私立第三新東京中学校
第二百八十話・前言撤回
その後は不思議とリラックス出来た。
アスカも綾波も僕も、さっきまでの重苦しい雰囲気が嘘のようだった。
「ようやっと終わったんかいな。」
既に満足げな顔をして、トウジが僕にそう言った。
僕は呑気に口の周りを油でてからせているトウジに向かって訊ねた。
「何のこと、終わったって?」
「お前らお得意の人生相談や。きまっとるやろ?」
「じ、人生相談って・・・・」
僕はトウジの表現に呆れる。
まあ、言ってみれば人生相談かもしれないが、そんな他人事のようなものでは
なく、もっと深刻な問題だったのに・・・・
だが、そんな僕にトウジは素っ気無く言った。
「わいにとってはそんなもんなんや。なんだかんだ言いながらも、結局んとこ
は自己完結しよるしな、お前ら。」
「そ、それは・・・・」
「だからわいは余計な心配はせんことにしとる。黙って飯を食うだけや。」
「・・・・」
「まあ、お前らがわいの助けを求めてきたなら、わいも力になるけどな・・・」
「トウジ・・・・」
トウジの言うことは、実にもっともだった。
僕達三人は、紆余曲折ありながらも、何とかうまく切り抜けてきた。
これは基本的に僕達三人が固い絆で結ばれているからなのだろうが・・・・
改めて思うと、それは凄いことだった。
そしてトウジのさり気ない最後の言葉も、僕にとっては喜び以外の何物でもな
かった。客観的に見れば随分あっさりとした発言かもしれないが、トウジをよ
く知る僕はその重みというものを十分理解出来た。
トウジにとって力になるということは、その人の為に全てをなげうつことも辞
さないということだった。
「まあ、そないな深刻な顔せんと、美味いもんでも食えや・・・・っとわいが
ほとんど食ってもうたか・・・・すまんな、シンジ。」
「い、いや、いいんだよ。なくなったらまた作ればいいんだし・・・・」
「さよか?ほなどんどん作ってくれや。」
「・・・・まだ食べるの?」
「当たり前や!!まだまだ序盤戦やないか!!」
トウジは意気揚々とそう言う。
まあ、確かに僕と山岸さんがいくらか作っただけなので、万年空腹男・トウジ
にしてみれば、足りるどころの話ではないのかもしれない。
僕はそんな元気なトウジを見ると、何だか自分にもその元気が流れ込んできた
ような気がして、軽く笑いながら立ち上がった。
「わかったよ、トウジ。今日は死ぬまで食べてよ。僕も材料が底をつくまで頑
張るからさ。」
「それじゃああかん!!底をついても買い出しせな!!」
「ははは・・・そうだね。まあトウジがいいって言うまでひたすら作るよ。」
「そう来なくちゃな。いいんちょーはうるさくて敵わん。食い過ぎだとかなん
とか言いよってからに・・・・」
しかしトウジはそう言いつつも、何だか幸せそうな表情だった。
守れるものでもなんでもいい、自分にとって何かがあるということは、本当に
人を強くすると、僕は改めて実感した。
トウジにとっては僕が傷つけてしまった妹さんと言う存在があったが、もう妹
さんの心配も要らなくなってからと言うもの、人知れず空虚さを感じていたの
かもしれなかった。
まあ、トウジは僕とは違ってむやみにどろどろ考え込むこともなかったし、し
っかりとした自我があった。だからそれを表に出すようなことはなかったのか
もしれないが、それでもトウジだって僕と同じ中学生に過ぎない。
人には人それぞれに心の傷がある。
人として生まれてきたからには、全く傷ついたことがないなんて有り得なかった。
他人にとっては些細なことであったとしても、その当人にしてみればただ事で
はないと言うことも沢山存在する。
それは人それぞれの価値観の相違、そして皆自分以外は自分とは違うのだと言
うことが、そんなすれ違いを生み出していた。
だから、自分だけが傷ついているなんて思い込んではいけない。
人は皆、どこかに傷を抱えているのだ。
それはあまりはっきりと目に見えるものではないかもしれない。
でも・・・・トウジの脚は、もう二度と返っては来ないのだ・・・・
「どう、洞木さん、調子の方は?」
僕はキッチンに立つ洞木さんに声をかけた。
「あ、碇君・・・・楽しくやってるわよ。それよりエプロン適当に借りちゃっ
たけど・・・」
「あ、気にしないでよ、洞木さん。もう何だか混沌としてきちゃってるから。」
僕は苦笑して洞木さんにそう答える。
まさに僕が見た光景は混沌としか言いようがなかった。
色々分担を決めて料理を作るつもりだったのに、トウジ達が洞木さんや山岸さ
んを急かす為、もう片っ端から作り続けていたのだ。
だからトウジ、及びケンスケの周りは食べ散らかしてぐちゃぐちゃ。
更に綺麗に片付けする暇もないらしく、流石の洞木さん山岸さんペアも、キッ
チンを何が何だかわからぬ有り様にしていた。
「ご、ごめんね、お台所散らかしちゃって・・・・」
「だから気にしなくってもいいって。トウジがああじゃ仕方ないよ。」
「そ、そうよね・・・もう、鈴原ったら!!」
トウジのことに話が及んで、洞木さんは改めて思い出したようにそう強く語った。
だが、それはトウジの時と同じように、何だか幸せな雰囲気を滲ませていた。
僕はそんな洞木さんを微笑ましく見守りながら言う。
「手伝おうか?僕も随分サボっちゃったし、洞木さんも少し休みなよ。」
「いいわよ、別に。そんな疲れてる訳じゃないし・・・・それに、鈴原の責任
も取らなきゃいけないでしょ?」
「そうだね、洞木さん。トウジにこんなに沢山あったかい手料理を食べさせて
あげる機会なんて、そうそうありはしないんだから・・・・」
「も、もう、碇君ったら!!」
洞木さんは僕の言葉に、恥ずかしそうにして背中を叩いてきた。
「ははは・・・ゴメンゴメン。」
「もう、碇君こそ何とかしてあげてよ!!マユミだって大変なんだから!!」
「わかってるって。どれどれ、山岸さんはっと・・・・」
僕は照れる洞木さんと別れて、少し離れた場所で何かの魚と格闘している山岸
さんの方に向かった。
「どう、調子は?」
「あ、碇君・・・・」
「大変そうだね。それ、鯵?」
「ええ。葛城先生の為に鯵のたたきでも作ろうと思って・・・・」
「へぇ・・・凄いね。山岸さん魚もさばけるんだ?」
「これくらいの小さい奴だけですけどね。大きいのとなると、やっぱり私じゃ
あ・・・」
「うん、そうだね。僕も情けないけど鯵とか鰯とか、それくらいだし・・・」
「それくらいが普通ですよ。大きな鯛とか新巻鮭とか、昔はどうか知りません
けど今の人は出来ないでしょうから・・・・」
僕の持つ話題と言えば、まあ料理のことくらいしかなかったので、こういう話
をするのは妙に楽しかった。
こんな話でもしていなければ、アスカに趣味だと言われるくらいどろどろと何
かを考え込んでしまう。僕自身は別に好きで考え込んでいる訳でもないし、ど
ろどろが爽快感につながる事なんて有り得ない。
まあ、例えて言うなら絶対解けないパズルに延々と挑戦し続けているという感
じで・・・だから料理の話をするのはほっと出来た。
アスカはともかく、綾波となら料理の話で盛り上がれたかもしれないが、それ
でもやっぱり綾波は話し相手としては不適切だった。
逃避としての相手に、僕は綾波を選びたくはなかったのだ。
綾波が正面から僕にぶつかってきている以上、僕も綾波には真正面に向き合い
たかった。
そしてそれが無力な僕に出来る、数少ない事の一つだと思っていた。
でも、山岸さんに対してはこだわりがなかった。
そんな相手というのも、結構大切なのかもしれない。
純粋にお互いの趣味についてのみ語り合って・・・・
山岸さんがそれだけを求めているのではないという事くらい、僕も薄々感じ取
ってはいたが、それでもわざわざ僕から今の関係を変えようとは思わなかった。
山岸さん自身が僕に何かを求めてくるのであれば、その時は僕も変わろうと思
う。
僕に出来る事なんて数少ない。
だからこそ、出来る事はしたかった。
それから逃げたくはなかった。
確かに弱気になったとき、僕はそれを重荷と感じる事もある。
人と人の関係なんて、所詮は枷だ。
自分を縛るものだ。
でも・・・・変な言い方だが、縛られないと生きていけない人もまたいるのだ。
人に方向を決めてもらって、その道をひたすらに歩む。
今の時代はそんな人達で溢れかえっている。
そして、僕もまたその一員であった・・・・
人に縛られず、自由に生きる。
人間関係と言う名の、そして責任と言う名の枷。
それを取り去る事がどんな解放感を生むのか・・・・
綾波はがんじがらめにされた僕を自由にしてくれようとした。
それに対してアスカはまさに現代人の申し子。
人間関係から、そして自分の責任から逃れられない事を知り、その中でめいっ
ぱい楽しもうとしていた。
そして奇しくもそんなアスカが誰よりも輝いて見えた事は事実だった。
そう、完全に解放された綾波よりも・・・・
僕はそこまで考えてふと思った。
また同じ事の繰り返しだと。
アスカはこう言った。
考える事よりも感じる事だと。
僕はそんなアスカに倣って、そうしてみようと思った。
まあ、アスカのようには出来ないかもしれないけれど・・・・
「ところで山岸さん?」
「はい、何ですか碇君?」
「疲れたなら僕が変わるけど・・・・」
「いえ、これくらいでは疲れませんよ。私の好きなことですし・・・」
山岸さんはそう言って微笑む。
その微笑みが、山岸さんの言葉を証明していた。
「そうだね、僕も料理してるときは時間なんて忘れちゃうし・・・・」
「ですよね?よかったら、一緒に作りませんか?」
「いいよ。もとよりそのつもりだったんだし。で、僕は何をやったらいい?」
「そうですね・・・・生姜、すってもらえますか?」
「了解。まあ、後は適当にこっちでやるね。まだまだ狼達もお腹を空かせてる
みたいだし・・・」
僕がそう言うと、山岸さんは珍しくクスっと笑ってこう言った。
「詩人ですね、碇君って。」
「え?僕が?」
「ええ。結構意外でもないと思いますけど。」
「そ、そんな・・・僕はそんなかっこいいもんじゃないって。」
微笑みを絶やさずに言う山岸さん。
僕は結構照れてしまって上手く応えられなかった。
「料理人も芸術家なんですよ、碇君。やっぱりそういうセンスもないと・・・」
「そ、そうかなぁ?」
「ええ。当然経験も必要としますけど、それも料理だけについて言える事じゃ
ありませんからね。」
「まあ、どっちも経験が重要だってのはよくわかるけど・・・・」
「だから、センスと経験なんですよ。努力しても駄目な人、よくいるでしょう?」
「あ・・・・」
僕は山岸さんの言葉で、思わずアスカの事を連想してしまった。
するとそれが表情に出てしまったのか、山岸さんが可笑しそうにこう言った。
「顔に出てますよ、碇君。」
「えっ?」
「誰です、その人は?」
「い、いや・・・勘弁してよ、山岸さん・・・・」
「ふふふっ、じゃあ、その代わりにしばらく私を手伝って下さいね。」
「わ、わかったよ、山岸さん。もう・・・ちょっと前までこんな感じの女の子
じゃなかったのに・・・・」
「何です?」
「あ、い、いや、こっちの話。」
「・・・・しっかり聞こえてましたよ。」
「え!?」
山岸さんもなかなか曲者だ。
少し僕にも馴染んでくれたのか、ようやく本来の姿を見せ始めてくれたような
気がする。
でも、僕もそんな呑気な事を考えている余裕もなく、更に山岸さんに突っ込ま
れた。
「碇君、私の事、どんな風に思っていたんですか?」
「あ、い、いや何・・・」
「答えになってません。」
「い、いやその・・・女の子だな、って。」
「当たり前です。何を言っているんですか。」
もう完全に何が何だかわからなくなってる僕。
アスカや綾波となるとその対処法についても、もう十分知り尽くしている感が
あるが、山岸さんともなると全くの白紙状態で、まさにカンニングペーパーを
なくして結婚式の祝辞に臨むような感じであった。
「そ、その・・・・勘弁してよ、山岸さん・・・」
「駄目です、勘弁しませんよ、碇君。」
「そ、そんなぁ・・・・」
「罰として、今日はとことん手伝ってもらいますよ。碇君は今日一日、私の助
手を務めてもらいますから。」
「わ、わかったよ・・・・」
何だか山岸さんに弄ばれたような感じだった。
結果的にはまあ、何でもなかったが、それにしても精神的にかなり疲労させら
れてしまった。
でも、僕ははじめから料理のみに専念するつもりだったんだし・・・・
だから山岸さんの新しい一面、と言うかこれが本来の姿なのかもしれないが、
ともかくそれが見られて良かったような気がした。
僕はちょっと山岸さんが場違いに感じてしまっているのではないかと危惧した
りもしたけれど、それもどうやら杞憂に終わりそうな気がして結果オーライと
言うかなんと言うか・・・
「碇君、生姜はまだですか?」
「あ、い、今すぐやります!!」
前言撤回。
やっぱり僕は今日一日、山岸さんのしもべとなりそうだ・・・・
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