私立第三新東京中学校

第二百七十話・やさしさと愛


「碇君!!」

僕を呼ぶ声。
無論、それが誰のものなのか、僕もアスカもわかっていた。
二人ともきっと一番最初に顔を見せてくれるのは、他ならぬ綾波だと思ってい
たのだ。

「綾波・・・」

まだ少し遠い綾波の姿に、僕はガードレールから立ち上がって返事をする。
そして隣に座っていたアスカも、そんな僕に続くように立ち上がって綾波を迎
えた。

「碇君・・・・」

坂道を登ってきて、少し息を切らしている綾波。
僕の目の前に来た時、やや顔を紅潮させていた。

「ごめんね、綾波。心配かけて・・・・」

僕はそんな綾波に済まなそうに謝る。
しかし綾波はいつものように僕の謝罪に対して応えてはくれなかった。

「・・・・・」

綾波の顔は決して怒っているようには見えない。
だから僕もそうではないと思っていたのだが、取り敢えず綾波に訊ねてみた。

「・・・・怒ってるの、綾波?」
「う、ううん、そんな・・・・」

ちょっと不安そうにした僕に、綾波は慌てて否定した。

「じゃあ・・・・」
「な、なんでもないの、碇君。ただ、碇君が元気だったから、それが嬉しくて・・・」

綾波の言葉とは裏腹に、その表情は何だか暗い。
だが僕はとっさにはその原因が分からなかった。
するとそんな僕に対して突然誰かが後ろから腰の辺りを小突いた。
僕はびっくりして振り向こうとしたが・・・途中で止めた。

「・・・・」

アスカが僕を見てる。
まるで「このバカ!!」と言わんばかりに。
そして当然今僕を小突けるのもアスカだけだ。
アスカが僕に何を言いたいのか、それを考えてみると・・・・やっぱり僕は馬
鹿だったのだ。綾波がどんな思いでアスカを送り出し、そしてまた僕とアスカ
の前に姿を現したのかを察すれば、アスカが僕を小突きたくなるのも納得が行
った。
綾波は知っていた。
痛いほど知り過ぎていた。
アスカを僕の元へと送り出せば、僕とアスカがよりいい関係におさまるという
ことを。そして今、僕とアスカが仲良く並んでガードレールに腰掛けていた光
景を見せ付けられて、そんな綾波の確信は現実のものとなった。たとえ予期し
ていたことであろうと、やはりそれが現実となると心に痛みを感じずにはいら
れない。
そしてまた、綾波が疎外感を感じていたのもあるだろう。
綾波は僕の元へ来て、そしてそれを迎えるのが僕とアスカ。
来るものと、それを迎えるもの。
些細なことではあったが、そのちょっとした違いが、傷つき易くなっていた綾
波の心を更に刺激したのだ。僕はそんな揺れ動き易い綾波の心を察すると、も
う一度綾波に謝った。

「ごめん。」

頭を下げる僕。
そして綾波も、最初の僕の謝罪と今の僕の謝罪が、違うものであることをその
雰囲気から察した。

「碇君・・・・」
「・・・・ごめん、綾波。君の・・・」

だが、僕の言葉を遮って綾波は言う。

「いいの、わかってたことだから。」
「・・・・綾波・・・・」

綾波がそう言うことくらい、綾波を知る僕なら当然予期していた。
重要なのは、そんな無理をしている綾波の中にある感情であった。
だから僕は素直に受け止められなかった。
そして綾波を想ってその名前をつぶやいた。
だが、そんな綾波は僕に向かってこう言った。

「それよりも碇君・・・・」
「なに、綾波?」
「聞いて・・・聞いて欲しいことがあるの。」
「なに?遠慮せずに言ってよ。」
「・・・・そ、その・・・・渚さんが・・・・」
「えっ!?」

僕は驚いてしまった。
まさか綾波が渚さんのことをそのまま「渚さん」と呼ぶとは・・・・
いつも綾波は渚さんのことを「あれ」と呼び、せいぜいでも「あの女」とか、
「彼女」だったと思う。だから僕は綾波がこれから僕に語ろうとする内容より
も、その事実に驚き入ってしまった。
だが、綾波は僕がその事に驚くということも既にわかっていたのか、敢えてそ
のことには口に出さずに話を続けた。

「・・・私、彼女に言われたの。」
「え、なにを?」
「・・・・力を捨てなさいって。」
「・・・・」
「そして私の代わりに自分が力を使うって・・・・」
「・・・どういうこと?」
「彼女、他人の指示ではなく、自分の意志で行動するって。そして碇君とそれ
から碇君を愛する私の為に・・・・」
「・・・・」

綾波の言いたい事は大体理解出来た。
つまり、綾波は渚さんが敵を裏切って僕達についたと言いたいのだ。
だから綾波の渚さんのことを「渚さん」と呼んだ訳で・・・・でも、綾波にし
ては珍しいことだった。まさかこう簡単に渚さんを信じてしまうなんて。今ま
での綾波なら、僕が何を言っても頑として渚さんを敵として扱ってきたのだ。
でも、一体何がそんな綾波を変えてしまったのか・・・・今まで渚さんのこと
を敵だなんて思っていなかった僕は、そっちの方が気になるところだった。

「そして・・・・」
「なに?」

綾波の言葉の続きが気になって、僕は少し顔を近づけながら、綾波に催促する
ように言った。

「碇君が私よりもアスカを好ましく思うのは、私が力を疎みつつもその力を碇
君と一緒にいる理由にしていたということを教えてくれたの。」
「あ、綾波・・・・」
「私が碇君と結ばれるためには、私は力を捨てなければならないの。私は力も
何もない、ただの普通の女の子として碇君を求めて・・・そして碇君にも求め
られるの。」
「・・・・」
「私は今まで彼女に言われるまで気付かなかった。私と碇君との関係が、歪ん
だ関係だったなんて・・・」
「・・・・」
「碇君のやさしさと愛とを混同していたの。ううん、混同したかったのかもし
れない。とにかく力を持った可哀想な私であれば、碇君は私を誰よりもやさし
く相手してくれた。私はそれが嬉しくて・・・・アスカよりも心配されてるっ
てことを思うだけで、私はひとりで満足していたの。でも、それは愛じゃない
の。碇君は誰よりも私を思ってくれたけど、好きになったのはアスカ。私に対
する思いと、アスカに対する想いとでは違いがあるのね。」
「・・・・・」
「私は今までそれに気付かなかった。気付いていたにしても、アスカに対して
劣等感を抱いていた私には、この道しかないと思い込んでいたのかもしれない。
でも・・・・でも、それじゃ駄目なの。」
「綾波・・・・」
「私は力抜きに碇君に接して・・・たとえそれでアスカと碇君が結ばれること
になろうとも、私が碇君と結ばれるためには、私はそうするしかないの。ただ
可哀想なだけでは、人は愛されないわ。」

僕はこの言葉にはっとさせられた。
やさしさと愛は違うということ、そして可哀想なだけでは人は愛されないとい
うこと・・・・
確かに言われてみればそうだ。
僕の綾波に対する、そして渚さんに対する思いは、やさしさの範疇から越えた
ものではないと言えるだろう。そしてそれに対してアスカへの想いとなると・・・
はっきりとは言えないが、多分、それを越えているような気がする。
もしかしたら、僕は人を愛することが出来るようになったのであろうか?
そしてアスカがそれを僕に教えてくれて・・・・僕は嬉しいと思う反面、綾波
を思うと辛くなった。綾波は僕を求めているというのに、僕はやさしさだけで
しか応えていなかったなんて・・・
だが、僕がそう思っていると、それが表情に出てしまったのか慰めるように綾
波が僕に言った。

「碇君は悪くないわ。悪いのは私。私がやさしさだけで甘んじようとしたから、
碇君が私に愛でなくやさしさを向けたとしても、それは当然のことなの。」
「で、でも・・・・」
「確かに私は愛を求めてた。でも、そんな私は人に憐憫の情を傾けられる存在
ではあっても、人に愛される存在ではなかったの。だって、私は人形だったか
ら・・・」
「あ、綾波っ!!」

僕は「人形」という綾波の言葉に、大きな声で咎めるように言った。
だが、綾波は少し明るい顔すら見せて、僕に言って聞かせた。

「ようやく私、人形と言う意味、知ることが出来たの。今までの私は紛れもな
く人形だった。人に造られたからとかそう言うことでなく、人に愛されること
を諦めた存在・・・・可愛いとか可哀想とか、それだけの問題なの。愛や恋じ
ゃないわ。」
「・・・・」
「だから私はこれから人になるの。力ももう要らない。たとえ碇君を守れなく
ても・・・・ごめんなさい、碇君。私は人形として碇君を守るよりも、人とし
て碇君と一緒に死にたいの。」
「綾波・・・・」
「自分から碇君を守るのは私だなんて言ったけど、守る守られるの関係なんて、
愛し合う者同士の関係とは違う。私はそれでいいなんて思ったりもしたけど、
やっぱりそれじゃ嫌なの。身体中で碇君を愛して、そしてひとりの女の子とし
て碇君に愛されたい。そう、今の碇君とアスカのような・・・・」

綾波はそう言うと、僕とアスカに視線を向ける。
僕はそんな綾波の視線に導かれるようにアスカに視線を向け・・・そしてアス
カの瞳と交わった。

「シンジ・・・・」

アスカのつぶやき。
いまだに心のどこかで信じきれずにいる僕のアスカへの想いというものが、こ
うして綾波の口から語られて、アスカはそれを強く意識せずにはいられなかっ
た。そして僕も、改めてアスカを好きだと思う。こうして綾波の前であっても、
きっと僕はアスカのことを好きだと言えると思う。どうしてそんな感情を持っ
たのかよくわからないけど、でも、今までになかった不思議で心地よい感情だ
った。そして僕はそんな心地よさに身を任せたまま、アスカと見つめあった。

「・・・・」

しばし綾波は黙っていた。
だが、耐え切れなくなったのか、突然ぐいと僕の肩を引っ張る。

「あっ!!」

僕は思いもかけぬ方向から引っ張られてバランスをちょっと崩した。
そして綾波もそれを予期していたのか、よろめく僕の胸に飛び込んだ。

「・・・・ごめんなさい、碇君。」
「あ、綾波・・・」

謝るのは僕の方だった。
綾波の想いを知りながら、アスカの想いに浸っていたのだから。
しかし、綾波は僕の胸に顔を隠したまま小さな声でこう言った。

「私、わがままな女の子にならなくちゃいけないのかもしれない・・・・」
「・・・・」
「碇君はこんな娘、嫌かもしれないけど、こうでもしないと碇君、アスカに溺
れちゃうもの・・・・」
「綾波・・・・」
「どうしたら碇君が私に心を向けてくれるのかわからない。そして私もどうす
ればいいのかわからない。だから・・・だからこうするの。」
「・・・・」
「勝手に碇君の胸に飛び込んで、そして身体中で私の想いを碇君に伝えるの。
私はただ、ひたすら訴えかけるだけ。それに応えてくれるかどうかは・・・碇
君次第よ。そして私は、碇君が応えてくれるまで、ずっとずっと続けるつもり。」
「・・・・」
「ごめんなさい、碇君。碇君には迷惑なだけかもしれないけど、待ってるだけ
じゃやさしさしか返ってこないから・・・・」

綾波の強い想い。
それが痛いほど僕には伝わってくる。
そして僕は・・・胸の中の綾波を、ただ黙ってぎゅっと抱き締めた。

「碇君・・・・」

綾波は驚いて顔を上げる。
しかし、僕は綾波と視線を合わせない。
ただ、回した腕に力を込めるだけだった。

「・・・・」

綾波を見れない。
何も口に出来ない。
ただ、抱き締めるだけ。
なぜなら・・・・僕の抱擁は、綾波の求めていた答えとは違っていたから。
そう、それはやさしさで慰めを包み込んだ抱擁だったのだから・・・・


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