私立第三新東京中学校

第二百九十一話・渡されたグラス


ぎこちない雰囲気が漂う。
それはまさしくトウジが評したように、バラバラだったのかもしれない。
しかし、単純にバラバラだとも言えないところが難しい訳で、みんながみんな、
お互いを気遣いつつも何らかの刺激を与えることで今の不安定ながらもバラン
スを保っている状態を破壊してしまうことを恐れていた。

僕の場合、やはりアスカに逃げていたのかもしれない。
少なくとも、アスカの相手をしていれば嫌なことも忘れられた。
別に意図してのことでもないだろうが、アスカを離れて揉め事の種を増やす気
にもならなかったというのが実際のところだろう。

そしてトウジは・・・トウジの場合、逃げとは言わないだろう。
トウジは自分に出来ることと出来ないことを選別し、出来ないことに対しては
余計な口出しをしようとはしなかった。そして半ば孤立した形となった綾波を
気遣ってお酒を飲んだ。

他のみんなは手をこまねいて見ていると言う感じだった。
自分とは無関係のことではないにしても、直接関係のない人たちがほとんどだ
ろう。だから、僕達は彼らを責めることは出来ない。大人だろうと子供だろう
と、この場合あまり関係はないのだ。

そしてそういった人々と反対の立場、つまりは当事者であるが、そんな彼らは
不思議と穏やかだった。言葉を交わすこともなく、飲み物や料理を口に運んで
いる。
リツコさんはいかにもリツコさんらしいもの憂い感じでグラスを片手にしてい
る。そして伊吹先生はそんなリツコさんにちらちらと視線をやりながらも、黙
って何かを飲んでいた。

そんな二人と対照的なのが渚さんだ。
先程は加持さんとグラスを合わせもしたが、今ではまるでリツコさんのボディ
ーガードになったつもりなのか、リツコさんの背後に立って身動き一つしない。
その視線は時折周囲を見回していたが、あまり何かにとらわれる様子は全くな
かった。

「・・・いいかな、ちょっと?」
「ええ、構いませんが。」

ざわめきと沈黙の混在する不思議な空間にアプローチをかけたのは、今日はそ
の存在をあまり感じさせない加持さんだった。

「嫌いかい、こういうのは?」
「いえ・・・ただ、慣れてないだけです。」
「そうか・・・」

加持さんは渚さんの返事に、わずかな笑みを浮かべた。
そして、それを見とめて静かに渚さんは訊ねた。

「なんです?」
「いやな、以前これに似た宴会の席で、シンジ君も同じような返事をしたのさ。
ちょっとそれを思い出してね・・・・」
「そう・・・ですか・・・・」
「ああ、ただそれだけなんだ。他意はないよ。」
「・・・・」

表情を変えようとしない渚さん。
そんな渚さんを打ち解けたものにしようと加持さんは少しおどけた調子を見せ
ていた。無論、加持さんもそんなものに大した効果も期待していないと思うが、
全く無意味ではないということが、加持さんを行動に移していた。

「ところで・・・」
「・・・・」
「これからどうするつもりなんだい?」
「これから・・・とは?」

少し冷たい感じで加持さんを横目で視線をやりながらつれない返事をする渚さ
んを見て、加持さんは微かに眉をひそめた。
昨日・・・と言うかほんの半日前の渚さんとはまるで別人のようだ。
かつての渚さんは笑みを絶やさず、誰に対しても愛想を振り撒いていた。
それは人形としての渚さんの振る舞いであり、作られたものだったから、今の
渚さんにそんなものは不必要だと言うことくらいはわかる。しかし、それにし
てもあんまりな対応で、ここまで来ると周りが見えていないと言わざるを得な
かったのだろう。
加持さんはそんな渚さんの頑なさを感じ取って、それを不安に思ったのだろう
が、目上の者に対する無作法にも敢えて目をつむってこう言った。

「君は委員会を裏切ってきた訳だ。つまり、今までのところに君の居場所はな
い・・・」
「おっしゃる通りです。」
「では?」
「それについては、僕にもちゃんと考えがあります。加持先生にご心配いただ
かなくとも結構ですよ。」
「そうか。それを俺に・・・まあ、言いたけりゃあ自分から口にするか。」

加持さんは笑ってそう自己完結させた。
僕に対してもそうだったが、加持さんは決して人に無理強いしない。
ただ、熟慮と決断を待つだけだった。
だが、それを加持さんのような人に促されると言うことは、まるで背中からそ
っと後押しをしてもらうかのようで、自分の中に勇気が湧いてきたものだ。
加持さんもそれがわかっているのだろうし、無言で僕を励ましてもくれたんだ
ろう。そして加持さんはそのことをよく知った上で自分をそういう立場におい
ていたのだ。

「・・・・別に隠している訳ではありませんよ。」
「そうかい?」
「ええ。」

渚さんは意志の強さを示したきっぱりとした口調でひとこと返事をした。
そして、そんな二人のやり取りなど全く耳に入っていないかのように黙ったま
まグラスを傾けるリツコさんに向かって、こちらは暖か味を忍ばせて訊ねた。

「まだアルコールが必要ですか、博士?」
「・・・・」

リツコさんはそんな渚さんの問いに首をひねって振り返る。
しかし、言葉ではなにも答えようとはしなかった。

「もう少し、時間が必要ですか?」

重ねて渚さんは問う。
するとリツコさんもようやく口を開いて渚さんに答えた。

「いいわ。私にはもう、今更恐れるものもないでしょうから。」
「そうですか?」
「ええ、そうよ。」

リツコさんの返事はよどみない。
しかし、渚さんの真紅の瞳はリツコさんの言葉の裏に隠された真実の存在を探
るかのように、じっとリツコさんを見つめていた。

「・・・・わかりました。では、行きましょう。」

少しの間を置いて、そっと渚さんがそう言う。
リツコさんの心情を推し量って尚、渚さんは敢えて何も問おうとはしなかった。

「どこへ・・・なんて聞くのは野暮かな?」

加持さんは少しおどけたようにそう言う。
すると、渚さんでなくリツコさんがそんな加持さんに答えた。

「そうね、リョウちゃん。わかってるなら、女性には聞かないものよ。」
「そうだな。いや、俺もわかってはいるんだよ。でもな・・・」
「そういうところが、リョウちゃんらしいのよね。」

リツコさんはクスっと笑う。
それは不思議と現実味を帯びた笑みだった。
先程までは心ここにあらず、という感じだったが、渚さんに促されたことによ
り、それが一つの契機になったのかもしれない。
いつまでも考えていても、埒があかないと言うことを・・・・

そしてリツコさんは立ち上がる。
加持さんの正面に立つと、そっと自分の手にしていたグラスを渡してこう言った。

「これ、しばらく持っていてくれる?」
「ああ、構わないさ。リッちゃんの頼みだからな。」
「私だけ?」
「ああ。もちろんだよ。」
「嘘おっしゃい。ほら、お姉さんが恐い顔してる・・・・」

リツコさんは少し離れたところに立っていたミサトさんに視線を向けて言った。
ミサトさんは酔いのためなのか何なのか、少々疲れたような顔をしていた。
リツコさんが言うような怖さは全く感じなれなかったが、それはまあ、リツコ
さんの一つのからかいなのだろう。とにかく加持さんの女癖の悪さはつとに有
名だったから・・・・
そして加持さんもリツコさんに言われてそっとミサトさんに視線を向けたが、
すぐに首を元に戻して静かに応えた。

「・・・・わかってる。」
「すぐ、戻るから。だから・・・・」
「ああ、待ってるよ。遅くなると、氷が溶けるぞ。」
「わかってるわよ。ロックが水割りになったら嫌だから・・・・」
「そうか?」
「ええ。水みたいなのを飲んでも、お酒を飲んでるって感じ、しないでしょ?」
「そんな飲み方すると、胃をやられるぞ。」
「大丈夫よ、もう・・・リョウちゃんに心配してもらわなくても、うるさそう
な娘が二人もいるから・・・・」

二人、と聞いたところで、加持さんは少し眉をひそめた。
しかしそれも一瞬のことで、すぐに普通に戻るとリツコさんと、そして渚さん
に最後の言葉をかけた。

「よし、じゃあもう行ってきな。俺は恐いお姉さんの相手でもしてるからさ。」
「ええ、後のこと、よろしく頼むわね。」
「わかってる。」
「じゃあ・・・・」

そう言うと、リツコさんは加持さんを背にしてリビングを後にして行った。
そしてリツコさんが何も言わずとも、渚さんは黙ってその後について行く。
リツコさんはそんな渚さんの存在を感じても後ろを振り返ろうとさえしなかった。
リツコさんにとって振り返るということは、自分の弱い心を見るということで
もあったのだろうから・・・・



そして、リツコさんと渚さんは一時的に僕達の前から姿を消した。
リツコさんが加持さんに渡したグラスは、そこにはいない自分の代わりであり、
またここに戻ってくるという証であったのだろう。
加持さんは自分のとリツコさんの、二つのグラスを持って、「恐いお姉さん」
の元へと向かった。
加持さんも本気で怒られるなどとは思っていないだろうが、今のミサトさんは
加持さんに怒ったくらいの方がいいのかもしれない。僕とアスカのように、怒
られて謝るという経過を経て、自然な状態に戻れたりするものなのだ。



「・・・・」

僕はすっと音を立てない様に立ち上がる。
あまりいい趣味とは言えないけど、僕にはリツコさんと渚さんがどこに行くの
かも知っていたし、そこで交わされる会話と言うのは、間違いなく僕にとって
も重要な話であることは容易に察しがついた。

特にここ最近、意味深な会話と物騒なやり取りが横行している。
自分を信じて落ち着く、と言うのは聞こえがいいけれど、言い直せば行き当た
りばったりと言うことに他ならない。今までは僕も、なるようになるさ、と言
う感じで適当に構えていたこともあったが、どうもそれではあとあと困ること
になるかもしれないと思われた。

実際に、子供だけの人間関係なら、子供達だけで解決できる問題だ。
しかし、そんな子供達のやり取りに大人達が関与し、いや、大人達の問題に子
供達が巻き込まれていた。
それは僕達チルドレンのことをも指しているが、エヴァに乗らなくなり、そう
いうごたごたから解放されて普通の中学生に戻れるだろうと思っていたのだが、
それは甘い夢想に過ぎなかった。

誰が好きだの嫌いだの言っている以前に、人の生命に危険が迫ることもある。
実際、自分自ら傷つけたとは言え、渚さんはスーパーの前で怪我をし、血を流
している。
つまり、仲間内の問題以前に、僕達にはまだ敵が存在しているのだ。
そして・・・今の僕なら、エヴァに乗れと再び言われても、いや、自ら進んで
乗り込むかもしれない。
エヴァに乗る意味と言うものが、少なくとも今の僕には存在し得ると思えたか
らだった・・・・

しかしまあ、そんなのは最後の切り札のようなものであり、言いたくはないが
渚さんと綾波がいれば特に恐れることはないと思う。
だから、そんないきなり実力行使に出るよりも先に、周りをよく見て、今の現
状を把握しておくことが大切だと思われた。
まあ、それも自分に向けた言い訳であり・・・・本音を言えば、僕は父さんが、
間違いなく気になるのだろう・・・・

「いい趣味ね、シンジ。」

僕が立ち上がると、隣に座っていたアスカが素知らぬ顔でぼそっと言った。
アスカなら、僕の考えていることくらいは容易に察しがつくことだろう。

「えっ・・・?」

言い訳なら出来たが、アスカに示唆されたことは紛れもなく事実だった。
やっぱり立ち聞きなんて趣味がいい悪い以前の問題なんだろうし・・・・
それに、アスカに対して、嘘をつきたくはなかった。

「大人しく座ってなさいよ。気になるのもわかるけど、アンタらしくないわよ。」
「・・・・わかってるよ、それくらい・・・・」

僕はそうアスカに返事をしたが、腰を下ろそうともしなかった。
アスカもそんな僕の微妙なところを感じたのか、自分も立ち上がってこう言った。

「気になる?」
「・・・うん・・・ならないって言えば嘘になる。」
「正直ね、シンジ。」
「嘘つきは、やっぱり嫌だよ。」
「そういうとこ、やっぱりシンジらしいわね。」
「うん・・・・でも・・・やっぱりね、アスカの言うことも至極もっともなん
だし・・・難しいんだ。」
「確かにね。駄目だってわかってはいるけど、でも、それ以上の誘惑って、あ
るからね。」

アスカはそう言うと、意味深な笑みを浮かべた。
僕はそんなアスカを見て、何を言いたいのかなんとなく察しはついたけれど、
敢えてそれを口にはせずに、ただ顔を赤く染めた。
そしてアスカはそんな僕に向かって一言だけ、訊ねてきた。

「・・・・共犯、欲しくない?」
「えっ?」
「赤信号、みんなで渡れば・・・って言うじゃない。」
「そ、それはそうだけど・・・・」
「まあ、それは建前。アタシも結構気になってるのよね、ここだけの話。」
「そ、そうなんだ・・・・」
「だから、シンジが犯罪を犯すのを黙って見過ごす代わりに、アタシもちょっ
とだけ、自分の好奇心を満足させたいと思って・・・・」
「ど、どうして僕の場合が犯罪で、アスカの場合好奇心を満足させるってだけ
になるんだよ?」

どうでもいいことかもしれないけれど、アスカの作り出した雰囲気につられて
僕も思わずそんな受け答えをしてしまっていた。
すると、アスカは笑って僕にこう言った。

「シンジが主犯でアタシはそれに強引に誘われただけ、言わばシンジの被害者
だからね。」
「アスカ・・・・」
「まあ、別にシンジを陥れたりなんてしないから安心して。ちゃんと裁判では
かばってあげるから。」
「・・・・」

いい加減、僕も疲れてきた。
実際、アスカとの話よりもリツコさん達のことの方が気になっていた。
そしてアスカもそんな僕のことに気がついたのか、別にそれを悪くも言わずに
自分の方から話を切り上げてきた。

「取り敢えず、アタシも一緒に行くから。いいわね?」
「え、う、うん。いいけど・・・何を聞いても気付かれない様に静かにしててよ。」
「わ、わかってるわよ!!うっさいわねぇ!!」
「・・・・」

そう言うところが立ち聞きには向いていないんだよ・・・・

僕は心の中でそう呟いた。
しかし、取り敢えず僕はアスカを一緒に連れて行くことになった。
だがしかし・・・・

「来る?」
「・・・・・」

僕は少し離れた綾波にも、一言だけそう訊ねた。
アスカ以上に、綾波には聞く必要があると思ったからだった。
そしてそれ以上に、綾波を仲間外れにするのは嫌だった。
これは僕の偽善なのかもしれないが、今の僕の気持ちは僕にそうしろと訴えか
けていたのだった。

綾波は僕の呼びかけに黙ってうなずく。
するとそんな綾波を見たアスカが如何にも連れて行ってやってもいいという顔
をしてこう言った。

「ついてきてもいいけど、何を聞いても静かにしてんのよ、いいわね?」
「ええ、わかってるわ。」

それを聞いて、僕は思わず笑いそうになってしまった。
そして何も知らない顔をしてアスカに答えた綾波は、そのまま付け足すように
言う。

「だって私、アスカとは違うから・・・・」

これを聞いて、僕はアスカにこっぴどく叱られると知りつつも、もう吹き出さ
ずにはいられなかった・・・・


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