私立第三新東京中学校

第二百六十六話・分かたれた道


「な、なんだってのよ、あの馬鹿は・・・?」

そう言ってから、アスカは動揺を隠すように周りを見渡した。
だが、みんなは一様に冷たい目でアスカを見つめていた。

「ア、アタシが悪いって言うの?あのバカシンジが言ったように・・・?」
「・・・・」

だが、みんなはただ視線を送るだけで、アスカに答えようとはしなかった。
そんな対応を受けたアスカは、まるで独りぼっちになってしまったような気が
して、つながりを求めた。
まずアスカが最初に選んだのは、いつもと変わらないように見える綾波であっ
た。

「まさかアンタまでアタシが悪いって言うんじゃないでしょうね?」
「・・・・私に言わせる気?」
「そ、そうよ。悪い?」

アスカは綾波の不気味な迫力に気圧されながらそう応えた。
だが、そんなアスカを蔑むように綾波は言った。

「・・・・あなたは馬鹿よ。」
「ど、どうしてよ?」
「あなたがそれを私に聞こうとする限り、あなたは馬鹿のままだわ、アスカ。」
「・・・・・」

アスカは綾波がどうしてそんな事を言うのかわからなかったが、とにかく綾波
では駄目だと言うことに気付き、洞木さんに訊ねた。

「ヒカリ・・・・」
「あたしも綾波さんに同意見。どうしたのよ、アスカ?いつもだったらみんな
に鈍感鈍感って大きな声で言うくらいこういうのには敏感だって言うのに・・・・」
「わ、わかんないわよ、そんなこと言われたって。」
「ともかく悪いのはアスカ。碇君に全く悪いところが無い訳でもないけど、今
のは間違いなくアスカが悪いわ。綾波さんが可哀想すぎるわよ。」
「・・・レイが?」

アスカは洞木さんの言葉で、驚いて綾波の方を向く。
だが、アスカに見られた綾波は、そっと視線をアスカから逸らした。
アスカは明らかに避けられている様子を見せ付けられて、一瞬かっとしかけた
が、洞木さんの言葉を思い出し、なんとか自分を抑えた。
すると、そんなアスカの葛藤を見守っていた洞木さんがアスカに救いの手を差
し伸べる。

「・・・・言葉で言われなきゃわかんない?」
「ヒカリ・・・・」
「あたしはアスカ自身で答えを導き出して欲しかったんだけど・・・」
「ごめん、ヒカリ・・・・アタシ、鈍感で・・・・・」
「いいのよ。アスカだって人間だもんね。あたしもアスカの親友としてこうい
う時の為にいるんだし・・・」
「・・・・」

アスカは自分には親友と呼べる友がいるのだと言うことに喜びを感じつつも、
洞木さんの教えてくれる核心を待った。

「碇君はね・・・・ほんとにアスカのことが好きなのよ。わかる?」
「えっ・・・?」
「今までは中途半端だったかもしれないけど、ほんとにアスカが好きだから、
碇君はああ言ったのよ。」
「よ、よくわからないわよ、ヒカリ。もうちょっと詳しく説明して。」

アスカは懇願するように洞木さんに求めた。
洞木さんの言葉は、今まで思っても見なかった驚愕に値する事だったからだ。

「もう・・・・まだわからないの?つまり、アスカが好きだから、碇君は綾波
さんにキスしたくないって言ったの。これならわかるでしょ?」
「で、でも、シンジはアタシの前で平気でレイを抱き締めたりして・・・・」
「そこが碇君の引いたラインなのよ。最近碇君、綾波さんにキスしてないでし
ょ?」
「そ、そうかなぁ・・・?」
「ちょっとしたのはあっても、唇に濃厚な奴はないわよ。アスカが碇君を襲う
時みたいなのは。」

洞木さんはそう言うと、ちょっと意地悪そうな目をアスカに向けた。
アスカはそんな洞木さんに恥かしそうに言う。

「や、やめてよ、ヒカリ・・・・そんなんじゃないってば。」
「まあ、冗談はいいとしても、碇君は綾波さんの気持ちだって知ってるし、最
近綾波さんに色々あるから、何かしてあげなきゃ、自分が支えてあげなきゃっ
て思ってるのよね。だから碇君は綾波さんを抱き締めるの。それもごまかしで
なく、心の底から・・・・」
「・・・心の・・・底から・・・・・」
「でも、碇君はキスはしない。碇君のキスは、アスカの為にだけあるのよ。な
のにアスカはそんな碇君に対して綾波さんにキスさせようとなんかして・・・
あれじゃあ碇君が怒っても当然よ。」
「そ、そんな・・・・」
「そして綾波さんもそんな碇君を知ってるの。綾波さんは何にも言わないけど、
悲しくない訳が無い。ただ、碇君が自分を守ってくれる、どんなことがあって
も抱き締めて涙を拭いてくれるって信じられるから、今の自分を保っていられ
るのよ。でも、アスカはそんな綾波さんの気持ちも気付かずに・・・・」
「・・・・もういい。」

アスカは小さく洞木さんのお説教を遮った。
洞木さんはそんなアスカを咎めようとしたが、当のアスカの姿を見て、何も言
えなくなってしまった。あのアスカが、なんとうつむいたまま大粒の涙を流し
ていたのだ。

「・・・・ア、アタシ、ほんと、大馬鹿だよね・・・・第三者のヒカリにさえ
わかる事だってのに、全然気付かないで・・・・」
「アスカ・・・・」
「あ、あのバカシンジになんて顔を見せたらいいのか・・・・わ、わかんない
じゃないのよ・・・・」
「・・・・」
「う、うれしいはずなのに、なのになんで涙が出ちゃうんだろ・・・・と、止
まらないよ・・・おかしいな・・・・」
「・・・・アスカ。」

二度目の呼びかけは、洞木さんのものではなく、綾波のものだった。
そしてそのことに気付いたアスカはばつが悪そうにちょっと顔を上げると、小
さく応えた。

「レ、レイ・・・・」
「気にしないで、アスカ。私はまだ、諦めた訳じゃないから。」
「レイ、アンタ・・・・」
「でも、アスカには責任を取る義務があるわ。私の碇君を傷つけたんだから・・・」
「ア、アタシを許してくれるの・・・・?」
「許さないわ・・・」
「・・・・」
「碇君をこのままにしておいたらだけど。」
「レイ・・・・」
「私は月の綺麗な晩だけ碇君を独占できたらそれでいいわ。そしてそれ以外は
碇君に守ってもらえればそれでいい。でも、私はキスしてもらえないのは我慢
出来たとしても、碇君が傷つくのは黙ってい見ていられない!!」
「・・・・・」
「私は碇君に守ってもらう存在だけど、それと同時に碇君を守る存在でもある
の。だからアスカ、今すぐ行かないと私は碇君を守るために、考え付くありと
あらゆる行動に出るわよ!!」

綾波の叫びに、心からの訴えにアスカは全身をびくっとさせる。
まるで神託を受けたかのように・・・・・
そしてアスカは動き出す。
上り坂の先へと向かって・・・・

「ごめん、レイ。この借りは、必ず返すから・・・・」
「思い上がらないで。私はまだ、負けたつもりじゃないから。だから私は最後
まで諦めない。最後の最後で碇君の心を手に入れるのはこの私、そして薔薇と
レースは私の為に待ってるの・・・・」
「・・・知ってたんだ、アンタ・・・・」
「私は伊達に、アスカに優等生って呼ばれてた訳じゃないわ。」

驚くアスカに、綾波は微笑みながらそう答える。
そしてアスカは・・・もう躊躇わない。
前を向いてただ、先へと進むだけだった。

「・・・・・・」

走り行くアスカの背中をじっと見つめる。
そしてもう大丈夫だと思った綾波は、緊張の糸がぷつりと切れたかのように、
地面に崩れ落ちるようにへたり込んだ。

「綾波さん!!」

洞木さんはこの可能性を予期していた。
綾波の演技は完璧で、真に迫るものであったが、綾波の心を知るものならば、
こうなることくらい予想できたのだ。
だが、洞木さんが思っていたのと、その落差はあまりに激しかった。
綾波は誰かに操られていたかのように演じ、そして演技が終わると操り糸を外
されたマリオネットだった。

綾波の一番近くにいたのは、紛れも無く洞木さんであった。
そして洞木さんは綾波の変化にも自分が一番速く対応しようとしたはずだと思
っていた。
しかし、気が付いたら自分の目の前にケンスケがいた。
洞木さんはケンスケの想いも知っているから、ここはケンスケに任せようと思
い、身を引こうとした。だが・・・・そんな素早いケンスケよりも更に先に、
なぜか渚さんがいた。渚さんは洞木さんの知る限り山岸さんと一緒に一番遠く
にいたはずだった。だが、渚さんはケンスケに先んじると、綾波を背中から抱
き締めた。

「・・・・泣けばいい。僕も知ってるよ、涙を流すことが、どういうことかっ
て・・・」
「・・・・」
「君の強さは、誰よりも僕が知ってる。僕は自分がシンジ君の代わりになれる
なんて思い上がりはしないけど・・・・でも、これは包帯のお礼だよ、綾波レ
イ。君のやさしさ、それが僕を動かしたんだ・・・・」
「・・・・」
「君は僕にとって好意に値するよ。どうして君はそんなに強くなれるんだ?何
の為に君は強くなるんだ?僕にはわからない、わからないよ、君の強さが・・・・」
「・・・・碇君・・・・・」

涙を流しているだろうと思しき綾波の鼻にかかった声が、綾波の背中を抱き締
めている渚さんの耳にだけ届いた。

「そう・・・・やっぱりシンジ君なんだね。君のその涙も、全部シンジ君の為
のものなんだ。君は絶対に彼以外の為に涙は流さない。そう、たとえそれが自
分の為であったとしても・・・・」
「・・・・・」
「僕にはわからない。君が望むのは、君の欲望はシンジ君を得ることではない
のか?なら、何だって手段があるではないか。」
「・・・・」
「そうか・・・・人を得ることと言うのは、簡単なことではないと言うことか。
試行錯誤を繰り返し、果てしない涙の後に、人は安息の地を見つける・・・・
君は人としての幸せに生きることにしたんだね、綾波レイ?」
「・・・・」

綾波は何一つ渚さんに答えてはいなかった。
だが、渚さんはまるで綾波と会話しているようにひとりで話を進めていった。
身体と身体を触れ合わせることで、人の心までをも読み取ることが出来るのか・・・
いや、それは違うと思う。
渚さんは誰よりも綾波を理解しているから・・・自分に照らし合わせているに
過ぎない。二つの似姿は、心も身体も、今まさにひとつになっていた。

そして突然何を思ったのか渚さんは綾波から身体を起こし、うずくまる綾波の
肩に手をかけて、無理矢理自分の方を向かせた。

「あっ・・・・」

綾波がか細い声を上げる。
最早綾波は、渚さんと対立していた綾波ではなかった。
今綾波が全力を振るったとしても、きっと髪の毛一筋も損なわせることは適わ
なかっただろう。それくらい綾波の瞳は弱々しく涙に濡れ、一方で渚さんの瞳
は妖しい真紅に力強く光り輝いていた。

そして渚さんは無理矢理綾波と瞳を一つにする。
綾波はそれから逃げようと身じろぎをしたが、なぜか避けることさえ出来なか
った。

「いいだろう、綾波レイ。君が人として生涯を全うするのなら、僕は人ではな
い道を歩もう。僕達の道はもう、二つに分かたれた。君が愛の道を選ぶのなら、
僕は修羅の道を歩もう。はじめからそう決められていたんだ。血を流すのは僕
ひとりでいい。君は涙を流し、僕は・・・・」

渚さんは叩き付けるようにそう言ったかと思えば、突然感極まったかのように
天を仰いだ。

「博士、やっぱりあなたの言った通りでした!!僕は人形になどなりきれない!!
僕は僕の道を歩む!!」

まるで何かに誓うように叫ぶ渚さん。
その声は虚しく木霊していった。
しかし、誰かがそれを聞いていた。
そして・・・・そして、時の歯車は回り始めた・・・・・


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