私立第三新東京中学校
第二百七十八話・枷
誰かが僕の肩を軽く叩く。
僕は少々鬱陶しいと思いながら顔を向けると・・・・
「シ〜ン〜ジぃ〜・・・」
アスカだ。
綾波との会話にかまけて、すっかり僕は忘れていたのだ。
僕はそんなアスカの表情に危険を感じて、身をすくませながら情けなくアスカ
に応えた。
「ア、アスカ・・・な、何かな?」
「何かな?じゃないわよ。このバカシンジ・・・」
不思議と怒鳴り声ではなかった。
しかし、僕にとっては怒鳴り声よりもそっちの方がより危険なのではないかと
思い、更に不安を強めた。
「ご、ごめん、アスカ・・・」
僕の悪い癖だ。
何が悪いのか把握していなくてもとにかく謝っておく。
そしてアスカがそういうのが嫌いだと言うのも十分承知済みだ。
しかし、知っていてなおそう言ってしまう自分の情けなさが、今の僕には妙に
堪えた。
「レディーの部屋が勝手に荒らされてるかもしれないって言うこの一大事に、
アンタは呑気にレイとご歓談ですか。それはまた結構なことで。」
「ご、ごめん・・・いや、悪気はなかったんだけど。」
少々嫌味に聞こえる丁寧さで言うアスカ。
今度は僕自身、そういうのが嫌いなのだが、当然のごとくアスカはそうと知っ
てやっている。どうせまたいつもの「罰」なのだろう。しかし、今現在はどう
考えても僕が悪いと言うのは明白だったので、敢えて何も言わずに甘んじてそ
れを受けることにした。
しかし、僕が最大限の反省の色を見せても、アスカは簡単に僕を許してくれよ
うとはせずに、却って厳しくぴしゃりと言った。
「悪気があったら殺してるわよ。」
「・・・・」
アスカの迫力に僕は何も言えなくなる。
綾波や渚さんはこんなあすかを何とも思っていないようだが、やはり弱い僕は
完全にアスカの術中にはまってしまうのだ。
そしてアスカはそんな僕を確認すると、いつもの調子に戻ってこう続けて言っ
てきた。
「悪気がないことくらい、アタシにだってわかってるわよ。でも、悪気がない
からって、許される訳じゃないのよ、シンジ。」
「わ、わかってるよ、アスカ・・・」
「大体アンタはアタシの後押しをしてくれる立場なんだから、もう少しフォロ
ーしてくれるなり何なりしてくれてもいいじゃないの。」
「で、でも、こういうのでは僕は何の役にも立てないだろ?」
アスカはいつのまにか、僕の立場を明示している。
僕はそう言われてみるまでピンと来なかったが、アスカはそういうのを僕に求
めているのだ。しかし、現実問題として、こういう口論紛いのやり取りで僕が
口を出しても意味があるのだろうか?そう思って僕はアスカに言った。
しかし、口に出してみると、それは僕がアスカを忘れて綾波と話をしてしまっ
たことへの言い訳のような気がして、すぐにその言葉を否定したい衝動に駆ら
れた。だが、それはもっと泥沼に陥ることを僕は肌で感じていた。そもそもこ
ういうとっさの言葉というのは、得てして本心が出易い。だから、言わばこれ
が僕の隠れた本心なのだ。僕はそう思うと、アスカがそんな僕の言葉を悲しい
言葉で否定すると知りつつも、敢えてその言葉を待つことにした。
「・・・アンタは本当にそう思っているの?」
「・・・・」
否定したかった。
今でははっきり、そうでないことがわかる。
しかし、言えなかった。
言ってもよいのかもしれなかったが、自分が軽薄な気がして、口に出すことが
出来なかった。
「アタシは別にね、アンタに渚を言い負かして欲しいとか、弾劾して欲しいと
か、そう言ってる訳じゃないのよ。」
「・・・・うん。」
「アタシが言いたいのはその逆よ。アタシはアンタにこんなアタシをコントロ
ールして欲しい訳。」
「・・・・」
「アタシ、わかってたんだ。」
「何が?」
「自分自身でも、自分の言ってることに無理があるって。」
「アスカ・・・・」
「とっさに口には出しちゃったけど、渚がアタシ達の部屋を荒らしまわるよう
な奴じゃないって事くらい、アタシにだってすぐにわかったのよ。でもね・・・」
「言っちゃった以上、そう簡単には引き下がれないんだね?」
僕と同じだった。
そんな思いから、僕はアスカにそう言った。
アスカは元々そういういったん進んだら絶対に引き下がることの出来ない性格
だった。しかし、僕の頑固さも、そんなアスカに似たようなところを与えてい
た。こうしてはっきりと出てくるまで気付かなかったが、やはり僕とアスカは
似ていると言わざるを得ない。
ともかく、僕の理解の言葉で、アスカの評表は少し和らいだ。
そして続きの言葉を口にする。
「そう・・・アタシってほら、アンタも知ってると思うけど、素直じゃないで
しょ?」
「うん・・・よく知ってるよ。」
僕は皮肉の言葉に取られないように、アスカの心に合わせて穏やかな表情を見
せてそっとそう応えた。するとアスカも僕の心遣いを察してくれたのか、その
まま話し続けた。
「だからアタシは、シンジに傍にいて欲しかった訳。アタシひとりならどうに
もならなくても、シンジが口を挟んでくれることで、自分を止められるでしょ?」
「そうだね。ごめん、アスカ。」
アスカが言いたい事はよくわかった。
だから僕はアスカに素直に謝った。
アスカもそんな僕の気持ちを知ってか、僕の謝罪の言葉には敢えて何も言わず
にいた。
「アタシって、放っておくとどんどん嫌な女の子になっちゃいそうで、自分で
もそれが嫌なのよ。だから、シンジにアタシを変えて欲しい訳。ううん、変え
るとかじゃなくって、もっともっと素直なアタシでいられるようにして欲しい
のよ。」
「・・・・」
「変える」と言う言葉。
アスカが僕と綾波の会話をどこまで聞いていたのか知らないが、意味は違えど
も同じ言葉だった。
僕は綾波にこんな自分を変えてくれるのではないかと期待し、アスカは僕にア
スカ自身を変えて欲しいと望んでいる。
考えてみると、両者の求めは大して違わないのかもしれない。
どちらも根本を変えることなく、変えて欲しいと願っているのだ。
そしてその中での大きな違いはと言うと、僕がするのか、僕がされるのかと言
う点だ。そのどっちが易いかというと・・・・当然僕がする方だった。
そもそもアスカは自身でも変えることが出来ると思う。しかし、それは演技へ
とつながり、アスカとしてはあまり喜ぶべき事ではない。アスカも有象無象に
対しては適当に演技していればいいかと思うかもしれないが、やはり友人達に
はそうは振る舞えない。それを考えるとアスカは渚さんを友人として認めてい
ると言うことになる。
まあ、それはいいとして、アスカは演技にしない為にも僕に傍にいて自分を調
整して欲しいと言っているのだ。
しかし、僕の求めは違う。
もっともっと深刻で、難しい問題だ。自分でも悩み苦しみ、どうしてもならな
いという結論に達しそうなところで綾波の言葉を聞き、そういう考えに至った
のだ。
もしかしたら、アスカはほとんど一部始終聞いていたのかもしれない。
アスカの求めを裏返せば、僕の求めは綾波に僕の傍にいて欲しいと告げている
ことになる。アスカはもしかしたら、暗にその事を僕に示したかったのかもし
れない。そして僕の傍にいるべきは自分なのだと・・・
でも、そんなアスカを想像してみても、不思議と嫌味はなかった。
以前だったら、執拗に綾波の邪魔をするアスカを快く思えなかったこともある。
今のアスカもそれに近いのかもしれなかったが、アスカの求めには正当性があ
った。アスカはもう、自分が僕の傍にいる権利を有しているのだ。
だからこそアスカははじめに僕のことを、自分を「後押ししてくれる立場」と
はっきり明言したのだ。それはアスカの願望ではなく、事実を示しただけに過
ぎない。そしてアスカがそう思っているのと同じで、僕もそれを素直に受け入
れられる。だから悪いのはアスカにそう言わせた僕で、アスカではないのだ。
しかし、僕は綾波の目の前にしてそれを言うことが出来るだろうか?
僕を変えるとは綾波の言葉で出たに過ぎないが、それが僕の願望であることは
綾波だけでなくアスカも悟っていると思う。だから僕自身が求めていると言う
のに、一方では自分が傍にいるのは綾波ではなくアスカなのだと言うなんて、
酷いことのように思われた。
いや、それ以前にアスカが思ったように、僕を綾波に変えてもらおうとすれば、
綾波とより深くつながらなければいけない。それこそ恋人とまではいかないか
もしれないが、今までのただの同居人の枠を越えたものになるであろうという
ことは疑い様がなかった。
だからアスカは悩む。
アスカは知っているのだ。
自分では僕の枷を取り外せないと言うことを。
だからアスカは敢えて綾波のことを口にしなかった。
自分に綾波の代わりを務められると言う、確固たる自信がないのだ。
確かにアスカにも自分にだって何とかできるかもしれないと言う半ば願望に近
い自負はあろう。
しかし、それはあくまで願望だ。現実とは違う。
そもそもアスカは僕に傍にいるよう求めている。
それは意味合いは違うが結果としては僕を縛り、責任を与えることになる。
そしてアスカはそれではいけないと知りつつも、求めずにはいられないのだ。
だからアスカは自分の限界を感じている。
アスカはやはり、僕に依存しているのだ・・・・
そして、そんなアスカに対して綾波は違っていた。
綾波はもはや、僕に依存してはいなかった。
無論、僕を求めているのには変わりがない。
しかし、それはその想いの強さは別として、綾波の願望の枠にとどまっている。
だからこそ、アスカと僕の関係を痛々しくはあるが我慢できるのだし、渚さん
の想いを受け取り、それにすべてを委ねることで、綾波にこだわりが消えた。
綾波はただ、僕に思いを懸け続け、そして僕を受け入れるだけなのだ。
そしてもはやなにごとにも縛られてはいない。
綾波はまだ力こそあれ、誰よりも自由なひとりの人間に生まれ変わったのだ。
そして僕が綾波を羨ましく思うのもそんなところだった。
綾波のように自由になりたかった。
だからそんな自由な綾波ならば、僕も同じようにしてくれるのではないかと思
ったのだ。
だが、それは即ち綾波を受け入れることにつながる。
そして僕からアスカと言う名の桎梏をもとり去ることを意味しているのだ。
それが結果として綾波の願望につながる。
これは綾波にとって最後の希望かもしれなかった。
そして僕は板挟みになる。
僕とアスカが求め合っていると言うことは事実だ。
だが、もう一方で僕自身が変わりたいと言うのもある。
アスカを選ぶと宣言した僕であったが、未だに僕の心は揺れ動いていたのだ・・・
アスカの傍にいてあげることは簡単だ。
僕にとっても嫌なことじゃない。
そして無論、僕はそれを枷などとも思わない。
僕はアスカのことを枷だなどとは思っていないが、アスカ以外のしがらみから
アスカが僕を解放してくれるかということになると、難しいところだった。
反対に綾波の場合、僕を解放してくれるのではないかという、妙に確信めいた
ものがあった。そしてそれが僕を動かしているのだ。
「・・・シンジ?」
「あ、アスカ・・・」
アスカに声をかけられた僕は、物思いから解き放たれる。
アスカは半ば放心状態の僕を見て、心配そうに顔を覗き込んでくる。
僕の心の中の葛藤を知っているのだ。
アスカはこれほどまでとは思わなかったのだろうが、それを呼び起こしたのが
自分だと言う認識はあった。
「・・・そ、その・・・シンジ?」
「あ、な、なにかな、アスカ?」
「・・・気にしないで。アタシは無理にとは言わないから。」
「アスカ・・・・」
「べ、別に深い意味はないのよ。ただ・・・・」
アスカは確認したかっただけだ。
確固たるものにしたかっただけだ。
しかし、結果としては悪い方向に行ってしまった。
アスカはあまり深くは考えず、いつものように僕がうなずいてくれることを頭
の中で描いていた。
しかし、現実は異なっていた。
アスカの言葉を僕が速やかに実践に移すだろうということは、僕の中にあった
し、アスカも疑い様がなかった。
だが、僕はうなずかない。
深い意味で、うなずけなかったのだ。
考える時間はたっぷりある。
だが、考えた後は・・・・それを考えると僕もアスカも辛かった。
そしてそんな僕達を、綾波が静かにじっと見つめていた・・・・
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