私立第三新東京中学校

第二百九十八話・最初の朝



「・・・・」

目覚め。
それはゆっくりと、そして穏やかに訪れた。
まだまどろみの中、半ば習慣で枕元に置いてある目覚し時計に手を伸ばす。
もう少し寝ていてもよかった時間だけれど、僕は起きることにした。

「痛っ・・・」

不意に訪れた痛みに頭を押さえる。
やっぱりこれは二日酔いって奴らしい。
昨日の夜は覚えていないくらい、アスカと綾波にお酒を飲まされたから・・・

取り敢えず、洗面所に向かう。
そこで口をゆすいでから軽く顔を洗う。
歯を磨くのは朝食の後だ。
食べたくないなんてアスカは言うかもしれないけれど、それでも作らないでい
たりすると怒り出す。
僕はなんとなくそんな想像を頭の中で巡らしながら、昨日の戦場跡へと足を運んだ・・・


「・・・・うへーっ・・・」

それはもう、惨澹たる有り様だ。
僕が正気だったら歯止めも利いただろうが、そんなことはアスカが許さない。
加持さんとミサトさんがみんなを送り帰した後も、アスカはへろへろの僕を解
放してはくれなかったのだ。

やっぱり少し早目に起きたのは正解かもしれない。
僕はそう思うと、取り敢えずゴミ袋を取り出して片っ端から放り込んでいく。
まだ勿体無いと思えるものもあったが、今はスピード重視だ。
綾波が手伝ってくれたらもう少し余裕を見ることも出来たのだろうが、やっぱ
りと言うか、綾波が起き出してくる様子はまだない。
飲んだ量ではミサトさんに匹敵するほど飲んでいたアスカに軍配が上がるだろ
うが、アルコール度数で考えてみれば、綾波のはアスカの比ではなかった。
何せ頑強に日本酒だけを飲み続けるから・・・

偏頭痛と吐き気はある。
しかし、日頃のしぶとさでそれをしのぎながら、僕は大雑把に部屋を片づけて
いった。そして大体のところで見切りをつけた僕は、朝食の準備に取り掛かろ
うとした。

「・・・やっぱり、買い過ぎだったかな・・・・?」

僕は冷蔵庫の中身を見てそう呟く。
しかし、僕にとっては朗報だったかもしれない。
何もかも使い果たしてしまって、空っぽであることも可能性としてはあったは
ずだ。それに比べてみれば、朝から豪華な食事がとれると言うことは贅沢とは
言えたまには悪くない。どうせみんな二日酔いでダウンしているだろうから、
あまり重いものは食べたくないだろうけど、それなりに凝ったものでも作って
みようかと思い、僕は愛用のエプロンを身に着けた。

「・・・あら・・・早いのね・・・・」
「あ・・・おはようございます、リツコさん。」

そんな時、僕の前に姿を見せたのはリツコさんだった。
リツコさんと渚さんが僕達の同居人になることは、三人でここに戻ってきた時
に聞かされた。いまだに僕はリツコさんを苦手に思っていたけれど、それでも
悪い人じゃないことは知っている。ただ僕がリツコさんと言う人を理解する機
会がほとんどなかっただけで・・・だから、これはいい機会とも言えた。

「おはよう、シンジ君。でも、まだ朝の六時前よ。」
「ええ。でも今日はこの辺を片付けなくちゃ行けないと思って・・・」

僕がそう言うと、リツコさんは周囲をぐるりと見渡して応えた。

「そうね・・・昨日はここ、こんな感じじゃなかったもの・・・・」
「まあ、大雑把にですけど。」

僕は軽く笑って応える。
自分としては満足行く仕事じゃないけれど、それでも人がそれを認めてくれる
のはうれしい。それはちょっとしたことだけれど、僕はその喜びを感じたくて
色々しているのだと言うことは、少なくとも大きな理由の一つになっていた。

「そんなことないわよ。昨日の荒れっぷりをみたら・・・大変だったんじゃない?」
「そうでもないですよ。僕も慣れてますから。」
「まあ・・・あのアスカやミサトと一緒に住んでたんだからね・・・」

そう言って、リツコさんは呆れた顔をしてみせる。
昨日の晩も、一番ノリノリだったのは他ならぬアスカで、次いで元気だったの
がミサトさんだ。他の面々はほとんどこの二人にただ引きずられていっている
という感じで、何だか加害者と被害者がはっきりと色分けされていた。

「ええ、まあ。だから、慣れてるんですよ、僕も。」

僕もリツコさんに苦笑して応える。
やっぱり共通の話題があると言うのはなかなか話しやすい。
僕は改めてリツコさんも僕達の仲間なのだという認識を強め、案外上手くやっ
ていけるかもしれないと思った。

「何だか慣れたくないわね。まあ、そんな事言ってる私も慣れてるうちの一人
だけど・・・」
「そうですよね・・・リツコさんはミサトさんの大学時代からの親友ですから。
さぞかし色々迷惑かけられたりして・・・」
「まあね。だから、お酒を飲むのも上手くなったわ。酔い潰されないように、
次の日に残らないように・・・・」
「あ・・・言われてみれば、リツコさん、あんまり辛そうじゃないですね。」
「ええ。飲んでるように見せかけてたから。それでも流石に昨日は私も酔わさ
れたけど、でも二日酔いでふらふらなんて事はないから。」
「な、なるほど・・・僕はふらふらですよ。アスカだけならまだしも、綾波に
まで無理矢理・・・」

僕が昨日のことを頭の中で再現しながら困ったようにそう言うと、リツコさん
はさもおかしそうに僕に応えた。

「なかなか見物だったわよ、シンジ君。男冥利に尽きるってものじゃない?」
「や、やめて下さいよ、リツコさん・・・そんなからかったって何も出て来や
しませんよ。」
「まあ、そう言うことにしておいてあげるわ。これからもこんな機会、沢山あ
るだろうし・・・」
「もう・・・そう思うんだったらとめて下さいよ、リツコさん。アスカだけじ
ゃなく綾波までもが酒癖悪くて・・・」
「本当、あれには私もびっくりしたわ。でも、酔ったレイ、なかなか可愛いん
じゃないの?普段は黙ってて無愛想だけど・・・・」
「それは客観的に見る場合ですよ。相手をする僕の身にもなって下さい。」
「はいはい、ご馳走様。それよりシンジ君・・・?」
「何ですか?」
「その・・・・」

ようやく話を切り出したリツコさん。
まあ、これだけ早起きしてきたんだから、何かあるだろうとは僕も思っていた。
だから別段驚きもしなかったのだ。

リツコさんは少し言いにくそうにくちごもる。
しかし、そうしていても埒があかないと思ったのか、ちょっと恥ずかしそうに
僕にこう告げた。

「・・・料理、教えて欲しいの。」
「料理・・・ですか?」
「え、ええ・・・やっぱりシンジ君に教わるのが一番だと思って・・・」
「別にリツコさんが料理を作る必要なんてないですよ。僕が全部やりますし、
もし風邪とかひいた場合でも、代わりに綾波がやってくれるでしょうから。」

僕がそうリツコさんに返すと、リツコさんは如何にも困った様子で慌ててこう
言ってきた。

「そ、そういう訳じゃないのよ。ほら、やっぱり私もいい歳なんだし、料理の
ひとつも出来ないと・・・」
「ああ・・・そう言うことなら喜んで。だから今日はこんなに早起きしたんで
すか?」
「ま、まあ、はっきり言ってしまえばそう言うことになるわね。」
「なるほど・・・」

照れるリツコさんは、なかなか僕の目には新鮮に映った。
リツコさんと言うとやはり「赤木博士」と言いたくなるように白衣でビシッと
きめて、颯爽と歩くイメージがある。
実際のところ、あのミサトさんなどよりも遥かに大人をイメージさせる人だった。
でも、そんな人であってもやっぱり人間で、そして一人の女性なんだ。

僕はそう思うと、何だか少し嬉しくなった。
やっぱり血の通わない科学者というよりも、こんなリツコさんの方が僕はいい。
リツコさんにとっては恥ずかしいだけかもしれないけれど。

「と、取り敢えず、私、多分アスカよりも料理出来ないわよ。」
「大丈夫ですよ。教えるの、慣れてますから。」
「そう言ってくれると助かるわ。じゃあ、宜しくね、シンジ君。」
「はい、こちらこそ。」

こうして、僕はリツコさんに料理のイロハから教えることになった・・・・




「そうそう、そんな感じですよ、リツコさん。」
「そう?」

リツコさんは割と筋がいい。
と言うよりは、何にでも器用で飲み込みの早い方なのだろう。
流石に一流の科学者ともなると、たとえ料理に対してであっても、その才能の
一部を垣間見せないことはなかった。

「ええ。お上手ですよ、やっぱり。」
「まあ、流石に私もキッチンのある部屋で暮らしていた以上、全然使わなかっ
た訳でもないし・・・」
「確かに、必要に迫られることもあるでしょうからね、リツコさんの場合は。」
「ミサトやアスカは過保護だった?」
「そんなところでしょうね。」

僕は笑ってリツコさんに応じる。
しかし、こんなやり取りが出来ると言うだけでも、安心して見ていられる証拠
だろう。味付けや火加減などは僕が教えた上で、後は経験によって身につくも
のだけれど、取り敢えず包丁捌きについては危なっかしいところはさほどなか
った。


今日はちょっと豪華な朝食にしようなんて思ったけれど、リツコさんが来たこ
とで修正を加えることにした。
やっぱり初心者向けと言うことで、あったかいご飯と味噌汁、それから運良く
残っていた鮭の切り身を網で焼いて・・・・まあ、ごく一般的な家庭の朝食に
することにした。
味噌汁は半分おかずと言う感覚で、僕はいつも具が多いものを作ることにして
いる。今リツコさんに切ってもらっているのがそれで、大根と油揚げと豆腐だ。
流石に人数がいるため、うちの鍋は普通よりも一回り大きいものを使用してい
るし、具の量もそれだけ沢山必要になる。たかが味噌汁の具とは言えども、大
根ひとつにしても結構な量を切ってもらうことになった。

僕はリツコさんに大根を細長い短冊に切ってもらいながら、ご飯を炊く準備を
した。
ざっと水でお米を磨いで、お釜の内側の線に水面を合わせると、ジャーにセッ
トする。それは毎日繰り返されていることだけれど、僕はいつも慎重に行って
いた。

「結構細かいのね、シンジ君って・・・」

そんな僕を見たリツコさんがそう口にした。
僕は顔を上げてリツコさんの方を向くとこう答える。

「重要なんですよ、この水加減が。」
「まあ、そうかもしれないけど・・・」
「火加減が一定だから、水加減をしっかりやっておかないと、美味しくご飯が
炊けないんですよ。まあ、ほんのちょっとした事かもしれませんけど、そのち
ょっとしたことってのが、重要だと僕は思ってるんです。」
「なるほどね・・・そういう性格あっての、この料理な訳ね?」
「そうかもしれませんね。やっぱり料理って、地道な作業ですから。」
「勉強になるわ。有り難う、シンジ君。」
「い、いや・・・そんな大したことじゃないですよ。」

僕は謙遜して応える。
でも、内心は嬉しかった。
だって僕の言葉がリツコさんに届いたから。
人はどうでもいいと思っているかもしれないことだけれど、僕にとっては拘る
のに値することだった。
だから、リツコさんが軽視してもしょうがないことだと思っていた。
でも、リツコさんは親身になってそれを受け止めてくれて・・・

「それよりシンジ君、大根、言われた量を切り終わったんだけど・・・」
「あ、じゃあ、次は油揚げを・・・」

僕はいつのまにか、リツコさんにこうして料理を教えることが楽しくなっていた。



僕はリツコさんの横で鮭を焼いている。
香ばしい匂いが周囲に漂い、僕に朝を感じさせてくれる。
僕がリツコさんにお願いした作業はあまりに簡単だったせいか、リツコさんは
僕のすることを一部始終観察している。
やはりこういう時、リツコさんは研究者としての目をしている。
でも、僕はそんなリツコさんを横目で確認しながら、その視線を好意的に受け
止めていた。リツコさんの真剣な態度が僕にもよく伝わってきたからだ。

「シンジ君、味付け、お願いできるかしら?」
「あ、そろそろ大根も煮えて来た頃合いみたいですね。」

僕はリツコさんに呼びかけられて、鮭を一度ひっくり返してから鍋を確認しに
行った。そして冷蔵庫から味噌を取り出し、おたまで適当な分量をすくうとそ
のまま鍋の中へと直行させた。

「そ、それでいいの?」

大胆な僕の味付けに拍子抜けしたようにリツコさんが問う。
僕はそんなリツコさんの内心を察すると、軽く笑いながら応えた。

「ええ、大体こんな感じだと思います。味付けは薄いのと濃いのどっちがお好
みですか?」
「え、私はどっちでもいいけど・・・・シンジ君の味に任せるわ。」
「わかりました。じゃあ・・・・」

そして僕は味噌を溶かして軽く味見。
その後若干味噌を追加してから、今朝の味付けはこれに決定した。

「どうです、こんな感じで?」

僕はそう言ってリツコさんにおたまを差し出す。
味見のために小皿を使ってもよかったけど、わざわざリツコさんのためにそん
な気を遣う必要もない。
そもそも洗うお皿が増えることを考えると面倒だし、リツコさんはもう僕達の
家族の一員なのだ。よそよそしい態度を採るよりも、こうしたほうがいいと僕
には思えた。

そしてリツコさんがおたまを受け取って味見をしている間に、素早く菜箸で網
の上の鮭をひっくり返す。

「おいしい・・・凄く。」
「有り難う御座います。やっぱり美味しい味噌汁って、重要な気がしますから。」

僕は軽く微笑んでそう言う。
ちょっとだけ自信があったのも事実だった。




綾波と同じとまでは行かないまでも、リツコさんのおかげで思いの外朝食作り
は早く終わった。
僕とリツコさんは手早くテーブルの上にお皿を並べると、すぐ食べ始められる
準備を整え始める。
僕はそんな共同作業をしながら、リツコさんに呼びかけてこう言った。

「でも、綾波じゃありませんけど、リツコさんならすぐお上手になりますよ。」
「そう?シンジ君にそう言ってもらえるとお世辞でもほっとするわ。」
「お世辞なんかじゃありませんよ。夕食はちょっと手が込んでますから覚える
ことも多いと思いますけど、こんな朝食程度なら、もうちゃんと作れるんじゃ
ないですか?」

実際、朝食なんてこんなものだ。
時間がないだけに、簡単で美味しく栄養のあるものをと考えると、こんなメニ
ューが適当に思える。

「本当にそう思う?」
「ええ。リツコさんもちゃんと僕のしてること、見ててくれたみたいですから。」
「ふふっ、私も伊達に博士って言われてる訳じゃないから。」
「視線が全然違いましたよ。流石です。僕も教え甲斐がありますよ。」
「有り難う、シンジ君。今度もまた、宜しくお願いするわね。」
「ええ、こちらこそ、喜んで。」
「でも・・・」

リツコさんはわずかにくちごもる。
何か言いたいことがあるのだろうと思い、僕は急かすことなくその言葉を待った。

「・・・・何だか嫌らしいわね、私って。」
「ど、どうしたんですか、突然?」
「わかってるでしょ、シンジ君だって。私がどうして料理を習いたいなんて言
い出したのかを・・・」
「それは・・・・」

僕は知っていた。
でも、それを表面に出さないように努めていた。
別に僕はそんなことを気にしていなかったし、反対にリツコさんに気を遣わせ
るのが嫌だったから。

「・・・情けないわよね、父親を篭絡するために、息子のシンジ君の助力を仰
ぐなんて・・・」
「そんな・・・・そんなことありませんよ、リツコさん。僕は・・・」
「いいのよ、シンジ君。それが真実なんだから。」
「で、でも・・・・」

でも、僕はそんな真実を拒んだりはしない。
あの父さんが誰かに愛されているのだと言うことだけでも、僕にとっては嬉し
かった。
しかし、リツコさんにはそんな僕の心情を信じきることが出来ないのだろう。
人は誰しも不安や恐れを抱くことはあるのだから。

「だけど、私は遠慮なんてしないわ。やっぱり現実しか見えない、根っからの
学究の徒だから・・・・」
「リツコさん・・・」
「でも、シンジ君も嫌だったら言っていいのよ。シンジ君にはその権利がある
だろうし・・・そうなったらあの山岸さんにでもお願いするから。」
「そ、そんな、嫌なんてことないです。喜んで教えさせてもらいますから。」
「本当に?」
「本当に、です。」

僕は念を押すように強く言う。
こういう時には、大袈裟なくらいの方がいいことを僕は知っていた。
そしてそんな僕の答えを聞いて、リツコさんは染み入るような声でこう言った。

「ありがとう、シンジ君・・・・じゃあちょっとだけ、頑張らせてもらおうかしら・・・」
「ちょっとだけとは言わず、かなり頑張って下さいよ、リツコさん。僕も応
援してますから。」

僕がそう言うと、リツコさんは一瞬意外そうな表情を浮かべた。
しかし、すぐに元に戻ってこう応える。

「ええ・・・じゃあ遠慮なくそうさせてもらうわ。」

そう言って、リツコさんは止めていた作業を再開した。
そして僕もリツコさんに倣って続きを始める。
これが、うちに来てからのリツコさんの最初の朝だった・・・・


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