伝の隠し味を紹介しますね

それについては、別にメモを用意しておきました

そっちを見て下さい

心を込めて作れば、きっと伝わるはずよ

あ、お猿さんエプロンにしておきました(はぁと)

 

胸がジーンと熱くなって、また涙が出てきそうになるのをぐっと堪えた。

「ママったら…」

アスカは胸にお猿さんの刺繍がしてあるエプロンをきゅっと締めると、シンクの方へ材料の袋を持って勇ましく歩いていったのだった。

 

 

「おはよー、アスカ、早いのね。」

翌朝、朝のホームルームが始まる30分も前に、アスカは2−Aの教室のドアを開けていた。

こんな時間に教室に来ているのは、ヒカリくらいなものであった。

「ふぁああ…おはよ、ヒカリー……ヒカリこそ毎朝よく起きられるわね……ふぁああ」

「なんだかずいぶん眠そうだけど、まさか徹夜でもしたの?」

「うぅ、そのまさかよ。」

「どうして?そんなに凝ったのにしたの?」

「そういうわけじゃないけど…ま、いろいろあってね…主に作るまでにだけど…作り出してからは結構順調だったのよ…お鍋焦がすまでは」

「あはは…お鍋をね…」

最後の部分に、やっぱり大変だったんだ、という困った笑いを浮かべ、ヒカリはアスカを覗き込む。

アスカの目の下には、くっきりと隈ができていた。

「碇君は、一緒じゃないんだ…」

「んー、まさかこんな早朝に叩き起こすわけにもいかないし、もうちょっと家にいたら寝ちゃいそうだったから…で、ヒカリはジャージ男への秘密兵器、持ってきたわけ?」

ヒカリの問い掛けに、半分眠りながら答えるアスカ。

しかし、要点は逃さない。

「あ、う、うん……放課後にでも渡そうかな…って、これ、あたしの気持ちよ!って…なんちゃって…」

純情色に頬を染めながら、消え入りそうな声でわざとおどけてみせる。

そんなヒカリに微笑みかけながら、アスカは眠りの淵へと引きずり込まれていく。

「じゃ、ヒカリー、おやす…みぃ……」

「あ、アスカ!…大丈夫かしら…今日一日……それと…ちゃんと碇君に渡せるの?…」

「だい…じょうぶ…ちゃんと…渡せる…わ…」

アスカは、自分が言った内容に気付いていないようであった。

ふふふ…やっぱり碇君じゃない…

 

ヒカリは、眠りに落ちてしまったアスカを微笑ましく思ってしばらく眺めていた。

 

 

アスカ、まだ怒ってるのかな…。

 

賑やかになった教室の中で、シンジは前の方の席で机に突っ伏して眠っている少女を眺めていた。

いつもなら、頼みもしないのに毎朝のように朝寝坊のシンジを起こしに家にやってくる少女が、今朝は、やってこなかった。

久しぶりに母親に起こされ、なんだか妙な気分であった。

そのためか、昨夜なかなか寝付けなかった割にはすぐに目が覚めて、今日はいつもと違って余裕を持って登校できた。

しかし、胸の中にはもやもやとした霞がかかっていて、一向に爽やかな気分にはならなかった。

その原因ははっきりしていた。

シンジは、その原因である少女の方に再び目をやる。

 

アスカ…誰にチョコレートあげるんだろう……。

 

シンジには、その対象が自分であろうなどとは、微塵も考えられなかったのであった。

「きりーつ!礼っ!着席ー!」

そうこうしてるうちに先生がやってきて、ヒカリの声が教室に響く。

シンジは胸の内のもやもやを消せないまま、長い一日を過ごす事になった。

アスカは、その日一日まったく精彩がなかった。

授業中ウトウトしていて当てられたのに気付かずに怒られたり、かと思えば休み時間に椅子に蹴躓いて転んでしまい、笑われたりしていた。

「なぁに笑ってんのよ!」

いつもの剣幕にも勢いがない。

シンジは、そんなアスカをぼんやりと遠くから見ていた。

たまに目が合いそうになる事があったが、アスカがすっと視線をそらしてしまう。

そんな事が帰りのホームルームまで続いて、シンジはすっかり気分が滅入ってしまっていた。

今更ながら、普段何気なく言葉を交わしている少女の、自分の心の中に占める割合の大きさを痛感するのだった。

 

はぁ…今日は早く帰っちゃいたいなぁ…。

 

シンジはぐったりしながら、明日の連絡事項に耳を傾けていた。

「では、今日はここまでっ!」

「きりーつ!礼っ!」

「「「「「さよーならーっ!!」」」」」

再び賑やかになる教室。

シンジは、友人のケンスケの席の方に歩いていった。

そこへトウジもやってくる。

いつも、一緒に帰る三人組みである。

「なぁ、シンジィ、ケンスケェ、腹へらんかぁ?今日は帰りにどや?」

トウジはそう言って、お好み焼きを焼く手付きをする。

「ああ…そうだなぁ…」

それに思案するように首を傾けるケンスケ。

そんな三人組みの前方、教室の前の方で、アスカとヒカリがその様子を見つめていた。

「ヒカリ、さぁ、勝負よ!」

「う…うん……。」

眉を曇らせ、俯いてしまうヒカリ。

そんなヒカリの肩に手をかけて、アスカが檄を飛ばす。

「ヒカリ!せっかく頑張って作ったんじゃない!あんなヤツにヒカリのチョコをあげるなんてもったいないくらいだけどさ、そのために頑張ってきたんでしょ?さぁ、バシィっと行って来なさいよ、あたしはここで見ててあげるから!」

授業中にさんざん寝たせいで、顔つきに元気が戻ってきていた。

そのアスカを、上目遣いでヒカリが見上げる。

「アスカは…」

「え?」

「アスカは…どうするの?」

「えっ!あ、あたし?…あたしは…渡すわよ、ちゃんと、後で…後でねっ!」

「ほんとに?」

「あっ、あったりまえでしょ!?それに、ここじゃ渡せないわよ!そ、その人…いないんだから…さ。」

それを聞いて、ヒカリが困ったような笑みを浮かべた。

「いいかげんにアスカも素直にならなきゃ…分かったわ…鈴原は私が他の場所に連れてくから、ちゃんと渡すのよ、碇君に…。」

ヒカリには、アスカの戸惑い、迷いが逆に弾みになったようであった。

「なっ、なんでよっ!シンジなんかじゃないんだからっ!ほんとにっ!!」

ヒカリは、あくまで否定しようとするアスカに諭すように言った。

「駄目よ…アスカ…今日は素直に…ね…。」

「うっ…」

アスカは言葉に詰まってしまった。

そんなアスカに微笑みを一つ投げると、ヒカリは吹っ切れたようにスタスタと教室の後ろ、三人組みの方へ歩いていってしまった。

 

うぬぬ…素直に…ね…ありがと…ヒカリ…あたし、また、取れないボール投げちゃうとこだった…。

 

アスカは、去っていくヒカリの後ろ姿を友情と感謝の眼差しで見つめていた。

トウジの道草の提案にどうしようかと悩んでいたケンスケの視界に、歩いてくるヒカリの姿が飛び込んできた。

その表情は、緊張でやや強張っている。

ケンスケは、こういう状況に敏感であった。

見ると、教室の前の方では、アスカがチラチラとこちらを窺っているではないか。

 

俺はこんなに敏感なのになぁ…神様はどうして鈍感な奴等にばっかり世話を焼きたがるんだろうね…。

ま、邪魔者は消えるとしますか…。

 

ちょっと自嘲的に笑うと、目の前でニコニコしながらお好み焼きの仕種を続けるジャージ男と、それをまた楽しそうに見つめるもう一人の少年の顔を、困った笑い顔のまま交互に眺めた。

そして、おもむろに席を立つ。

「やっぱ今日は俺、パス。そう言えばちょっと用事もあったんだった。じゃ、そういうことで、先に帰るよ。」

後ろ手に手を振って、教室の後ろのドアへと歩いていくケンスケ。

「何やぁ、付き合い悪いなぁ…シンジ、お前は行くやろ?」

がっかりした声を上げ、シンジの方を向く。

すると、シンジは何か言いたげにトウジの背後を見ている。

「どないしたんや?シンジ?」

そう言って後ろを振り返ると、ただならぬ表情でヒカリが立っていた。

「わっ!ビビらせなや、いいんちょ…」

「…人をお化けか何かみたいに言わないでよ…」

ヒカリは俯いたまま言う。

「わ、わしは何もしとらへんで!なんかの間違いや!」

反射的に言い逃れをするようなセリフを口走って、トウジは何かの悪戯がばれたのであろうか、と思考を巡らせる。

ヒカリは、落としていた視線を慌てふためくトウジの方へしっかりと合わせ、落ち着いたトーンの、しかしちょっと震えた声で言った。

「ちょっと話があるの…屋上まで…来て…。」

トウジは、何か言おうとしたが、セリフが出てこなかった。

普段真っ赤になって自分に怒ってばかりいる少女が、目の前に立っているはずであった。

だが、どこか別人のように見えてしまう。

よく見ると、顔が少し赤い。

しかし、それは、いつも自分を注意する時の顔の赤さではなく、どこか…そう、可憐な感じがした。

 

か、かわいい…

 

トウジは自分の心に浮かんでしまった言葉に、大いに焦った。

 

な、何考えとるんや…わしは…わしは…どないかなってしもたんやろか…

 

沈黙が流れる。

シンジは、その場に居辛い雰囲気にどうしたものかと目をオロオロさせていた。

そんな沈黙をヒカリの声が破った。

「あ、あんまりまじまじと人の顔を見ないで…」

消え入りそうな声に、また僅かに顔の赤みが増す。

「あ、や、す、済まん…」

自分がじっとヒカリを見つめていた事に気付いて、急いで視線を外すトウジ。

 

どうも今日は変や…はよ帰って寝た方がええんやろか…。

 

混乱するトウジに、ヒカリが更に勇気を出した。

「屋上…行ってくれない?…」

トウジは、ハッとなり、ガバッとヒカリの方を向いてしまった。

そして、自分でもよく分からないうちに、承諾していた。

「え、ええで…ほな、シンジ、ちょっと行ってくるわ…」

シンジの方を向いて言ったのだが、トウジの目にはシンジなど入っていないようであった。

そしてガタガタと音をさせて席を立つと、ヒカリに先導されて廊下へと出ていった。

一人取り残されたシンジは、よく状況が飲み込めず、その場に立ち尽くしていた。

アスカは、その一部始終を教室の前の方から眺めていた。

すでに教室に残っている生徒は、疎らになっている。

 

勝ったわね、ヒカリ…やるじゃない…。

 

アスカは、ヒカリの勝利を確信した。

そして、思う。

 

さぁ…次は、あたし…ヒカリがせっかくくれたきっかけ…無駄にはしないわ!

さてと、あの鈍感にぶわしぃっと決めてやるんだから!

 

考えながらも、一歩一歩少年の方へ歩み寄っていく。

当のシンジは、相変わらず惚けたようにヒカリとトウジが出ていった扉の方を見ている。

「何ボーッとしてんのよっ!バカシンジ!」

振り返ったシンジの額を、ぱちっとアスカの指が弾く。

「! 痛っ!!…ア、アスカ…」

強気な笑みを浮かべて、アスカが自分を見ている。

シンジの胸の中を、昨夜の記憶が駆け巡り、それが表情を曇らす。

視線を逸らしてしまいそうになった時に発せられたその言葉に、シンジは思わずアスカの顔を正面から捉えた。

「さ、帰るわよ!」

昨夜の事など嘘のような表情で、アスカが自分を見ている。

「え、一緒に?」

間抜けな質問であったかもしれない。

「あったりまえじゃない、他にどんな意味があるのよ!」

「で、でも…トウジを待ってなきゃ…」

その言葉に、心底呆れたような目を向けるアスカ。

「あんたばかぁ!?どこまで鈍いのよ!!ちょっとは気を遣いなさいよね!!」

「えっ!?だって…そ、そうなの!?」

シンジは本当に驚いているようである。

 

これじゃ、あたしの心に気付かないのも当然だわ…。

 

アスカは落胆しながらも笑ってしまった。

「ほんとにばかね……でもこれで分かったでしょ、帰るわよっ!」

そう言って、先に立ってどんどんドアの方に歩いていく。

「あ、ま、待ってよ、アスカァ!」

急いで後を追うシンジ。

 

 

帰り道…いつもと同じ帰り道。

でも、どこか違う帰り道。

いつもは…三バカトリオ(アスカ談)で賑やかに帰る道。

でも、今日はアスカと二人。

賑やかじゃない。

でも、なぜかウキウキする。

いつもと同じ風景。

でも、どこか明るく感じる。

いつもと同じ寒い空気。

でも、どこか、暖か。

自然に微笑んでしまいそうになる。

 

アスカ…昨日の事、許してくれたみたいだな…。

 

隣を歩くアスカの顔を見る。

「何よ?…」

怪訝そうな顔。

「う、うん…なんか、こういうのもいいかな…とか、思って」

シンジが何気なく言った言葉に、アスカは顔が火照っていくのを感じる。

胸がきゅんと締め付けられる。

「な、何訳の分かんない事言ってるのよっ!」

そっぽを向いてしまったアスカの赤みのかった金髪を、シンジはなおもにこにこと眺めていた。

「昨日は…ごめん…」

今なら大丈夫だ、そう思って、シンジは昨夜の事を詫びた。

「ああ、いいのよ、あたしも悪かったわ、あんたの鈍いのは今に始まった事じゃないのにさ。」

軽く笑ってシンジを見るアスカ。

そんな何気ないやりとりを、シンジはとても貴重なものに感じていた。

心がふわっと軽くなった。

空に舞いあがれそうな気分になった。

しかし…その心に、一点の染みがあった。

 

そう言えば…アスカ…誰にチョコレートあげるんだろう…。

なんだか、昨日遅くまでかかったみたいだし…。

 

心に浮かんだ染みは、今や巨大なものとなって、空に舞い上がろうとするシンジの心の足首を捉え、暗い淵へとズルズルと引きずり込んでいった。

「ねぇ、あの公園に寄ってかない?」

シンジの思考は、アスカの言葉によって中断された。

「え?」

きょとんとアスカを見返すシンジ。

「ほら、昔よくキャッチボールして遊んだあの公園よ。この途中にあったじゃない。」

一瞬、シンジは自分に向かって飛んでくる、白いボールが見えような気がした。

「あ…そうだね…懐かしいなぁ…」

「時間、あるんでしょ?」

「うん、寄っていこうか…」

懐かしい思いに駆られ、シンジはすぐに同意した。

公園は、シンジ達の家と中学校のちょうど中間くらいにあった。

幼い頃は、ここまで遊びに来るだけでも、ちょっとした冒険だった。

今となっては、家から歩いてすぐの距離である。

 

あの頃とは、距離感が全然変わっちゃったなぁ…。

 

そう考えて、シンジはちょっと隣のアスカに目をむける。

 

アスカとの距離は、どうなったんだろう…どうなっちゃうんだろう…。

 

再び、先程の重く、息苦しい思いがシンジの心に覆い被さろうとしていた。

その時、歩いている二人の目の前の風景が、急に広々と開けた。

二人は、昔よくキャッチボールで遊んだグランドに来ていた。

立ってる時計や、フェンスの側に立つポールなどはあの頃とは違って、新しいものになっていた。

しかし、そういった細かい部分を除けば、その風景はあの頃のものとほとんど変わらず、そこにあった。

しかし、決定的に違っていたもの…それは、シンジの、アスカの目に飛び込んでくる、グランドの広さ…。

縮んでしまった?

いや、それは、二人の視線が、あの頃よりずっと高くなったせい。

あの頃とは、見えるものが、心に捉えるものが変わってしまったせい。

二人ともそれに気付いていた。

しかし、それを口にする事はためらわれた。

「ここも…ずーっと来てなかったなぁ…アスカは?」

「あたしも。こんなとこ普通寄らないわよ。」

そのまま、二人はしばらく黙って立っていた。

 

みんな、少しずつ変わっていっちゃうんだ…でも、一番変わっちゃうのは……僕たちなんだ…。

 

風が吹く。

頬を引き締め、歯を震わす、2月の風。

シンジは、急に風が冷たくなったような気がした。

隣のアスカを見る。

そこにいたのは、幼いアスカではなく、美しく成長した、女になる前の、独特の可憐さ、純粋さを僅かずつ放出している、少女のアスカであった。

シンジは、隣に立っているのが自分の知らない人のような気がした。

心がザワザワと波立つのを感じる。

「……アスカ……チョコレート…誰に…あげるの?」

気付いた時には、もう既に言葉を発していた。

アスカは、驚いたように目を見張って、自分を見ていた。

 

ああ、何言ってんだろ、僕は…せっかく昔遊んだ公園に来たのに…

 

激しい後悔が、胸の中でのた打ち回る。

しかし、その中には、諦めに似た、もう戻れない故郷を想う郷愁のようなものが幾分か混ざっていた。

 

でも、もう、戻れないんだ…だから、これでいいんだ…。

 

そして、妙に落ち着いた気分で、目を背けてしまったアスカの髪が風に揺れるのを見ていた。

 

 

アスカは、その言葉をまったく違った気持ちで受け止めていた。

『……アスカ……チョコレート…誰に…あげるの?』

胸に切ない想いが込み上げる。

自分の心が、昨夜の気持ちに急速にシンクロしていくのを感じる。

感情の堤防が決壊する。

 

どうして…どうしてよ!…なんでそういうこと聞くのよ!…なんであんたは…そんなに真っ直ぐなのよ!どうしてそんなにあたしの心に真っ直ぐ投げつけるのよ!あんたのこと、想ってるのに!あんたのこと…好きなのに!…これじゃ、また、壊しちゃう…また、あたし、壊しちゃう!…。

 

白い…。

そのときであった。

アスカはハッとした。

白い、ボール。

ぼやけそうになった視界の片隅に、グランドのフェンスの片隅に、ボールが落ちていた。

それと同時に、ヒカリの声が胸に蘇る。

『駄目よ…アスカ…今日は素直に…ね…。』

乱れていた心が、徐々に静まっていく。

 

…そうよ…みんな変わっちゃう…それは仕方がないことなの…でも、変わらないものもあるの…あたしは、変な変化球ばかり覚えてきちゃった…でも、シンジは…いつも、真っ直ぐ…あの頃からずっと、ストレート…そしてあたしも……今日は…真っ直ぐを投げる…今日は…今日は…直球勝負よ!!

 

バッ

急に振り返る。

「あんたによっ!オオバカシンジッ!!」

ポケットから、サッと何かを取り出す。

それをそのまま、シンジの頭に軽く振り下ろす。

ぱすっ!

乾いた音がした。

シンジは思わず目をつぶっていた。

激しい衝撃を覚悟していたが、頭に感じたのは、軽い、衝撃とも言えないようなものであった。

目を開けると、アスカが優しい笑みを浮かべて、自分の頭の上に何かを振り下ろした格好のまま立っていた。

シンジは目だけ上に向ける。

その後、おずおずと自分の頭の上に手をやる。

シンジの頭に振り下ろしていた手を、アスカがそっと下ろす。

シンジの挙げた手とアスカの下ろす手がちょっと触れた。

そして、シンジは頭に乗せられたものを手に取る。

それは、奇麗な包み紙で丁寧にラッピングされリボンを掛けられた、小さな箱であった。

シンジは、その包みをじっと見つめていた。

「これを……僕に?…」

今度は、びっくりしたような顔でアスカを見つめる。

アスカは、その視線を真っ直ぐ受け止める。

「そうよっ!あんたにっ!義理も義理、大義理チョコよ!!」

その言葉の意味を、その言葉が本当にもつ意味を、今度こそシンジはしっかり受け止めることができた。

遠い時間を飛び越えて、ボールが、白いボールが弧を描く。

シンジの胸元に、真っ直ぐな球が返ってきた。

『じょおずじゃない!』

その向こうに、笑顔のかわいい小さな女の子が一瞬見えた。

自然に笑顔を作れた。

自分でも最高だと思える笑顔。

「ありがとう………アスカ…」

その笑顔は、遠い記憶の中の男の子の笑顔と同じものに思えた。

アスカの胸元にも、真っ直ぐで、優しいボールが返ってきた。

アスカは胸が熱くなるのを感じた。

そして、両目にせり上がってくる、液体。

 

最近あたし、泣き虫になったみたい…昔のシンジそっくりね…。

 

溢れ出そうとするそれを必死で堪えて、シンジにも最高の笑顔で返す。

「どーいたしまして!」

そして、フェンスに向かってサッと駆け出す。

近づいてみると、それは、薄汚れたボールであった。

多分しばらく誰にも拾われず、風雨に晒されてきたのであろう。

アスカはそれを手に取ると、シンジの方を振り返る。

「ねぇー!シンジー!久しぶりにキャッチボールしなーい?」

シンジは、先程と同じところに離れて立っていた。

しかし、アスカは、シンジを自分のすぐ傍らに感じていた。

シンジは微笑みを浮かべながら声を張り上げる。

「いいよー!でも、ちゃんと狙って投げてよねー!!」

「ぬわんですってぇ!!誰に向かっていってるの…よっ!!」

言葉と同時に大きく振りかぶって、ボールを投げる。

夕焼け近くなったグランドに、奇麗な弧を描いてボールが飛ぶ。

そのボールは薄汚れていたが、シンジの目にも、アスカも目にも、鮮やかで、眩しい白いボールに見えた。

ボールはシンジのやや左に外れたが、シンジはよろけながらも何とかそれを掴むことができた。

「やっぱり真っ直ぐ飛んでこないじゃないかぁー!」

シンジが笑顔で文句を言う。

「うっるさいわねぇ!さっさと投げなさいよ!」

「何だよー!その言い方はー!」

そう言いながらも、シンジはボールを投げた。

遠い記憶の中のボールではなく、今、再び二人の間をボールが行き交う。

 

やっぱりあたしは、あいつが好き……ちょっと…うーん、かなり…むちゃくちゃ鈍感だけど、あたしのクセのある変化球をしっかり受け止めて、真っ直ぐな優しい直球で返してくれる、あんたが……………………大好きっっ!!

 

夕日のオレンジ色が、二人を染めていく。

その中にあって、二人の間を行き来するボールは、眩しい白のままであった。

 

fin

 

 


あとがき

ぐっちー(私めのことでございます)ネット上発表第二弾、そして、書き上げた作品としてもこの世で二つ目です。

読んでいただけて嬉しいです!!(ここを見てらっしゃる方は、読んで下さったってことですよね?)

どうも私はショートな話が書けないらしく、いつも長編になってしまいます(汗)。

現在私は、EVA系HPを今更開設しようと粉骨砕身・・・しているはずなんですが、忙しくって当分開設できそうにありません(涙;第二十三話)。

それで、高嶋様の超有名高速更新HP、かくしEVAルームが遂に100万ヒットされるということで、この機会に投稿させていただくことにいたしました。

こんな拙い話にこの場を提供して下さった高嶋様、本当にありがとうございます!

そして、100万ヒット(この時点では、まだ近未来の確定的予定ではありますが)、おめでとうございます!!

実を言うと私はアヤナミストなんですが(爆)、今回の投稿はかくしEVAルーム様、ということで、アスカもの(ちょっとヒカリもの)にさせていただきました(笑)。

読んでいて引っかかる設定があると思いますが、将来HP開設の折に、独自の世界のエヴァものをやろうと思ってまして、このお話は、その設定で描いてます。

シンジとアスカは幼なじみのお隣同士、二人とも両親健在です。(うーん、ほんとに今更ですね・・・)

チョコ云々は、実はダミーで、それよりも、二人が成長とともに忘れてきてしまったものを取り戻す過程を描けたら・・・と思ったんですけど・・・どうだったでしょうか。

まだまだ力不足の私ですが、高嶋様に一歩でも近づけるよう努力していくつもりです。

最後に、感想、ご指摘、苦情、本当になんでも結構です、このお話を作った、“ぐっちー”までお送りいただけると大変嬉しいです。必要なくてもお返事いたしますので(笑)。ぜひぜひお願いいたします・・・それでは、またどこかでお会いしましょう・・・。

 


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