私立第三新東京中学校

第二百六十八話・本当の居場所


「アスカ?」
「何、シンジ?」
「そろそろ・・・戻る?」
「どこへ?」
「みんなのとこ。」
「どうして?」
「どうしてって・・・心配してるよ、みんな。」
「そうかもね。でも・・・・」

アスカはそこまで言うと、少し微笑んで僕に向かって言った。

「いいじゃない、もう少しくらい。折角の二人きりなんだから、もう少しだけ・・・
ね、いいでしょ?」
「・・・・そうだよね。折角のふたりっきりなんだから・・・・」

そして僕とアスカはどちらからともなくガードレールに腰掛けた。
みんなが迎えに来るのを待ちつつ、みんなが迎えに来ない事を少しだけ願いな
がら・・・



「割れてる・・・・」

山岸さんはそうひとことつぶやくと、放り出されたスーパーの袋の中から飛び
散った品物を拾い始めた。先程はアスカに振り回されても袋から出る事なく割
れなかった卵だったが、今は激しくアスファルトに叩き付けられ、ひび割れた
殻から白身のようなものが滲んでいるのが見えた。

山岸さんが現実的な事をし始めたのを見て、洞木さんも同じく拾いはじめた。
そんな多くもないせいか、トウジとケンスケは二人を手伝う事なく、黙って立
ち尽くしていた。だが、その目は作業にいそしむ二人に注がれていた。綾波と
渚さんにではなく・・・・

それは現実に戻ったのではなかった。
そう、みんなは現実に逃げたのだった・・・・



「君は僕とは違う。」

渚さんは激しい興奮状態、というより狂乱の様相を呈していたが、ともかくそ
れが醒めると綾波の両肩を掴んだまま言い聞かせるようにそう断言した。

「・・・・」

しかし、綾波はまだいつもの綾波に戻れずにいる。
放心状態と言うかなんと言うか・・・何事にも冷静に対処できるいつもの綾波
からすると、それは信じられない事であった。

「僕は渚カヲルで・・・そして君は綾波レイだ。その違いが君にはわかるかい?」

もはや渚さんは笑わない。
今の渚さんにとっては、もう綾波に対して仮面を被る必要はないのだ。
綾波はそんなことに気付く余裕を持ち合わせていなかったが、今までの渚さん
を知る者が見れば、それが特別な事であると言う事に気付くに違いなかった。

「・・・・・」
「僕は渚カヲルだ。だから彼の代わりでしかない。」
「・・・・」
「しかし、君は・・・・君はレイだ。誰の代わりでもない、唯一の存在、綾波
レイなんだよ。だから僕とは違うんだ。」
「・・・・」
「君は単なる名前だと思うかもしれない。しかし、これは重要な事なんだ。確
かに当時はクローニング技術も未熟極まりなく、碇ユイを残したかったゲンド
ウ氏も、君と言う形でしか彼女を残せなかったのだと思う。だが、君と彼女は
イコールではない。それが未発達なクローニング技術の副産物なのか否か、僕
にはわかる術もない。しかし・・・・」

渚さんはそう言いながら、また少し興奮してきていた。
仮面の渚さんは冷静沈着と言う言葉がぴったり当てはまるが、もしかしたら渚
さんの本質と言うのは、誰よりも燃えたぎった魂を持っているのかもしれなか
った。

「今の君は僕と同じかもしれない。しかし、君には可能性があるんだ。もう、
人の心を持った道具にしか過ぎない僕とは違う。君は人間になる事も出来るん
だ。」
「・・・・・」

綾波は黙ったままだ。
しかし、渚さんの言葉は凍り付いた綾波の心を少しずつ動かし始めていた。
その証拠として今の綾波は、渚さんの言葉にほんの少し表情を変えた。

「現に君は血を流す事が出来た。僕とは違う。僕は作られた女、血を流さない
女だ。だからシンジ君の子を宿す事も出来ない。しかし、君は・・・・」
「・・・私が・・・碇君の・・・・?」
「そうだ。君だって望んだ事があるはずだ。」
「・・・・・」
「つまり、君は変わる事が出来ると言う事だ。芽を出してしまった種は、もう
種へと戻れない。それは時が戻せないのと同じで、誰にも当てはまる事だ。し
かし・・・・」
「・・・・」
「しかし、それは君には当てはまらない。だからこそ、君は特別な存在なんだ。
シンジ君ともアスカさんとも、そして僕とも違う、この世に唯一の存在、それ
が君、綾波レイなんだ。」
「・・・・」

渚さんはそう綾波に言うと、姿勢を少し正す。
そして、やや間を置いて静かに、しかし重々しく綾波に告げた。

「力を封印するんだ、綾波レイ。」
「えっ・・・・?」
「僕が君を守ろう。そして、君がしたくなかった事、だが君にしか出来ない君
がしなくてはならなかった事を、僕が全て引き受けよう・・・・」
「・・・どういうこと?」
「僕に君の可能性を見せて欲しい。」
「・・・・」
「もう、君は力を使う必要はない。いや、使ってはならない。ただ、君の望む
がままに生きて欲しい。そして・・・そして、人としてシンジ君と結ばれて欲
しい。」
「あなた・・・・」

その台詞は、綾波にとっては驚きであった。
綾波は誰よりも渚さんを知る存在であったため、渚さんの僕への想いの強さが
どのくらいのものなのか、十分すぎるほど知っていたからだ。
しかし、そんな驚いた様子を見せた綾波に、久々に軽い笑みを漏らして渚さん
は答えてみせた。

「僕は渚カヲルなんだよ、綾波レイ。だから身体が女だとしても、心は男なん
だ。」
「でも・・・」
「確かに僕はシンジ君が好きだ。誰よりも彼を愛していると言える。」
「・・・・」
「しかし、僕は汚れた存在だ。使徒のクローンであり、女の身体を持つ男だ。
だから僕は修羅の道、血に塗れた後ろ暗い道を選んだ。だから君には僕の代わ
りにシンジ君の愛を受けて欲しい。」
「・・・・」
「僕だってシンジ君に愛されたくないと言えば嘘になる。だが、僕はシンジ君
には相応しくない。彼の僕への愛は、彼自身を苦しめるだけだ。僕はそれを知
っているから・・・」
「・・・・」
「君は選ばれた存在ではない。君の力はたとえ神のものであっても、君は選ば
れしイヴにはなれない。だから・・・だからこそ僕は、君とシンジ君に結ばれ
て欲しいんだ。そう、人と人として・・・・」
「・・・・」
「きっとゲンドウ氏もそれを望んでいると思うよ。」

最後に渚さんは軽く笑って綾波にそう言った。
そして、その内容を頭の中で整理している綾波の手をそっと取ると、渚さんは
綾波を助け起こした。

「起つんだ、綾波レイ。君の可能性はまだ終わってはいない。君ならきっと・・・
そう、君ならアスカさんを傷つける事なく、シンジ君と結ばれる事が出来るは
ずだ。」
「・・・・」
「君のやさしさ、君の魅力、君の想いは君だけのものだ。だから君はシンジ君
に母親の面影を見せる事なく、シンジ君を愛し愛されるはずだ。」
「・・・・」
「まだ間に合う。まだ委員会の勝利が遠い事を知っているからこそ、ゲンドウ
氏も黙っているんだ。そして、彼は君を信じている。彼は君を愛したからこそ、
君に全幅の信頼を置く事が出来るんだ。そう、彼が唯一愛した女性のように・・・・」
「・・・・私は・・・・私は何をすればいいの?」

それは綾波らしくもない言葉だった。
しかし、綾波はもう何も考えられなくなっていたのだ。
そしてそんな綾波を知る渚さんはひとことやさしくこう言った。

「何もしなくていい。ただ、君の望むままにすればいいだけだ。僕の望むのは
唯一、力をもう二度と使わない事だ。」
「でも・・・・」
「確かに今までの君の存在意義と言うのは、その忌まわしい力を使ってシンジ
君を守る事にあったと言ってもいい。君自身そこに自分の居場所を見出してい
たんだろう?」
「・・・・」

黙って軽くうなずく綾波。
それは綾波にとって辛い事実であり、アスカとの違いを痛感させる点であった
からだ。

「だが、それでは君はシンジ君の傍に居場所を得る事は出来るが、シンジ君と
ひとつになる事は出来ない。だから君はそれなしにシンジ君と触れ合わなけれ
ばならない。そうしないと君は、間違いなくアスカさんには勝てないだろう。」
「・・・・そうかもしれない。」

アスカに勝つ事。
いや、勝つと言う以前の問題かもしれない。
アスカと言う存在は綾波の一番近くにいる人間の一人でありながら、綾波が理
解する数少ない人間の一人でありながら、そして綾波が心許す数少ない人間の
一人でありながら、綾波にとっては一番遠い存在だった。
だからこそ綾波はアスカに憧れ、アスカの真似をしたのかもしれなかった。
アスカは綾波が持ちたいと思っていたけれど持てなかったものの全てを持って
いた。それに対して綾波だけが持ちあわせているものと言えば・・・唯一、こ
の忌まわしい力だけであったのだ。

「君は力を疎みつつも、いつのまにか力に依存していたんだ。そしてこれから
はそれをやめなければならない。」
「・・・・・」
「君が君自身の全てを懸けて自然にシンジ君を愛せばいい。その結果がどうな
るか僕にはわからないが、きっと今よりは遥かにいいと思う。そしてシンジ君
も・・・そんな君が伝わると思うよ。」

綾波は少しずつ、その瞳に生気を取り戻していた。
しかし、それは妖しく輝く渚さんの紅ではなく、ほんの少しだけくすんだ赤に
変わっていた。
そして綾波は自分から立ち上がる。
渚さんに手を引かれても起き上がろうとはしなかったと言うのに。

「・・・・私・・・・行かなきゃ。」
「・・・・・・・・・・どこへ?」
「私の居場所は、ここにはないもの。」
「・・・・・」
「ありがとう。私、あなたを誤解していたのかもしれない。いや、誤解したか
ったのかも・・・・」
「いいんだよ、綾波レイ。」
「私、あなたの言う通りにするわ。力はもう使わない。私にはもう、力なんて
必要ない。私の存在価値は・・・碇君を守る事じゃない!!」
「・・・・そうだよ、レイ。」
「存在価値なんて必要ない。私はただ、こうして存在しているだけ。そして私
は碇君を愛するの。そう、ひとりの女として・・・・」
「そして僕はそんな君を支えるよ。君は僕達にとって、唯一の希望なんだから・・・」
「・・・ごめんなさい。」

綾波は渚さんの言葉を聞くと、小さくひとこと謝った。
それは渚さん自身に示唆された事ではあったものの、自分の個人的な欲望の為
に、自分の忌まわしい重荷を渚さんひとりにかぶせる事になると言うものなの
だから・・・
しかし、渚さんはそんな綾波に言う。

「気にしなくてもいい。これは僕の選んだ道だ。君には代わりに僕がいるから
力を使わないとか、そんな風には思って欲しくない。むしろそれは、僕に対す
る侮辱だよ、綾波レイ。」
「・・・・・わかったわ。もう言わない。」
「それでいい。」
「私、行くから。」
「ああ。」

綾波は行く。
終わりのなかった綾波の輪も、行く先を見出した。
永遠が限りあるものとなり、未来が形作られ始める。
そして綾波はそれを感じながら行く。
自分の本当の居場所に向かって・・・・


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