私立第三新東京中学校

第二百八十五話・流れ流れて


「・・・来たわ。」

たったひとこと。
しかし、それだけで十分だった。
そう、来た、という事実が備わっていれば・・・・

「・・・お帰りなさい、赤木博士。お待ちしていました。ずっと、ずっと・・・」

渚さんはリツコさんにそう告げる。
今の渚さんを見たものは、絶対に彼女を人形だなんて言ったりはしないだろう。
溢れる感情とそれを抑えようという理性との葛藤が、渚さんを複雑な人間へと
変えていったのだ。

「そう・・・・」

そしてそんな渚さんに対して、リツコさんはあくまで冷静だった。
自分の立場というものを把握しているのならば、気後れしてもしかるべきなの
に、そんな雰囲気は微塵も感じさせなかった。
言うならばまるでこの数ヶ月の空白など全くなかったかのような感じであった。

しかし、それは表面上のこと。
それを渚さんに示すかのように、リツコさんは靴を脱いで上がってこようとは
しなかった。
そして渚さんはそんなリツコさんを見咎めて言う。

「靴、脱いでください。博士の席は、僕が取っておきましたから・・・」
「・・・・・」
「みんな待っていますよ、博士のこと。だから・・・」
「そう・・・そうね。ここでこのままこうしていたんじゃ、来た意味がないか
ら・・・」

リツコさんは逃げてしまいそうになる自分を縛りつけるかのようにはっきりと
そう口にした。

そう、それは勇気。
逃げることの出来る場所で逃げずに立ち向かう。
それが勇気だった。
そして、勇気あるものには必ず祝福が与えられる。
そんなか弱い彼女に祝福を与えるナイトはそっと手を差し伸べてきた。

「行きましょう。僕たちの道へ。」
「・・・道?」
「ええ。道、です。」
「どういうこと?」
「人としての道、幸せへの道です。」
「・・・・私には縁のない世界ね、カヲル。」
「今まではそうだったかもしれません。でも・・・・」
「これからはそうじゃない、とでも言いたいの?」

リツコさんは渚さんをからかうようにそう言った。
しかし、それはリツコさんの余裕の表われでもあった。
言葉のやり取りを楽しむ、それは切羽詰まった状況では出来るはずもなかった。
そしてまた、以前のリツコさんならそんな自分を隠そうとしたはずだ。
しかし、今は隠さない。
自分の全てを見せ付けているような、そんな感じだった。
いや、リツコさんはもう吹っ切れているのかもしれない・・・・

錯綜した想い。
散り散りに乱れてリツコさんはさ迷っていた。
父さんの要求に応えて中学教師になった反面で、ネルフを裏切りフィフスチル
ドレン・渚カヲルのクローンを委員会のために作り上げた。
そして、全てを裏切り続けたが、リツコさんにはその目的も結果も見えていな
かった。
まるで何かに流されていくかのように・・・・

そして、リツコさんにはもう自分しかいなくなっていた。
父さんも、慕ってくれていた伊吹先生も、そして、渚さんも・・・・

本当はそうじゃないのに、もう誰も信じられなくなっていた。
なぜなら、自分は人の信頼を裏切り続けていたのだから。
自分を信じられないのに何を信じるのか?
そう、それは僕も抱いた感慨だった。

自分を信じられる人間は幸せだ。
そして、自分を信じ認めることにとって初めて自分以外の他者をも受け入れる
ことが出来るのだろう。
人はまず、自分にとっての一番最初の他者である両親によって無償の愛情を注
がれる。
それは唯一疑うことの出来ない愛だ。
そして愛されることを覚えた人は、人を愛することも出来るようになる。
自分が人に愛される存在なのだと感じることにより、人を愛する人間にもなり
得るのだ。

だが、それを与えられずに、またはそれを無にしてしまうほどの何かを受けた
人間は、強く自分を信じられなくなる。
そして常に揺れ動き、どこかに流されて行くのだ。

僕も流れ流れてここへと流れ着いた。
そしてアスカも綾波も・・・・

何かをなくした人たち。
そんな人間達は誰も信じられないくせに、人の温もりを求める。
僕も人を恐れ逃げてきた。
しかし、その反面人の胸に抱かれたいと思っていた。
そして人の温かさを知り、自分も人を温める。

それは実に不健全に感じることかもしれない。
しかし、僕たちはそのようにしか生きられないのだ。
そして、そんな人間達の中で、本当の幸せを見つけられるのではないかという
淡い希望を抱いている。
どこかの誰かが、ジグソーの足りないピースを埋めてくれるのではないかと・・・・

もしかしたら、人は全てそうなのだろうか?
僕や僕の周りにいる人たちだけでなく、人間という存在自体がそうなのだろうか?
そしてだからこそ、人は自分の伴侶を求めるのだろうか?
アスカ然り、綾波然り。
そして僕は、渚さんは、リツコさんは・・・・


「今のままの貴女ならそうです。しかし、今のままにはさせない。この僕が・・・」
「・・・・ナイトを気取るつもり?女のあなた、私に造られしあなたが?」
「確かに僕は女です。そして、あなたに作られたというのも事実だ。しかし、
だからこそ、僕は他の誰よりも貴女を、貴女の悲しみを知っているつもりです。」

渚さんはそうリツコさんに強く訴えかけた。
しかし、リツコさんは斜に構えたまま落ち着き払った声で渚さんに言う。

「フッ・・・なかなか言うわね、カヲル。でも、あなたは私の何を知っている
と言うの?何も知らないくせに・・・・」
「・・・確かにほとんど何も知らないかもしれません。しかし・・・・少しは
真実の貴女を知っているつもりです。それだけでもマシだとは思いませんか?」
「思わないわね。私は同情されるためにここに来たんじゃないわ。」
「なら、どうして来たんです?」
「・・・・・」
「どうして貴女はここに来たんです?確かに僕は貴女を招きました。しかし、
決断を下したのは貴女だ。ここ来ることで何かを求めていたからここに来たは
ずだ。」
「・・・・」
「僕は自分で選び、自分の居場所をここに定めた。僕自身で考えた結果が、僕
を薄暗い委員会には置かなかったんです。そして僕は、自分の選択を後悔した
りなんてしていない。」
「・・・・」
「確かに僕は女だ。だが、それ以上に力ある存在でもあるんです。人が忌み嫌
うような力であったとしても、僕が僕である以上、それから逃れる術はない。
だから僕は僕としてこの道を選んだ。シンジ君を守り、綾波さんを守る。そし
て・・・・僕は貴女も守りたいんです、赤城博士。いや、母さん。」
「・・・・」
「だから、貴女は幸せを求めて下さい。貴女にも幸せになる権利があるはずだ。
少なくとも僕は、そう思っていますから・・・・」

渚さんの熱弁だった。
そして、リツコさんは黙ったままそれを聞いていた。
うつむき加減の顔、それはいつものリツコさんの冷たそうにも見える表情であ
ったが、心から渚さんの言葉を感じていることが見て取れた。

「・・・・・あなたは・・・あなたはどうなの、カヲル?」
「僕ですか?」
「そうよ。あなたはいいの?幸せになれなくても?」

リツコさんは渚さんに訊ねた。
それは自分の生み出せし人形、自分の道具にしか過ぎない存在へのものではな
かった。
ひとりの人間として、自分の痛みを理解することの出来る同じ人間として、渚
さんに接していた。
リツコさんはそれに薄々気付きつつも、とめることは出来なかった。
ずっと自分は科学者であり、渚さんは実験体にしか過ぎないというスタンスを
固持し続けてこようとしたリツコさん。
しかしそれは不可能な話だった。
なぜなら渚さんは造られし存在とは言えど、やはりひとりの人だったから・・・・

そして渚さんはそんなひとりの人間としてのひとりの人間に対する問いに対し
て、微笑みながらこう答えた。

「それは・・・シンジ君が教えてくれました。」
「シンジ君が?」
「そうです。シンジ君は人を幸せにすることで、自分も幸せになろうとしてい
ます。そう考えるとシンジ君の行動はギブアンドテイクとも採れるかもしれま
せんが、僕はそれでもいいと思います。たとえ自分のためとは言え、人を幸せ
にするのはいいことですからね。そしてそれで自分も幸せになれるのなら、一
石二鳥だと思いませんか?」
「・・・・そうかもしれないわね。でもカヲル?シンジ君がそれで幸せになっ
ていると思う?どうも私には昔と何も変わっていないように思えるわ。」
「表面上はそうかもしれません。しかし、シンジ君には仲間がいます。彼が幸
せを与えた仲間達が。」
「・・・あなたもその一人だ・・・と言う訳?」
「そう言ってもいいと思います。少なくとも僕は、彼がいなければこうは考え
られなかったから・・・」
「じゃあ・・・私がここにいるのも、シンジ君のおかげだと言うの?」
「ええ。シンジ君のせいでなく、シンジ君のおかげです。博士は色々苦労して、
波に流され続けてきました。でも、このまま流されるよりも、どこかに辿り着
きたいとは思いませんか?」
「それは・・・・でも、私を受け入れてくれるところが、どこかにあるとでも
言うの?この行き場を無くした私を・・・・」

静かにそう言うリツコさん。
感情も穏やかに、渚さんに任せていた。
そう言うものならリツコさんは否定しただろうが、既にリツコさんはここに来
ようとした時点で、渚さんに全てを委ねていたのかもしれなかった。

そしてリツコさんのナイトたる渚さんは、落ち着いた、しかし力強い声でこう
言った。

「ここがあります。僕達もここに居場所を決めましょう。ここは自分を懸ける
に足る何かがあると思います。あそこにいて、なにか得るものがあると思いま
すか?僕はただ、虚しい血を流すだけに終わるような気がします。」
「・・・シンジ君も、これから辛いでしょうしね・・・・」
「そうです。だからこそ、僕達が必要なんです。力ある存在が。」
「でも、私にはもう何もないわ。あなたと違って無力な存在ですもの・・・・」

そう言うと、リツコさんはそっと目を伏せた。
それは科学者としての自分を誇りに思う反面、科学が自分をどう扱ってきたか
を考えると、無力と考えても致し方なかったかもしれない。
科学者としての能力はリツコさんを他の人間とは違う存在へと変えたが、それ
故にリツコさんは人にいいように利用されることも多かった。
ひとりの女性としての赤木リツコではなく、天才科学者赤木リツコだったのだ。

しかし、そんなリツコさんの思いを打ち消すかのように、渚さんはこう言った。

「人は無力なんかじゃありませんよ。人は強い存在です。力なんてなくても、
ちゃんと自分として生きて行く事が出来る・・・・」
「・・・・あなたも変わったわね、カヲル。」
「ええ、僕もそう思います。」
「私も・・・今のままじゃ駄目かしら?」
「ええ。だから博士も変わりましょう、僕達のように。」
「・・・僕達って?」
「僕の周りのみんなです。仲間だと思っています。」
「そう・・・・」
「博士にも仲間がいるはずです。そして、みんなあなたの帰りを待っている。」
「・・・・・」
「恐れないで・・・そう、僕がいるから・・・・」
「・・・・」

そして一歩を踏み出す。
リツコさんの足はそっと床に触れた。
今までの自分を脱ぎ去るかのように、靴は玄関に残される。
リツコさんはそっと後ろを振り返ると、そんな自分の靴を目で確認してこう言
った。

「・・・流れ流れて・・・そしてこれが私の終着点なの・・・?」

そして、渚さんがリツコさんの言葉に応えて言う。

「終着点なんかじゃありませんよ。そう、これが始まりなんです・・・・」

一つになる視線と視線。
渚さんの確信に満ちた瞳は、リツコさんに不思議な予感を感じさせていた。

「始まり・・・・」
「そうです。あなたも僕も、まだ始まりを迎えていなかったんです。だからこ
そ、流され続けていた・・・・道を見つけましょう、僕と一緒に。」

そして、再び差し伸べられる手。

「そうね・・・・私もまだ、終わった訳じゃないから・・・・」

渚さんの手は、もう行き場を失うことはなかった。
リツコさんの手をそっと包んで・・・・


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