私立第三新東京中学校

第二百九十四話・人として



「・・・静かですね。」

廊下を歩く途中、渚さんがそっと呟いた。
それはみんなの前を後にしてからひとことも口を利かないリツコさんに対して
の、渚さんのちょっとしたアプローチだった。

「そうね。」

しかし、リツコさんの返事は至って素っ気無い。
まあ、こんなことくらいで盛り上がれる方がおかしいかもしれない。
ただ、渚さんの気持ちを汲んで会話を始めてもよかっただろう。

「僕は静かな方が好きです。加持先生にはシンジ君に似ていると冷やかされま
したが。」
「そう・・・・シンジ君も、あまり幸せとは言えない人生を送ってきたから・・・」

リツコさんは軽く笑って話をしようとする渚さんに淡々とそう返した。
その内容は事実なのだが、わざわざリツコさんが「も」と言ったところが問題
だった。つまり、僕だけでなく渚さんもまた、不幸だと言うことを示していた
のだから・・・・

「わかってますよ。僕は所詮、人の手の平の上で弄ばれる存在にしか過ぎない
のですから。」
「人よりも遥かに大きな力を持っていても尚?」
「ええ。確かに僕は委員会とゼーレ、そして生みの親であるあなたに常に脅さ
れていたようなものでした。しかし、少し考えてみればそんなことは取るに足
りない。今僕を押さえつけられるのはあなたがたでなく、綾波レイくらいでし
ょうから。」
「・・・・ええ、私もわかっていたわ。」

使徒は自由な存在だった。
いや、僕達がいまだに知り得ない何らかの力によって操られていたのかもしれ
ないが、少なくとも僕達の周囲の存在の意志とは完全にかけ離れた、複雑怪奇
な代物であった。
だから、第17使徒であるカヲルくんは自分の意志によって行動していた。
だが、使徒と同等の力を持ちながら、渚さんは委員会の命令を唯々諾々と聞い
ていたのだ。

それは考えてみればおかしな話かもしれない。
だから、渚さんのこの発言は実に的を得ていたし、また、リツコさんもそのこ
とを充分承知していた。

「・・・ではどうして?」
「別に私はあなたの愛情を期待した訳ではないわ。忘れないで、カヲル。あな
たは目的を持って造られた存在なのだと言うことを。」
「・・・・・」
「あなたは委員会の命令など無くともシンジ君に魅かれるように造られている
のよ。だから黙っていても委員会の意図するように物事は進んで行くの。」
「・・・そうなんですか?確かに僕は訳もわからずにシンジ君に興味を持った。
いや、持たされたと言った方がいいかもしれない。博士にもシンジ君のことは
よく聞かされていたし、タブリスのクローンたる僕が彼の心を受け継いでいる
と言うことも知っています。しかし、僕は委員会の期待を、命令を裏切ってこ
こにいるんです。それはどう説明されるおつもりなのですか?」

渚さんは何故かいつにもまして熱弁だった。
多分、渚さんは綾波と同じく、造られた存在「人形」と言う言葉に敏感になり
始めているのだろう。
人形と人間の違いは、やはり自分の意志と言うものがはっきりと備わっている
と言うところにある。だからこそ、渚さんは自分で考え判断し、自分なりの人
生を築いていこうとしたのだ。
だから、自分の意志とは無関係に道筋が決められてしまうと言うのは納得が行
かないに違いない。そしてまた、それは恐怖を覚えてしまうようなことでもあ
るのだった。

「委員会はミスを犯したわ。」

きっぱりとリツコさんはそう答えた。

「ミス?」
「ええ。あなたは対シンジ君用のものなの。たとえどれだけの力が備わってい
ようとも、それ以外のことには意味が無いのよ。」
「・・・・」
「つまり、今さっきあなたが言ったみたいに、私達がどんな細工を施そうとも、
あなたが絶対的な力を秘めている以上、委員会にとってあなたは自由に動かせ
る駒にはなり得ないの。」
「・・・・では、シンジ君関係なら駒になると言うことですか?」
「そういう訳じゃないわ。駒になる、って言うより、あなたが委員会の指示に
不満を感じて委員会から離れていく、なんてことが無くなるだけよ。」
「・・・・」
「だから、委員会の命令はあなたにとっても好ましいことであったはず。それ
がよくわかっているから、私も委員会も、あなたを半ば放任していたって言う
訳。」

そう言うと、リツコさんはようやく僅かながらも表情を崩した。

「では、僕の今までの行動は、委員会にとっても喜ぶべきことだったのですか?」
「ええ、そうよ。そしてあなたと私がこうなった今でも、大局は全く変わらな
いわ。」
「・・・・じゃあ、委員会のミスと言うのは・・・・」
「些細なことね。やっぱり目的通りになってはいても、自分の目の届くところ
にいるのとそうでないのでは、自ずと異なってくるだろうから。」
「なるほど。」
「・・・委員会はあなたに碇理事長を暗殺させようとした。少なくともあなた
のことを考えれば、いくらあの人が委員会にとって最大の邪魔者であったとし
ても黙認していたはずよ。そもそも今まではそうしていたんだから・・・・」
「・・・・でも、そんな事は些細なことなんですよね?」
「ええ、そうよ。所詮委員会にとっても自己満足に浸れるかどうかに過ぎない。」
「では、僕は・・・?」

渚さんの不安がありありと読み取れた。
リツコさんの発言は、それだけ渚さんの存在をぐらつかせるに足るものだった。
リツコさんはそんな渚さんの動揺をはっきりと感じ取っていながらも、その事
には敢えて何も触れずに、真実をひとことだけ渚さんに告げた。

「あなたは鍵よ。種を芽生えさせる為の。」
「種・・・」
「そしてもう既に歯車は回り始めた。完全に日常の彼方に忘れ去られていた使
徒の力が、あなたの手によって再び現実のものとなっている。それがどういう
ことに結びつくのかわかる?」
「・・・いえ・・・・・」
「シンジ君の目醒めよ。そして、それがひとつの始まりなの・・・・」
「・・・・」
「覚醒が起こるのは種である以上避けては通れない。でも、そのあと一体どう
するのかが一番の問題。そしてそこが、あの人と委員会との対立する原因なの
よ。」
「つまり・・・途中までは目的は一つなのですね?だから、今のところは対立
もそれほど顕在化しない、と・・・」
「そうね。でも、どちらも必ず最後には闘いが待っていることを認識しているわ。」
「・・・・・」
「・・・どうやら喋り過ぎたみたいね。やっぱりお酒のせいかしら・・・?」

リツコさんはそう言うと、話を中断させた。
そして自分が酔っていることを証明してみせるかのように、息を深く吐いてみせた。
渚さんはリツコさんの語った内容について衝撃を感じていたが、それを表に出
そうとはせずに、黙ったままうつむいていた。

「それより部屋はどこなの、カヲル?あなたが案内してくれるんじゃなかったの?」
「あ・・・済みません、博士。」

リツコさんに促されて、渚さんは再び顔を上げると歩み始めた。

いくら大きい高級マンションとは言っても、一戸建ての建物と比べればその規
模は知れている。目指す父さんの一室は、さほど遠い場所にある訳でもなかった。

「・・・・」

渚さんは会話好きな方ではない。
むしろ寡黙と言えるだろう。
しかし、今のリツコさんの為なら、饒舌にもなり得たし、現に自ら進んで話題
を切り出してきた。そんな渚さんを見てリツコさんはどう思ったのかわからな
いが、僕にとっては渚さんがリツコさんを想っていることを強く感じていた。
だが・・・・今の渚さんは無表情だった。
唇を一筋でも動かそうとはしない。
ただ、機械的に両足を交互に繰り出しているだけだ。
それは別に急いだものでもなく、かなりゆっくりとしたペースであった。
リツコさんは案内されると言う手前、大人しく黙って渚さんに付き従っていた。
しかし、態度の変わった渚さんに居心地の悪さを覚えたのか、その背中に小さ
く呼びかけた。

「・・・カヲル?」
「・・・・・なんですか、博士?」

立ち止まって振り向く渚さん。
そこにいつもの笑顔はなかった。

「どうしたの?」
「・・・別にどうもしません。」
「なら、何故?」

リツコさんはそうとしか聞かない。
それだけで、充分だった。

「何故・・・とは?」

渚さんはそんなリツコさんにとぼけてみせる。
しかし、何故か笑えなかった。

「私を怨んでる?」
「・・・・いえ。」
「あなたは単なる使徒のクローンじゃないわ。私がいじったのよ、あなたの心を。」
「・・・・仕方の無いことです。」
「どうして?」
「僕は・・・僕はその為に、あなたがたに生み出されたのですから。」
「でも、あなたは自分の好きな人を選べないのよ。それってどういう事だか、わかる?」

リツコさんは淡々とそう言った。
しかし、それは無感情ではなかった。
不器用なリツコさんにしか出来ない、そんな表現だった。

「わかる・・・わかっているつもりです。」
「あなたがシンジ君を愛したのも、あなたの気持ちじゃなくって、あの渚カヲ
ルの、そしてこの私の意思なのよ。」
「ええ。だから僕に、どうしろとおっしゃるんですか?」
「それは・・・・」

口ごもるリツコさん。
リツコさんは自分の非を認め、渚さんに弾劾して欲しかったのかもしれない。
しかし、渚さんはリツコさんを責めるでもなく、軽く顔を逸らすと、横目でリ
ツコさんを見やりながら小さく言った。

「僕はもう、人間としての幸せは捨てましたから。だからいいんです。」
「カヲル・・・・」
「だから僕は、僕の代わりにみんなに幸せになってもらいたい。僕は呪われた
存在なんです。いつか無にかえらなければならない存在なんです。綾波レイは
その力がシンジ君を守れるとちゃんと理解した上で、これから間違いなく力が
必要になり得ると認識した上で尚、力なんて要らないと言ったんです。それが
どういうことだかおわかりになりますか?」
「レイが・・・?」

リツコさんは言葉を失った。
リツコさんにとっての綾波は、確かに人の愛を知ったとは言え、そこまで愛に
殉じる存在ではなかったのだ。
むしろリツコさんの知る綾波は、たとえ忌まわしい力であっても、それが愛す
る者を守る為なら厭わずにそれを使う存在だった。

多分、そんなリツコさんの認識は正しいのかもしれない。
ごく少数の人間以外、そう考えているに違いない。
まるで機械のように目的のことしか考えない、と。
そしてそれはつい先日まで変わらない。
綾波はただひたむきに前だけを、ひとつのものだけを見つめる少女だったのだ。

綾波は変わった。
だから、渚さんも変わった。
もしかしたら自分とは違い、本当の人間になることの出来るかもしれない綾波
の為に。そして綾波の人としての幸せを考え、それが綾波だけでなく僕やリツ
コさんにまで広がっていったのだろう。

「ええ、そうです。あの綾波レイが、です。だから僕は、彼女の為に、人であ
ることを放棄したんです。」

そして渚さんは瞳を輝かせてみせる。
それは妖しの紅だった。
力の存在、人でないものの証だった。

「それで、こうなっている訳ね?」
「ええ。僕は盾に、そして剣になるつもりです。戦うのは僕一人で充分だ。」

渚さんはきっぱりと言う。
もう横目でリツコさんを見ることもなく、真正面から見据えていた。
柔らかい廊下の照明すら押しのけるような真紅の眼光を放っていた。
それは渚さんの決意の程を示したものであったが、リツコさんは厳しい顔をす
る渚さんにそっとこう言った。

「・・・・なるほどね。そういう事・・・・」
「ええ。」
「あなた・・・・シンジ君になりたいの?」
「えっ?」
「今のあなた、まるでシンジ君みたい。自分だけ頑張ればそれでいいって・・・・」
「・・・・・」

リツコさんの発言に、渚さんの瞳が揺らめく。
そしてそれに追い討ちをかけるかのようにリツコさんは続けた。

「だから、それが委員会の狙いなのよ。いずれシンジ君は、そんなあなたの代
わりになることを望み始めるわ。」
「そ、そんなっ!!僕はただ綾波レイやシンジ君を想ってっ!!」

激しく動揺する渚さん。
そんな渚さんを見て、いとおしそうにリツコさんが告げた。

「・・・優しいのね、カヲル。私が造ったなんて、私の娘だなんて、信じられ
ないわ・・・・」
「ど、どういう事なんです、博士!?」
「そういうことよ。わからない、カヲル?」
「・・・・・・・」

穏やかにそういうリツコさんに、ようやく冷静さを取り戻す渚さん。

「じゃ、じゃあ僕は・・・僕はどうしたらいいんですか?」
「さぁ?それはあなたが考えてあなたが選ぶことよ、カヲル。」
「・・・・・」
「冷たいかもしれないけれど、それが現実なの。そしてシンジ君も、同じよう
に色々悩んだはずだわ。一体どうすれば、みんなが幸せになれるんだろうって。」
「・・・・・」
「私から言わせれば、誰もが幸せになるなんて不可能だわ。でもね、でも努力
する人間もいるのよ。頑張れば、何とかなるかもしれないって。」
「・・・・・」
「そんな夢のような話を信じられる人なんて、もう今の時代には殆どいない。
だからこそ、みんながシンジ君を慕うのよ。自分には無理だけど、この人なら
夢を現実にしてくれるかもしれないって。」
「・・・・」
「因果なものよね・・・そんな人が、誰よりも一番悩み、傷ついているって・・・・」

リツコさんは言い終えた後、深く溜息を吐いた。
それはアルコールで温度の上がった吐息だった。
一方渚さんはリツコさんの言葉を噛み含めるように反芻してみせる。
自分のこと、僕のこと、綾波のこと、そしてリツコさんのこと。
自分だけが犠牲になれば済むことだと思っていた。
しかし、それはリツコさんによっていとも簡単に崩された。
みんな渚さんにだけ押し付けて自分達はのうのうとしているなんて、とても潔
しとはしない面々ばかりだったのだ。そして人が苦しむのを、黙ってみていら
れなかったのだ。

「シンジ君の苦しみを代わってあげることはおろか、それを分け合うことも無
理な話ね。ただ、同じ辛さを味わうことが出来るだけなのよ。」
「・・・・・」
「それでもいいの、カヲル?」
「・・・・僕は・・・僕の出来ることをするだけです。それだけですから・・・」

渚さんはそっと目を伏せてそう答えた。
そうとしか答えられない自分が悲しかったのだ。
そしてそんな渚さんに向かってか、小さく呟くそうにリツコさんが言った。

「・・・辛いわね、生きるって・・・・・」

人として・・・・
心の中でそう付け加えた。

人として生きることは、誰もが辛いと解っているにもかかわらず、何故か固執
し続ける。それが人の、人としての業なのかもしれなかった・・・・


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