私立第三新東京中学校

第二百六十五話・月の魔力


「なんや、えろうしんどい坂やなぁ・・・」

流石のトウジも疲れたのか、少々弱音を吐く。

「まあ、もう少しだから我慢してよ、トウジ。着いたらゆっくり出来るんだし
さ。」

僕はそんなトウジを励ますようにそう言った。

僕達の住むマンションは、ちょっと小高い丘陵地にある。
そもそも第三新東京市は山地が多いから、そう言う場所に住んでいる人も少な
くない。ただ、流石に山の上だと街中まで出るのも時間がかかり、そのせいで
割とお金持ちの住む地域と化していた。
そして、僕達の住むところも、そんないくつかの高級マンションの一つの一角
にあったのだ。

「でも、いい景色よね。ほら、第三新東京市が一望できるじゃない・・・」

洞木さんが軽く汗を拭いながらそう言う。
確かにここから見る景色は汗をかいた量に値するほどの絶景であった。
僕達は毎日の登下校で見慣れていると言うものの、初めて見た時にはしばらく
見惚れてしまったものだ。

「まだ少し日は高いけど、もう少しで日が沈む頃になると、夕焼けがすっごく
綺麗なんだから!!ヒカリも後で外に出て見てみなさいよ。」
「そうね。アスカの言う通り、ここからの景色、綺麗な夕焼けを予感させるわ。」

なんだか妙に嬉しそうに言うアスカに、同じくそんなアスカが嬉しいのかにこ
やかに笑いながら洞木さんも返事をした。
僕はそんな二人を見て、こう言ってみる。

「アスカは夕焼け、大好きだからね。時々僕と綾波を引っ張り出しては、わざ
わざ見に来るくらいだもん。」
「へぇ・・・そうなんだ。アスカらしいかもね。」

僕の言葉にちょっとした感慨を覚えた洞木さんであったが、アスカは洞木さん
の言い方がちょっと気になったのか、僅かに眉ひそめながら言う。

「何よ、ヒカリ、その言い方は?」
「えっ?別に何でもないわよ。アスカと夕陽、似合ってるなって思って・・・」
「そう・・・ならいいけど。」

アスカが思ったようには洞木さんは含みを持たせた会話をしていなかったので、
アスカも取り敢えず矛を収めた。まあ、このくらいで矛などと言っては、アス
カは全身武装していると言わなければならないのだが・・・・

「アスカが夕陽なら、やっぱり綾波は月だよね。」

僕はそう言って、少し寂しそうにしているように見えた綾波に振る。

「えっ・・・?」

綾波は急に自分に振られたので、少しだけ驚きの色を示した。
僕はそんな綾波を支えてあげるように、続けてこう言う。

「そう思わない?第一僕も時々綾波に連れられて真夜中に月を見に行ったりし
たし・・・」
「ちょっと待って。」

僕が言い終えるか終えないかくらいに、アスカが妙な迫力を持った声で口を挟
んだ。

「な、なに、アスカ・・・?」
「アタシは一度もレイに月を観ようって誘われたことはなかったわよ。」
「そ、そうだっけ?確かにアスカと月を観た記憶も無いような気がするけど・・・」
「無くて当たり前よ!!このアタシが無いって言ってるんだから!!」

アスカは大きな声でそう言うと、綾波の方をぎろりと睨み付けた。
すると綾波は澄ました顔をしてアスカにこう言った。

「アスカ、よく寝てたから・・・・」
「じゃあシンジはどうなのよ!?寝てなかったとでも言うの!?」
「・・・・寝てたわ。ぐっすりと。」
「じゃあ、どうしてシンジは起こしてアタシは起こさないのよ!?アタシはシ
ンジと一緒にアンタも誘ってあげてるって言うのに!!」

アスカの言い分はもっともだった。
アスカにしてみれば、綾波を仲間外れにしては可哀想だと言う気持ちがあって、
僕と一緒に綾波を誘ってあげていたのだろうと思う。なのに自分の好意を無に
するがごとく、綾波から誘われなかったと言うのは、アスカが憤りを感じても
当然のことだろう。
だが、そんなアスカに綾波は静かに言った。

「だってアスカ、寝起き悪いでしょ?夜中に起こしたら、ぶたれるのが目に見
えてるもの。」
「う・・・・」

確かに綾波の言う通り、アスカには前科が有った。
アスカは僕が起こさない限り、なかなか起きてこようとはしない。
かつて綾波は、僕がアスカを毎朝起こしているのが不満なのか、何度かその役
を買って出たことがあったが、リビングに戻ってきた綾波は大抵頬を腫らして
いた。アスカは大体寝ぼけ眼で自分が何をしたか全くわかっていないと言う感
じであったが、僕は綾波がアスカに叩かれたのだと言うことを即座に理解した。
綾波は黙って何も言わなかったものの、幾度かの苦い経験を経て、アスカを起
こそうとは言い出さなくなった。
流石の綾波までもが音を上げるほどなのだから、相当手酷い扱いを受けたので
あろう。僕に対してもそういう傾向が無かったとは言えなかったが、幾分僕だ
と言うことを認識しているのか、本気でビンタされるようなことはなかったし、
強烈なキスに取って代わられると言うことも多かったのだ。

「碇君は寝起きもいいし、いつも私に喜んで付き合ってくれるわ。私もアスカ
に一緒に観て欲しかったんだけど・・・」
「・・・・」

綾波にも言い訳の原因があったものの、ちょっと白々し過ぎた。
まあ、アスカが夕陽を見ようと言い出す時は、綾波のことをおまけ程度にしか
考えていないのだから、同じく綾波にとってもアスカはおまけで、おまけを省
いても構わないと思えたのかもしれない。だが、それではアスカがあんまりな
ので、僕は二人に向かってこう言った。

「じゃ、じゃあ、今晩は夜更かししそうだし、みんなで月を観ようよ。ええと、
今日の月は・・・・」
「満月じゃないけどいい月よ、碇君。」
「あ、綾波、詳しいね・・・・」
「ええ。私、月が好きだから・・・・」
「そ、そう・・・・驚いたよ、ほんと。」
「満月の夜には碇君を誘うことにしてるの。もちろん晴れの日だけだけど。」
「そうだったんだ・・・いや、気付かなかったよ。確かに綾波に誘われた日は、
綺麗な月の時がほとんどだったような・・・・」

意外にも月に精通している綾波。
僕は驚きながらひたすら感心していた。
そして綾波はそんな自分を少し誇らしく思ったのか、少しいつもよりも饒舌に
なって僕に訊ねた。

「知ってる、碇君?」
「え、何を?」
「満月の夜は、人を狂わせる、って・・・・」
「えっ?狼男の話なら、僕も聞いたことあるけど・・・・」
「それは月の持つ魔力の一部なの。満月は、美しいだけでなく、狂気を誘うも
のなのよ。」
「そ、そうなんだ・・・・で、でも、それがどうしたの?」

僕がそう訊ねると、綾波は急に真っ赤な顔をして小さくこう言った。

「・・・碇君、いっつも控えめでしょ?」
「ま、まあ・・・」
「だから満月の力を借りれば、もう少し積極的になってくれるんじゃないかっ
て思って・・・・」

僕は綾波の言いたい事がよくわからなかった。
しかし、隣で黙って聞いていたアスカは即座に綾波の言いたいことを理解した
のか、大きな声で叫んだ。

「こ、こっの色惚け娘がぁっ!!だからアタシを誘わなかったんでしょうが!!」
「えっ、どういうこと、アスカ?」
「つまりこいつは満月でアンタがふらふら〜っときて、自分を襲ってくれるん
じゃないかなんて思ってたのよ!!」
「う、嘘・・・・」
「ったく、アンタはこいつの純粋さを過信し過ぎてるのよ!!レイだって女!!
アンタがいつまで経っても、二人きりになっても手を出そうとしないなら、そ
りゃあアタシみたいにじれったくなることだってあるわよ!!」
「そ、そう・・・・そうなの、綾波?」

僕はアスカの言葉があまりにも真実味に溢れていたので、その真偽を綾波に聞
いてみた。すると綾波は、真っ赤な顔をしてうつむきながらも、小さくひとこ
と、僕に答えた。

「・・・・うん。」
「綾波・・・・」

僕はそんな綾波を見て、何とも言えなくなってしまった。
するとアスカが僕に向かって静かにこう言って聞かせた。

「アタシはシンジを襲えばそれでお終いだけど、レイはそういうこと、出来な
い娘なのよ。アンタだって知ってるでしょ?」
「う、うん・・・・」
「それに、アンタに迷惑かけたくないって気持ちもアタシとは比べ物になんな
いほど強いし・・・・だから自分からキスできないのよ。わかるでしょ?」
「うん・・・わかるよ、アスカの言うこと。」
「可哀想だと思わない?」
「思うよ。でも・・・・」
「でも、なんなのよ?」
「そんな、同情でキスするようなこと、僕には出来ない。」

僕は喉に何かを詰まらせたような声でアスカに答えた。
だが、アスカはそんな僕の気持ちなど吹き飛ばすかのように大きな声でこう言
った。

「・・・・ほっんとに馬鹿ね、アンタって。しかも筋金入りだわ。」
「な、なんでだよ?僕の言ってること、間違ってる?」
「間違ってないわよ!!でも、アンタはレイが嫌いなの!?」
「・・・・好きだよ。当然だろ?」

僕はまるでアスカに叱られてでもいるかのように小さくなって答える。
だが、アスカに言わされた僕の答えは、うつむいていた綾波をぴくりと動かし
た。綾波は顔こそ上げなかったものの、なにか喜びと期待とに、胸を膨らませ
始めているような、そんな感じさえさせていた。
しかし、アスカはそんな綾波には気付かない。
僕に集中していたため、アスカは続けてこう言った。

「好きならキスしてもいいんじゃない?」
「・・・・キスするだけが、全てじゃないだろ?」
「確かにそうだけど・・・とにかく悪いことじゃないでしょ?」
「まあ・・・そうだよ。」

僕は少し憮然とした顔をして答えた。
アスカの論理に言い負かされつつある自分が、少し悔しかったからだ。
アスカに言い負かされるのは別に嫌ではないのだが、言い負かされつつある時
と言うのは、流石に僕もいい気分ではないのだ。

「で、レイがどうして欲しいか、アンタだってそこまで馬鹿じゃないんだから、
気付いてはいるんでしょ?」
「・・・うん。」
「で、自分の好きな娘が、アンタにキスされたいって思ってるのがわかってて、
それでもアンタはキスしないって言う訳?」
「・・・・うん。」
「ったく、だから馬鹿なのよ、アンタは!!レイが月の力を借りたくなる気持
ち、よくわかるわ!!」
「・・・・」
「好きならキスする、それでいいんじゃない?」
「・・・・」
「嫌なの?」
「・・・・嫌だ。」
「どうして?」
「・・・・・・」
「どうしてよ?それとも単なるその場しのぎの言葉だったっての?」
「・・・・違う。」
「じゃあ、どうしてよ?答えられるんでしょ?」
「・・・・」
「シンジ!!いい加減になさいよ!!」

アスカは黙りこくる僕に苛立ちを隠せなくなって、限界に達したのか僕を叱咤
するように叫んだ。だが、そんなアスカに対して、僕はアスカ以上に大きい声
で怒鳴りつけた。

「馬鹿なのはアスカの方だ!!僕の気持ちも知らないで!!」

僕は感情を爆発させると、そのまままるで風船を破裂させたように坂道を駆け
上がっていった。そしてアスカはそんな僕の後ろ姿をぽかんと眺めていた。
どうして僕が叫んだのか、全くわからないと言ったような感じで・・・・


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