私立第三新東京中学校

第二百九十六話・ビールの神様



「おかえり、リッちゃん。」

二人が再び部屋に戻ってきた時、加持さんはただそれだけ言って、預かってい
たグラスを差し出した。

「ありがと、リョウちゃん。」

そしてリツコさんも細かい経緯には触れようとせず、ひとことお礼を言うとそ
のグラスを受け取った。

子供達は大人の問題には口を出さない。
ただ、楽しくやりつつもこの微妙な場の雰囲気を壊さないように注意していた。
子供には子供の、大人には大人の問題がある。
子供から大人へと移り行く微妙な年頃の僕達だけれど、本当の大人の前では子
供の立場を堅持しつづけていた。

「・・・まだ大丈夫みたいね。」

リツコさんはグラスの中のお酒に視線を向けると、それを軽く揺らしてまだそ
れほど小さくなっていない氷の音を楽しんだ。

「丁度いい水割り・・・だな。」
「そうね。」

加持さんはグラスの中身を評して言う。
リツコさんはそれに賛意を示すと、静かにグラスを口につけた。

「・・・おいしい・・・・」
「酒はおいしく飲むもんだ。な、葛城?」

水割りの味を楽しむリツコさんを満足げに見やった加持さんは、急に話をミサ
トさんに振った。
静かにグラスを傾けるというよりも、まるで浴びるようにお酒を嗜む・・・・
いや、鯨飲するミサトさんは、今のこのリツコさんと加持さんの雰囲気に立ち
入りがたいものを感じていたため、寂しそうにしていた。陽気なお姉さんタイ
プのミサトさんはどっちかというと酒宴では子供っぽく騒ぐほうなので、むし
ろこの二人、と渚さんは放っておいてトウジやケンスケ達の輪に加わりたかっ
たのが実際のところだ。
しかし、ミサトさんはみんなから見れば明らかに大人であり、子供っぽくはあ
っても子供ではなかった。
だからミサトさんも動けない。ミサトさんは子供にも大人にもなれず、まさに
宙ぶらりんの状態だったのだ。

「え、えっ?」
「葛城はほんとに美味そうに飲むからな。ほら、ぷっは〜!!って。」
「か、加持君っ!!」

面白そうに言う加持さんに対して、いつのもように上手く応じられないミサトさん。
そんなミサトさんをいかにも楽しそうに見つめる加持さんを見て、リツコさん
も話に加わってきた。

「ミサトは味なんてどうでもいいんじゃないの?とにかく量なんだから。」
「いや、でもあれは美味そうに飲んでると思うけどなぁ、俺。ビールのコマー
シャルかなんかにしたら最高だと思うけど。」
「確かにね。あんな風にしてもらったら、飲まれたビールも本望なんじゃない?」
「そうだな。無駄に飲まれたビールの怨念が葛城の周りに漂うなんてこともあ
るまい。葛城ならビール寺に供養の必要もないだろ。」
「ビール寺?そんな恥ずかしい名前のお寺、本当にあるの?」

リツコさんは驚いて訊ねる。
加持さんの話は如何にも胡散臭すぎる話だったが、それをあまりに真面目くさ
った顔で言うので、流石のリツコさんも信じかけてしまったのだ。
しかし、そこは加持さんと付き合いの長いミサトさん。
リツコさんの疑問を一笑に付してこう言った。

「そんな馬鹿な話あるはずないじゃない。そんなの信じるなんて、リツコらし
くもないんじゃないの?」

いい加減馬鹿にされ続けていたので、ミサトさんも鬱憤が溜まっていたのか、
それは少々とげとげしい口調だった。
そしてリツコさんに言った以上に厳しい目で加持さんを睨み付ける。
加持さんはミサトさんが怒っていることを知ると、わずかにたじろいで言い訳
がましい台詞を口にした。

「おいおい、もしかしたら本当にあるかもしれないじゃないか。世の中には色
々な宗教があってだなぁ・・・」
「あるかもしれないってことはアンタも知らないで口からでまかせ言ってたっ
てことじゃないの!?」
「うっ・・・・」
「ったく、だからアンタは狼少年なのよ。いや、この年なら狼中年ね・・・」
「ちゅ、中年はないだろ、葛城・・・?」

畳み掛けるようにミサトさんに言われてたじたじになる加持さん。
対してミサトさんはようやく自分らしさを取り戻したことに喜びを感じている
のか、かなり饒舌になっている。

「中年じゃなかったら何なのよ?」
「中年ってのは40過ぎたら言うもんだ。俺にはまだ中年と呼ばれる資格なん
てないんだよ。」
「アンタなら二階級特進で中年にしたげるわ。相当悪さしてきたんだから。」
「か、葛城・・・」
「その口の軽さ、何とかしたらどうなの?狼少年の話じゃないけど、そのうち
真面目にしゃべっても誰も本気になんてしてくれないわよ。」

むきになっていたミサトさんだけれど、いつのまにか半ばお説教紛いの言葉を
本気で口にしていた。
ずっとふざけ続けていた加持さんだったが、ミサトさんの態度が単なる言い争
いのものから、本当に自分を思いやっての言葉に変わったと気付いた時、表情
をきゅっと引き締めた。

「・・・・」
「嘘つきは泥棒の始まりって言うように、嘘はいけないことなのよ。それもあ
ろうことか昔からの親友のリツコを騙そうなんて・・・・」
「・・・・すまん、葛城・・・・」
「すまんじゃないわよ、全く・・・」
「俺が悪かった。許してくれ。」

更に非難し続けようとするミサトさんだったが、それに対して加持さんは深々
と頭を下げて謝った。ミサトさんも加持さんの態度が急変したことに気付いて
驚きの声を上げる。

「・・・加持・・・くん?」
「葛城の言う通りだよ。俺が悪い。」
「な、何を急に・・・」

加持さんらしくもない言動にうろたえるミサトさん。
だが、加持さんは気にせずにミサトさんにこう続けた。

「冗談ばかり言うのは俺の悪い癖だ。多分葛城も、俺のそんな部分は嫌いだと思う。」
「あ、当たり前じゃない・・・」
「だから謝る。すまん。」

再び頭を下げる加持さん。
ミサトさんは人の上に立つ立場にはいるけれど、人に頭を下げられるのに慣れ
てはいなかった。そんな堅苦しいことは好まなかったし、それでは楽しく出来
ないことを知っていたから、常に人とは対等の立場に立とうとしていた。
そんなミサトさんだったから、僕だけでなく学校のみんなもミサトさんを慕う
ことが出来るんだろうと思う。やはりミサトさんは僕達にとって、一教師とい
うよりは美人の陽気なお姉さんだったのだ。

しかし、ミサトさんが厳密に言っても対等の立場になることの出来る数少ない
相手の一人である加持さんに頭を下げられているのだ。
これがミサトさんにとってどれほどのことなのか・・・・ミサトさん自身でも
なければ正確に推し量ることは出来ないだろう。

「そ、そんな謝んないでよ、加持君・・・・アタシもちょっと言い過ぎだった
かもしれないし・・・」
「俺の言葉、やっぱりそんなに信頼置けないか?」
「えっ・・・?」
「葛城も、俺の言葉、信じてくれないのか?」
「そ、その・・・・ものによるわよ。ものに。」
「そっか・・・そうだよな・・・・」
「・・・加持君?」

ミサトさんは何が何だかわからない様子だった。
こんな風にはっきりとしないのは、ミサトさんの得意とするところではなかった。
だが、加持さんはそんなミサトさんのことを誰よりもよく知りながら、敢えて
今の調子を続けてこう言った。

「葛城は判るか?俺の言葉、何が本当で何が冗談なのかを・・・」
「そ、それは・・・・」
「葛城なら判ってくれると思うんだよ、俺はさ。だから。」

加持さんはそう言うと、ミサトさんににっこりと微笑んで見せた。
それは加持さんが普段見せるものとは違った笑顔だった。

ミサトさんもほとんど見たことがないような加持さんの表情。
思わずどきっとさせられていた。
そしてすぐにそんな自分に気がつくと、ミサトさんは慌ててごまかすように言う。

「だ、だから、って何なのよ?続きは?」
「続きはないさ。それだけだよ。」
「訳わかんないこと言わないでよ。ったく、それじゃ嘘と変わんないわよ。」

ミサトさんの不平不満の声は、如何にもわざとらしいものだった。
しかし、それはあまりにもミサトさんらしく、加持さんにはうれしかった。

「でも、葛城ならわかるだろ?葛城なら。」
「なっ、何を・・・」
「わかるだろ?」
「・・・・・」

重ねて問う加持さんに対し、ミサトさんは顔を伏せた。
だが、わずかな沈黙の後に視線だけ上にあげて小さく答えた。

「・・・だから・・・だからアタシに謝るの?」
「ああ。」
「・・・・そんなの、わかんないわよ。」

そっけない口調でそう言うミサトさん。
しかし、それは気恥ずかしさをごまかしたミサトさんの態度だった。
加持さんもそのことを知っているから、そのままミサトさんに応えて言う。

「そうだな。わかんないな。」
「そうよ・・・・ったく、わかる訳・・・ないじゃない・・・・馬鹿・・・・」

二人の不思議なやり取りが続く。
しかし、それを始めたのも加持さんだったが、終わらせたのもまた加持さんだった。

「よしっ!!なら葛城の大好きなビールでも飲むかっ!!」

いきなりころっと変わって大きな声でそう言うと、手の平でぽんとミサトさん
の頭を叩く。

「な、なによっ、加持っ!!」
「だから、ビールだよ、ビール。俺も水割りだけじゃなくて違うものも飲みた
くなったんだ。」

そう言うと加持さんは近くにあったビールの缶を二本手に取り、一本をミサト
さんに差し出す。

「ったく!!」

不満そうに応えながらも、奪い取るようにしてミサトさんは缶ビールを受け取った。
そして勢い良くプルタブを上げる。
加持さんもそんなミサトさんとほぼ同時に口を開けると、ミサトさんにこう申し出た。

「なら乾杯だな、葛城。」

そう言う加持さんに対して、むすっとした顔をしたままミサトさんは訊ねた。

「何に乾杯するのよ?」

すると、加持さんは笑って言う。

「ビールの怨霊・・・いや、ビールの神様に、かな?」
「・・・・ったく、アンタってとことん馬鹿ね・・・・」

加持さんの答えに呆れ返ってミサトさんはそう言った。
加持さんはそんなミサトさんを見て意外そうに訊ねる。

「嫌か、葛城は?」
「別に・・・嫌って言う訳じゃないけど・・・」
「なら、商談成立だな。ビールの神様に乾杯!!」
「かんぱーい・・・・」

有無を言わせずに乾杯の音頭を取った加持さん。
そんな乾杯に気が乗らない様子で、ミサトさんはがこんという変な鈍い音をさ
せてビールの缶と缶を合わせた。そして吹っ切れようと一気にビールをあおる。
そんなミサトさんを見ながら、加持さんはそっと小さな声で呟くように言った。

「乾杯・・・俺の、ビールの神様に・・・・」



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