私立第三新東京中学校

第三百二話・二人のルール


朝のほんの一瞬。
夜から昼の世界へと移り行くまでの時間は、この常夏の日本では本当に貴重だ
った。
厳しい日差しがすぐに夜の空気を昼のそれへと変えてしまう。
僕はそんな気候しか知らなかったけれど、人から言われるまでもなく、夜と昼
の狭間の刹那を貴重なものだと感じていた。

小学校、そして中学校と連綿と続く朝の登校。
それは既に生活のサイクルのひとつとして僕達の中に根強く刻み込まれている。
細々したトラブルはあるものの、いつものように、大いなる流れに身を任せて、
僕達は登校準備をし学校へと向かうのだった。

「朝なんてかったるいだけだとずっと思ってたけど・・・やっぱり今くらいの
時間のここはいいわね。」

アスカが満足げに遠くを眺めて言う。
起伏のある地形が多いこの第三新東京市だったが、僕達の今住んでいる高級マ
ンションは特に景色のいい場所だと僕は思っていた。

「そうだね。僕は別に朝の弱い方じゃないけど、本当にここからの景色はいい
よね。」
「でしょう?うるさいミサトもいないし、満足満足。」

僕の返事にアスカがそう答える。
ミサトさんのことはさて置き、いつもは必要以上に注文の多いアスカもこの点
については文句一つ出てこなかった。
昨日のこともあってか、二日酔いでみんな朝のこの貴重なひとときを楽しむ余
裕なんてないと思っていたけど、どうやら僕の思い過ごしだったようだ。

「・・・私もそう思うわ、アスカ。」

すぐ傍にいた綾波も、アスカがはじめたこのなんとなくの会話に参入してきた。
今は会話よりも口を閉じてこの今を楽しんでいた方がいいかとも思えたけど、
それでも何かを感じた時にそれを表現する方法としては、言葉が一番普通だと
言うことなのだろうか?
ともかく、いつもは言葉少なな綾波も今は会話を求めていた。

「ミサトのこと?案外気が合うわね、レイ。」
「違うわよ。」
「・・・・ま、当然か。」

アスカのからかい半分のボケも綾波の冷たい一言に一蹴される。
流石にここまではっきり否定されるとアスカも綾波に絡むことが出来ずに、大
人しく矛先を収めて綾波の言葉を聞こうとした。

「ええ。私が言いたかったのは、毎朝見るここからの景色は最高だと言うこと・・・」
「わかってるわよ、そんなことくらい。ま、アタシより先に言わなかったとこ
ろがアンタの負けね。」
「・・・いいわ、負けても。」
「へっ?」

下らないことかもしれないが、やっぱりアスカのこういうところは変わらない。
何事においても、常に勝利者であり続ける・・・それはアスカにとって自分の
存在を確固たるものとする為のものだった。
しかし、アスカももう自分を支えるのがそれだけではないと言うことに気付い
ている。僕と、そして綾波と・・・みんなと触れ合うことによって、アスカは
変わったのだ。
だが、それが絶対的なものではなくなったにせよ、やっぱりアスカはナンバー
ワンでいることを好む。それはまあ、人として当然のことなのかもしれない。
そもそも僕なんかが少しおかしいくらいで、人よりも上に立ちたいと言うのは
至極当たり前の事だと思えた。
そして、そんなアスカにとって、あっけなさ過ぎる綾波の返答は拍子抜けさせ
られるものだったのだろう。綾波がアスカと同じではなく、むしろ反対の価値
観を備えているのはアスカも理解していたが、少なくとも綾波が残している結
果は違う。以前のアスカが評していたように、綾波は「優等生」であり、何事
においてもそつなくこなした。人とのコミュニケーションを取れないと言うの
はともかくとして、客観的に見た綾波の評価と言うのは、まさにアスカとナン
バーワンの座を競うに相応しい存在だったのだ。
だから、実際クラスのみんなは僕達三人のやり取りを見ていることもあって、
綾波をアスカと同程度の存在とまでみなしていることだろう。当然、僕がわか
ることくらいはアスカもお見通しで、自分のライバルに足る人間と言うのは、
綾波以外にはいないと言う認識が強い。それは僕に関することだけでなく、ま
あ、全般的なことにおいてもだ。
料理においても勉強においても・・・特に身近で見ているだけに、アスカは綾
波の実力を常に感じている。だから、綾波がアスカのことをどう思っているの
かは知らないが、アスカは綾波に対してライバル意識を持っているのは事実だ
った。

しかし、綾波はそこまでアスカのことを知らない。
と言うよりも、理解できないこともまだまだ沢山あったのだ。
何故、アスカがそこまで勝利者であることに拘泥するのか・・・それは綾波の
価値観とは相容れないものがあったのだ。

無論、綾波にだって欲しいものはある。
しかし、それはすべてを手に入れたいと言うのではなく、綾波にとって本当に
大切な極僅かなものだ。そして綾波はそれらには拘るけれど、反対にそれ以外
の勝利に関してはなんら価値を見出していない。
だから、そんなどうでもいいことにまで勝ちを意識するアスカのことを理解出
来ないのだ。その理由はアスカの今までに至る過程にあるのだけれど、綾波は
昔のアスカを知らない。綾波にとってのアスカは、自分のことを心から好きだ
と言ってくれたあの瞬間からでしかないのだ。そして冷たい表現をするなら、
それ以前のアスカは、綾波にとって自分の行く手を阻む路傍の石にしか過ぎな
かった。そのサイズはちょっとどころではないくらいに大きなものかもしれな
かったが・・・・

「変な声・・・」
「う、うるさいわね。ちょっとびっくりしただけよ。」
「そ。」
「ったく、アンタ今日はちょっと冷たいんじゃない?二日酔い?」
「そんなことないわ。私はアスカと違って自分の酒量くらいわきまえてるもの。」

そう、しれっと答える綾波。
しかし流石にここまで平然と言われるとアスカも黙ってはいられない。
まあ、怒り出すようなことではないにせよ・・・だから、僕に向かってさも面
白そうに耳打ちした。

「今の聞いた?レイ、飲み過ぎてぶっ倒れたくせにさ・・・」
「ま、まあまあ。いいじゃない、そのくらい言っても。綾波にしては珍しい大
口なんだし。」
「へぇ・・・アンタもそういう認識なんだぁ、シンジ。」
「い、いや、だから僕は別に悪いとかそう言うんじゃなくって・・・」
「何?」

にんまりと笑ってアスカが聞き返す。
やっぱりアスカも綾波を相手にするよりも、簡単に手玉に取れる僕を相手にし
ていた方が楽しいのだろう。その辺が如何にもアスカらしいと言えばそうだが、
こっちとしてみればいい迷惑だった。

それに・・・アスカとは違って、僕にとっては笑い話じゃなかった。
綾波がどうして倒れるまで飲んだのか、その理由を考えると心苦しかった。
やっぱりその大部分はこの僕が握っていたのだろうから・・・

「・・・綾波が倒れたの、僕のせいだし・・・・」
「・・・・ふぅん、またいつもの?」
「いつもの?何だよ、それ?」
「だから、いつもの自嘲癖ね。何でも自分が悪い、自分が悪いって・・・わか
ってる、アンタ?」

アスカの表情がやや厳しくなる。
「いつもの」とアスカに言われてピンと来ない僕じゃない。
わかってはいたけど、でも、実際そう思ってるんだし、言わずにはいられなか
った。
そして、こんな僕を見る度、アスカはいつも苛立ちを見せる。
今もその予兆はありありと見えて、僕は覚悟を決めてやや身構えた。
しかし・・・僕の予想に反して、アスカは矛先を直接僕には向けてこなかった。

「レイ、アンタも何とか言ってやってよ。このバカシンジにさ。」
「・・・何を?」
「だから、アンタが昨日の夜倒れたのはシンジのせいじゃなくって、あくまで
アンタが自分の酒量をまーったく微塵もわきまえていなかった、って言うこと。」

やっぱりアスカもちょっとは言いたかったらしい。
嫌みっぽさを含んだ発言だったが、それだけではないことを綾波も感じていた。
だからこそ、わずかに眉をひそめたものの、それについては敢えて触れずに、
アスカの求めに応じてこう言った。

「碇君。」
「・・・はい?」
「昨日私が倒れたの、あれは・・・」
「うん。」
「あれは、碇君、あなたのせいよ。」
「って、レイっ!!」

思いも寄らぬことだった。
アスカは自分が求めたことに関して、綾波も同意見であると言うことを全く疑
っていなかった。そして、意見云々以前に、綾波が何かの問題の責任を僕に押
し付けるようなことは絶対にしなかった。綾波にとって、僕は絶対不可侵の存
在でもあったのだ。
まあ、アスカにだけでなく綾波にも僕はお説教をされたりしている。
でも、それはどっちかと言うと教え諭すと言うスタンスであり、僕の非を責め
るものではなかった。

それだけに、アスカも声を上げる。
僕は・・・黙ってはいたけど、驚きは隠せなかった。
そして、そんな僕に向かって綾波は続ける。

「きっと鈴原君ならそう言うと思うわ。碇君だって私の気持ち、知っているの
に・・・」
「ご、ごめん、綾波・・・・」
「謝るくらいならしないで。」
「・・・・」
「どうしてみんなが碇君が謝ってばかりいるの、嫌がったり怒ったりするか、
わかる?」
「いや・・・わからないよ。でも、僕は自分に非があると思った時には、やっ
ぱり謝って当然だと思う。たとえみんなが嫌がってもね。」

僕はそうはっきりと言った。
僕にしてみれば、みんながどうして謝ることを非難するのか、それが信じられ
なかった。
「謝罪をする」と言うのはいい行為だし、必要不可欠なものだ。
悪いと思っている癖して斜に構えて謝らないなんて言うのは、僕にとっては卑
怯以外の何物でもないように思えた。
まあ、卑怯と言うなら、悪いとも思っていないのに場を取り持つ為、そして保
身の為に謝ることだろう。実際僕もそんな謝罪をしていたこともあるし、今で
は大いに後悔している。
しかし、悪いと思っていることを謝るのは筋が通っているだろう。
だから、僕の言葉には若干の開き直りがあったのだろうか、力強いものがあっ
た。

だが、そんな僕に向かって綾波はいつものように静かに応える。

「そう言う碇君の論理に間違いはないと思うわ。でも、私が言いたいのは・・・
そう、頻度の問題なの。謝ることはいいことだと私も思うけど、でも、碇君の
場合、あまりに回数が多すぎるわ。」
「・・・・それは?」
「碇君、あなたは謝って、それからどうするの?」
「それから?」
「ええ。つまり、何かをすれば何らかの結果があるでしょう。そしてそれは相
手に対してだけでなく、自分に対しても・・・」
「うん、綾波の言うことはわかるよ。」
「だから、謝れば反省があるはず。悪いことをしたら、もう二度と同じ過ちは
繰り返さない、って思わない?」
「あっ・・・・」

ようやく、綾波の言いたい事が理解出来たような気がした。
実際、僕は何度も綾波に同じ悲しみを与え続けているような気がする・・・

「だから私は思うの。碇君が私に対して悪いと思っているのも事実かもしれな
いけど、それだけじゃないって。」
「・・・・」
「碇君は私の為、私の悲しみを癒す為に謝っているのよ。自分が謝れば、私に
新たな希望を与えることになるから・・・・」
「そ、それは・・・」
「碇君は自分の謝罪の効果をよく知っているわ。それがたとえ意識的なもので
ないとしても・・・・」

僕は、何も言えなかった。
綾波の言葉はまさに的を得ていたし、それが真実なんだろう。
実際考えて見ると、よく当てはまっているような気がする。
でも・・・だとしたら僕はどうしたらいいんだ?


心乱される。
ずっとみんなに気を遣い続けて・・・それが美徳だとすら思えるようになって
いた。実際、それを真似するかのように綾波もアスカも、僕のことを本当によ
く気遣ってくれる。僕はそんな関係が心地よくて、何か大きな誤解をしていた
のかもしれない。

「碇君、あなたは・・・あなたはどこにいるの?」
「えっ?」
「私には、本当の碇君が見えない。碇君は優しいから、優しすぎるから、自分
を押し殺し過ぎて・・・私やアスカがそんな碇君を好きになったのは事実。で
もね、碇君、それが碇君の幸せに繋がるかはわからないし、優しさが悲しみを
与える事だってあるのよ。」
「・・・・じゃあ・・・じゃあ、僕はどうしたら・・・・」
「わからないわ。でも、私に対してなら・・・碇君には幸せになって欲しい。
だから、碇君の気持ちも大切にして欲しいの。碇君が望むのなら、たとえアス
カとどうなっても構わない。ううん、私は構わないなんてことはないけど、そ
れはあくまで私の話。碇君の気持ちとは関係ないから・・・」
「・・・・」
「だから、碇君に冷酷になれとは言わないけど、私の悲しみの為に自分を殺さ
ないで。私は悲しいけど、碇君がアスカと抱きあったって、キスしたって、碇
君が望むのなら仕方ないことだから。それが、碇君が一番強く求めることなら・・・」
「綾波・・・・」

何だか悲しい言葉だった。
僕の幸せの為にはどうでもいいだなんて・・・
僕にだって綾波の言いたい事はわかる。
そしてそれが筋の通った言葉だと言うことも。
でも、それだけでは納得出来ないこともあるのだ。

綾波も、そんな僕の心情を察したのか、軽く微笑んでこう言った。

「でも、碇君は悲しまなくっていいの。碇君には碇君の気持ちがあるように、
私には私の別の気持ちがあるから。」
「別の気持ち?」
「ええ。今までの私、今私が碇君に言ったように、ずっと自分を殺し続けてき
たのだろうから・・・」
「・・・・」
「でも、何だかようやくそのことに気付いた気がするの。だから、私はそれを
改める。自分のしたいようにするし・・・それはわがままになるって言う意味
じゃないけど。」
「・・・わかるよ、うん。」
「少なくとも昨日の夜、碇君は自分のしたいようにしてた。私はただ、それを
見て悲しく思って・・・それだけのことなの。だから、私が勝手に自棄酒して
ただけだから、碇君が謝る必要は・・・ううん、謝って欲しくない。」
「うん・・・・」
「悲しくなった私は、色々方法がある中でお酒を沢山飲むことを選んだ。本当
にただそれだけのことなの。もしかしたら、碇君とアスカの間に乱入したかも
しれないでしょ?」
「ま、まあ。」
「私だって、そんな私を気遣うな、なんて言わない。でも、謝罪の言葉は後悔
の言葉。だから、謝るのはなし。私は違う形で、碇君に気遣って欲しい・・・」

何だか遠回りしたけれど、ようやく綾波の結論に達した。
まあ、僕も謝ることが全ての解決に繋がるなんて思ってやしない。
でも、実際一番安易な解決方法なのは事実だ。
それが自分の非を認める、と言うことなのだから・・・

しかし、綾波が言うには、僕が自分の気持ちに従ってしたことについて、非と
感じて欲しくはないのだ。
だから、謝罪と言う形の気遣いは欲しくない。
まあ、言ってしまえばもっと気の利いた気遣い方をしろ、と言うことだろうか。
事はそんな単純なことではないだろうけど、綾波の気持ちは伝わったような気
がした。

「・・・わかったよ、綾波。」
「ありがとう、碇君、何だかうるさいこと言っちゃったみたいで・・・」
「いや・・・なるほどと思ったよ、本当に。」
「うん・・・・」
「だから、これは二人のルールにしよう。いい?」
「ルール?」
「うん。謝罪と言う形の気遣いはしないって。悲しみを癒す道具に謝罪を利用
しないって・・・」
「ええ、わかったわ。」
「まあ、綾波が言ったことそのままだけどね。」

僕はそう言って軽く笑う。
それに応じて、綾波も笑顔を見せてくれた。
何だか変な形ではあるけれど、それでも人は変わっていく以上、何らかの変化
を求められるのは当然のことだろう。
具体的にはこういうことだが・・・実際、綾波が求めていたのはそれだけには
とどまらない。綾波は変わった自分に応じて、僕にも変ってもらう必要があっ
たのだ。
綾波は直接そんなことは言わない。
だけど・・・恐らくそうなのだろう。
僕は結果としてプラスだからそれを受け入れるけれど、もし綾波の求めが僕の
考えに反するようなことがある時には・・・・


「でも・・・これが碇君の、気遣いの形なのね。」
「えっ?」
「だって、わざわざ、二人の、なんて限定してくれたから・・・・」

綾波の言葉を聞いて、隣でアスカが怖い顔をしている。
誰も、僕の心に芽生えた小さな不安には気がつかない。
でも、それはそれでいいと思えた。
まだそれは僕にとって現実のものとなった訳ではないのだから・・・・


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