私立第三新東京中学校
第二百八十四話・ここに来た理由
綾波に僕を委ね、ひとり離れたところに移動した加持さん。
片手に既に氷もほとんど溶けてかなり薄くなったと思しきウイスキーの入った
グラスを持って、なんとなく周囲を眺めていた。
もしかしたら、ミサトさんは加持さんが戻ってくる前よりも、後の方がお酒の
量が増えたかもしれない。もちろん加持さんと一緒に飲むお酒もあっただろう
が、独りぼっちで飲むお酒の量もそれなりに多いだろうと思う。
実際、加持さんは僕達の前に姿を見せても、それほど一緒にいることもなく、
父さんや冬月校長と一緒になにやらごそごそしているというイメージが強かっ
た。
加持さんは一応僕達の体育の先生で、授業もそれなりに楽しそうにやっている。
やはりああいう性格だから、男女を問わず人気はかなりのものだった。
そして加持さんも喜んでそんな生徒達に応じていた。
もちろんそんな一面も加持さんのひとつであろう。
しかし、それが本当の加持さんではないということは僕にはよくわかっていた。
加持さんは僕達に一番最初に顔を見せた時、あのオーバー・ザ・レインボウの
甲板の上で初めて会った時から、既に密偵紛いの行動をしていた。
そしてそんな加持さんなんだから、人の目をごまかす為の仮面も上手に被る。
そのいい例が、女性に対するあの如才なさなのだろうが・・・・
だから、普段の加持さんは「その他大勢」に対する加持さんだった。
僕は誤解しているかもしれないけれど、少なくとも本当の加持さんというのを
幾許かでも知っていると思う。そしてそれを知っているからこそ、普段の加持
さんを見ているのが辛かったりする時もあるのだ。
そして最近少し感じてしまったことがある。
今のミサトさんに対する加持さんは、その「本当の加持さん」ではないという
ことを・・・
そしてそれに付け加えて、こんな僕でもわかることだから、当のミサトさんも
既にそんな加持さんに気付いているという事実が僕を悲しくさせるのだ。
しかし、ミサトさんはよく我慢していると思う。
きっとミサトさんは、加持さんは別に嫌々自分に付き合っているのではなく、
今はもっと別にすべき事があるからなのだと言うことを知っているからだろう。
僕も詳しくは知らないが、この僕達の通う第三新東京中学はただの私立中学校
じゃない。
ネルフの業務を引き続き遂行する為のダミー機関、そして「人類補完計画」の
要となる場所なのだ。
加持さんの一連の動きは、まだ全てが終わった訳ではないということを僕に示
している。無論、それは普通の生徒には知る由もないことだ。しかし、僕達は、
いや、僕はその当事者として、いやがおうにも気付いてしまうことがある。
みんながまだ伏せておきたいと思っていることでも・・・・
今の加持さんの目は男の目だ。
抜け目なく、周囲を探っている。
僕ももっと大人になったら、こんな目を見せることが出来るようになるのだろ
うか?
それは修羅場を幾度も潜り抜けた男の目。
命をチップにしてギャンブルに興じる者の目だった。
賑やかな中、ゆっくりとグラスが傾く。
薄くなったウイスキーはその喉を焼くこともなく、ただ唇を湿らせている。
加持さんの視線はウイスキーの薄さを気にすることよりも、他にすべき事があ
ると訴えているようであった。
だが、そんな加持さんに近付く者がひとり・・・・
「・・・ちょっと、宜しいですか?」
突然呼びかけられた加持さんは、既に察知していたのか全く驚くこともなく、
ゆっくりとそっちを向いて返事を返した。
「ああ・・・構わんよ。」
「有り難う御座います。これ、飲んで下さい・・・」
「おっと、気が利くな、君は。」
「僕も一応、女の子って事になってますから・・・・」
そう言って、渚さんは僅かに加持さんに微笑みを見せた。
加持さんは同じように微笑みを返すと、そっと手に持っていたグラスを下に置
き、差し出されたもう一つのグラスを受け取った。
「・・・君はお酒も飲むのかい?」
「いえ・・・でも、飲めないことはないようですね。」
渚さんは加持さんの問いに答えてから、それを証明して見せるかのように自分
の手のグラスを傾け、琥珀色の物体を喉に流し込んだ。
「らしいな。しかし、中学生がロックで飲むのを目の前にして、教師として黙
認する訳には行かんな。」
加持さんはそう言いながらも本気ではないのか苦笑していた。
渚さんもそれが加持さんの話術の一つであるのを承知しているらしく、笑みを
絶やすことなくその言葉に応じた。
「五十歩百歩ですよ。烏龍茶とウイスキーには圧倒的な違いがありますが、ビ
ールとウイスキーには、そんな違いなんてありませんから・・・」
「アルコール度数の違いだけ・・・かな?まあ、そんな事を言ったら葛城に叱
られるかもしれないが・・・」
「でしょうね。葛城先生は、ビールをこよなく愛していますから。」
「だな。ここだけの話、俺はビールよりもこっちのほうが好きなんだよ。おっ
と、この話、葛城の奴には内緒だぞ。」
加持さんはそう言って渚さんにグラスを軽く掲げてみせた。
渚さんもまるで「わかってますよ」とでも言わんばかりに楽しげにうなずいて
みせた。
そして、しばしの沈黙が続く。
加持さんも渚さんも黙ったまま、周囲の様子をぼんやりと眺めていた。
両者はどちらかの姿も見ようとはせず、その視線はなんとなく一点を見つめて
いる。その対象に興味があるというよりも、静かに考える必要があるように感
じられてならなかった。
だが、そんな静寂の時は長くは続かない。
視線を戻さずに、渚さんが加持さんに話し掛けてきた。
「・・・・僕は・・・あなたと話がしたいと思っていたんですよ。」
「・・・それは光栄の至りだね、渚カヲル君。」
「いえ・・・僕にとって、あなたは謎の人物でしたから・・・」
「ほう・・謎、とは?」
「全てです。表舞台に立つこともなく、陰で色々立ち回って・・・・」
「よく知ってるじゃないか、俺のこと。」
「・・・いえ、それほどじゃありませんよ。」
核心に迫ろうとする渚さん。
そして、それを上手くかわそうとする加持さん。
やはりここは加持さんのほうが上手だったと言わざるを得ないだろう。
渚さんもこのままでは埒があかないとでも思ったのか、直載に言うことにした。
「・・・・・加持さん、あなたは一体どこまで知っているんです?」
「・・・・どこまで・・・とは?」
「シンジ君のことです。」
「・・・・君こそどこまで知っているんだ?それがわからない限りは、こっち
もおいそれと口を開く訳には行かないな。」
「ギブアンドテイク、ということですね?こっちが口を開かなければ、あなた
は何も言わない、と・・・・・」
「そういうことになるかな。まあ、俺が見かけ通りの初心者なんだって事でわ
かってくれよ。」
「・・・冗談のつもりですか、それ?」
苦笑しながらそういう加持さんに対して、渚さんは水をさされて少々気に障っ
たのか、わずかに不快感を見せて応えた。
だが、加持さんはそんなことを一向に意にも介さずに笑って答えた。
「そのつもりだったんだが・・・つまらなかったかな?」
「・・・いえ、そんなことはありませんよ。それより・・・・」
「あ、ああ、わかってるよ。済まなかった。ともかく君の知っていることを言
ってくれ。」
「・・・わかりました。僕の知っていることは簡単です。全ての鍵はシンジ君
が握っているということ。そして僕は赤木博士のところにいたと言うことです。」
渚さんは真剣な眼差しで加持さんに言った。
すると加持さんも何か感じるところがあったのか、眉を微かに動かすと態度を
一変させて真面目に渚さんに応えた。
「リッちゃんの・・・つまり、彼女の知っていることは知っている・・・と言
うことなのかな?」
「概ねは、そう言ってもいいと思います。無論、技術的なことはその範囲には
入りませんが・・・」
「当然だな。リッちゃんはプロフェッショナルだ。その辺の中学生が何人いよ
うと、理解出来る奴がいるとは思えないな・・・・」
加持さんはリツコさんを褒めてそう言った。
しかし、そんな加持さんの言葉に感じるところがあったのか、渚さんは小さく
つぶやいた。
「やっぱり・・・・誰も理解してくれなかったから・・・・・だからあの人は、
あんなに悲しい生き方をしなくてはならなかったのだろうか・・・・」
「・・・君の言う通りかもしれないな。俺も葛城も、やっぱりリッちゃんとは
親友同士だとは言え、理解しているとは言い難かったから・・・・」
「科学の徒だからこそ、自分の愛するそれを解さない人間とは、どこかに隔た
りを感じていたのかもしれませんね。そして僕はそんな彼女を知っていたから・・・・」
渚さんの想いは本物だった。
まさしくすり込みと言えるかもしれなかったが、渚さんは傍にいたリツコさん
の悲しみを感じ取ってしまうには十分すぎるほど人間だった。
道具としての存在。
しかし、その生きた道具に想いを懸けられてしまって・・・・
そんな時、人はどう感じるのだろうか?
ひたすら道具として扱うか、それとも・・・・
きっとリツコさんは、そのどちらかにも徹しきれなかったんだと思う。
そしてその事実が、余計に渚さんにリツコさんという一人の女性を教えていた
のだろう。
全てを知っているのに、揺れ動いてしまう・・・・
それはまさしく人間の、いや、女の性であった。
そしてそんな渚さんに、ひとこと加持さんが問うた。
「君は・・・・どうしてここにいるんだ?」
「・・・僕は・・・・」
余りに抽象的で意味深い問い。
流石の渚さんも心を言葉に出来ずに声を詰まらせた。
「君はずっと、シンジ君の為、シンジ君の為、と言い続けてきた。しかし、君
の想いの形は似た境遇を持つレイとは余りに違い過ぎる。実は本当は君は・・・・」
「僕はシンジ君を愛しています。」
加持さんの言葉を遮って、渚さんはそうきっぱりと断言した。
だがそれは口にした事実を強調すると言うよりも、聞きたくないもっと真に迫
った言葉から逃げるようにも感じられた。
「そうか・・・・」
「僕はその為に存在しているんです。シンジ君を愛する為に生み出されし人形
なんです。だから・・・・」
しかし、それをちゃんとした言葉にして信じ切りたい渚さんの想いを打ち消す
かのように、今度は加持さんが渚さんの言葉を遮ってこう言った。
「どうして自分のことを、僕、と言う?もし君が女なら、シンジ君に愛された
い女なら、それなりの言い方があるはずだ。しかし君は・・・・身体は女だと
しても、心は男なんじゃないのか、渚カヲル?」
「そ、そんなことは・・・・僕はシンジ君を・・・・」
「シンジ君は男だ。男に友情を感じたとしても、絶対に男と女の愛情を感じた
りはしないぞ。ましてやシンジ君にはレイもアスカちゃんもいるんだ。どうし
て男に・・・・」
「僕は女だ!!」
「なら女らしくしたらどうだ?どうして男に固執し、そして女に固執する?そ
んなことをして、心がバラバラにならないのか?」
「・・・・・」
渚さんはとうとう返す言葉を無くしてしまった。
加持さんの言葉は、それだけ渚さんにとっては難しく、避けられない問題だっ
たのだ。
そして加持さんはそんな渚さんに続けざまにたたみかけて言う。
「渚カヲルに与えられし命令、それが碇シンジを愛することだったはずだ。そ
して君は本能でそれにしたがっているに過ぎない。もちろんシンジ君は愛され
るには十分すぎるほど魅力があると言えるだろう。しかし、君の場合、綾波レ
イと同じように本能によって生み出された想いが昇華されずにいるのではない
のか?」
「・・・・」
「いや、渚カヲルと綾波レイには決定的な違いがある。綾波レイは純粋な女性
だが、君は・・・渚カヲルは男なんだ。だから、碇シンジを愛しきれずにいる。」
「・・・」
「男と女の違い・・・それは俺にもよくわからない。だが、よく男は守る存在
であり、女は守られる存在であると言う。綾波レイはその意味歪んだ存在と言
えただろうが、君の言葉でようやく本道に戻ることが出来た。そして君は・・・」
「僕は・・・・」
渚さんは考える。
自分の存在について。
男と女について。
そして、人を想うことについて・・・・
そんな渚さんに加持さんはそっと言う。
「・・・リッちゃんを守ってやってくれ、カヲル君・・・・今のリッちゃんに
は君のような存在が必要なんだ・・・・」
「・・・・・僕は・・・初めからそのつもりでした。赤木博士を・・・・」
「だろう?君はリッちゃんを想ってここに来たんだ。シンジ君でもなくレイで
もなく、赤木リツコの為に・・・・」
「僕が・・・?」
そしてその時、甲高いインターホンの音が鳴り響いた。
加持さんと渚さんの視線が交わる。
「頼む・・・・」
渚さんは黙ってうなずくと、部屋を後にして玄関へと向かった。
加持さんの言葉を確かめる為に・・・・
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