私立第三新東京中学校

第二百七十一話・ほっぺたの痛み



・・・・・

時は停滞する。
綾波はただ、両目を閉じて僕の抱擁を受ける。
そして僕は、何故かそんな綾波を離すことが出来なかった。

いつもなら、綾波が瞳を閉じている理由を、視覚を閉ざして全身で僕を感じよ
うとしているのだ、などと呑気に考えていたかもしれない。しかし、今はとて
もそうは思えなかった。綾波は僕の抱擁の意味、そして僕が綾波を直視出来な
い訳を知っているから、綾波も僕を見れなかったのだ。
だが、綾波は僕を振りほどけない。
振りほどけないから、瞳を閉じているのだ。

そして僕も・・・・
僕の抱擁は、間違いなく慰めのもの。
だから時が過ぎれば静かに終わりを迎えるもの。
それがいつもの僕だった。
しかし、何故か自分から終わりを告げることが出来ない。
やはり、より綾波を感じてしまったからなのだろうか・・・?

僕がそんなことを思っていると、突然静寂を破ってアスカの声が聞こえた。

「・・・・四分経過。」

まるで囲碁でも打っている時みたいだ。
アスカの声に感情はこもっていなかったが、何か思惑があるのは明らかだった。

「ア、アスカ・・・」

僕はそんなアスカの声に顔を上げてアスカの方を見る。
そして綾波も僕の動きを感じたのか、それまで微動だにしていなかった身体を
そっと起こして顔を見せた。

「・・・10、9、8、7・・・・」

アスカは僕と綾波が自分に意識を向けたことに気付くと、素知らぬ顔をしてカ
ウントし始めた。その事実に僕は慌て、綾波も多少動揺した。僕と綾波はまる
で禁じられた逢瀬が見つかってしまった男女のように、おたおたしながらぱっ
と飛びすさった。

「・・・3、2、1、0!!」

アスカはカウントを終えた。
その時にはもう、僕と綾波は間を空けて立っていた。
そしてアスカははじめて僕達に気がついたかのような顔をして、大きくうなず
いてひとこと言った。

「よし。」

僕はアスカが時間を区切って綾波に機会をあげたのだということに気付くと、
アスカの心遣いに対して謝った。

「ご、ごめん、アスカ・・・」

そしてそれに続いて綾波も同じように謝る。

「・・・ごめんなさい、アスカ・・・・」

綾波の謝罪を聞くと、アスカは穏やかに、そしていつものように明るく言った。

「いいのよ。アンタの気持ち、アタシだってわかってるんだし・・・」
「アスカ・・・」
「アタシはそれがずるずる行かずにちゃんとけじめを持って行動してくれれば、
そんなに口煩くしないつもりよ。」
「・・・ごめんなさい・・・・」

アスカの心遣い、というかアスカの譲歩を思って、綾波は再びアスカに頭を下
げた。だが、アスカはそんな綾波に水臭いと言わんばかりに大きな声でたしな
める。

「だからいいってば!!アタシだってやり過ぎちゃう時、あるんだから。」
「・・・・」

綾波はアスカに対する言葉が見つからなかった。
アスカが自分に僕を譲ってくれたのではないと言うことくらい綾波は重々承知
しているから変にありがとうとも言えないし、かと言ってアスカに感謝せずに
はいられなかったのだ。もしこれが以前のアスカならば、間違いなく綾波は撃
退されていたのだから・・・・

とにかく僕は少しほっとする。
アスカのおかげでこの泥沼とも言える膠着状態から脱出することが出来たのだ
し、アスカもこんな綾波を許容していると知ったからだ。だから僕は少しうれ
しそうな笑みをこぼしたのだが、アスカはそんな僕の表情に気付くと意地悪そ
うにこう言った。

「だけどアンタは別よ、シンジ。」
「えっ?」
「アンタ、自分が許されるとでも思ってるの?二人の乙女の心を弄んで・・・」
「も、弄ぶだなんて・・・・」
「確かにアンタがレイを抱き締めた理由、アタシにだって十分すぎるほどわか
るわよ。だけどね・・・・」

アスカはそう言って少し声を落とす。

「アスカ・・・・」
「アタシだって、女の子なんだからね・・・・」
「・・・・・」
「レイの親友である前に、アンタって言う男を好きになっちゃってるひとりの
女の子なんだから・・・・」
「・・・・」
「だからもうちょっと気を遣いなさいよ。アタシが・・・アタシが平気でいら
れる訳ないじゃない。あんな光景目の前で見せ付けられて・・・・」
「ごめん・・・・」

僕はただ、謝るしかなかった。
アスカの言いたい事は全てわかったし、それが当然だと思った。
綾波を抱き締める前でも、そのことはわかっていた。
それが僕のジレンマだったが、僕は綾波を選んだ。
行動しない選択よりも、行動すると言う選択を意識的に選んでいるのか・・・?
いや、僕はただ、アスカの強さ、思いやりを過信し、甘えているに過ぎない。
アスカは必ず僕を許してくれると・・・・
僕はそれを知りながらも、そんな考えを持ってしまう自分が嫌で嫌でたまらな
かった。

「アンタの謝罪は意味がないわ。アンタは悪いことをしたんじゃないんだから・・・」
「い、いや、僕は悪いことをしたよ。」

ちょっと素っ気無く言うアスカに対して、僕は否定して自分の罪を主張する。
するとアスカは僕にこう訊ねる。

「じゃあ、その償いは?」
「え・・・」
「アタシはアンタのこと、悪いと思ってないけど、アンタが自分からそう言う
のなら・・・態度でそれを示しなさいよ。」
「・・・・」

アスカの言葉に僕は横目でちらっと綾波を見る。
アスカはそんな僕を見ると、呆れたようにこう言った。

「出来ないでしょ?レイの前じゃ?」
「あ・・・い、いや、そんなことはないよ。」

僕はアスカに追いつめられたような感があったが、少し意固地になったのか、
覚悟を決めてアスカに迫ろうとした。しかし・・・・

「深刻な顔すんじゃないわよ、バカシンジ!!」

アスカは突然調子を変えて大きな声でそう僕をたしなめると、僕の両ほっぺを
掴んで引っ張りだした。

「むっ!!」
「顔面がこってるんじゃない?アタシがもみほぐしてあげるわよ。」
「むむむ・・・・」

もみほぐすと言うよりも、半分つねられ、半分遊ばれているような、そんな感
じだった。しかし、何だか頬に感じる痛みが心地よく、僕の歪んだ心を癒して
くれるような、そんな気がしていた。
するとアスカも落ち着きを取り戻していく僕の心を悟ったのか、その手の動き
とは無関係に穏やかにこう言った。

「そうよ、それでいいのよ。アンタの辛そうな顔、アタシは見たくない。アン
タがもし、アタシを想ってくれてるのなら、アタシの前ではいつも微笑んでて。
アタシは・・・アタシはそれさえあればレイの前なら、レイの友達としてのア
タシになるから・・・・」
「・・・・・」

僕は何も言えなかった。
この頬の痛みはアスカの痛み。
アスカの心の痛みを僕が共有しているように感じて、だから僕は心地いいんだ。

「アスカ・・・」
「ほっぺたつねられたまま、変な声出すんじゃないわよ・・・・」
「ごめんね・・・・」
「わかってるわよ。いいからもうちょっと、アタシに遊ばせなさい。」
「うん・・・・」

僕はそうひとこと応えると、あとはただアスカの好きにさせることにした。
するとアスカは黙ったまま両手を上下左右にリズミカルに動かし続ける。
僕はアスカをじっと見つめたまま、アスカを思い続けていた。
すると・・・・

「・・・・何やってるの、アスカ?」
「あ・・・ヒカリ!!」
「あ、じゃないわよ。こっちまで来てみたら、三人で黙って突っ立ってて、ア
スカは碇君をつねってるし・・・・心配したんだからね。」

洞木さん一行も、ようやく僕達に追いついてきた。
その表情は至って穏やかなもので、もっと危険な状況を想定したのかもしれな
い。まあ、今の状況を見れば、訳がわからないもののどう考えても呑気な状態
であった。

「ご、ごめーん、心配かけちゃって・・・・」

アスカはそう言いながらも、僕のほっぺたを解放しない。
すると洞木さんはクスっと笑って、アスカに向かって言った。

「もう・・・それより何なの?また碇君に対する新しい罰?」
「そ、そんなんじゃないわよ。アタシの罰はビンタかキスって決めてるんだか
ら。これは・・・・そう、これは単なるお遊びよ。ヒカリもやってみない?」
「い、いいわよ、アスカ。」
「そう?結構面白いわよ。シンジってほっぺた柔らかいしさぁ。」
「そ、そういう問題じゃないでしょ、アスカ。」
「大丈夫よ、シンジはアタシのビンタに慣れてるから、ほっぺただけは強靭な
んだから。こんなことで変形するやわな顔面じゃないわ。」

アスカはそう言うと、思い出したかのように手の動きを強くする。
僕はアスカの痛みだと思っていたものの、そろそろ勘弁して欲しいような、そ
んな感じがした。

「もうやめにしましょ?早くアスカのうちに着いて、準備も始めたいし・・・」

僕達の中で一番現実的とも言える洞木さんは、遊ぶアスカにそう言った。
今のアスカがいつものアスカとはやはりちょっと違うと言うことに、付き合い
の長い洞木さんは気付いているから、そう言ったのかもしれないが・・・・
するとアスカも洞木さんの言葉にしたがって、ようやく僕のほっぺたを解放し
てくれた。

「そうね。アタシももう十分遊んだし・・・・」
「よ、よかったね・・・」

僕は何となくアスカにそう声をかける。
するとアスカはジト目で僕に向かって小さくこう言った。

「今のアタシはレイの親友としてのアタシだから。それを・・・・それを忘れ
るんじゃないわよ、いいわね?」
「・・・う、うん・・・・・」
「満月の夜だけは、アンタをレイに貸すから、それ以外の夜は・・・・わかっ
てるわよね、シンジ?」
「・・・・わ、わかってるさ。」
「アンタの心意気、期待してるわよ。」

アスカはそれだけ言うと、洞木さんに向かって呼びかける。

「行くわよ、ヒカリ!!」
「わかってるって。」
「ほら、結構日差しも強いんだから、生ものも危ないじゃない。急ぐわよ!!」
「はいはい・・・」

誰のせいでこんなに遅れたんだと思いながらも、洞木さんはアスカの言葉に応
じて答えた。吹っ切れたようなアスカの表情に、ほっと胸をなで下ろしたから
なのだろうか・・・?

ともかくアスカはみんなの先頭に立ってずんずんと進む。
それに続いて洞木さんとトウジ、ケンスケが後ろから追う形になった。
そして残された僕達は・・・・

「・・・碇君・・・・・」
「・・・・・」
「・・・・ごめんなさい、私の為に・・・・・」
「・・・・いいんだよ。綾波は何も悪くない。」
「でも・・・・」

会話は成立しない。
ただでさえ常日頃から自分を貶める僕と綾波であったのに、さらにアスカの言
葉を聞いては・・・自然になれる訳がなかった。
だが、そんな時、突然横から声がかかった。

「二人とも自分を悪く思うのは、あまり歓迎できることじゃないな。」
「な、渚さん・・・・」

それは渚さんだった。
綾波から渚さんのことは聞いていただけに、僕はすぐに目で彼女を追った。

「人が人を想うのは、お互いを傷つけあう為じゃない。そう思わないかい?」
「・・・そうね。あなたの言う通りだわ。」

渚さんの言葉に、綾波が静かに答える。
綾波の言葉通り、以前のような綾波の渚さんに対する隔意と言うものは、完全
になくなっているように感じられた。そして当の渚さんは・・・・

「渚さん・・・・」

別人に見えた。

「シンジ君はどう思う?辛くないかい?」

渚さんはいつもの、いや、表面上では同じでも、明らかにいつもとは違った微
笑みで僕に再度訊ねる。

「つ、辛いよ、とっても・・・・」
「そう・・・やはりそうなんだね。」
「うん・・・・」
「でも、もう安心していいよ、シンジ君。」
「えっ?どういうこと?」

僕は少し驚いて渚さんに問う。
すると渚さんは・・・・僕の瞳を覗き込んで、ただ、ひとことこう言った。

「僕が・・・・僕が来たからね。君を守る為に・・・・」

僕はこの言葉で、何かが変わったような気がした。
その何かが何なのか、その時ははっきりとはわからなかったが・・・・・


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