私立第三新東京中学校

第二百七十七話・私が、変える


「やぁ、楽しそうにやってるね。」

そう言って僕達の前に姿を現したのは渚さんだった。

「渚さん・・・どこ行ってたの?気がつかなかったよ。」

僕は誰よりも先に渚さんに言葉を返した。
恥かしながら、僕は完全に渚さんの存在を失念していたのだ。
確かに渚さんは黙っていれば本当に誰にも気付かれないくらいに気配を感じさ
せない時がある。しかし、だからと言って忘れてしまうのも、あんまりと言え
ばあんまりだった。
特に僕は物事に夢中になると、周りが見えなくなる傾向があるので、ついそう
言うことになりがちである。僕は前々からそんな自分が嫌で、何とかうまく周
りに気を配れる人間になろうと努力していた。

しかし、僕のそんなわずかな自己嫌悪など気付いた様子もなく、渚さんはいつ
ものように微笑みを絶やさずに答えてくれた。

「いや、ちょっと散策をね。」
「そう・・・・」

そんな渚さんの答えは、僕にとってはそんなに気になるものでもなかったが、
僕の隣にいたアスカは、それにやけに敏感に反応してこう言った。

「ちょっとアンタ!!その散策ってのはなによ!?」
「だから散策だよ。それにしてもなかなか立派なマンションだね。」

渚さんはアスカの大声にも全く動じることなく、しれっとそう答えてまわりを
軽く見渡した。そして当然のごとくアスカは渚さんの対応が気に入らずに更に
声を荒げて渚さんに食って掛かった。

「そんなのはどうでもいいでしょ!?それよりも人の住居を許可なく勝手に歩
き回って・・・いいと思ってんの、アンタ!?」
「どうでもいいことはないよ。僕にとっては至極重要なことさ。」
「話を逸らすんじゃない!!アタシはアンタの散策のことを告発してるんだか
ら!!」
「・・・・何もやましいことはしていないさ。安心してくれたまえ。」

僕には言い方はどうあれ、アスカの言っていることの方が遥かに分があるよう
に感じた。そのせいか、渚さんの弁明もアスカの言葉をはぐらかすような、そ
んな言い回しに終始しているように思える。
考えてみると、それは渚さんにとっては珍しいことかもしれない。渚さんは確
かに今まで胡散臭いところもあった。しかし、それをごまかすことなく振る舞
ってきたように僕には思える。はぐらかすようなことはなくはなかったかもし
れなかったが、僕は不思議と少し違和感を感じずにはいられなかったのだ。
その原因が渚さんの変化にあるものなのか否か・・・僕には知る術もなかった
が、僕はさほど心配する必要もないと思い、アスカが詰め寄るのに任せて静観
することに決めた。

「やましくないんなら、アンタがどこに行って、何をしていたのか、具体的に
答えてみなさいよ!!ええっ!!」
「・・・・ここにいない人物に、挨拶に行っていたのさ。君たちには関係ない
ことかもしれないが、僕にとっては重要なことだからね。」
「そう・・・・」

何となく、予想はついていた。
それはアスカも同じだったみたいで、渚さんの答えを聞いた時の反応は、ほと
んど驚きの色を含んでいなかった。大体アスカが非難しようとしたこと、つま
りは僕達の私室に入り込みプライベートな部分を物色しているのではないかと
言うことだったが、今の渚さんにそんなことをする必要があるかと考えると、
全くないように僕には思えた。むしろそういう事よりも、渚さんがストレート
には口にしなかったこと、僕の父さん、そして冬月校長に顔を見せに行ったと
言うことの方が至極当然であったろう。
特に今までの渚さんは、僕が執拗に否定していたものの、実際は僕達の敵に当
たる立場の人間であって、その点から言えば渚さんに対する綾波やアスカの反
応は間違っていなかったことになる。しかし、今となってはそれも関係がなく
なり、渚さんは僕達の側に立つことにした。自分の意志で、他人の操り人形に
なることをやめて。
しかし、それはごく最近のことであって、身近にいた僕達しか知らないことだ。
父さんくらいにならば既にそのような情報は得ているかもしれなかったが、そ
れでもそんないい加減な憶測に任せるよりも、自分からはっきりと釈明した方
が簡単だろう。今では父さんはほとんど表には出てこないものの、やはりネル
フ組の大黒柱であり、何かの張本であることは疑い様がなかった。

人類補完計画・・・
それが具体的に何を遂行するものなのか、未だに僕にははっきりとわからない。
僕が知っているのはそれが渚さんのいた補完委員会側のものと、それと訣別し
ようとした父さんのものの二つがあり、それらが互いを牽制していると言うこ
とくらいしか知らない。
父さんや綾波、渚さんなどが幾度か僕に臭わせることはあったが、具体的に何
をするのかは明確にはなっていなかった。
しかし、僕は確かに興味がなくはないものの、余計なことをされたくはないと
言うのが実状だった。以前の僕はどこか欠けたところがあって、常に不安定な
自分を過ごしてきた。しかし、今ではまだ欠けたところがあると感じてはいる
ものの、それは必ずしも完全には成り得ない人間としては当然のことであり、
そんな幾分悟ったような理解が、僕に安定をもたらせていた。僕がそう思うよ
うになるに至った原因と言えば、みんなとの今の生活があると思う。アスカや
綾波だけではなく、ミサトさんや父さん、渚さんからクラスのみんなに至るま
で・・・
今まで僕がそう思ったことはなかったかもしれない。
僕は人と触れ合い、それによって傷つくことを、そして誰かを傷つけることを
怖れてきた。しかし、人は人と触れ合わずには生きて行けない。自分ひとりだ
けの世界など存在し得ないのだ。
だから怖れても人と触れ合う。そして傷つけあう。
でも、痛みだけではなく、喜びもあった。
いや、むしろ僕にとっては幸せなことに、喜びの方が多かったかもしれない。
だからこそ、こんな有り余る喜びに包まれて、僕は今のこの生活を幸せに思う
のだ。
以前の僕なら、誰かによる補完を求めたかもしれない。
しかし、今の僕には必要がなかった。
むしろ、今の僕を誰かにいじられるなんて真っ平御免だった。

そして今までの僕は、自分では望まぬままに、その渦中にあったのだ。
だからこそ渚さんはわざわざ僕達に近づいてきた。
それはまだ水面下で行われている二者の対立が、表面化の兆しを見せるひとつ
であろう。僕は物事が動きつつあることを肌で感じている。僕はそんな騒動に
は巻き込まれたくもないのに・・・・
だから渚さんが僕達の元に来てくれてうれしかった。
これが火種となってまた新たなる闘いが勃発するかもしれない。
しかし、渚さんと命の奪い合いをすることを思えば、それもまだマシに思えた。
見知らぬ者と見知った者、その両者の生命が対等な物であることはわかってい
たが、それでも傷つけあうことを避け得ないのであれば、相手が見知らぬ者の
方がずっと心安い。こういうところが僕の自分勝手なところであるが、これは
人として仕方ないことだと思わねばならないのかもしれない。少なくとも僕は
自分が見知らぬ人間であればその命を奪うことも厭いはしないような人間では
ないのだと思って自分を慰めることくらいしか出来ないのだ。

しかし、問題は渚さんだ。
渚さんは言ってみれば僕達の身代わりになることを申し出ている。
自分にしか出来ないことと、人として生きたいと思う気持ちの狭間に揺れ動く
綾波を想って言ったと言う話だが、だからと言ってそれに甘えていいのだろう
か?
いや、いくら綾波の為とは言え、そんなことに甘んじている訳には行かない。
渚さんに茨の道を歩ませ、僕達がその傘の下で安穏に日常を送るなど、僕には
耐えられたことじゃない。そんな生活を過ごすくらいなら、僕は今のこの幸せ
を捨てても、闘いに身を投じることだろう。
しかし・・・・今の僕に何が出来る?
僕はただの中学生だ。
何の力も持たない。
だからこそ、綾波は僕を守ると言ったのだ。
でも、綾波の身代わりを渚さんにさせられないように、僕の身代わりを綾波に
させる訳には行かなかった。

確かに僕は綾波に守ってもらおうと思った。
しかし、それは平和ゆえのことなのだ。
きっと綾波の身に危険が及ぶようなことにでもなれば・・・僕は綾波にただ守
られていることには耐えられぬであろう。

僕はどうしたら良いのか?
闘いが迫っている予感は僕にも伝わっている。
実際スーパーの前では渚さんが行動を起こしかけたのだ。
第二の闘いがいつ勃発するとも限らない。
僕はそれを思うと、安穏とはしていられなかった。
だから、渚さんが父さん達に会ってきたと言うことを聞くと、僕も父さん達に
何か言わねばならないと思った。

「どうだった、父さん達は?」

そんな思いから、僕は渚さんに訊ねてみた。
もしかしたら、何らかの指針が示されたかもしれなかったからだ。
しかし、現実はそう甘いものではなく、渚さんの答えはぱっとしたものではな
かった。

「いや、取り立てて深く話をした訳ではないよ、シンジ君。一応僕の意思表示
をしてきただけで、ほんの一、二分で終わりさ。」
「そう・・・・」

僕は少しだけ、残念そうな表情を見せる。
渚さんはそんな僕の表情を覗ったが、敢えて何も言わずにいた。
そして黙っていた渚さんとは対照的に、アスカがさっきとさほど変わらぬ調子
で口を挟んだ。

「ちょっと!!一、二分なんて大嘘つくんじゃないわよ!!アタシ達がここに
来てから、優に二十分は経ってるんだからね!!」
「そうだね。」

渚さんはにこやかに答える。
綾波と同じように、渚さんはアスカの大声には少しも堪えた様子を見せない。
アスカは自分にそういう対応を示す綾波を敵と言うか、苦手に思っていたのだ
が、それは渚さんにも言えるようで、いつも綾波と舌戦を展開している時と同
じような感じで渚さんにも食って掛かった。

「そうだね、じゃないわよ!!なんとか言ったらどうなの!?」
「そう言われてもねえ・・・・」
「アンタが間違いなく嘘をついてるってこと、アタシにはお見通しなんだから
ね!!」
「そう・・・・」
「アンタがおじさまのところに行ってたってのは信憑性があるとしても・・・」
「光栄だね。」
「いちいち口を挟むんじゃない!!」
「済まない。以後気をつけるよ。」
「とにかく!!アンタが長時間に渡っておじさまのところにいたか、それとも、
アタシ達の部屋を物色してたかってことよ!!わかる!?」
「ああ、わかるよ。」

至って淡々とした渚さんの話しっぷりに、アスカはこめかみをぴくぴくさせて
いるのが、僕にははっきりと見て取れた。やはりアスカは渚さんのようなタイ
プが苦手なようで、今の調子ではいつ切れてもおかしくはないように思えた。
そしてみんなはそんなアスカをどう見ているのかと思って、少し周囲に目を向
けてみた。

一応全員がこっちを見ていた。
菜箸を手に持ったままの山岸さんは、半分身体をひねってこっちを見ているだ
けで、それほど関心もないらしい。ただ、今の騒動が発展して喧嘩になること
を怖れているのか、会話の帰結を待っている、そんなような感じだった。
そしてトウジとケンスケ。この二者は一番事情を知らないと言っても過言では
ないかもしれない。僕はこの二人を変えたくはなかったので、余計な揉め事に
はなるたけ関わり合いにさせたくはなかった。そんな僕の思いが功を奏してか、
二人はただ、いつものアスカと綾波の口喧嘩を見ているような呑気さを見せて
いた。
だが、洞木さんはトウジとケンスケとは幾分立場が異なった。僕達全員はそれ
ぞれがお互いに親友であることを自認していたが、それでもトウジとケンスケ
のつながりが特別なように、アスカと洞木さんのつながりもまた特別だったの
だ。洞木さんは不安定な時のアスカをよく知っているし、だからこういう昂ぶ
った時のアスカを見る目は、どことなく保護者めいたものであったのだ。
洞木さんは敢えて何も言わなかったが、事あれば間違いなくフォローに入るだ
ろう。ともかく僕が見た限りでは、洞木さんはそういう目をしていた。
そして、そんな洞木さんとは対照的だったのがミサトさんだった。ミサトさん
は保護者と言うよりは、明らかに観察者の目をしていた。平和な時のミサトさ
んは常に誰よりも保護者に相応しいように思えた。しかし、それはただ単に楽
しい時には楽しむ性格だからなのかもしれない。
はっきり言えばかつてアスカが指摘したように、ミサトさんは保護者向きでは
なかった。特に父親なしで育ってきた環境もあってか、母親としての属性を恐
ろしく欠いていた。言うなればミサトさんは母親ではなく、根っからの戦士な
のだ。だから急時には戦士になる。言わば今のミサトさんの目は、指揮官の目
だった。
ミサトさんも渚さんを気にしていた人物の一人だ。綾波を僕達の元に引っ越さ
せるようになった時の話し合いにも当然参加していた。そして父さん達を車で
ここまで連れてきたことを思うと、ミサトさんもただの社会科教師ではない。
だからミサトさんも知っているはずだ。
これから何かが起こるかもしれないと言うことを・・・・
しかし、僕は頭ではそうわかっていても、心ではそれを受け入れられなかった。
僕はこんな目をするミサトさんを見ているのが辛くて、早々に視線を移した。

そして僕は、綾波を見る。
僕の見た綾波は・・・・僕の予想とは大きく異なっていた。
綾波は微笑んでいたのだ。
ここにいる誰よりも、緊張感のない顔をしている。
それは無論今のこの状況を馬鹿にしているものでも何でもない。
綾波は誰よりも安心しているのだ。
そして僕はそんな綾波を見ると、僕は取り越し苦労をしているのではないだろ
うかと言う想念に囚われた。

確かに考えてみれば、今のアスカと渚さんのやり取りは、綾波自身がアスカと
しょっちゅう展開していたものと同じだ。だから、綾波がどう言う気持ちでそ
れをしてきたのかを思えば、微笑みを浮かべているのも当然と言えば当然だっ
た。

そしてそんな綾波を見る僕の視線に、綾波はいち早く気付く。

「碇君・・・・」

驚きではない。
むしろ安心と言った感じだろう。
考えてみれば僕はアスカと話してばかりで、綾波とはここに来てからそんなに
言葉を交わしていない。
だからこの視線が綾波の支えだったのだ。
料理中でもそう。
言葉はなくとも、心はつながっている。
綾波のそんな願いが、現実によって支えられる。
そして、綾波の安心がより強まって行くのを、僕はこの目で確認していた。

「・・・気にし過ぎよ、碇君。」
「そ、そうかな?」
「私、アスカを知ってるから。そして・・・」
「そして?」
「彼女、渚さんを信じてる。」
「綾波・・・」
「人には誰しも言えないことがあるわ。でも、それを抱えつつ、私は私なりに
やってきた。そして渚さんにもそれは言えると思う。」
「だから、綾波は微笑むの?」
「そうよ。何も心配は要らないもの。」
「・・・・僕もそう思えたらいいんだけど・・・・」

やけに楽観的な綾波。
まるで別人のようだ。
しかし、そう思うことが自然であるように感じた。
むしろ綾波が言うように、僕が不自然なのだ。

「碇君もわかるわ。きっと、そのうち・・・・」

綾波は変わった。
そう、しかもいい方向に。

「そうかな・・・?僕はずっと変わりたいって願い続けてきたけど、結局変わ
れない、今のままの自分のような気がするよ・・・・」

それが僕の本音だった。
今の楽しい生活は変えたくない。
しかし、今の僕は変えたかった。
もっといい僕、こんな情けない僕じゃなく、みんなを守ってあげられる僕にな
りたかった。

「そうかもしれない。でも・・・・私がいるわ、碇君。」
「綾波・・・?」

綾波は変わった。
そして、その原因は僕にもわかっている。
僕が取り外せずにいた桎梏、それを取り去ることが出来たからなのだ。

「私は以前、碇君は変わらなくていいって言ったと思う。」
「うん・・・・」
「それは今でも変わらない。でも・・・碇君の本質は変えずとも、碇君を自由
にすることで変えることが出来るかもしれない。」
「・・・・」

僕はいつのまにか、綾波の言葉に惹かれていた。
アスカと渚さんの口論も、もはや別の世界の出来事になってしまっている。

「碇君には私がいる。私は・・・・」

僕も、綾波のようになれるのだろうか?
綾波は、僕が絶対に出来ないと思っていたこと、つまりは渚さんにすべてを委
ねると言うことを実行している。
綾波が変わった原因と言うのもそこにある訳で、もはや綾波に悩むべき事はな
くなった。ただ、ひたすらに前に進むだけでよくなったのだ。それが綾波を自
由にし、今の微笑みと、そして不思議な強さを与えている。何故か僕は、僕を
守っていてくれたはずの綾波よりも、それを放棄した今の綾波の方をより保護
者的に感じるのだった。

「僕を・・・変えてくれるの、綾波が?」

僕は訊ねた。
聞かずにはいられなかったのだ。
すると綾波は微笑みながら答えてくれた。

「変えてみせるわ。そう、碇君と、そして私自身の為に・・・・」

そして僕は思った。
自分自身ではなしえなかったこと、それを綾波ならば叶えてくれるのではない
かと・・・・


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