私立第三新東京中学校
第二百九十五話・新しい未来へ
コンコン
分厚い木製の扉にノックされる。
この現代的な最先端の高級マンションには似つかわしくない扉だったが、内側
から見れば実にしっくりと来ていた。
「誰だ?」
それは父さんの声ではなく、冬月校長のものだった。
しかし、渚さんはそれが当然のことでもあるかのように答えて言った。
「渚です。」
「そうか・・・いいか、碇?」
それに対する返事は、渚さんの研ぎ澄まされた聴覚を持ってしても聞こえなかった。
まず、仕種だけで答えたに違いない。
「入り給え。」
そして冬月校長が答える。
渚さんはそれも当然だと言わんばかりに、返事をしてノブを回した。
「失礼します・・・・」
部屋は廊下より明るかったものの、落ち着いた雰囲気を出す為か、照明は他の
部屋よりも抑え気味だった。
「・・・・赤木先生か・・・・元気でいたかね、今まで?」
冬月校長は渚さんの後ろから続いて来たリツコさんの存在を見て、少し驚いた
様子でそう訊ねた。
無論冬月先生がリツコさんの失踪時の動向を知らないはずは無かったが、それ
でも久し振りの仲間、いや、仲間だった女性を目の前にして、全く心を動かさ
ないと言うのもおかしな話だった。
「ええ。ご心配に及ぶようなことは何も。」
リツコさんは至って落ち着いた態度で冬月校長に返す。
しかし、最後にちらりと視線をやった父さんはと言うと、その存在を全く認め
ていないかのように、渚さんに向かってのみこう言った。
「まだ何か用か?」
「ええ。」
渚さんはにこやかに返す。
明らかに作り笑いだった。
「そうか。」
渚さんの作り笑いに対して、父さんは無表情で応戦する。
と言うよりも、そんな父さんに対する武器としての、渚さんの作り笑いだった
のかもしれなかった。
そして渚さんは笑みを浮かべたまま、早くも父さんに向かって話を切り出した。
下らない社交辞令を繰り返していては、いつまで経っても終わらないとわかっ
ているのだろう。
「僕があなたがたのサイドについたと言うことは、既にお話しましたよね?」
「ああ。」
「だから、僕は言わば居場所を失ってしまった訳なんですよ。あの住処は委員
会が与えてくれたものですから。」
含みなど全く無いかのような表情でそう言った渚さん。
それを聞いた冬月校長は初めて気がついたのか、やや大きな声で渚さんに言った。
「おお、忘れていた。君の言う通りだ。すぐにワンルームマンションでも・・・」
「いえ、校長先生。」
しかし、渚さんはそれを遮って言う。
「僕は綾波さんを守ると言いました。そしてそれは絶対のことなんです。」
「そ、そうか・・・」
「ですから宜しければ、僕もこのマンションに置いていただきたいのですが・・・」
「な、渚くん!!」
驚いて冬月校長が言う。
だが、他の誰も驚いた様子など見せてはいなかった。
ただ、父さんが口を開いてひとこと、言っただけだった。
「・・・好きにしろ。」
「ありがとうございます。」
わざとらしく深々と頭を下げる渚さん。
それは渚さんの中では、わかり切っていた答えだったのだ。
そして渚さんは続け様にこう申し出る。
「あと、もう一つだけ、お願いがあるのですが・・・」
「今度は何かね?」
何だか一人だけ取り残された感のある冬月校長が、少し苛立たしげに聞いた。
すると渚さんは笑って答えて言う。
「家族同伴を許可していただきたいのです、冬月校長。」
「家族?君には家族なんて・・・」
「いるんですよ、一人だけ。」
「誰かね?よければ教えてくれるかな?」
訝しげに訊ねる冬月校長。
明らかに不審そうな目だった。
だが、そんな冬月校長に気付いていても、そんなことは一向に意にも介さずに
明瞭に答えた。
「母です。僕の産みの母親。ご紹介しますよ・・・」
そう言ってすっと身を引く渚さん。
「僕の母、赤木リツコです。お二人ともご存知かとは思いますが・・・」
「あ、赤木先生だと!?」
当然のごとく、またも冬月校長は驚いて声を上げた。
だが、父さんはと言うと、憎らしいくらいに落ち着き払っていた。
そして当のリツコさんはと言うと・・・別に事前に渚さんと話を通してあった
訳でもなく、冬月校長と同じく唐突なことだったのだが、いくらかは予期して
いたことでもあったし、半ば呆れと諦めの表情で黙って行く末を見守っていた。
「た、確かにそうかも知れないが、それはあまりに・・・」
「強弁、ですか?」
「あ、ああ。違うかね?」
「いえ、違いませんよ。」
にこやかに肯定してみせる渚さん。
やはり父さんの対抗出来るのは、渚さんくらいだろう。
「そ、それでいいのかね、赤木君?」
「私はもう、カヲルに一任してしまいましたので・・・・」
納得行かない冬月校長に対して、うんざりとした感じでリツコさんが答える。
今のリツコさんにとっては、どうでもいいことだった。
まあ、ここに来て僕達や父さんと一緒に生活すると言うのは、当然リツコさん
にとっても一大事だろう。
しかし、もうリツコさんは失うものなんて無かった。
これ以上傷つきようも無かった。
だから、流れに任せようと思ったのだ。
渚カヲル、と言う名の流れに・・・・
「と、言うことですが、如何ですか、碇理事長?」
「・・・私は一度答えたはずだ。」
「と言いますと?」
「好きにしろ。嫌なら初めからそう言っている。」
「おい、碇!!」
無感情に渚さんに答えた父さんに向かって、行き過ぎをたしなめたのは冬月校長だった。
しかし、渚さんは小うるさい老人を無視して父さんに答えた。
「有り難う御座います。では、僕達は空いている部屋を勝手に使わせていただ
きますので。」
「ああ。」
「おい碇!!いいのか、こんな・・・」
「こんな・・・どうした、冬月?」
初めて人がましい口を利いた父さんだった。
渚さんはそのまま四の五の言わせずに立ち去ろうと思っていたのだが、少しだ
け父さんの発言が気になったのか、そのまま留まった。
「だ、だから・・・」
「昔のことだ。違うか、赤木先生?」
サングラスに隠されていても、父さんの視線がリツコさんの方を向いたことが
わかった。
リツコさんは父さんと視線がぶつかって、僅かに身を震わせたが、それでも平
然とした態度で答えて言った。
「そうですわね。私にとっては、全て昔のことです。」
「ああ。」
「昔のことにこだわり続けるのは人の性かもしれません。特に自分の愛した人
のことについてなら尚更・・・」
「・・・・」
「カヲルに言われましたわ。幸せになれ、と。悲しみを背負っていては、幸せ
になれるはずもありませんから。」
「・・・・」
「ですから、私は全てを捨て、私の導き手を買って出てくれたカヲルに従うこ
とにしたのです。」
「・・・そうか。」
リツコさんの話を、父さんは黙って聞いていた。
自分のことを語っていたはずだったそれは、まるで父さんのことを言っている
かのように、周囲の二人は感じていた。
「あなたはどうするのです?」
「・・・・赤木先生には関係の無いことだ。私の人生は私が決める。」
「確かに関係ないかも知れません。でも、無関係と言う訳でもありませんわ。」
「・・・何が言いたい?」
「私はカヲルと一緒にこのマンションで暮らすんです。他人かもしれませんが、
同居人という関係になるとは思いますが、如何?」
「確かにそうだ。だが、だからどうだと言うのだ?」
突き放したがる父さんに対して、いつのまにかリツコさんはしつこく噛み付いていた。
初めはどうでもいいといった感のリツコさんだったが、やはり父さんのことと
なるとこだわらずにいられないのだろう。
「何も。別に私はあなたにどうしろとも言いません。私は余所者ですから。」
「ああ。」
「でも・・・あなたが何もしなくても、私は何かをします。それは私の人生の
一部ですから。ですからご迷惑をおかけすることもあるかと思いますが・・・・」
「・・・・・」
「カヲル共々宜しくお願いします、碇さん。」
そう言って、リツコさんは深々とお辞儀をした。
そしてリツコさんに続いて渚さんも頭を下げる。
父さんはリツコさんに「碇さん」と呼ばれたことにやや驚きの色を見せたが、
それは色の濃いサングラスのおかげで表面には現れなかった。
だが、何も言えなかったのは事実で、顔を上げた二人が退出の挨拶をしようと
しても、黙って聞いているだけだった。
「では、私達はこれで・・・」
「失礼します・・・・」
そして渚さんを先頭にしてドアを抜ける。
だが、最後にリツコさんが振り返って言った。
「私はあなたのこと、いくらか知ってはいるつもりです。ですから・・・・」
「・・・・」
「シンジ君そっくり。やっぱり親子ですわね。あなたたちも、そしてカヲルも
馬鹿です。本当、大馬鹿よ。でも、だからみんな慕ってくれるんです。」
「・・・・」
「全て昔のことです。私にあるのはもう、未来しかありません。過去を忘れな
いように努めるのは強さではなく、弱さだと思いませんか・・・?」
リツコさんは父さんに質問を投げかけると、その答えを待たずに扉を閉ざした。
そして再び、部屋の中に静寂が戻ってくる。
それはほんの数分間のこと。
しかし、大きなことだった。
冬月校長も驚かされ続けだったが、父さんと二人きりになると、またいつもの
落ち着いた冬月校長になった。
「・・・・」
冬月校長は傍らに座る父さんに黙ったまま視線を向け続ける。
何を問うものでもなかったが、父さんとは長らく様々なもの、様々な想いを分
かち合ってきた冬月校長だ。リツコさんに言われずとも、父さんの苦しみはよ
く知っていた。
「冬月。」
「なんだ、碇?」
名前を呼ばれて、冬月校長は穏やかに返事をした。
それがこの二人のスタンスだった。
「俺を笑うか?」
「何故だ?」
「いや・・・・」
「笑わんよ、碇。笑うなら、とっくに笑っている。」
「・・・・それもそうだな。」
「ああ。」
「・・・・シンジももう、大きくなったな。」
まるで思い出したように突然父さんはそう言った。
だが、そんな突然には慣れっこなのか、冬月校長は静かに返す。
「そうだな。もう中学三年だよ。」
「ああ。」
「いい年頃だな、碇。」
「ああ、もう、子供と呼ぶ年齢ではないのかも知れん。」
「子供離れする気になったか、碇?」
「・・・いや・・・・」
「まだ早いか?」
「ああ。まだ、終わりではない。」
「そうだな・・・これからだよ、碇・・・・」
「・・・・」
「全てが終わったら・・・・どうする、碇?」
「・・・・」
「全てを過去に帰する気になったか、碇?赤木君に言われて・・・・」
「関係の無いことだ。」
「・・・・そうだな。」
「ああ。」
そして、会話は終わった。
それ以上でも、それ以下でもなかった。
「カヲル?」
廊下に出て、渚さんに声をかけるリツコさん。
その表情はやや憔悴して見えた。
「何ですか、博士?」
「これで・・・これでよかったかしら?」
「上出来ですよ。そう思います。」
リツコさんの問いに、偽りではない真実の笑顔で渚さんは応えた。
「・・・あなたにそう言ってもらえると、少し安心するわ。」
「有り難う御座います。済みません、僕の方こそ突然で・・・」
「いいのよ。大体察しはついてたから。」
「済みません。」
渚さんは繰り返し謝ると、軽く頭まで下げた。
「こうしたことが、果たしてあなたのお役に立つかどうか、僕にはわかりませ
ん。だから・・・」
「新しい旅立ちには、相応しいと思わない?」
渚さんの言葉を遮り、リツコさんがそう言った。
そしてそのまま続けてこう言う。
「家族がいて同僚がいて仲間がいて・・・そして乾杯するお酒もあるわ。」
「そうですね、ええ・・・・」
「今日だけは、羽目を外しましょう。もちろん、あなたもよ。」
「わかってますよ。」
余計なことは不要。
そうリツコさんに言われたように感じて、渚さんも吹っ切れてうなずいた。
そして再び笑みを浮かべるとリツコさんに手を差し伸べて言う。
「行きましょう。みんな僕達のこと、待ってますよ。」
「そうね、心配かけちゃったみたいだし・・・」
「だから、謝罪の意味も込めて、駆け付け三杯ですよ、博士。」
「私、そんなに強くないわよ。」
「気にしないで下さい。僕達の新しいスタートですから。」
「そうね、私達の・・・・」
リツコさんは差し出された手を取る。
渚さんはその手をしっかりと受け止めると、リツコさんを引いて進んでいった。
みんなの待つ部屋へ、そして新しい未来へ・・・・
続きを読む
戻る