私立第三新東京中学校

第二百九十二話・小さな身体


「・・・・」

僕とアスカ、綾波の三人は、静まり返った廊下を一列に並んで進む。
別に普通に行っても構わなかったのかもしれないが、やはり覗き見立ち聞きと
いうのはかなり後ろめたいのか、随分とこそこそしていた。

「・・・シンジ。」

先頭を行くアスカがぴたと進むのをやめて後ろの僕に呼びかけた。

「な、何かな、アスカ?」

不思議と迫力があった。
綾波もそうだが、このアスカもいざと言う時の表情は妙に人を圧迫する。
まあ、これは死線を潜り抜けたものだからこそ見せられる表情なのかもしれな
かったが、僕も二人と同じはずなのにこんな顔は自然にはおろか作ろうとして
さえ出来なかった。

「アンタ・・・・何とかなんないの、それ?」

そう言ってアスカは僕の足元を指差す。

「・・・・しょうがないだろ・・・・・」

僕はアスカが何を気にしているのか良くわかっていたが、わかっていてもどう
しようもないことというのが世の中にはあるのだ。

「しょうがない、ね・・・・まあ、しょうがないといえばしょうがないわよね。」
「だろ?我慢してよ。」
「・・・・アタシだって我慢してるわよ。」
「アスカ・・・・」

険悪な表情のアスカ。
それを見た綾波がそっとアスカの名を呼んだ。

「レイだって気になるでしょ?」
「・・・・ならないわ。」
「嘘おっしゃい。こうぺたぺたぺたぺたと・・・・緊迫感ってもんがないのよ、
緊迫感ってもんが!!」
「・・・・しょうがないわ、裸足だもの・・・・・」

そう、僕は二人と違って、靴下を履いていなかったのだった・・・・


「ご、ごめん・・・」
「ごめんじゃない!!」

謝る僕に、アスカが叱責を加える。
やっぱり怒れるアスカに対しては、謝罪は却って逆効果なのだろう。
僕だってそんな事は当の昔にわかっていたことだったが、それでもいまだに謝
罪以外の術を僕は知り得なかった。

「シッ!!アスカ、声が大きいわ。」

声を高くしたアスカに、綾波が的確な注意を与える。

「わ、わかってるわよ・・・・ったく、これもみーんなシンジのせいなんだか
らね、シンジの・・・・」

アスカも綾波の指摘の正当さには反論できないのか、そうぶつくさとこぼして
また進み始めた。

「ごめん、アスカ・・・・」

僕はそんなアスカの背中に向かってそっと呼びかけた。
するとアスカは前を見つめたまま静かに僕に応えてくれた。

「しょうがないわよ、日本は曲者文化だからね・・・・」
「・・・・へっ?」
「だから、曲者。ほら、時代劇とかの、出会え出会え、曲者だぞ!!とか言う
奴よ。シンジだって知ってるでしょ?」
「そ、そりゃ知ってるけどさ・・・それがどういう関係なの?」

僕はアスカの言葉が変な方向に進んでいて、訳がわからなくなり始めていた。

「知らない?ウグイスの廊下って?」
「知らないよ・・・・」
「ったく、アンタってばとことん無学ね。いいわ、教えたげる・・・・」
「う、うん・・・・」
「昔の日本のお城とかお屋敷って、こそこそ出来ない様に渡り廊下を歩くと板
が軋んで音が出るように作ってあるのよ。で、それがウグイスみたいに鳴って
るから、ウグイスの廊下って・・・・」
「へ、へぇ・・・初耳だよ。アスカって凄いね。」
「当然。アタシは凄いのよ。知らなかった?」
「い、いや、それは知ってたよ・・・・」
「そう?じゃあ、もっとアタシを尊敬することね。」
「・・・・うん・・・・」

尊敬?
まあ、尊敬はしていると思う。
やっぱりアスカは大学を出ているだけあって、僕とは知識量が断然に違う。
僕はそんなアスカの能力は凄いと思うし、自分の能力を素直に凄いと言えるア
スカもまた凄いと思う。
でも、僕には何があるんだろうか?
人に誇れる何かって物があるんだろうか?

僕がそう思った時、そっとアスカが僕にこう言ってくれた。

「・・・・アタシもシンジのこと・・・尊敬してるからさ・・・・・」
「アスカ・・・・」
「も、もう、恥ずかしいじゃないのよ。後はレイにでも聞いてよね。ったく・・・」
「綾波?」
「そうよ。レイはアタシよりもずっとシンジのことを細かく観察してるし、レ
イなら教えてくれるわよ。」

アスカはそう言うと、忍び行く速度を速めた。
今更恥ずかしいも何もないと思ったが、それでも何だかこういうアスカもいい
と僕は思った。

そして、アスカにバトンタッチされた綾波。
僕はそっと後ろを振り返って、ただ綾波を見た。

「碇君・・・・」
「あの・・・アスカがさ・・・」
「知ってる。聞いてたから。」
「な、なら話は早いよね。」
「・・・・・」

しかし、何故か綾波は僕に語ろうとはせずに、ただじっとその真摯な眼差しで
僕の瞳を見つめるだけだった。

「あ、綾波?」
「・・・・綺麗・・・・」
「は?」
「碇君の目。」
「あ、ああ・・・・」

アスカもアスカだが、綾波はそれ以上に突飛な時がある。
まあ、ただ表面上の突飛さであって、その中にはちゃんとした考えがあるのだ
ということくらいは、僕は今までの経験で悟っていたが、どういう展開か全く
掴めずに、僕はただ困惑しながら綾波の言葉の続きを待つだけだった。

「・・・・恐く・・・ないの、碇君?」
「えっ・・・?」

僕はアスカとの会話で忘れていたのかもしれない。
僕達が立ち聞きしようという話は、単なるゴシップにとどまるものではないこ
とを。
間違いなく僕達のこれからの運命を左右する話であることは、僕にも綾波にも
充分すぎるほどわかっていたはずだった。

「・・・・アスカはアスカで、碇君は碇君よ。」
「は?」
「だから、碇君はアスカになる必要はないの。そうしたら、アスカは却って自
分の存在価値を失うから。」
「あ、ああ・・・」

唐突に話が元に戻ったことを、ようやく僕は悟った。
全く綾波も質が悪いと言うかなんと言うか・・・・

「碇君は碇君らしかったらそれでいいから。私は・・・そんな碇君が好きだから・・・」
「綾波・・・・」

と、そんな時、いきなり僕の後頭部に衝撃が走った。
振り向くと、アスカはむっとした顔でこっちを見ている。

「こら、レイ!!アンタ折角アタシがお膳立てしてやったってのに、何変なこ
と言ってんのよ?」
「ア、アスカ・・・でも、どうして僕にチョップを・・・・」
「レイは殴れないから。それだけ。」
「そ、そんなぁ・・・・」
「いいでしょ、別に。手加減してあげてるんだし、シンジは殴られなれてるで
しょ?これもアタシの愛のスキンシップの一つとでも思ってくれればいいから。」
「・・・・酷い話だよ、それって・・・・」

確かにそんなに痛くはないものの、僕はチョップされた後頭部をさすりながら
そうぼやいた。
すると綾波もアスカに向かっていつものぼそっとした感じで告げた。

「酷いわね、本当に・・・・」
「うるさいわね。元はと言えばアンタが悪いんじゃないのよ、レイ。」
「どうして?」
「アタシはシンジのどこが尊敬できるのかをアンタに言って欲しかったのよ。
それなのにアンタと来たら・・・・」
「私は碇君を尊敬してるんじゃないわ。愛しているのよ。」
「ア、アンタねぇ・・・・」

アスカは話の噛み合わない綾波に少々焦れてきている様子だ。
少し身体を震わせて自分の爆発を堪えている様子が僕には窺えた。
するとそんなアスカを気にした様子もなく、綾波はそっけなくアスカにこう言
った。

「愛と言う感情は尊敬と言う感情よりも上位に来ると思っているわ。だから、
私は碇君に愛を告げるの。わかる?」
「わかるわよっ!!」
「じゃあ、それでいいでしょ?」
「よくないっ!!アンタのそれはあくまで主観的なものでしょ?そりゃあ主観
的には愛で恋よ。でも、客観的に見たとして、シンジのどこが凄いって事が・・・」
「全部。」
「は?」
「だから、全部。碇君だから、凄いの。」
「・・・・偏愛ね、アンタ・・・・」
「褒め言葉と受け取っておくわね、アスカ。」
「もういいわよ・・・・アンタに振ったのが間違いだったわ。」

にこやかに語る綾波に完全に呆れ返ってしまった様子で、諦めて再び前を向い
て進んでいってしまった。
だが、そんなアスカの後ろ姿を確認した綾波はこっそりと僕に、しかも楽しそ
うに告げた。

「からかうと面白いわね、アスカって・・・・」
「あ、綾波・・・・」

い、今のは綾波がただアスカをからかっていただけだったのか・・・・
僕は驚きで言葉を失ってしまった。
僕が見ていた感じでは全くそんな感じではなかったのだが、確かにアスカは綾
波に翻弄された様子だったし、それを考えると綾波のからかいテクニックも相
当なものだと言えよう。僕は大抵アスカをからかおうとすると反対にやり込め
られてしまっていたが、案外綾波ならやってくれるかもしれない。
そう思うと僕はアスカには悪いと思いながらも、快哉を叫ばずにはいられなか
った。やっぱりあのアスカがしてやられるところも、見てみたいものだから・・・

「碇君・・・?」

僕がそんなことを考えていると、綾波が僕を覗き込むようにして呼びかけてきた。

「あ、な、何かな、綾波?」

僕は自分の不謹慎な内心を見透かされてしまったような感じで、変に狼狽した
ところを綾波に見せてしまった。
しかし、綾波は何故か頬を朱に染めて、その真紅の瞳を潤ませながら僕にそっ
とこう訴えかけてきただけだった。

「・・・・おかしいの・・・・・」
「ど、どうしたの、綾波?」

僕はそこでようやく、綾波がやはりいつもの綾波ではないと言うことに気がつ
いた。

「・・・・何だかおかしいの・・・・よく・・・・わからない・・・・」
「あ、綾波?」

そして綾波はくたっと僕に寄りかかってくる。
僕はそんな綾波を支えたまま、どうしたらよいかと悩んでしまった。
果たしてアスカを呼び止めたらいいのか否か・・・・

「・・・碇君?」
「あ、綾波!?急にどうしたのさ?」
「・・・・私、どう?」
「え?ど、どうって・・・?」
「かわいい?」
「え、あ・・・・」
「答えて。」
「う、うん。かわいいよ。当然だろ?」
「アスカより?」
「えっ?」
「アスカより、かわいいと思う?」
「そ、それは・・・・」
「答えて。」
「・・・・・」
「キスしてくれたら・・・・見逃してあげる。」
「あ、綾波・・・・やっぱりおかしいよ。どうしたの・・・?」
「碇君からしてくれないなら、私からするわ。」

そう言うや否や、綾波はいきなり僕の首に腕を回して引き寄せると、強引にキ
スをしてきた。
僕は突然のことで完全に動揺してしまったが、綾波の思わぬ力強さに負けて、
完全に唇の自由を奪われていた。

しかし・・・・それも数秒のことだった。
力強かった綾波は突然完全に力を失った。
まるで気絶してしまったかのように・・・・・

「あ、綾波・・・?」

気絶?
いや・・・・そうだ、気絶だ!!
僕は綾波の唇から伝わってきた強烈なアルコールの匂いに気がついた。
さっきまで相当日本酒を飲んでいたし・・・・やっぱり綾波の様子がおかしか
ったのは、完全に酔っ払っていたせいなのだろう。
綾波はお酒を飲んでもそんなに顔に出さないし、普段からあまり口数も多くな
いせいか、酔っているのか酔っていないのかよくわからないところがあった。

しかし、よくよく考えてみれば綾波はまだ中学生なのだ。
それが大人顔負けに日本酒を飲みまくって、普通でいられる方がおかしいのだ。
そんな単純なことに僕が気付いてあげられないなんて・・・・
何だか情けなかった。

特に、綾波が憂さ晴らしにお酒を飲んでいると言うことに気付いていたにもか
かわらず、僕はそれを放置していたのだった。
アルコールに逃げるなんて・・・どう見てもいいことだとは言えない。
僕は自分が恥ずかしくて仕方がなかった。
僕が綾波に対して責任を持つ謂れもないかもしれないが、僕は宣言したはずだ。
この僕が綾波のことを守る、と。
僕はそれを忘れてしまっていた。
綾波には僕だけじゃなく、アスカもいれば洞木さん達もいる。
しかし、だからと言って僕が綾波を放っておいていいと言うことにはならない。
今の幸せにごまかされてしまって、僕は大切なものを忘れてしまっていたのか
もしれない・・・・

「ごめんよ、綾波・・・・」

僕は意識のない綾波に向かって謝ると、そっと力のないその身体を自分の胸に
包み込んだ。
僕が抱きかかえた綾波の身体は、何故か少しだけ、小さく感じられた・・・・


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