私立第三新東京中学校
第二百八十二話・もう少しだけ
宴もたけなわ。
アスカが半ば無理矢理未成年にもアルコールを勧めたことで、みんなの口も軽
くなっていた。大人も子供もそれぞれ頬を朱に染めて、身近な人と色々会話を
弾ませている。
「・・・・」
そんな時、僕は大抵黙っている。
無論話し掛けられれば喜んで応えたが、自発的に話に加わることはまずなかった。
僕が自分から話をするのも大概は沈んだ空気を活性化させる為だし、情けない
ことに僕は話題性に乏しかった。
だから僕は自分の好きなこと、つまりは料理を作ることに専念すればよかった
のかもしれない。現に綾波と洞木さん、山岸さんの三人は入れ代わり立ち代わ
りキッチンに赴いてはその腕を振るっていた。
みんなはもうほとんど食に関する欲求は満たしたと見えて、箸を延ばすのも会
話の合間やお酒のおつまみくらいで、食べる方をメインにしているのはもうト
ウジだけだった。まあ、流石のトウジもこれだけあれば腹がはちきれるまで食
べられることだろう。
僕はかなり食い散らかされて余った料理を見て、これ以上作るのはちょっと問
題だと思い始めていた。しかし、反対に言えば買って来た材料を大量に残すと
いうのも考えもので、計画性の乏しい買い物をしてしまったということを、僕
は今更ながらに反省していた。
「ふぅ・・・・」
アスカに飲まされたカクテルのアルコールがまわり始めているのか、僕の身体
も少し火照っていた。
だからこうしてつくため息も、不思議といつもより温度が高いように感じてな
らなかった。
そんな時、僕のため息の意味を誤解したのか、アスカが突然こう言ってきた。
「あーん。」
見ると箸でから揚げをとって僕の方に差し出している。
「・・・僕に?」
「そうよ。決まってんじゃない。」
「あ、そ、そう・・・じゃあ、いただきます・・・・」
僕はアスカの意図がつかめぬままに、大人しくアスカに向けて口を開けた。
するとアルコールで顔をほんのり赤くしたアスカは箸を持った手に片手を添え
ながら、僕の口の中にそのから揚げを入れた。
「んむ・・・ありがと、アスカ・・・」
口の中にから揚げが入っている為、少々変な声になりながら僕はアスカにお礼
を言う。そしてそんな僕に対してアスカはちょっと上目遣いになって僕を見つ
めながらひとことだけかわいく訊ねる。
「おいし?」
「う、うん、おいしいよ、アスカ。」
僕は見せつけるように口をもぐもぐさせながらアスカに答えた。
するとアスカは少し表情を崩して僕にこう言った。
「おいしいものを食べてれば、やっぱりそれなりに幸せよね。」
「うん。まあ、アスカの言う通りだね。」
僕はアスカが会話モードに入ろうとしていることを察すると、慌てて口の中の
ものを飲み込んでからアスカに言葉を返した。アスカは僕がうなずくのを見る
と、何やら悟ったようにアルコールを満たしたグラスを掲げて語った。
「おいしい食べ物においしい飲み物、そしていい男がいればもうあとは何も要
らないかも。」
「・・・・」
何だかさっき青葉さんが言った台詞に似ているような気がしたが、僕は敢えて
何も言わずに口を閉ざしていることにした。そしてアスカはそんな僕を知って
か知らずか、アルコールの為に饒舌になった舌を更に回転させる。
「シンジもそんな不景気な面してないで、もっと楽しそうになさいよ。それと
も何?不満とかそういうのがある訳?」
アスカは少し酔っ払っているのか、僕への応対も少々絡み加減だ。
しかし僕もミサトさんに散々鍛えられた口だ。特にアスカが入院していてミサ
トさんと二人きりの生活では、よくミサトさんに晩酌の相手をさせられたもの
で、困ったことではあったけれどそれほど苦には感じなかった。
今のアスカのお酒は楽しいお酒なんだろう。
だからこそ、僕はこんなアスカを不快には思わない。しかし、あの当時のミサ
トさんは・・・やっぱり自分を忘れる為のお酒だったと思う。加持さんが死ん
でしまったと思い込んでいたミサトさんは、未熟極まりない僕の目から見ても
やっぱり痛々しかった。僕がアスカの入院に苦慮していた時は、そんな僕を支
えるように励ましてくれてもいた。ミサトさんだって僕以上に傷ついていたと
言うのに・・・・
そんなミサトさんの無理は、当然のごとく反動を呼んだ。
夕食後、お風呂上がりなどにミサトさんは大好きなビールを嗜んでいたが、そ
れは楽しいお酒であるはずなのに、楽しいお酒になる事はなかった。ビールの
缶をきつく握り締めたままテーブルの上に突っ伏して眠ってしまっているミサ
トさんの姿を見たのは、一度や二度のことではなかったし、完全に酔いが回っ
て僕に対して怒鳴ってきた事もあった。
僕はミサトさんに襟首を掴まれた時、ただ目を逸らして大人しくしていること
しか出来なかった。加持さんに対してこの僕が何か出来たはずだと考えるほど
僕は自惚れてはいないが、今のミサトさんに無力な自分が口惜しくて、その悲
しみによる衝動を黙って受け止めることしか出来なかったのだ。
結局僕は自分の手でミサトさんの傷を癒してあげることが出来なかった。
しかし、加持さんが本当は生きていて、僕達の元に戻ってきてくれたことを鑑
みると、これで結果オーライなんだと思う。加持さんによって開けられたミサ
トさんの心の穴は、その加持さんの帰還によって再び埋められた。そして、今
のミサトさんと加持さんがある。自分のことにばかりしか目の行かない僕も、
この二人のいい関係はトウジと洞木さんの関係と同じように、穏やかな喜びを
感じることが出来た。
そして僕の場合。
やっぱり色々あったけれど、それなりに今はいい感じだと思う。そもそもこう
してみんなで集まってどんちゃん騒ぎをするということこそが、平和な現実を
よく証明していると言えるだろう。
ちょっとしたすれ違いや言い争いはあったとしても、それは人と人の関係、言
わば違った個人同士である以上、致し方ないことだった。問題はそれを解決出
来ずに時を余計に経過させ、より悪化させてしまうかどうかということだろう。
その点、僕達はうまくやっていた。誰かと誰かが気まずくなったとしても、誰
かがそれなりにフォローしてくれたし、根本的にお互いが好きなのだ。だから
最終的には元の状態に戻るのが常だった。
でも、僕はそんな今の関係に依存しているのかもしれない。アスカや綾波なら、
僕の気持ちを理解してくれるかもしれない、いや、理解してくれるに違いない、
と。僕はそれがいけないとわかっているにもかかわらず、やっぱりそんな自分
から脱却できない自分がいる。
そして僕にはその原因もよくわかっているのだ。なんとなくお互いを思い遣っ
ているようなこの状況が心地よいから、僕は今のこの現状に溺れてしまってい
る。余計なことをしてこんな調和の取れた世界を乱すのはやっぱり気が引ける
し、人に迷惑をかけてしまうのではないかと言う気もする。
「・・・・」
「・・・頼ってもいいのよ。」
「えっ?」
僕はアスカのひとことに驚いて顔を上げる。
アスカはまだ頬を薔薇色に染めていたものの、その表情は真剣であり、そして
穏やかだった。
「アタシが色々考えている以上に、アンタにも色々考えることがあると思う。
アタシは自分が色々考えてる時、どうしても駄目になっちゃった時、やっぱり
そばにいつもシンジがいてくれた。手を伸ばせば手の届くところにいてくれた
から・・・」
「アスカ・・・・」
「でも、アンタがアタシのそばにいてくれてるって事は、アタシもアンタのそ
ばにいつもいるって事なのよ、シンジ。それって・・・・どういうことだかわ
かる?」
「・・・・いや・・・・」
僕にはなんとなくアスカが言いたい事がわかっているような気がした。
しかし、今はアスカの口から、その言葉として聞く必要があるように思える。
それが必要なプロセスであり、アスカ自身もその事をよくわきまえていた。
「アタシのシンジとの距離は、シンジのアタシとの距離でもある訳。アタシが
シンジとくっついてるって事は、シンジもアタシとくっついてるって事。だか
ら、シンジがアタシをいっつも支えられる距離にいるなら、アタシもシンジを
支えられる距離にいるって事なのよ。」
「・・・・」
「シンジはやっぱりなんだかんだ言いながらも男の子だから、アタシみたいに
人に支えられるのを気持ちいいって思ったりはしないかもしれないけど・・・
でも、自分勝手な言い分かもしれないけど、アタシ達の関係、一方通行にしな
いでよね。」
「一方通行?」
僕は少し聞き慣れない言葉を聞いてアスカに聞き返す。
するとアスカは優しく僕に説明してくれた。
「そう、一方通行。案外傍目から見ると、ヒカリと鈴原って、鈴原がヒカリを
支えてヒカリがそれに寄り添っているような感じがすると思わない?」
「まあね・・・・」
僕は一概にそうとも言えないと思いつつも、アスカの言葉の続きを促す為、取
り敢えず相づちを打っておいた。
「でも、それって違うのよ。ヒカリだって、鈴原に支えられているのと同じく
らい、鈴原のこと支えてるのよね。毎日毎日おっきなお弁当を二つも作って・・・」
「・・・・」
「それに、それだけじゃないの。鈴原は絶対に人に見せるような真似はしない
けど、ヒカリはアタシにそっと教えてくれたんだ。あいつにはあいつなりの、
心の傷があるって事を・・・・」
「・・・・わかってるよ、僕も。」
「・・・そうよね、アンタならわかってるとは思うけど・・・とにかくあいつ
は自分は男なんだ!!って強調してるような奴だから、絶対に弱音は吐かない。
でも、そんなのを続けたら無理が来るのは当然よね?」
「・・・・・」
僕はアスカの言葉を聞いて、さっき考えていたミサトさんのことを思い出して
いた。
ミサトさんも、考えてみればそうだった。
男、と言うよりも、僕を守る保護者として、僕の父親として、僕のそばにいつ
もいてくれた。しょっちゅうふざけてばかりいたミサトさんだけど、僕を見る
目はいつもあったかくて、きっとこれが人に支えられてるって事なんだと、今
にしてようやく思い至った。
でも、ミサトさんは女性だ。
男と女の違いを言い立てるつもりもないけど、その心は鋼だけで出来ている訳
じゃない。透き通った壊れ易いガラスと、甘く香しい花の蜜も含んでいるのだ。
だから、だから・・・・
僕は結局ミサトさんに支えられているばかりだった。
ミサトさんを支えてあげることは出来なかった。
ミサトさんが父親の仮面を捨て、一人の女としての顔を僕にさらけ出してしま
った時、僕は何も出来ずに黙っているだけだった。
そして、その言い訳ならいくらでも思い付く。
僕はミサトさんを支えるにはまだまだ子供過ぎるとか、ミサトさんの悲しみは
僕には癒せないだろうとか・・・・
しかし、それは言い訳だ。
単なる逃げ口上にしか過ぎない。
出来ないかもしれないけど、ミサトさんは僕に縋ってきたんだから、僕はそれ
に応えてあげるべきだった。
「いや・・・・」
僕は自分の考えに答えるべく、そっと口を開いた。
「えっ?シンジ?」
しかしアスカは自分の質問と、多分それに返ってくるだろう答えと噛み合って
いなかったので、驚きの声を発する。
そして僕はそんなアスカに説明する。
僕が何を悩み、何を考えていたのかを・・・・
「ごめん、アスカ。アスカの言いたい事はよくわかるよ。でも、アスカの言葉
でなんとなく僕の中で答えが見出せたような気がするんだ。」
「・・・・そ、そうなの?」
「うん。僕はアスカや綾波、他のみんなを支えてあげてるつもりになってたん
だ。でも・・・・」
「でも?」
「でも、やっぱり違うんだよ。支えてあげるなら、最後まで支えてあげるべき
なんだ。それなのに僕は、最後の最後でいっつも逃げてばかり、誤魔化してば
かりいるんだ。だから、アスカにも綾波にも、やっぱり悲しみや苦しみは消え
ないんだと思う。こんな僕の不甲斐なさ故に・・・・」
僕がそう言うと、アスカは真剣な眼差しでひとこと僕に訊ねた。
「・・・・それって、アタシを抱かないって事?」
「・・・それもあるよ、うん・・・・」
僕は自分が嫌になりながらも小さな声でアスカに言葉を返した。
するとアスカは・・・・そんな僕に冷たい目でこう言った。
「自惚れてるんじゃない、シンジ?」
「・・・・」
僕には返す言葉がなかった。
僕は確かに自惚れてもいたんだろう。
人には何かしてあげるけれど、人は僕には何も出来ないというこの現状に・・・・
「アンタがアタシを抱きたくないなら、アタシは無理に抱いてくれなんて言わ
ないわよ。嫌々抱かれて、それでアタシが喜ぶと思う?」
「・・・・いや、思わない。」
「でしょう?まあ、だからシンジもアタシに手を出して来ないんだろうけど・・・
でも、シンジの今の言い方だと、自分の意に染まないけどアタシが求めてきた
らそれに応えなきゃいけないって事なんじゃないの?」
「うん・・・そうだね、アスカ。そう言えると思う。」
「確かにアタシはアタシの気持ちに応えてくれないシンジにいっぱいいっぱい
傷つけられたわよ。切なくて苦しくて、頭の中がぐちゃぐちゃになっちゃって、
それで爆発しちゃうことも何度もあったと思う。」
「・・・・」
「でもね、それでもやっぱりアタシはシンジが好きなの。どうして傷つけられ
るのに好きなのかって言うかもしれないけど、それって逆なのよ。アタシがシ
ンジを好きじゃないなら、こんな風に傷ついたりはしない。シンジが好きだか
ら、傷つきもするのよ。それに、傷つく以上に喜びがあるから・・・だからア
タシは痛みにも耐えることが出来る。まあ、むずがゆさにいらいらくることも
しょっちゅうだけどね。」
アスカはそう言い終えると、今の重苦しい雰囲気をごまかすかのように舌をち
ろっと出しておどけてみせる。アスカは別に僕を責めている訳じゃないんだと
言いたいんだろうけど・・・・
「じゃあ・・・・僕はどうすればいいのさ?もう、僕はわからないよ。自分が
どうしたらいいのか・・・」
僕は辛そうにアスカにそう言う。
するとアスカはそんな僕を一笑に付すかのようにあっけらかんと答えてくれた。
「別になーんにもしなくっていいんじゃない!?」
「へっ?」
「だから、アンタは自分の思う通りにしてればいいのよ。アタシを想って無理
にどうこうってのじゃなくてさ。」
「・・・・そうかな?」
「そうなのよ!!アタシが欲しくないなら欲しくないって言えばいいんだし、
欲しくなったら・・・・」
「・・・・」
アスカはそこで言葉を止めた。
そしてにんまりと笑うと僕の耳に唇を近づけてきて、小さな声でこう言った。
「・・・させて下さい、って言えばいいのよシンジ。」
「・・・・」
妙に意地悪く、そしてえっちなアスカの言い方に、僕は顔を真っ赤にしてしま
ったことだろうと思う。
アスカもわざわざそんな僕を目で確認しなくとも手に取るようにわかるのか、
ふざけた感じで続けてそっと囁いた。
「・・・シンジにお願いされたら、アタシはいつでもおっけーよ。アタシは待
ってるから。」
そしてアスカは言い終えた後、事もあろうに僕の耳たぶを噛むようにキスして
きた。
「ふっ!!」
僕は当然のごとく変な声を上げる。
そしてアスカは当然僕をからかう。
「ふふふっ、変な声出さないでよ、シンジっ!!」
「ア、アスカが悪いんだろっ!!」
「顔が真っ赤よ、シンジ。どうしたのかなぁ?」
「・・・・」
僕はアスカの指摘に慌ててうつむく。
するとアスカは僕が下を見ていて何も見えないのをいいことに、いきなり僕の
頭を抱きかかえてきてこう言った。
「女ってね・・・意地悪なもんなのよ。」
「・・・・よくわかるよ、アスカを見てれば。」
「欲しいものがあるとね、手段を選ばないの。」
「・・・・だね。」
「そんなアタシ、嫌い?」
「・・・・さぁ?」
「はぐらかさないで答えなさいよ。」
「嫌だ。」
「どうしてよ?」
「意趣返ししたいから。」
「・・・ふーん、シンジはこのアタシに抵抗するって訳?」
「・・・・そうとってもらってもいいよ。」
「なら、どうして逃げないのよ。嫌ならアタシを振りほどいてもいいはずでし
ょ?ほら、アタシは胸を押しつけてるかもしれないけど、押さえ付けてたりは
しないわよ。」
「・・・・・」
「淡白そうにしてても、やっぱりえっちなんだ、シンジって。」
「ち、違うよっ!!」
「じゃあ、どうしてよ?」
「そ、それは・・・・振りほどけないだろ、別にアスカが嫌いな訳じゃないん
だし・・・」
僕はそう言って、はたと気がついた。
そしてアスカも同じように気がついたのか、僕を抱きかかえたまま真剣にこう
言ってきた。
「だから、それがそうなんじゃないの、シンジ?」
「・・・・ごめん。」
「アタシに無理に応える必要はないのよ、シンジ。アタシはそうされる方が嫌
なの。」
「・・・・」
「アタシが嫌なら振りほどいて。アタシは抵抗しないから。」
「・・・・」
「どうしたのよ?アタシの言うことが聞こえないの?」
アスカは身じろぎ一つせずに黙りこくっている僕に、少しだけいらついた様子
で聞いてきた。
そして、僕はそんなアスカに、そっとひとこと答える。
「・・・・もう少しだけ・・・こうしていてよ、アスカ・・・・」
「・・・・・・はじめっから、そう言ってればいいのに・・・馬鹿なんだから・・・」
アスカはちょっと恥ずかしそうにそう言うと、そのまま黙って僕を抱き締めた。
ほんの少しだけ、僕を包む腕の力を強くして・・・・
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