私立第三新東京中学校

第二百七十三話・噛んだ唇


いい匂いが辺りに広がる。
換気扇を回していても、料理している僕と、それから何となく暇で僕の手さば
きを見ている人達の嗅覚を痛烈に刺激した。

「おいしそう・・・・」

とは山岸さんの弁。
山岸さんは僕が料理をするときいて、一番に駆けつけた。
そして僕の後ろに回ってその一部始終を観察していたのだ。

「・・・・」

そして僕の横には綾波がいる。
綾波は黙って何も言わなかったが、いつものように僕を手伝ってくれた。
やっぱり綾波と一緒に料理をしてきたのももう結構経つ為、二人でやっても非
常にやり易い。綾波はわざわざ僕が口に出さずとも、僕が何をしたいか、どう
して欲しいかをちゃんとわかってくれる。
多分綾波が何も言わないのは、それがうれしいからなのかもしれない。
言葉を必要としない関係だからこそ、わざと言葉を使わないのだ。
やっぱり綾波にとっては僕と一緒に料理をすると言うのは大事な時間であるか
ら、真剣な表情、揺るぎ無い手つきの中にも、さりげなく僕への想いを感じさ
せている。それも僕がやり易いようにとの配慮だけにとどまらず・・・・

一方アスカと洞木さんはちょっと離れた場所から座って見学している。
僕が作り終えるまでにとミサトさんに差し出したおつまみとしてのお菓子を、
お相伴と言う形でつまんでいるトウジとケンスケを横目で見ながら、二人は色
々と語り合っている様子だった。
ミサトさんはもう、缶ビールも四本目に突入して、割と落ち着いて楽しんでい
た。おつまみはあまりつままずにちびちびと飲み、変に言葉をかけてくるトウ
ジとケンスケに陽気に受け答えしていた。
僕はミサトさんらしいや、と思いつつも、一方では肉と野菜を炒め続ける。
僕や綾波にはちょっと濃い目の味付け。
だけどお酒を飲む時にはこれくらいがいいらしいので、僕は黙って調味料を放
り込んでいった。

「少し・・・・多くありませんか?」

流石にビールのおつまみなんて作ったことがないであろう山岸さんが心配そう
に訊ねる。もしかしたらこれが僕流の味付けなのかと思い、恐る恐るの質問で
あったが、そんな山岸さんに僕に代わって綾波が答えてくれた。

「これでいいの。碇君も私も薄味が好きだけど、葛城先生にはこれくらいで丁
度いいのよ。」
「そう・・・・なの?」
「そうなんだよ。お酒を飲む人には、味付けは濃い目がいいんだ。ちょっと濃
すぎるくらいの方が、ビールと中和されて丁度よくなるんじゃないかなぁ?」

綾波の回答にもちょっと完全な納得とまでは行かない様子だった山岸さんに、
今度は僕が答えてみせた。すると山岸さんはようやく納得してくれたようで、
少しいつもよりも明るくこう言った。

「なるほど。私、そういうのには詳しくありませんから・・・・これで一つ勉
強になりました。」
「まあ、山岸さんひとりで作る分には関係ないことかもしれないけど、将来結
婚して旦那さんにおつまみを作ってあげるってこともあるだろうから、憶えて
おいた方がいいかもしれないね。」

僕は微笑みながら山岸さんに言う。
すると、山岸さんは何かちょっと意識してしまったのか、軽く顔を赤くして、
それをごまかすかのように慌ててこう言ってきた。

「あ、あの、後学の為にちょっと味見させてもらってもいいですか?」
「あ、うん。それは構わないよ。もう出来上がったし・・・・」

僕はそう言いながら、肉野菜炒めをシンプルなお皿に盛る。
そしてフライパンを置いてから、菜箸でそのまま少しつかみ、山岸さんの目の
前に差し出した。

「え、あ、はい。」

僕は、ちょっと味見用の小皿を出すのが面倒だったので、山岸さんに手を出し
てもらってそこに直接載せようと言うつもりだったのだが・・・・山岸さんは
どう勘違いしたのか、目の前の菜箸に顔を近づけると、直接そこから食べた。

「や、山岸さん・・・・」

僕は唖然として声を発する。
そして山岸さんはそんな僕の反応を見て、自分がちょっとおかしいことをして
しまったのではないかと言うことに気がついて、慌てて僕に訊ねてきた。

「え、そ、そういうつもりじゃなかったんですか・・・?」
「う、うん・・・・山岸さんの手に載せようと思ったんだよ。わざわざ小皿を
使って、余計な洗い物を増やしたくなかったし・・・・」
「じゃ、じゃあ、私・・・・・」

山岸さんは自分のとんでもない勘違いに顔をこれ以上ないくらいに真っ赤に染
める。僕はそんな山岸さんの状態を見てちょっと可哀想に思って慌ててフォロ
ーした。

「い、いや、僕もちょっと近づけすぎたよね。これじゃあ山岸さんが勘違いし
てもしょうがないし・・・・」
「で、でも・・・・恥ずかしいです、私。」

山岸さんは自分が悪いと言うよりも恥ずかしいと言う感情が強いらしい。
まあ、それは当然と言えば当然かもしれなかったが、そんなに恥ずかしがるこ
とでもあるまいと僕などには思えた。

そんな僕と山岸さんのやり取りを横目で見ながら、綾波は黙ってお皿をミサト
さんの元へと運んだ。そして手持ち無沙汰になった僕と、どうしたらいいのか
わからなくなってしまっている山岸さんが残された。

「あ、あの・・・・」
「なに、山岸さん?」
「そ、その・・・・済みませんでした。」
「山岸さんは悪くないって。」
「でも・・・・と、とにかく私、洗い物します。だから碇君は葛城先生のとこ
ろに・・・・」
「いいっていいって。お客様に洗い物をさせる訳には行かないよ。料理を作る
方は山岸さんにも手伝ってもらうけど、後片付けは僕と・・・それから綾波で
やるから。だから山岸さんこそ座ってて。」

僕は洗い物を申し出る山岸さんに向かって、ちょっと困ったように手を振って
そう言った。するとそんな僕の言葉は一層山岸さんの頑なさを刺激してしまっ
たようで、山岸さんは表情も少し変えてこう言い張った。

「いいえ、作るだけ作って片づけは人に任せるなんて、私には出来ません。料
理と後片付けは二つで一つですから・・・・碇君はそう思いませんか?」
「ま、まあ、確かにそうだし、僕も片付けだけ人にさせるなんてことはないけ
ど・・・・」
「でしょう?だから私は今日は最後まで残って片づけさせてもらいます。それ
から・・・今の片づけは私のお詫びの気持ちです。だからさせて下さい。いい
ですね?」
「あ、う、うん・・・・わかったよ、山岸さん。」

僕はやたらと迫力のある山岸さんの言葉に気圧されるように、おずおずと了解
の意を示した。すると山岸さんは表情を一変させ、にこっと微笑むと僕に向か
ってこう言った。

「有り難う御座います。私の我が侭聞いて下さって・・・・」
「い、いや・・・・それよりこれ、貸すよ。制服汚すといけないから・・・・」

僕はそう言うと、慣れた手つきで背中のエプロンの紐を解いて、それを外すと
山岸さんに手渡した。

「宜しいんですか、お借りしても?」
「うん。まあ、どうせはじめっから貸す予定だったんだし・・・・予備も洞木
さんに貸すとして、僕は汚れてもいい普段着に着替えてくるよ。家でも制服着
たままなんて、疲れちゃうしね。」

僕は少し戸惑いの色を見せる山岸さんにやさしくそう言った。
山岸さんはそんな僕の申し出にちょっと顔を赤らめながら、小さな声で応える
と、僕のエプロンを着け始めた。

「じゃあ・・・・」
「それよりも一度家に帰って着替えてから出直す?それの方が何だかいいよう
に僕には思えたんだけど・・・・」
「いえ・・・遠いですから、もういいです。」
「そう?」
「ええ。それよりも貸してくれて有り難う御座います。これ、碇君がいつも使
ってるエプロンなんですか?」
「まあね。結構使い始めてから長いんだ、それ。別にお気に入りって言う訳で
もないんだけど、駄目になるものでもないし、ちょっとほころんでも縫えばい
いから・・・・」

僕がそう言うと、山岸さんは珍しく驚きの声を上げた。

「えっ!?碇君、お裁縫もするの!?」

驚きが強かったのか、山岸さんの敬語も崩れている。
僕はそのことを微笑ましく思ったのだが、とにかく山岸さんに答えた。

「まあね。僕、アスカにはいっつもけちって言われてるくらいで・・・買い換
えるなら自分で直した方がいいって思っちゃうんだよ。だからそんなこんなで
小学の時に習った家庭科の裁縫も慣れちゃってね・・・・」
「凄いです。家事全般、出来るんですね。」
「うん。ほら、ご覧の通り、僕の周りには家事の出来そうな女性はいないから・・・」

僕はちょっと苦笑して山岸さんに言う。
実際アスカもミサトさんも、家庭の人としてはほとんど無能に等しかったから
だ。まあ、それはそれで僕も自分の居場所を見つけられたんだし、自分でも好
きなことなんだから悪い気はしなかった。
もう少しちゃんとしたらどうかと思うこともしばしばだったが、僕はそんな二
人が好きだったし、変に変わってもらいたくもなかった。だから自分自身で変
わろうと決意するまで、僕はあまり強くは言わないで置こうと思っていたのだ。
しかし・・・・そんな僕に向かって突然横から声がかかった。

「私は・・・・私はどうなの、碇君?」

それは綾波だった。

「あ、綾波・・・・い、いや、綾波は家事、出来るよね。ごめんごめん・・・・」
「私は碇君の出来ることなら、何でも出来るようになろうって頑張ってきたの
に・・・・」

僕にそう訴えかける綾波の様子は、ちょっと悲しげだった。
僕はそんな綾波に慌てて重ねて謝る。

「ほ、ほんとにごめん、綾波。僕が悪かったよ。」
「じゃあ・・・・私にもお裁縫、教えて。私、碇君がそれするところ、見たこ
とないから・・・・」

謝り倒す僕に対して、綾波は表情を元に戻してこう言ってきた。
なんだか僕は綾波にはめられたような気がしないでもなかったが、自分の知ら
ない僕がいることを悲しく思う綾波の気持ちもよくわかったので、綾波の頼み
を受けることにした。

「わかったよ、綾波。僕も学校で習う程度のことしか出来ないけど・・・それ
でよかったら教えるよ。ほんとなら洞木さんか伊吹先生辺りに教わった方がい
いのかもしれないけど・・・・」
「私は碇君に教わりたいの。」

綾波はきっぱりとそう言う。
まあ、僕もそんな答えを予期していたので、驚くこともなくこう言って答えた。

「うん。じゃあ、今度時間があったらゆっくりと教授することにしようか?」
「うん。ありがとう、碇君・・・・」

ようやく綾波は微笑みを見せてくれた。
するとちょっと脇に置いておかれた感じになっていた山岸さんが僕に向かって
こう言った。

「あの・・・・よかったら私にも教えてくれますか?」
「えっ?山岸さんも?」

僕は山岸さんもちょっとしたお裁縫くらい出来るだろうと思って、少し驚いて
しまった。すると山岸さんは少し恥ずかしそうに告白する。

「実は・・・・私、料理だけなんです。料理はそれこそ好きで作ってましたけ
ど、ほんとは洗い物も嫌いで・・・・まあ、作れば当然洗い物の必要も生じま
すから、これはそれなりに普通の人以上に出来るとは思うんですけど・・・・」
「じゃ、じゃあ、掃除洗濯全く駄目、とか?」
「そ、そんなことはありません。掃除も洗濯も、それなりにはしますよ。でも、
流石にお裁縫までは・・・・」
「洞木さんに教えてもらおうとはしなかったの?洞木さんなら僕以上のいい教
師になれると思うんだけど・・・」

僕は自分の裁縫の腕にそんなに自信がある訳ではなかったので、僕よりも仲の
いい洞木さんに教えてもらう方が、山岸さんにとってはずっといいのではない
かと思った。すると山岸さんはそんな僕の考えを覆してこう言った。

「ええ。教えてもらおうとしたこともない訳じゃないんです。でも・・・」
「でも?」
「ヒカリの教えることって高度すぎるんですよ。だから初心者の私には難しす
ぎて・・・きっとヒカリは私の料理を見て、お裁縫もそこそこ出来て、それで
それ以上のものを自分に求めてると思ったんだと、私は思うんです。」
「なるほど・・・・」
「でも、実は家庭科のお裁縫も満足に出来ないなんて、ヒカリには恥ずかしく
て言いづらくって・・・・」

山岸さんはちょっと恥ずかしそうに僕に告げた。
僕はそう言う山岸さんの気持ちがよく伝わったので、敢えて責めようとはせず
に喜んで応えた。

「うん。そういうことなら・・・・僕も喜んでお役に立つよ。」
「碇君・・・・」

明るく山岸さんに答える僕に、綾波はちょっとつまらなそうな声で僕の名前を
呼ぶ。綾波は間違いなく僕とマンツーマンだと思っていたのだろうが、山岸さ
んの申し出も受けることになると、それが覆ることになる。だから綾波の気持
ちもよくわかるのだが・・・・僕は綾波をなだめることにした。

「ごめんね、綾波。でも・・・僕が教えてあげられることなんてそうないから。
だから教えても一日や二日だと思うよ。だから・・・そうだね、それよりも高
度なことは、二人で一緒に勉強していこうか?」
「うん!!」

綾波は満面の笑みで僕に答えてくれた。
一方の山岸さんは・・・・言い出せずにいた。
多分、自分も続けて勉強したい、って言いたかったんだと思う。
でも、今の綾波を見たら言い出せる訳がなかった。
綾波の邪魔をする嫌な女に映ってしまうような気がして・・・・

だから山岸さんは、ただ黙って軽く唇を噛んでいた。
そうしていないと何か口走ってしまいそうな、そんな唇をしているように、不
思議と僕の目には見えたのだった・・・・


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