私立第三新東京中学校
第三百五話・迫る殺意
「ねぇ、ヒカリ」
「ん? なに、アスカ?」
アスカが洞木さんに訊ねる。
その様子はどことなく物憂げだった。
「なんだかさ、変わったわよね」
「変わったって?」
「うん、今までさ、アタシってずっとシンジのことばっかり見てきたじゃない。
あのレイほどじゃないにしても」
「まあ、それは言われなくてもわかってるけど」
少し呆れた顔をして洞木さんは応える。
こういう流れは洞木さんにとっても毎度のことだ。アスカにとって洞木さんは
最も心許せる親友で、利害関係も特に存在しない。だからこそ、腹を割って話
し合える貴重な相手なのだ。
そしてアスカの性癖とも言えるだろうが、一旦入れ込むととことん突き進むと
ころがある。アスカの相談相手なら他にいくらでもいそうなのに、アスカ自身
が洞木さんだけと決めてしまった以上、他の人間など眼中になかった。
「でも、気がついてみると違うのよ。気付いてみたら深刻そうな顔をしている
渚がいて、黙って真面目そうに観察している山岸がいて、鈴原と話しながらも
同じ感じで相田がいて……」
「うん、いるよね」
「アタシ、そういうのにようやく目が行くようになったって言うか、そんな感
じなの」
新しい自分、と言ったところだろうか。
短期間の間に様々なことが起こり、それらが僕達を翻弄していく。もちろんア
スカにとっても例外じゃない。アスカが変わったとしても、誰にも責めること
は出来ないだろう。
「なるほどね。でも、そういうのっていい兆候なんじゃない?」
「そう? やっぱりヒカリでもそう思う?」
「まあね。周囲が見えるようになってきたってことは、落ち着きが出てきたっ
てことなんじゃない、アスカ?」
珍しく落ち着いたことを語るアスカに、洞木さんは穏やかな表情を見せている。
洞木さんが懸念したのはまた愚痴か文句か、とにかくそんな不遜な言葉を朝か
ら聞かされると思い込んでいたのだ。まあ、その不安は経験上から来るものだ
から、一概に洞木さんだけを責めることも出来ないだろう。それくらい、アス
カは質の悪い存在だったのだ。
「そうかなぁ……ヒカリの目にも、アタシが落ち着いたように見える?」
「うん、ちょっとね。いつものアスカらしいところもあるけど、それはアスカ
らしさなんだし、それを省いて考えれば充分過ぎる程落ち着いてると思うけど」
「そっかぁ……やっぱり貞淑な妻としての貫禄が出てきたってことかしら?」
そんなことを言ってアスカはにんまりとしている。
そういうところは全然変わっていない。洞木さんは改めて呆れた顔をし、溜め
息をついた。
「はいはい、ごちそうさま、アスカ。のろけ話はもういいからさ」
「なによ、ヒカリ。ヒカリだって鈴原といい感じじゃない。怒鳴る顔にもどこ
となく丸くなってるわよ」
「あ、あたしは怒鳴ってなんてないわよ。もう、アスカじゃないんだから……」
「って、人の名前を出さないでよ、ヒカリ。まあ、アタシは怒鳴ることもある
けどそれはシンジのためを思って……」
「じゃあ、綾波さんに怒鳴ってるのは?」
「あ……レ、レイのことも、あの娘のためを思って……」
「つまり、アスカの怒鳴りは愛の鞭ってこと?」
「ま、まあ、そうなるかな」
「何だか鞭を振るってばっかりね、アスカって」
「ヒ、ヒカリっ!」
変にからかわれてアスカは思わずいつものように拳を振り上げた。
洞木さんは笑いながらも慌てて遠ざかる。冗談で殴られてもアスカの一撃はそ
れなりの威力を発するのだ。
そしてまた、アスカも発しかけた怒気のやり場に困る。アスカ自身、洞木さん
を殴りたいなんて微塵も思っていない。アスカに言わせれば、ただ手が早いだ
けだ。
「…………」
そんな中、都合の悪いことに二人のやり取りを見ていた人物が一人。
アスカにとっては一番見られたくない相手だった。
「み、見世物じゃないわよ、レイっ!」
「……なら、声のボリュームを下げたら?」
綾波は冷静に言い放つ。
しかし、アスカはそうは思わないかもしれないが、綾波自身に悪気なんて全く
ない。むしろアスカを見ていたのは、綾波にとっていい意味でアスカは重要人
物で、その一挙手一投足は常に経験の乏しい綾波の人生に教訓を与えてくれる
のだ。
かと言って変におべっかを使えないのが綾波の綾波らしいところである。素直
じゃないという感じでもないが、アスカはそれを勝手に「ひねくれている」と
表現している。
「アンタ、こそこそアタシが喋っててもどうせ聞いてるくせに」
「それはアスカの勝手な思い込みだと思うけど」
「アタシのことなんかより、シンジのことでも心配したら? 何だか向こうで
山岸と楽しそうに話してるみたいだけどさ」
突き放すように綾波に言う。
はっきり邪魔だと言えないところがアスカの微妙なところだ。
たとえ口汚く綾波に言っても、アスカは綾波の良き理解者だし、それなりに人
柄を認めている。アスカが人を認めると言うこと自体が稀だから、相当評価は
高いと言えよう。
しかし、綾波との関係を既にそのような関係であると勝手に位置付けてしまっ
ている。アスカも綾波のことを嫌いではないし、綾波も同じだ。そしてお互い
に自覚しあっているから質が悪い。二人とも素直になればいいのに、それだけ
の度量と言うものにいまいち欠ける。そういう意味では、両者仲良く子供なの
だ。
「碇君が楽しく感じているなら、それはいいことよ。違う?」
「い、いや……違わないけど。でも、アンタらしくないわね、レイ」
「どういうこと?」
「アンタ、偏執的じゃない。言い方は悪いかもしれないけどさ」
「……でも、アスカの言うことは正しいわ」
綾波は素直に認めた。
アスカの言い方も、どっちかと言うと挑発するようなものではなく、現実をし
っかり見据えた感じだった。こうして気がついてみると、同じ問題に真剣に取
り組むことが出来る。最近二人によく見受けられる光景だった。
「へぇ、自分のことをよくわかってんじゃないの。偉い偉い」
アスカは少し綾波を小馬鹿にした調子で言う。
綾波は機嫌を損ねたのかむっとした顔をしながらも、アスカの言葉を受けてこ
う言った。
「本当の自分を見つけ出したから。だから私は変わったの」
「なるほどね。まあ、アンタの言いたいことはわかるわよ。アンタもそれなり
に成長したんだし」
「……私を認めてくれるの?」
「なに今更なこと言ってんのよ? 当たり前じゃない」
「でも、私とあなたは違うわ。それこそ天と地ほども。自分のことがわかるよ
うになって、初めてあなたのことも理解出来るの」
真剣な眼差し。
綾波の発言は眼差しと共に、ただの羨望ではない。
自分の目指す相手をしっかりと見つめて、それを越えようとする意志の表われ
だった。
アスカはそんな綾波の視線を真っ直ぐに受け止めると、穏やかに諭すように応
える。
「そういう風に言えるってことが、アタシが認める一番の点よ、レイ。わかる?」
「…………」
「まあ、アンタにとってアタシは自分にないところを沢山持ってる存在かもし
れない。でも、アタシにとってのアンタも同じなのよ。お互いに自分のないと
ころを羨ましがって……。元々アタシ達は両極端に立つ存在だった。でも、お
互いを知り、お互いのいいところを認め、それを自分の糧になるよう吸収して
いる。悔しいけどアタシは家事全般ではアンタに遠く及ばないし、アンタみた
いにシンジのことを想えない。それが一概にいいとは言えないけど、それでも
魅力的に映るもんなのよ。たとえそれが偏執的なものであろうと、ね」
「……つまり、お互い様だってこと?」
「まあ、言ってしまえばそうね。以前のアタシはアンタのこと、ちゃんと見よ
うともしなかったけど、今はそうじゃないから。アンタにはアンタのいいとこ
ろがあるし、アタシもそれはいいって認めてる。だからこそ、アンタの説教も
甘んじて受けてるのよ」
アスカは長々と綾波に話して、それから大きく一息ついた。
自分で綾波に語りながら、それを自分の中にも吸収している。それだけアスカ
の言葉は重かったし、綾波に対する思い入れも強いものがあった。
「そういうこと……なのね?」
「そういうこと。別にアンタには難しい話じゃないでしょ、レイ?」
「ええ。でも、アスカの言葉だから、重みがあるわ」
「ありがと。アンタに誉められるとこそばゆいけどね」
「それはこっちも同じよ」
「まあ、いい意味好敵手ってことかしら?」
「そうね」
そう言って、視線を交わす。
ただ、視線を交わすだけだ。
それ以上のものはない。
でも、それ以上のものを必要としない関係が、二人の間にはあった。
ただの親友関係じゃない。かと言って単純に恋のライバルでもない。
それは言葉では表現できないような複雑なものだけど、そんな状態こそが二人
には面白いのかもしれない。
似たようなやり取りを繰り返し、お互いの結び付きをより強固なものにしてい
く。それがたとえ、二人にとって必要なものでなかったとしても。
「これが……下界なのね」
少女が軽く笑みをこぼす。
それはたとえ事前に知識を植え付けられていたとしても、彼女にとって初めて
見る光景だった。
「何だか面白くなりそう。友達も沢山出来るといいけど」
まるで転校したての少女が新しい世界に胸ときめかせているように見える。
実際、それは正しかった。彼女の如何にも少女らしい年相応の微笑みも、決し
て嘘ではない。彼女は自分に対して嘘をつく必要はないのだ。
「碇シンジ君か……どういう男の子だか、楽しみだしね」
クスッと笑う。
邪気のない笑い。
邪気はなかったかもしれないが、その思惑は果てしなく暗い。
ただ、彼女には与えられた使命がある。それを頭脳と本能の両方で感じ、最も
尊いものだと感じている。
「それに……邪魔をされたら、何をしてもいいんだよね。だから――」
瞳が妖しく陰る。
たとえ陽光の下に立ったとしても、彼女の棲むところは明らかに闇にあった。
破壊と殺戮、流血を好む。
今回彼女に与えられた初めての使命は、戦闘マシーンとしては不本意なもので
ある。しかし、彼女を束縛するものは何もない。与えられた使命を果たせば、
計画に支障を来たさぬ限り何をしても許されるのだ。
情報操作なら彼女の主人がやってくれる。それに関しては全く心配などしてい
なかった。しかし、それにもやはり限界がある。
「難しいな、手加減するのって」
軽く拳を握る。
彼女の意志は、即ち力だった。
彼女が意識を向けるだけで、他の存在はた易く耐え切れずに形を変えた。
その感覚が彼女は好きで、戯れに力を弄んでみる。
道端に転がっていたジュースの缶は、不自然な音と共に奇怪な角度にへし折れ
た。それでも彼女にとっては児戯に過ぎない。一度でいいからセーブせずに力
を駆使してみたいと、彼女は常々思っていた。
「でも、手加減しなくていい相手もいるし……それと遊べばいっか」
碇シンジと惣流・アスカ・ラングレー、そして綾波レイ。
この三人には具体的な力を行使するなと言われている。
実際、計画の根幹に関わってくる、言わば可能性の存在だった。
それ以外の者は皆好きにしていいとは言っても、計画を順調に進めるためには
他の者達にも余計なことは出来ない。それはそれで楽しい駆け引きになる予感
はあっても、やはり本性を捻じ曲げることなど出来ないのだ。
「裏切り者、渚カヲルだけは――」
命令はない。
しかし、殺してはいけないとは言われていない。
使徒より生まれ出でし、人外の力を持つ者。
彼女と同時期に製造されたにも関わらず、彼女よりも優先されて計画に携わっ
た。そのことが、彼女のプライドをくすぐる。自分より優れた者などいないと
言う、強い自負が彼女にはあったのだ。
「何としても、この私の手で、殺す」
重々しい口調。
それは女子中学生が放つようなレベルの殺気ではなかった。
先程の空缶が更に押し潰される。既に彼女の力に翻弄され、原形を留めていな
かった。
「この私、霧島マナの手で……」
マナの呟きは誰の耳にも届かない。
しかし、届かなくて幸せだっただろう。
何故なら、もし彼女が今の呟きを聞かれていることを知ったら、間違いなく聞
いた相手を亡き者にするであろうから……。
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