私立第三新東京中学校

第二百六十九話・幸せを求めて


四散した荷物ももはや女性二人の手で片付けられていた。
しかし、時は止まっている。
綾波が去った今、既にみんなはこの場所にいるべき理由を持っていなかった。
それなのに動けない。
その原因は・・・・特にないかもしれない。
しかし、全てを握っているのが何なのか、それは明白だった。
そう、その時のみんなは、渚さんの一挙手一投足に操られていたのだ。

「・・・・」

渚さんの視線は坂道の先にある。
綾波は走らなかった。
しかし、心は急いでいた。
そんな様子が、渚さんの目には見て取れた。
緩やかなカーブが綾波の後ろ姿を隠してからも、渚さんはそのまま綾波の消え
た坂道を見つめ続けていた。
しかし、それもいつまでもは続かない。
渚さんは周りのみんなの存在など気付かないかのように、おもむろにポケット
から携帯電話を取り出すと、器用にダイヤルし始めた。

『・・・・』

電話がつながっても、相手は黙ったままだった。
しかし、渚さんはそれを予期していたのか、静かに訊ねる。

「・・・聞いていたんでしょう?」
『・・・・』
「僕の気持ちは、僕が今言った通りです。」
『・・・・・そう。』

電話の相手はようやく声を発した。
しかし、渚さんはまるで今までずっと会話が成立していたかのように、自然に
話を続ける。

「・・・・博士はどうしますか?」
『・・・どういうこと?』
「僕はシンジ君の為に、そしてあなたの作った綾波レイの為に生きます。」
『・・・・』
「そして僕は、博士、あなたにも戻ってきて欲しい。」
『・・・・』
「あなたが委員会にいる理由、そんなものは存在しないはずです。」
『・・・・』
「あるとすればただ・・・・ゲンドウ氏に敵対する事だけ。違いますか?」
『・・・・違わないわ。』
「あなたは彼を愛しているはずです。どうしてそれに正直に生きないんです?」
『あなたには関係のない事だわ。』
「関係なくありません。僕はあなたを母とも思っていますから。」
『・・・・母?この私を?』

流石のリツコさんも、渚さんのこの言葉には驚きを隠しきれなかった。
リツコさんは綾波を育てたように、散文的にしか渚さんに相手をしなかった。
そしてその結果がどうなったのか、綾波を知るリツコさんは十分すぎるほど知
っている。綾波は機械的にしか人とのやり取りをせず、ただ父さんと僕にだけ
心を開いた。しかし、リツコさんはそれを不満には思わなかった。忌まわしい
存在である綾波に愛されたいとは思わなかったし、機械的であればあるほど、
実験動物的に扱えた。そして父さんも人形としてしか愛さないだろうと・・・

渚さんに対しても同じだ。
リツコさんは人をつくろうとはしなかった。
ただ、命令を聞くだけの人形を作るつもりだった。
しかし、リツコさんには誰もいなかった。
かつて自分の周りにいた人々が・・・・
そのため知らず知らずのうちにその自分の作った人形に心を開いていたのかも
しれない。語る相手がいない人間が、自分の手元にある人形に向かって話し掛
けるように・・・・
しかし、それが結果として渚さんを完全なる人形にはしなかった。
渚さんにはリツコさんしかいなかったし、リツコさんとの会話がすべてだった。
リツコさんではなく父さんとの会話で育った綾波とは違って、渚さんはリツコ
さんとの会話で育ったのだ。だから綾波が父さんに惹かれていったのと同じよ
うに、渚さんもリツコさんを母と慕うようになったのだ。

渚さんは母というものがどういう物なのか知らない。
しかし、特別な感情を持つ相手に対して、「母」という表現しか思い付かなか
ったのだ。そして渚さんもそんな「母」という表現を嬉しく思っていた。

「ええ。その表現が正しいかどうかはわかりませんが・・・・」
『そう・・・・』
「僕はあなたにも幸せになって欲しい。そして僕はあなたがそこにいても、幸
せになれるとは思えない。」
『・・・いいのよ、もう・・・・私にとってはもう全て終わったのだから・・・』
「終わってなどいません。あなたが勝手にそう思い込んでいるだけです。」
『私が終わっていると言ったら終わっているのよ。』
「いいえ、人は生きている限り終われません。博士も見たでしょう、あの綾波
レイを。」
『・・・・何が言いたいの?』
「たとえ碇ゲンドウがあなたでなく、亡くなった碇ユイを思慕し続けていると
しても、あなたにはそれを変える事が出来るはずです。」
『・・・出来ないから、私は終わったと言っているのよ。』
「いいえ、変えられます。現にゲンドウ氏はあなたが戻ってくると知っていた
からこそ、あなたを黙認していたのではないでしょうか?」
『・・・・有り得ないわ。あるとすれば、シンジ君があなたを動かすと思って
いたからよ。所詮あの人にとって、私は無意味な存在に過ぎないの。』
「違います。あなたも言っていたではないですか。彼が不器用な人間だと・・・」
『・・・・』
「今では僕にもわかります。シンジ君と彼は親子なんですから。」
『シンジ君とあの人は違うわ。シンジ君はやさしい男の子だもの・・・・』
「形は違えど、彼もやさしさを持っていますよ。」
『・・・・でも、それが私に向けられた事はないわ。』

それがリツコさんの本音だった。
リツコさんだって、父さんがやさしさと言う感情を持ちあわせている事くらい
知っていた。しかし、その全てが綾波と、そして僕に向けられているのを見せ
付けられて、しかもそれがこんなにも近くにいる自分には向けられていないと
言う事実を知り、いつも傷ついていたのだ。
しかし、渚さんはそんなリツコさんに教え諭す。

「確かにそうです。碇ゲンドウにとって、あなたは道具の一つにしか過ぎませ
ん。」
『・・・・わかっているなら言わないで。』
「しかし、それはあなたに問題がある。あなたは彼の道具に徹しようとした。
彼に愛されたいと思いながらも、彼の人形でいいと思っていた。彼の心が碇ユ
イと、そして彼女の遺したものにあると知っていたから・・・・」
『・・・・』
「人が人形を人として愛すると思いますか?人形は人形としてしか愛されない
んです。ですから・・・・」
『余計なお世話よ!!』

リツコさんは耐え切れなくなってそう叫んだ。
リツコさんだって痛いほど感じていたのだ。
しかし、道具として、人形として、自分に居場所が与えられていると言う事に
満足感を得ていたのも事実だった。そしてリツコさんはあと一歩が踏み出せな
かった。その一歩が踏み出せぬまま、飛び出すように学校から、父さんから逃
げ出したのだ。リツコさんはそれを後悔しつつも、もう戻れない自分を感じて
枕を涙で濡らしていた。

「どうして人として、女として彼に愛されようとはしないんです?彼は人間な
んですよ、母さん。」
『!!!』

リツコさんは驚く。
自分が母さんと呼びかけられた事に。
そしてそんなリツコさんに告げた。

「今日、シンジ君達のところで宴会がある事、ご存知ですよね?」
『・・・・』
「僕も招待されています。でも、ゲンドウ氏には危害を加えるつもりはありま
せん。シンジ君が悲しむとわかっていますから。だから僕はシンジ君の為に、
綾波レイの為に、そしてあなたの為に、ゲンドウ氏を守ります。」
『・・・・』
「待っていますよ、博士。自分勝手かもしれませんが、僕はあなたを招待しま
す。そしてひとつ席を空けておきますから・・・・」
『・・・・』
「誰もあなたを咎めたりはしませんよ。僕にはわかります。だから、だから・・・」
『・・・・』
「だから、もう一度、幸せを求めて下さい。僕はあなたの、母さんの幸せを望
んでいるんですから・・・」
『・・・・』
「待ってますから・・・・」

渚さんはそう言うと、一方的に電話を切った。
そして流れるようにそれをポケットに仕舞う。

「ふぅ・・・・」

ため息をつく。
渚さんにとっては、大仕事だったのだろう。
しかし、その瞳には何か満足げなものを光らせていた。

「これでいいはずだ。これで・・・・」

そうひとことつぶやくと、渚さんは振り向いてみんなに告げた。

「そういう事。赤木先生は今日、僕達の前に姿を見せるよ。」
「ほ、ほんと・・・なの?」

急に話し掛けられて驚いたものの、洞木さんはその事実に心動かして渚さんに
訊ねた。すると渚さんはよどみなく断言する。

「ああ。間違いないよ。先生は来る。」
「・・・どうして?」
「僕も人だ。少なくとも人の心を持っている。だから・・・人の心を持つもの
が人の心をわからない訳ないだろう?」
「・・・・」
「アスカさんが急に決めた事だけど、今日の宴会は色んな意味で特別なものに
なりそうだね、洞木さん。」
「えっ、ええ・・・・」
「それに相応しい料理が食べられるよう、期待してるよ。」

渚さんはちょっとふざけてそう言った。
しかし、それは付け足しにしか過ぎない。
みんなを幸せに導いていると言うのに、自分だけは辛いだけの道を選ぶ・・・
それがどういう事なのか、人の幸せと言うものを知ってしまった渚さんにとっ
てはとても辛い事であった。

「え、それはもちろん・・・・」

そして洞木さんをフォローするようにトウジが言う。

「当たり前やないか、渚。いいんちょーの料理は誕生パーティーだろうが結婚
式だろうが、葬式だろうがひけを取る事はないんや。」
「そ、葬式はないだろ、トウジ・・・」

呆れたようにケンスケが言う。
そしてそれをきっかけにぎこちなかった雰囲気がどこかへ消え去り、笑い声で
包まれた。しかし、渚さんも顔では笑いつつも、心では笑えなかった。もしか
するともう二度と、心から笑う事などないのかもしれないと思って。

「・・・・」

そしてそんな渚さんを見つめる瞳があった。
それは山岸さんだ。
山岸さんは他のみんなのように笑ってはいなかった。
ただじっと、渚さんを見つめていた。
まるで今の渚さんの本当の気持ちを察しているかのように。
流石に山岸さんも細かい事まではわかるはずもない。
しかし、どこか無理をしているような渚さんに違和感を感じていたのも事実だ
った。山岸さんはどちらかと言うと客観的な立場であったので、渚さんの会話
の中に含まれた想いを察する事が出来たのかもしれない。

そして自分を見つめる存在に気がついて、渚さんは山岸さんに視線を合わせる。
渚さんは山岸さんを見ると、軽く微笑んでみせた。
しかし、山岸さんは微笑みを返さない。
ただ、悲しげな瞳で見つめるだけだ。
渚さんはそんな山岸さんに気付くと、軽くうなずいて、それからおもむろに振
り向いた。そして背中を向けたままみんなに呼びかける。

「行こう。シンジ君達が待ってる。」

そんな渚さんの背中には、悲しみが溢れていた。
もう幸せになどなれない自分を思って・・・・


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