私立第三新東京中学校

第二百六十七話・逃げなくてもいい


緩やかにカーブを描く坂道。
立ち並ぶ木々が照り付ける日差しを所々で遮り、駆け抜ける微風が涼気をもた
らしてくれた。僕はそんな涼しげな位置に陣取り、ガードレールの上に腰を下
ろしている。

「ふぅ・・・」

走った際にかいた汗が乾くにしたがって、気化熱で僕の体温と、それから頭に
上った興奮までも飛ばしてくれた。
実際僕はどうかしていた。
あんなこと、言うつもりじゃなかった。
少なくともいつもの僕ならば、情けなくも慣れた感じでかわしていたはずだ。
だが、アスカが僕に綾波とキスしろと言うようなことを示唆しているのを、い
や、半ば強要しているのを聞いて、ついかっとなってしまったのだ。
アスカが示すキスの形はそれはもう、気分次第でころころ変わって・・・ちょ
っと前のアスカならば、絶対そんなことは言わないだろうと思えるような台詞
だった。
しかし、そんなアスカの変化にも、原因と言うものがあり、この僕にも何とな
くではあるがわかるような気がしていた。

アスカと綾波。
そして、僕とアスカ。
特にアスカと綾波の関係はここ数日の間に急接近したと言っても過言ではない
と思う。そもそもの発端は、この父さんのマンションに越してくる前後のこと
であったのだが、綾波の持つ力の問題でまた二人は一段階前へと進んだ。
そして僕とアスカの関係は・・・何がきっかけなのか、いまいちはっきりしな
い。ただ、いつのまにか、僕はアスカのことを受け入れていたような気がする。
そして綾波とは違った目で見るようになって・・・それが恋なのか、というこ
とになると、断定できない。むしろ僕は恋ではないと思う。ただ・・・
よくわからなかった。いつもならば理性を取り戻すと論理的に自分を見つめる
ことが出来るのだが、今回だけは頭の中でぐるぐるして、自分の中で結論を出
すことが出来なかった。僕がアスカに何を求めているのかもわからなかったし、
これからどうしたらよいのかもわからなかった。

「ふぅ・・・・」

だから僕はため息をつく。
飛び出してきた手前、流石の僕ものこのこ戻るなんて出来ない。
かと言って独りでどこかに行ってしまうなんて出来るはずもなく、ただぼんや
りとガードレールに腰掛けて、危なっかしく足をぶらぶらさせていた。

しかし・・・・僕の耳に、音が聞こえた。
通学用の合皮の靴。
聞き慣れた足音。
乱れる呼吸が急いでいる様子を表し・・・・とそんな呑気な分析をし終える間
もなく、彼女は姿を現した。無論彼女と言うのは・・・アスカのことに決まっ
ている。

「シンジっ!!」
「アスカ・・・・」

驚くでもない、こうなることがわかりきっていたような僕の反応。
僕にはわかっていたのだ。
アスカが僕のところに来てくれることくらい・・・・

「・・・シンジ?」

アスカは僕が逃げ出すのではないかと思っていたのかもしれない。
少々拍子抜けしたと言った感じで、僕の名前を再び呼ぶ。

「あ・・・ごめん、アスカ。」
「って、えっ?アタシが謝ろうと思ってたのに・・・・」
「い、いや、僕の方こそ何だか興奮しちゃって・・・僕らしくなかったよね。」

僕はアスカの顔を見て、却って落ち着きを取り戻せたような気がした。
独りでいることに不安を抱いている、というよりも、アスカがいないと言うこ
とが不安だったのかもしれない。特にアスカに怒鳴って離れ離れになったよう
な場合には・・・・

「そ、そんな・・・謝るのはアタシ。だからシンジは謝んないで。」
「そ、そう?」
「そうなの。いいから・・・もう、アタシに謝らせなさいよ。」

自分が謝る立場になることを僕に強要するアスカ。
なんだかとってもアスカらしくって、僕はいつもの僕に戻った。

「と、とにかくその・・・・」

アスカはそう啖呵を切っても、やっぱり謝り慣れていない手前、うまく謝れな
い。しかし、謝り巧者の僕は、そんな自分を嫌っているので、初々しいアスカ
の様子には好感以外のなにものをも抱かなかった。
そして僕はアスカを急かさない。
アスカが、自分の口から言い終えるまでゆっくり待つ。
それが僕のやり方だった。

「ご、ごめんね、シンジ。アタシ・・・・その、アンタの気持ち、わかってな
かったみたいで・・・」
「いいんだよ、アスカ。アスカがそう言った気持ちも、よくわかるんだし・・・」
「で、でも・・・・」
「いいんだって。僕はアスカが綾波のことを思ってくれてるって言う事実は、
凄くうれしいんだから・・・・」
「でも・・・・シンジは、その・・・・」
「好きだよ、アスカのことが。」

すんなり言えた。
僕にとっては、言いにくいどころではない台詞のはずなのに。
でも・・・なんだか今の僕には相応しい台詞のような気がしてならなかった。

「シンジ・・・・」
「今までアスカには何度も好きだって言って来たと思う。そして、そんな僕の
言葉に、嘘偽りはなかったと思う。もちろん今も、僕のほんとの気持ちだよ、
アスカ。」
「シンジ・・・・」

僕はあんまり好きだ好きだなんて言わない。
安っぽい台詞になってしまうような気がしたし、そもそも好きと言う気持ちが
よく理解できなかったところもある。まあ、今も理解出来たかと言えば、理解
出来ないと答えるだろう。でも、今の僕のアスカに対する想いをひとことで表
すならば、それは「好き」というのが一番適しているような気がした。
そして僕の自然な言葉に、アスカは言葉を失って、僕の名前を反芻し続けるだ
けだった。

「アスカや綾波みたいに熱狂的じゃないかもしれない。でも、やっぱりアスカ
がいないと・・・・駄目なんだよね、僕。」
「・・・・」
「情けないよね。何だか大層な口きいてるのに、実際は女の子に依存してるっ
て言うんだから・・・・」
「・・・・」
「そして、綾波はその・・・・なんて言うか・・・」
「守ってあげたい?」
「そ、そう。守ってあげたいんだ。やっぱりなんだかんだ言ってても、今の僕
にとっては綾波が一番の心配事だし・・・・」
「アタシは?」
「もちろん守ってあげたい。でも・・・でも、それだけじゃないんだ。なんて
言ったらいいのか・・・」
「・・・・何かがあるのね、アタシとシンジには・・・?」
「う、うん・・・その何かってのが何なのか、僕にはわからないんだけど・・・」

アスカが何を教えてくれた訳じゃない。
しかし、アスカと会話を重ねることで、僕は自分の心を整理することが出来た。
そして、そんな僕の中に引っかかるもの、それが僕を惑わせていた。
するとアスカはひとこと僕に言う。

「わかんなくてもいいじゃない。」
「えっ?」
「それが何なのかわかんなくっても、その何か、があるってことが重要だとア
タシは思うな。」
「そう・・・かもしれないね。」
「これから二人で探して行けばいいじゃない、その答えを・・・」
「アスカ・・・・」

アスカは微笑みながら僕にそう提案する。
アスカの微笑みはいつも元気で、僕にも楽しい気持ちを分け与えてくれた。
その中にはいつもわくわくとドキドキが詰まっていて、これから何が起こるん
だろう、と僕を好奇心で満たしてくれたものだ。
そして僕はその原因が何なのか知りたくて、いつもアスカについていく。
いや、二人一緒に並んで歩いて・・・・

「やっぱりアタシ、不安だったんだと思う。でも、今ならわかるの。形なんて
何も要らないってことが・・・・だって、シンジと一緒にいるだけで、こんな
にいい気持ちなんだもん。」
「そ、その・・・・僕も、そうだと思う。」
「でしょ?」
「うん・・・だから、綾波にキスするなんて、僕は我慢出来なかったんだ。そ
れこそ綾波に失礼なだけだと思って・・・・綾波の気持ちを思うなら、一緒に
いてあげるだけでよかったんだよ。」
「そうかもね。だからアンタは、お月見につきあったんでしょ?」
「そこまでは考えてなかったけど、アスカの前でキスしてあげるよりも、二人
だけの時間を作ってあげた方が、綾波は喜ぶと思うな。」
「そうよね・・・・アタシ、レイに悪いことしちゃった。」
「だね。」

僕ははっきりと断言した。
アスカが自分で認めたからでなく、それが事実だと僕は感じていた。
そしてアスカもそんな僕に気を悪くすることもなく、ひとことこう言った。

「あとでちゃんと謝っておかなきゃね。」
「うん。」
「レイの辛さ、悲しさ、アタシにはきっと理解出来ないと思うけど・・・」
「そうだね。僕も理解出来ないと思うよ。いつまで経っても・・・・」
「でもアタシ、レイに同情したりはしないわ。レイに失礼だもん。」
「綾波は同情に溺れるほど弱くないからね。それよりも綾波の強さが却ってそ
れを侮辱に感じとると思う。」
「・・・だからアタシは憧れたのかもしれないわね、あの娘に・・・」
「僕も時々思うよ。どうして綾波はこんなに強いんだろう?ってね。」
「そうね・・・・」

言葉は途切れる。
僕もアスカも、綾波を思うと辛かった。
二人とも綾波の強さの根源が何処にあるのかを知っていたし、知っているから
こそ綾波の切ない気持ちを痛いほど感じていたのだ。
でも、だから綾波に遠慮しようとか、そんな考えは毛頭無かった。
そして、そんな僕とアスカの共通した思いが、再び二人の口を開かせた。

「シンジ?」
「アスカ?」

二人同時に唐突に口を開いたので、僕とアスカは目と目を合わせ、そして数秒
後に笑い出した。
爆笑と言う訳でもなかったが、なぜかくすくす笑いは止まらずに・・・二人と
もまるで笑うことを楽しんでいるかのようだった。

「アタシ達、なるべくしてこうなったのね。」
「そうかもしれないね、アスカ。」
「自分で言うのもなんだけど、もうお似合いって言うのも通り越してるような
感じだもん。シンジ以外の相手とじゃ、こんなうまく笑えないだろうからね。」
「そうだね。やっぱりアスカとじゃないと・・・・」

僕がそう言うと、アスカは急に僕にくっつくくらいに顔を近づけて、ひとこと
訊ねてきた。

「好き?」

何を、なんて愚問はしない。
だから僕も、その対象を口にせずに答えた。

「好きだよ。」
「アタシも好き。」
「よかった。」
「どして?知ってるはずでしょ?」
「うん。でも、とにかくよかったんだ。」
「・・・そうね。アタシもとにかく好き。もう、理由なんてわかんないくらい。」
「わかんない・・・わかるまで、どのくらいかかるのかな?」
「さぁ・・・そのうちわかるわよ。でも、焦る必要はないんじゃない?」
「そうだね。まあ、なるようになれ、って感じだよ、僕も。」
「あら、シンジも悟ってきたわねぇ。その調子その調子。」
「ははは・・・悟ってきたのかなぁ?」
「そうよ。以前のシンジじゃ絶対そんなこと、言わなかったし・・・・」

そしてまた沈黙。
僕とアスカ、二人の胸の中に今までにあった出来事が去来しているのだろう。
以前の僕、そして以前のアスカを考えると、確かに色々あったし、成長、とは
言えないかもしれないが、変化したことも多かったと思う。

「シンジ?」
「なに、アスカ?」
「憶えてる、あのデパートでアタシが言った言葉・・・?」
「いつのこと?」
「ほら、アタシがアンタから麦藁帽子を奪って・・・・」
「ああ、あの時・・・もちろん憶えてるよ。」
「アタシ、あの時アンタに言ったわよね、二人で逃げちゃおうって。」
「うん・・・・」
「でも、今ならはっきり言える。逃げなくてもいいってね。」
「アスカ・・・・」

そう言うアスカは、なぜか輝いて見えた。
そして僕はアスカの言葉の続きを待つ。
いつものように僕に新しい何かを見せてくれるのではないかと思って・・・・

「周りに誰がいようと、もうアタシ達は変わらぬアタシ達でいられると思うの。
だから・・・・」
「だから?」
「だから、アタシは恐れない。周りの連中も、山岸も渚も、そしてレイも。や
っぱりアタシはこの世界が好きなの。みんなもいる、シンジと一緒の世界が・・・・」

そう、世界はひとつしかない。
逃げようとしたって、僕達にはこの世界しかないのだ。
だから僕は、そしてアスカはここに固執する。
みんながいて、更にその前提として、お互いの存在があるから。
どこに行ったって、これだけは変わらない。
他人がいなくなることは絶対にないし、そしてアスカも・・・・
だから逃げなくてもいい。
逃げることに意味なんて無い。
アスカはそれに気付いたから・・・僕達はここにいようと思う。
僕達の愛する、この世界に・・・


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