私立第三新東京中学校
第二百七十六話・会談
コンコン・・・
いくら高級マンションとは言え、マンションの名を冠する建物には似つかわし
くもない重々しい木製のドア。
マホガニーだかなんだか、ともかくそれほど強く叩いた訳でもないにもかかわ
らず、ノックの音は静寂に満ちた廊下に響き渡った。
「入れ。」
答えはひとこと。
さんざめくリビングの音を完全にシャットアウトしているこのマンションの防
音設備であったが、不思議とこのひとことは彼女、渚さんの耳にはっきりと聞
こえた。
「・・・・失礼します・・・・」
渚さんは普段から寡黙な為か、こういう振る舞いが妙に板について見える。
彼女の生い立ちからしてみれば、綾波よりも遥かに生きた時間が短かったにも
かかわらず、その悩み、苦しみのせいか、女子中学生らしからぬ老成さを備え
ていた。
渚さんはゆっくりと大きなそのドアを開けて中へと身体を滑り込ませると、同
じような調子でドアを閉めた。
そして改めて正面に向き直る。
そこには・・・いつもの姿勢で椅子に腰掛ける父さんと、脇に立つ冬月校長の
姿があった。
「・・・・・」
渚さんは慌てて言葉を発したりはしない。
黙ったままその真紅の瞳を軽く動かして、二人を視界に収めた。
そして父さん達も黙っている。
まあ、用があるのは来た側の人間なのだろうし、二人ともそんなに口に物を言
わせるタイプの人間ではなかったから、それも当然なのかもしれない。
ともかく黙る父さんと冬月校長に対して、やや間を置いた形で渚さんが言葉を
発した。
「お初にお目にかかります、碇理事長。」
「・・・・」
父さんは眉一筋たりとも動かそうとはしない。
まあ、人の上に立つもの、そう軽々しい挙動では、人もあまり安心してくれな
いからだと言えばそうとも言えたが、これはただ単に余計なことはしない父さ
んの性格故に違いなかった。
そしてそんな父さんを常に支えてきた冬月校長が、これまた今までと同じよう
に代弁して応えた。
「渚カヲル君・・・だね?」
「ええ、そうです。校長先生には、転入してくる時に直接お会いしたこともあ
ったかと思いますが・・・」
「ああ。私も覚えているよ。」
「有り難う御座います。」
如何にも校長先生然とした冬月校長に対して、渚さんも平然と優等生然とした
態度で応じた。
それがお互いに間を取ろうとしてのことではないだろうが、やはり渚さんの立
場を思えばそういう形から始まるのも仕方ないかもしれなかった。
そしてそんなやり取りをいつまでも続けようと思えば続けられたかもしれない
が、明らかに語るべき事を持っていた渚さんは、そんな悠長なことなどしてい
られないとばかりに話を切り出した。
「ところで理事長?」
「・・・・何だ?」
「僕のことはもう、かなりのことをご存知かとは思いますが・・・・」
「・・・・」
「今僕が置かれている立場も、当然ご存知ですよね?」
「・・・・ああ。」
父さんはそれを否定しなかった。
ごまかし合いに意味がある対談になるとは思えなかったのかもしれない。
そしてぶっきらぼうではあるが明らかに肯定してみせた父さんに対して、渚さ
んは続けてこう言った。
「これはすべて、あなたの計算のうちのことなのですか?」
「・・・・・」
「僕が何者なのかを知りながら、わざわざシンジ君達に近づけるかのようにあ
っさりと転入を許可して・・・・こうなるであろうと言うことを見越しての判
断だとしか思えません。」
「・・・・・」
父さんは沈黙を保ったままだ。
父さんらしいと言えばそうかもしれないが、仮面の奥には誰よりも燃えるもの
を秘めている渚さんは、そんな父さんをそのままにはしておかなかった。
「言うことはないんですか?」
「・・・・」
「僕にはここで、あなたを惨殺することくらい、造作もないことなんですよ。」
半ば恫喝であった。
しかし、父さんはそんな脅しに屈するような人間ではない。
むしろ如何にも僕の実の父さんだと言うことを証明せんばかりに、そうされれ
ばされるほど見事に頑なさを増して行った。
「・・・そうかもしれんな。」
「恐ろしくはないんですか?」
「・・・いつ死んでもおかしくはないと思っている。」
「あなたはいつ、本当の自分を僕に、いや、周りの人間に見せるのですか?」
「・・・・」
「あなたのせいで、一体どれだけの人間が苦しみに喘いだことか・・・」
渚さんはそう言うと僅かに顔を伏せた。
しかし、それも一瞬のことで、すぐさま顔を上げると、左手を軽くゆっくりと
宙で振った。
「うっ!!」
思わず冬月校長が声を上げる。
そんな声の直前、冬月校長の足元にあった応接セットの小さな低いテーブルが、
真っ二つに切断されたからだ。
冬月校長はネルフでは副司令として何度も使徒との闘いを目にしてきていたが、
こんなに間近で、しかも唐突に力が振るわれるのは初めての経験だったのだ。
反対に父さんはその何事にも動じない性格だけでなく、綾波と直接渡り合った
こともあるせいで、大した効果には成り得なかった。もしかしたら父さんのこ
とだから、渚さんがこうするかもしれないと幾分予期していたかもしれない。
まあ、冬月校長に用意されたと思しきタンブラーの中の氷水が、虚しくカーペ
ットを濡らしたのを見れば、考え過ぎかもしれなかったが・・・・
しかし、冬月校長のことなど全く意に介さぬように、渚さんは父さんに向かっ
て語り続けた。
「一体、博士・・・赤木博士がどんな想いでいたことか・・・あなたは考えた
ことがあるのですか?」
「・・・・」
「僕は確かに委員会の命を受けてあなたを暗殺・・・当然知っているかとは思
いますが、ともかくそんな命令などなくとも、僕にはあなたを殺すだけの十分
な動機がある。」
「・・・・好きにしろ。」
「これは脅しじゃありませんよ。僕はもう、戦う人形と化したのですから・・・」
渚さんはそう言うと、軽く目を細めて再び片手を挙げた。
そのゆっくりとした動きが不安感を誘う・・・はずだったが、父さんは依然と
して変化した様子など見せなかった。
そしてそんな父さんの様子を見て、渚さんはこう言った。
「わかっているからこその、余裕ですか・・・?」
「・・・・どういうことだ?」
「僕があなたを殺せないとわかっているからこその余裕です!!」
渚さんは平静さを欠いていた。
しかし、挙げた片手を振り下ろそうとはしなかった。
「あなたを傷つければ、シンジ君は絶対に悲しむはずだ!!」
「・・・・シンジは私を憎んでいる。」
「いや、あなた自身が憎まれたいだけだ!!違いますか!?」
「・・・・」
「ともかく僕にはどうすることも出来ない!!どうすることも出来ないから、
僕はここに来たんだ!!さあ、言ってみるがいい!!あなたのシナリオは、こ
れからどうなっているんだ!?そして僕はその中でどんな役目を担うんだ!?」
「・・・・」
渚さんの叫びも虚しく響いた。
父さんはそんな渚さんの言葉にも、ひとことも返そうとはしなかったのだ。
しかし渚さんはそれで却って幾分落ち着きを取り戻したのか、軽く息をつきな
がらこう言った。
「・・・確かに僕達はあなたの操り人形に過ぎないのかもしれない。実際事は
あなたの思うが侭に動いている。敵の主力たる僕の裏切り。それがわかってい
たからこそ、そしてまた必ず自分の元へと戻ってくるとわかっていたからこそ、
赤木博士の背信行為を黙認していたのでしょう?そう、あの加持と言う男のよ
うに・・・」
「・・・・」
「しかし、そんなに僕達を甘く見ないで欲しいな。あなたの計画を覆すことく
らい、僕にはいくらでも思いつけるんだから。」
「・・・・」
渚さんは少し不敵そうに笑みを漏らしながらそう言った。
そしてまだ沈黙を続ける父さんに一瞥をくれた後、声の調子を落として小さく
語った。
「でも・・・・でも、あなたに操られるがままと言うのはいい気分ではないけ
れど・・・僕は今のこの自分に満足していますよ。自分の意志、と言うものを
持ち、自分の信じた道を歩むことが出来るようになったのだから。たとえそれ
が人形としての道でも、僕は構わない。僕自身が選んだ道なのだから・・・」
渚さんはそう言うと、自分の発言の重みを隠すかのように、崩れ落ちたテーブ
ルにそっと歩み寄ると、運良く割れずに残っていたタンブラーを拾い上げた。
そして軽く手の中で弄ぶと、くるりと背を向けてドアへと向かった。
それは渚さんからの一方的な会談の終わりを伝えるものであったが、父さんは
おろか、冬月校長さえも、何も口には出さなかった。
そしてドアを開けて渚さんは最後に振り向いて言う。
「テーブル、壊してしまって済みませんでした。あとでまた片付けにここに来
ますから。」
そう言う渚さんは、不思議と清々しささえ感じさせる微笑みを浮かべていた。
しかし、父さんはともかく何が起こるか不安に満ちた時を過ごしていた冬月校
長にとっては、そんな微笑みも単なる嫌がらせでしかなく、少しぎこちなさを
残して渚さんに告げた。
「い、いや、構わんよ。碇は金だけは腐るほど持っているんだ。テーブルの一
つや二つ、気にすることはない。片付けについても、我々で処理するよ。君は
取り敢えず今日はゲストなんだ。ゆっくりするといい。」
少し滑稽に感じられる冬月校長。
渚さんもそれにつられるように茶目っ気を出したのか、やはり女の子なのだと
思い出させるような軽いウィンクをしてこう答えた。
「わかりました。僕も今日だけはゲストと言うことにさせていただきますよ。」
こうして渚さんは冬月校長との会話を打ち切ると、全く興味を示した様子も見
せていなかった父さんに向かって呼びかけた。
「碇理事長、少しくらいはここでゆっくりなさっても構いませんが、後で必ず
僕達のところに顔を出して下さいね。あなたや冬月校長も、惣流さんが選んだ
参加すべき人間のひとりなんですから。」
「・・・・ああ、わかっている。」
「確かにあなたのような人がいると、場は盛り上がらないかも知れません。で
も、あなたのこと、待ち望んでいる人も案外多いんですよ。一応僕もその一員
ですから。」
「・・・・」
「では、僕はこれで。待ってますよ、碇理事長。」
渚さんはそう言うと、父さんのことを見たままドアを閉めた。
その高級たる所以か、ほとんど物音を立てない。
そしてドアに隔たれたあと、中に残されたのは父さんと冬月校長だった。
「碇?」
「・・・・」
「渚カヲルのこと、どう思うんだ?」
「・・・・答える必要があるか?」
「・・・・いや・・・・碇が答えたくないのなら、私は構わんよ・・・・」
「・・・・・」
「何か起こるかも知れんな・・・・」
「・・ああ・・・・」
「まあ、彼女の言う通り、お前にだけは全てお見通しなのかもしれんがな・・・・」
冬月校長はそう言うと、軽く目を閉じた。
そして父さんは・・・ただ、いつもと同じように、真実を覆い隠すあのサング
ラスを時折反射で鈍く光らせるだけであった・・・・
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