私立第三新東京中学校
第二百八十九話・目を閉じて、そして感じて
「何だかわかんないけど、難しいわね・・・・」
隣にいたアスカが僕にそっと漏らす。
それは単なる独り言に過ぎなかったかもしれないが、そのアスカの言葉は僕の
胸に不思議と感じた。
「そうだね・・・難しい事だらけだよ、色々と。」
そして僕は相づちを打つ。
アスカと同じく別にアスカの顔を見て言った訳ではなかったが、僕はアスカに
呼びかけて言ったつもりだった。
「そんなに難しくしなくってもいいと思うんだけどね、アタシは・・・・」
今度は僕の方を向いて言うアスカ。
僕もそんなアスカに倣って首を軽くひねりアスカの顔を見ると、静かにその言
葉に応えた。
「だよね。アスカもよく言ってるけど、考えすぎるのはよくないと思うし・・・」
僕がそう言うと、アスカは軽く笑ってからかい加減にこう言う。
「アンタもようやくその見解に達したって訳?アタシの教育の成果も、ようや
く花開いたってところかしら?」
「や、やめてよ・・・まあ、確かにアスカの言葉がなければ僕もそうは思えな
かったかもしれないけどさ・・・・」
「・・・・何言ってんのよ、アンタ?やめてよって言ってながら肯定しちゃっ
てるじゃない。」
「あ・・・・」
「ったく、アンタってほんとバカね。傍にいて飽きないわよ、ほんとに。」
「・・・・」
アスカはけらけら笑いながらそう言った。
しかし僕は何も言えない。間抜けな事にまさしくアスカの言葉通りだったんだ
から。
でも、アスカのからかいも何だかいつもと少し違う気がした。
中学生には過ぎたアルコールの量のせいなのか、それともやっぱりそう言いな
がらも考えてしまう事が多すぎるからなのか、僕にはどっちともつかなかった
が、不思議と穏やかになるアスカの様子は、僕にとって少し心地よかったりも
した。
「でも・・・・」
「何?」
僕のそんな考えを肯定するかのように、アスカがそっと呟く。
僕はいつもと少し雰囲気を異にするアスカが一体何を考えているのか気になっ
て小さく聞き返した。
「人生って、やっぱり難しいもんね。自分がいて、そして自分以外の人がいて・・・」
「・・・そうだね。」
僕はアスカの言葉に賛同してみせた。
考えすぎるのは良くないと言う意見と人生は簡単だと言う意見はつながらない
と思ったからだ。
「アタシの周囲にはそんなに人が多いとも思えないけどさ・・・・それでもや
っぱり把握し切れないもんね。結局ちゃんと理解してるのは自分だけなんだろ
うし・・・」
「うん・・・アスカの言いたい事、わかるよ。」
「うん。だから、アタシもわかってはいるんだ。アンタがついつい考え込んじ
ゃうってこと。アタシも何だかんだ言いながら、色々考えてるし・・・」
「そう?まあ、何も考えないなんて、そんなの無理だろうしね。」
アスカが僕にしょっちゅう考えすぎは良くないと言っていても、アスカ自身、
何も考えていない訳ではなかった。僕にはアスカが口には出さずに色々考えて
る事を知ってるし、人間として考えると言う事は当然の事だ。
ただ、自分の頭の中でぐるぐるしちゃうのがよくなくて・・・・それだけだっ
たのだ。
「考えてもわからない事をうだうだ考えるのはよくない事だけど・・・考えた
らわかりそうな事は、やっぱり考えた方がいいと思うかも?」
「じゃあ、考えてもわからない事って?」
ちょっと意地悪だったかもしれない。
それこそそんな判断、いくら考えてもわかりそうになかった。
しかし、アスカはあっさりと僕にこう言った。
「人の気持ち・・・かな?」
「えっ?」
僕にはその答えは意外だった。
確かに人の気持ちほど難しい事もなかったが、だからと言って考えないで諦め
て切り捨ててしまえるとはとても思えなかったからだ。
でも、そんな驚く僕に、アスカはいつものようにちゃんと説明してくれる。
「だから、アタシはいつも言ってるじゃない。考えるんじゃなくて、感じるん
だって。」
「あ・・・・」
「反対に言うと、感じられないものは、いくら考えたって絶対にわかりっこな
いってことかな?まあ、感情と理性が正反対なように、感情の産物たる人の心
は理性では理解できないのよ。」
「な、なるほど・・・・」
アスカらしい、明確な答えだった。
確かに僕もここまで言われれば、反論のしようもないと言うものだ。
つまり、僕はただただ感心するだけで・・・・やっぱりアスカには敵わないと
思った。
「シンジが悩んでる事って、やっぱり人の気持ち、アタシ達の想いなんでしょ?」
「え、うん、まあ・・・・」
「だからアタシはいっつも口を酸っぱくして言う訳。考えすぎるな、って。」
「うん・・・」
「本当だったらちゃんと感じられるものも、下手に考えちゃうと伝わらなくな
ることだってあるかもしれないでしょ?だから、目を閉じて、頭を空っぽにし
て、耳を澄ましてさ・・・・」
アスカはそう言うと、今の言葉を実践してみせるかのように僕の目の前でそっ
と瞳を閉じた。
今ここでそうしてみて、それでアスカは何が感じられるのかと思ってしまった
が、何だか変に邪気のないアスカがかわいく思えて、ちょっと悪戯心を芽生え
させてしまった。
目をつむっているアスカに悟られないように、僕は静かにそっとアスカの背後
に回る。そしてアスカが自分から目を開くのを待つ事にした。
「どうシンジ、アンタもなにか伝わった?って、えっ・・・?」
アスカは当然僕も自分と同じように目を閉じていたと思っていたのだろう。
何か心で僕にメッセージでも飛ばしていたのか、元気良く目を開いてそう言っ
たものの、そこには僕の姿はなかったのだから。
そして僕はそんなアスカを楽しく感じながら、アスカの肩口から顔をにゅっと
突き出して驚かせた。
「僕はここだよ、アスカ。」
「って、シ、シンジっ!!」
アスカは驚きの余り顔を真っ赤にして飛び跳ねるように身体を180度回転さ
せて僕の方を向いた。
「ご、ごめんごめん。でも、驚いた?」
楽しそうに言う僕。しかし、僕はやっぱり愚か者だった・・・・
「ばかーーー!!」
アスカに思いっきりひっぱたかれた。
いつものビンタじゃなくって、頭を上から平手で打ち下ろされる感じだった。
「い、いてっ!!」
いつもとは違ったアスカの攻撃。
僕は少し驚いて変な声を発したが、そんなことではアスカの攻撃は止まらなか
った。
「ばかばかばかばかばかばかばかーー!!」
ぽかぽか、と言う表現が相応しいようなアスカの連打だった。
一発のビンタだけなら痛いだけで済むのだが、流石に雨霰のように降り続くア
スカの攻撃には閉口せざるを得なかった。
「ア、アスカっ、ご、ごめん。あ、謝るからさ、もう勘弁して・・・・」
「ばかばかばかばかばかばかーーー!!」
アスカは聞く耳を持たない。
傍目で見ている分にはかわいいと思えるかもしれないが、今の僕にはそんな余
裕があるはずもなかった。
「ご、ごめんって、アスカ。お願いだからもう・・・・」
いつ終わるとも知れないアスカの攻撃。
最初は敢えてアスカに殴らせるままにしておいたものの、ここまでくると手で
防がずにはいられなかった。
「ばかばか、シンジのばかーー!!」
しばらく続いたそれは、アスカの駄々っ子を彷彿とさせるラッシュは相当体力
を消耗するのか、最後の叫びと強烈な一発でようやく終わった。
その長い髪を振り乱して暴れた後は、アスカは息を切らせながらうつむいて呼
吸を整えていた。
「・・・はぁっ、はぁっ・・・・」
「ご、ごめんね、アスカ・・・・ちょっと僕・・・・」
「はぁっ、はぁっ・・・・」
ただ息を切らせるアスカ。
乱れた髪は、アスカの表情を隠していた。
「ご、ごめん・・・まさかアスカがこんなに怒るなんて・・・ちょっとからか
うだけのつもりだったんだけど・・・・」
「・・・・・」
僕の謝罪にもアスカは顔を上げてくれようとはしない。
僕にはひたすら謝るしか手はなかったが、こうなるとまだ殴ってくれていた方
がよかったかもしれなかった。
手ひどく殴られてそれで終わり。
あとはきれいさっぱり忘れると言うのが、僕達の習慣だったかもしれない。
アスカは大抵ビンタ一発、まあ、時には往復で数発だったけど、ともかくあん
まりこういうことで遺恨を残すタイプじゃなかった。
確かに僕の言葉でアスカを傷つけた時は、物理的攻撃では済まされない事があ
った。でも、そういう時もアスカは僕に道を残してくれると言うもので・・・
今にして思うと、僕は甘すぎたのかもしれない。
アスカなら笑って許してくれると思って、それでついつい考えなしに色々と・・・
だから、今回のこれは僕の増長に対する手痛いしっぺ返しと考えてもいいだろう。
アスカ自身がそう考えているかどうかは定かではなかったが、とにかく僕は僕
でそう考える事に決めた。
いまだにアスカは絶対に許してくれるだろうと言う確信を持っているところか
らして甘ちゃんかもしれないけれど、とにかく僕は自分で何とかしなければ行
けない。
大人びたアスカの配慮を期待してはならないのだ。
「・・・・」
アスカの呼吸ももうほとんど落ち着いていると言ってもいい。
でも、顔は上げない。
アスカの表情がわかれば僕にも糸口が見つかるかもしれなかったが、アスカは
それすら僕には許してくれなかった。つまり、た易いヒントもいい加減なごま
かしも許されないと言う事だった。
アスカが喜んでくれそうなことなら僕だっていくらでも思い付く。
でも、それとはまた別の事だ。
今はアスカを喜ばせたいのではなくて、アスカに許してほしいのだから・・・
「・・・・」
やっぱり僕は馬鹿だ。
アスカがさっき連呼したように、根っからの馬鹿で鈍感なんだろう。
今、アスカが何を求めているのか全くわからなかったし、何を思ってこうして
いるのかすらわからなかった。
アスカとはわかりあえたと思い始めていた矢先の事だっただけに、僕は少し悲
しく感じた。
やっぱり人と人とは理解し合えない存在なのだと・・・・
でも、実際にアスカの考えが手に取るようにわかった時期があったのもまた事
実だった。僕はそのことがうれしくて、それだけでうきうきしたものだ。
やっぱり人と人とが通じ合うためには、お互いが相手に心を開いてでないと・・・
と、そう考えた時、僕はふと思った。
いや、理解したと言ってもいい。
人と人とが通じ合うためにはお互いが心を開かないと駄目だと言う事は、僕よ
りもアスカの方がよく知っているはずだ。
そしてアスカは・・・心を開いている?
でも、僕の方が心を開いていないんだ。
心を開くには、アスカに心を伝えるには、アスカの心を受け止めるには、二人
の心をつなげるためには・・・・そうだ、アスカがその方法を僕に教えてくれ
たじゃないか。
僕は頭でどうしたらいいかずっと考えていた。
でも、そんなのじゃわかるはずもない。
いくら考えても、感じようとしなければ人の心はわからないのだから。
そして僕は瞳を閉じる。
さっきアスカが僕に示してくれたように。
瞳を閉じて、頭を空っぽにして、耳を澄まして・・・ただアスカに呼びかけた。
ごめんね、って。
そしてアスカに僕の気持ちを送りながら、アスカの答えを待った。
僕の選んだ方法は間違いなんかじゃないと言う確信を抱きながら。
「・・・・」
沈黙が続く。
もしかしたらアスカが気付いてくれなかったのではないかと言う不安が僕の胸
によぎろうとしたその時、僕は温かなもので包まれた。
「あっ・・・・」
僕は驚いて閉じていた瞳を開く。
するとそこには、僕の目の前にはアスカがいて・・・・僕達はキスをしていた。
そして僕はそのことを確認すると、再び両目を閉じた。
アスカが教えてくれた方法で、アスカをもっと感じるために・・・・
ただ唇と唇を触れ合わせるだけのキス。
でも、二人の心がつながっている今、それはどんなキスよりもストレートに伝
わった。
僕の気持ち、アスカの気持ち。
複雑に絡み合ったその中で一つの核になっていたものは、お互いへの想いだった。
そしてそれを感じた今、僕はもう何も恐れなかった。
「・・・・」
二人は同時に唇を離し、そしてお互いの顔を見る。
「・・・ようやくわかったみたいね、バカシンジ・・・・」
アスカは穏やかに微笑んでそう言う。
ちょっとからかうようなそんなアスカの表情も、今の僕にはアスカをより魅力
的に彩るもののひとつにしか見えなかった。
「ごめん、アスカ・・・・」
そして僕はいつもと同じようにただひとことアスカに謝る。
でも、それがいつもの謝罪とは違っている事を、アスカは知っているに違いない。
「いいのよ、わかってくれれば、それで・・・・」
「うん・・・・」
言葉は少ない。
でも、少ないくらいで丁度いい。
今の僕達には、それだけで十分だったのだから・・・・
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