私立第三新東京中学校
第二百八十八話・微笑み
少しだけ、みんなの意識が逸れた。
さっきまで注目の的だったリツコさんはもはやメインではなくなり、いつの間
にやら僕とアスカ、綾波の三人にみんなの視線が集まっていた。
しかし、実のところを言えばまだリツコさんは何も語っていない。
みんなの前から姿を消していたこの空白の数ヶ月間、どこにいて、何をしてい
たのかを・・・
当然それはみんなが知りたいことだったと思う。
しかし、それと同時にリツコさんが聞かれたくないことであると言うこともま
た知っていたのだ。
だから皆黙っている。
別にリツコさんから僕達へと意識が逸れたのは意図的なことではないにしろ、
リツコさんとしては有り難かったことだろう。
だが、このまま言わないでいいことでもなかった。
みんなはリツコさんを信じて何も言わないが、リツコさんはみんなの信頼に応
えるためにも自分の口から語る必要があった。
その語るべき真実と言うのは、僕達の信頼に応えられるものではないと知って
いたのだが・・・
「・・・先輩?」
「なに?マヤ?」
そっとリツコさんに話を切り出したのは、伊吹先生に他ならなかった。
みんなは目新しい話のネタに目を奪われたものの、やはり伊吹先生にとっては
リツコさんの方が大事だったのだ。
そして伊吹先生は今のこの状況をむしろ快く思っていたことだろう。
みんなの意識が逸れ、リツコさんと二人きりで話が出来る環境になったのだから・・・
「あの・・・いくつか質問してもよろしいですか?」
「・・・・いいわ。言ってみて。」
リツコさんの返事には、少しだけ間があった。
そして伊吹先生はその間を見逃してはいなかった。
「あの・・・答えたくないんでしたら別に無理にとは言いませんけど・・・」
「・・・・」
「・・・今まで、どこに行ってたんですか?」
「・・・・」
「私達、ううん、ネルフの諜報部も血眼になって探しても先輩の行方は掴めな
かったんです。それがどういうことかは先輩が一番ご存知だと思いますけど・・・・」
伊吹先生にとっては言いにくい話題だったかもしれない。
無論、伊吹先生にはそんなつもりはないにしても、端から見れば尋問ととられ
てもおかしくはない内容だった。
そしてリツコさんは伊吹先生の質問に対して、ただ目を伏せて沈黙を守り続けた。
「先輩・・・・」
「・・・・」
「わかりました。先輩が言いたくないこと、私も無理に聞きたくなんてありま
せん。私の胸に仕舞って・・・」
「いいのよ、マヤ。」
伊吹先生が諦めようとしたその時、リツコさんは顔を上げてきっぱりとそう言
って伊吹先生を遮った。
「えっ?でも・・・」
「いいの、いいのよ。ただ、少し考え事をしてただけなの。別に言えないから
黙ってた訳じゃないわ。」
「そ、そうですか・・・それもそうですよね。やっぱり色々あれば、それなり
にまとめないと行けませんから・・・・」
伊吹先生は少しだけ嬉しそうにリツコさんに応えた。
やはり自分に言える状態と言えない状態を比べてみるなら、言える状態である
方が真実は辛くないはずだと伊吹先生も思ったに違いない。
しかし、そう思った反面、リツコさんを知る伊吹先生には引っかかる点がなく
はなかった。伊吹先生の知っているリツコさんは、自分の考えを頭の中でまと
めるのに、時間を必要とする人間ではなかったのだから・・・・
「・・・カヲル?」
「何ですか、博士?」
「えっ?」
伊吹先生は驚きを隠せなかった。
自分達の他にこっちに意識を向けていた人間がいたと言うことに。
だが、リツコさんも渚さんも至って落ち着いていた。
まるで事務的な作業をするとでも言うような感じで、淡々とリツコさんは渚さ
んに命じた。
「マヤに教えてあげて。私が言うよりも、真実味があるでしょうから。」
「・・・・いいんですか?」
リツコさんの斜め後ろに付き従う渚さんは、ちらりと伊吹先生を見やって心配
そうに訊ねた。
しかし、そんな渚さんの不安を断ち切るかのように、そして自分の不安と怯惰
を振り切るために、リツコさんは厳しくひとこと言った。
「いいのよ。真実は変わらないわ。」
「・・・・わかりました。あなたがそうおっしゃるのであれば・・・・」
渚さんはこれ以上リツコさんに言うのを諦めたのか、そっとその目を伏せた。
そしてリツコさんの背後から二人の横に回ってくる。
「あ、あの・・・・」
自分の側近くに来た渚さんを見て、伊吹先生はわずかな恐怖の色を見せる。
伊吹先生は割と離れていたとは言え部外者な訳でもない。
渚さんがどういう存在なのかは、伊吹先生もよく知らされているはずだったか
ら、そう感じるのも致し方ないことなのかもしれない。
そして渚さんもそんな伊吹先生の反応に気を悪くすることもなく、にこっと笑
顔を見せてこう言った。
「そんな顔しなくても結構ですよ。別に取って食べたりはしませんから。」
「・・・・・」
しかし、伊吹先生は余計に退き気味になる。
これには流石の渚さんもどうしようもないのか、困ったようにリツコさんの方
を見た。
するとリツコさんはそっと伊吹先生に向かって告げた。
「恐れる必要はないわ、マヤ。」
「で、でも・・・彼女はその、ATフィールドを使えて・・・・」
「それがどうしたと言うの?レイだって使えるわ。」
「でも、レイとは違います!!レイは私達の味方ですけど彼女は・・・・」
伊吹先生はそう言うとちらりと渚さんに視線を向けた。
そしてすぐにまたリツコさんの方に戻す。
「私、恐いんです。レイだって今ではそんなことありませんけど、でも・・・」
「力あるもの、未知なるものを恐れるのね?」
「だ、だって・・・・」
「いいのよ。それは人として自然なことだわ。恐怖と言うのも、人間に必要な
感情の一つなのだから・・・」
まるで研究室かどこかで講義でもしているかのように、リツコさんは静かにそ
う語った。
しかし、伊吹先生の方はそう落ち着いてはいられない。
改めて渚さんが異質な存在であり、かつ自分のすぐそばにいるのだと言うこと
を強く再認識させられて、わずかに身を震わせた。
そしてリツコさんはそんな伊吹先生を安心させるためなのか、少し笑ってこう
言った。
「相変わらずの潔癖症ね、マヤ。あなたは何も変わっていない。」
「先輩・・・・」
「とにかく今ではカヲルもレイと同じあなたたちの味方よ。」
「そう・・・なんですか?」
伊吹先生はリツコさんの言葉にわずかながらも気を緩める。
未だ半信半疑とは言え、自分が絶対的なまでに信頼するリツコさんの言葉には
相当の重みがあったのだ。
しかし、そんな伊吹先生とは対照的に、横でそれを聞いていた渚さんはわずか
に眉をひそめた。
そう、渚さんは気付いたのだ。
リツコさんが「私達の味方」でなく「あなたたちの味方」という表現を使った
ということに・・・・
だが、そんな渚さんの思いとは無関係に話は進んでいく。
リツコさんは伊吹先生を安心させてから、衝撃的な事実を口にしたのだった。
「ええ。ここにいる渚カヲル、彼女は私が造ったクローンで、私の娘とも言う
べき存在なのだから・・・・」
「えっ!?」
伊吹先生は目を丸く見開いて息を呑む。
確かに僕や綾波は知っていたことではあったけれど、伊吹先生には思いもつか
ないことであった。
「だから今は安心していいわ、マヤ。カヲルは絶対にあなたを傷つけたりはし
ないから。」
しかし、最早伊吹先生にとってそんなことは問題ではなくなっていた。
このリツコさんが口にした事実に言葉を詰まらせながらも、伊吹先生はリツコ
さんに訊ねた。
「じゃ、じゃあ、先輩が造ったって・・・・それってもしかして・・・・」
「そうよ。私があなたたちの前から姿を消していたこの数ヶ月間、私は委員会
にいたの。あの人の計画を邪魔するためにね。」
「せ、先輩・・・・」
がたがたと振るえ出す伊吹先生。
そんな伊吹先生を見て、リツコさんは困ったようにこう言った。
「もう、今更カヲルに言わせても仕方ないわね。私が少し卑怯だったわ。マヤ、
私の口から言ってあげる。」
「い、嫌ですっ!!聞きたくありません!!」
伊吹先生は両手で耳を塞いで首を左右に振ってそう叫んだ。
その声を聞いて、僕達はリツコさんと伊吹先生、そして渚さんとに何かがあっ
たことにようやく気付いた。
しかし、そのただならぬ様子に敢えて踏み入ろうとする者は誰一人としていな
かった。
「・・・・」
そしてリツコさんも最早伊吹先生だけではないと言うことに気付く。
しかし、リツコさんはそんなことを気にすることなく、嫌々をする伊吹先生に
向かってこう言い放った。
「私はずっとネルフを裏切り続けていたのよ!!そうあの時からね!!」
「・・・・・」
「だから委員会に第十七使徒・渚カヲルのクローンを製造するよう依頼された
時、私はそれを了承したわ。もちろん使徒の細胞を用いて自分のクローニング
技術を試してみたいと言うのもあったけれど、でも・・・・」
「・・・・」
「でも、それだけじゃなかった!!私はあの人が許せなかったのよ。母と私を
利用し、自分は妻のクローンに溺れていたのだから・・・・」
それは事実だった。
だから、それを否定する者はいなかった。
無論、綾波も黙ったままリツコさんの独白に耳を傾けていた。
しかし、無表情な綾波も、微かな震えでその動揺の大きさを示していた。
「・・・・」
僕は黙って綾波の手を取る。
綾波はそんな僕に気がつくと、そっと僕の横顔に視線を向けた。
そして僕はただ横顔でそれを受け止める。
綾波もそれを見ると、自分もリツコさんに視線を戻した。
ただ、きゅっと僕の手を握り返して・・・・
「でも・・・・もういいの。別にレイが悪い訳じゃないから。だから私はここ
から逃げたのよ。もう、自分の道を失って・・・・」
「リツコさん・・・・」
僕はそっとリツコさんの名を呼んだ。
すると、リツコさんは僕の方を向いてこう言った。
「オリジナルとクローンとは全く違うと言う事を、私は嫌と言うほど教えられ
たわ。レイにしてもそうだし、このカヲルも・・・・」
「・・・・」
「私はそのことに気付くまで時間がかかったけれど、レイはユイさんじゃない
わ。そしてカヲルも最早フィフスとは違う、自分だけの道を歩んでいる・・・・」
「・・・・」
「でも、私はあの人を許せなかったの。あの人をいまだに愛しながらも、あの
人は私達だけでなくレイまでも裏切っていたんだから・・・・」
「・・・・」
「だから私は委員会についたのよ。あの人に、私の気持ちを知らせるために・・・」
「・・・・」
「でも・・・・」
リツコさんはそう言うと、視線を下へと落とした。
「でも、でも私のした事は意味がなかった。ただ、あなたたちを、そしてカヲ
ルを苦しめるだけだったの・・・・」
「博士・・・・」
渚さんはリツコさんの側に寄り、そっとその肩へ手を乗せた。
今のリツコさんは、本当にちょっと刺激を加えるだけで壊れてしまいそうな、
そんな脆さを感じさせていた。
「そしてそんな時、カヲルは私に言ってくれたのよ。幸せになりましょう、って・・・」
「・・・・」
「私も吹っ切れたわ。だからこれから結果がどうなろうと、私はそれを恐れな
い。カヲルが言ってくれたように、ただ幸せを求めて・・・・」
「・・・・」
「いいんでしょう、カヲル?私が幸せを求めても・・・・」
リツコさんは顔を上げて渚さんにそう訊ねた。
そしてその時僕達が見たリツコさんの目には、いっぱいの涙が浮かんでいた。
「誰も駄目だなんて言いませんよ、母さん。そしてたとえ誰かが言ったとして
も、この僕がそれを許さないから。だから・・・・」
渚さんはそう言うと、そっとリツコさんを背中から抱きしめた。
リツコさんは渚さんを背中に感じながら、静かにその目を閉じる。
そしてリツコさんの代わりになったかのように渚さんがこう言った。
「あなたの人生は悲しすぎた。だからもういいでしょう、幸せになっても。そ
して・・・・母さんの幸せを邪魔する者は、僕が許さない!!」
渚さんの真紅の瞳は、誰にも付け入る隙を与えなかった。
力強く光るその眼光は、後ろめたい事など何も何にもかかわらず、僕達をそん
な気持ちにさせた。
僕達は誰もリツコさんをとがめだてしたりはしないだろう。
今の僕達がこうして幸せに楽しくあるのだから、過去の事を今更ほじくり返し
てもしょうがなかった。
そして渚さんもそのことについては十分知っていたはずだ。
だが、敢えて渚さんはそうみんなの前で宣言した。
つまり、これはけじめであって、渚さんのこれからの意思表示でもあったのだ。
「・・・・」
そしてふと、渚さんの視線が僕の方を・・・・いや違う、これは綾波に向けら
れたものだった。
綾波の視線と渚さんの視線とが交錯し、真紅と真紅が一つに結ばれた。
「頑張ろう、綾波レイ。」
「ええ・・・あなたもね。」
二人の間には、不思議な意思の疎通があった。
誰が知る由もなかった事だが、ただ、綾波と渚さんの間には微かな微笑みが交
わされていた。
そしてそれは不思議と僕達を暖かくさせるものであった・・・・
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