私立第三新東京中学校

第二百六十四話・卵焼きとネギ


ぎこちない空気。
みんなそれを肌で感じて知っている。
洞木さんに指摘された時にはすぐに理解できなかったトウジでさえも、渚さん
の血濡れの包帯を見て、ただ事ではないと察知した。
しかし、渚さんの傷は、完全に癒えているように僕には思えた。
渚さんが自分で切り裂いたその腕は、切り開くと言う説明が相応しいかのよう
に、ぱっくりと開くほど深いものだった。もしかしたら骨までもが見えるので
はと思えるくらいに・・・・だから、ガーゼも消毒液も無しで、ただ綾波から
貰った包帯を巻いただけだと言うのに、そう簡単に傷口か塞がるなどと言うこ
とは、有り得るはずも無かった。そう、それが人間であるなら・・・

使徒もエヴァも、自身を癒すことが出来た。
だから、使徒の力を持つ渚さんも、人外の力を用いてそれを癒せるのかもしれ
ない。そして綾波もそのことを十分理解していて・・・・
意識してそれが発動するのか、僕にはよくわからなかったが、ともかく綾波の
包帯は、渚さんの力を人目に晒すことは避けることが出来た。きっと綾波も渚
さんの痛みを和らげようとか、血を止めようとかそういう意味ではなく、渚さ
んの力を隠そうと言う意図があったのだろう。綾波は渚さんを敵として認識し
て、その力を使って排除することも厭わないと言う態度をはっきりと僕達に明
示していたが、それとは別に、誰よりも渚さんのことを理解していた。
力を持つ存在ゆえの悲哀を共有し、だからこそお互いを憎むのかもしれない。
お互いがあるからこそ、見せたくない、持ちたくはなかった人の持たざる力を
使う・・・力を持つものは、ひとりだけなら問題なかったのだ。そもそも綾波
も、渚さんがその姿を僕達の前に現すまで、僕に力の存在を忘れさせるくらい
普通の女の子として振る舞っていた。僕はそんな綾波に安心していたのだが・・・
所詮、現実から逃れることは出来ない、と言うことなのだろうか?
ともかく、綾波にとっては、渚さんが出てこなければ普通の女の子としてこれ
からの人生をまっとうできたかもしれない。綾波はそれを肌で感じているから
こそ渚さんを必要以上に敵視しているのだろう。
渚さんと綾波、まさしく悲しい関係だと言えた・・・・

しかし、悲しみは悲しみのままでは、憎しみは憎しみのままでは終わらない。
それを僕に証明してくれたのが、アスカと綾波だった。
アスカと綾波は、渚さんと綾波の関係とはまた違った意味で、似姿を持つ存在
であった。
人が見ればアスカと綾波は正反対に見えるかもしれない。

赤とも言える栗毛のロングヘアと水色のショートカット。
アクアマリンのような青い瞳と、ルビーの赤。
元気過ぎる言動と、物静かで必要以上のことを口にしない性格。

ただ、それは表面上のこと。
二人とも傷つき易く、そして誰よりも僕のことを想ってくれていた。
中身に関しては共通点も多く、いや、僕には表現方法は全く違えど、おんなじ
にすら見えた。
そして似過ぎているが故に、求めるものが同じであること故に、ことある毎に
争いを重ねた。まるで今の綾波と渚さんのように・・・
だが、二人はお互いを受け入れた。
無論、欺瞞もある。
我慢していることもあるし、自分を譲っているところもある。
だが、そうしてまでもお互いの関係を良好なものにしておきたいと言う強い意
志が、僕には嬉しいものであった。
そして、それが綾波と渚さんにも通用するのではないかと・・・

僕は甘すぎるかもしれない。
世の中そんなに何でも上手く行くとは限らない。
でも、これはきっかけであり、兆しだった。
間違いなく綾波は渚さんを思い、包帯を差し出したのだ。
しかし、僕は綾波が包帯を所持していたなんて、今まで気付かなかった。
まあ、綾波の鞄を開けて中身を物色した事ないのだから、僕の知らないものが
入っていても当然かもしれない。だが、僕の知らない綾波がいると言う事実が・・・
僕を無性に心地よくさせた。
僕の持っていた不安、それは僕が綾波を縛ることであった。
だから僕が望めば綾波は自分の全て、それこそ鞄の中身から制服の中身まで、
ありとあらゆるものを見せてくれることだろう。
しかし、僕は見たくはなかった。
僕の知らない綾波がいると言うことが、僕に自分が綾波を自分のものにしてい
るのではないと伝えてくれているような気がして・・・・
僕は綾波を知っている。
だが、それはすべてではなかった。
加持さんが以前僕に教えてくれたように、人は人のことを全て理解することは
出来ない。当時の僕には何となくしか理解できなかったが、今ではかなりはっ
きりとわかる。つまり、全てを理解し合う関係と言うのは、そこからはもう、
人と人との関係と言うものを超越してしまっているのだ。
確かによく、全てを共有し合うと言う台詞が聞かれる。
僕とアスカも、そんな台詞を交わしたことが有るかもしれない。
だが、僕がアスカの鞄の中身を見たがったり、引き出しを勝手に開けようとす
れば、アスカは烈火のごとく怒り出すであろう。そう、それは人として当然の
ことなのだ。
だから僕は綾波の全てを知りたくはない。
たとえ綾波が僕に差し出してくれるとしても、僕はその目をつぶり、耳を塞ぐ
ことだろう。それは綾波を拒絶するのではなく、綾波を今の綾波としてみる為
に、大切な大切なことなのだから・・・・


綾波はアスカと並んで歩いている。
そのか細い腕にもかかわらず、重そうな荷物をしっかりと持っていた。
むしろ同じくらいの量を持っているにもかかわらず、アスカの方が辛そうなく
らいだ。僕はそれを変な風に捉えたくはなかったので、すぐに二人から目を逸
らす。
一方洞木さん達は、楽しげだった。
僕達の悲痛な雰囲気に付き合っていられるかとばかりに、三人で何か話しなが
ら、時折明るい笑い声を漏らしていた。
洞木さんはアスカや綾波とは違って、申し訳程度の荷物しか持っていなかった。
もともと荷物持ちとして、アスカ達のみにいるはずだったケンスケが、洞木さ
ん達に加わってその荷物を分け合って持っているのだから、こちらが楽そうで、
アスカ達に負担がかかるのは当然なのかもしれない。
だが、アスカにはケンスケを呼び付ける権利が有ったのだが、アスカは当然の
ごとくその権利を行使しなかった。ケンスケは時々心配そうに綾波の方に視線
を向けるが、それは慎重に慎重を重ねた、さりげないものだった。僕はそんな
ケンスケの微妙な気遣いが痛々しくて、心の中でケンスケに済まないと謝った。
僕がしっかりと綾波を守っていれば、ケンスケがそんな想いを抱くことはない。
考えてみると、ケンスケが綾波をこんな目で見るようになったのは、僕達が三
年になってから・・・そう、あの一件があってからだ。

春休みの間、僕達は一応の安定を見せていた。
唯一の心配の種でもあったアスカと綾波との対立も、二人の和解で安心できる
ものとなったし、そのおかげで僕達は何の不安も無く、あっという間に時は過
ぎ去っていった。今までの短い激動の日々が嘘のように・・・・
だが、新たに今、問題が浮上している。
それは、力の問題だった。
そして僕は、解決の糸口を見出せずにいる。
綾波にはすべてを受け入れると言ったことでひとまずの収拾を付けることが出
来たけれど、誰の目から見てもそれが一時的なものであることがわかる。
無論、僕の言葉がその場しのぎのものではないと言うことははっきりと断言で
きる。だから僕自身、自己嫌悪に陥ることも無いのであるが、そんな自己満足
で終わらせることが出来るほど、僕は呑気な性格ではなかった。
自分が綾波のことを守ると言った以上、たとえそれが僕の責任ではないとして
も、綾波の悲しみは僕の悲しみなのだ。そして綾波はそれを支えにしていると
言ってもよい。みんなもそれを何となく感じ取っているから・・・だから悲し
む綾波を見て、僕を不甲斐ないと思う。僕自身も不甲斐ないと思うし・・・・
ケンスケもきっと苛立っていることだろう。だからこそ、ケンスケには済まな
いと思うのであった・・・・

そして僕達。
渚さんは傷も癒えていたが、僕と山岸さんはそんな渚さんに荷物を持たせるこ
とをよしとしなかった。渚さんは何も言わなかったが、黙ってそんな僕と山岸
さんの意見を受け入れた。
僕も山岸さんも、渚さんを怪我人としてみているのだ。
いや、見たいと言う方が正しいだろう。
それは綾波の心遣いであり、僕達の意思にも適うものであった。
そして渚さんもそんな僕達の気持ちを知っているから、黙って受け入れたのだ
ろう。

僕達は洞木さん達ほどではないものの、アスカ達よりは色々買い込んでいた。
だから渚さんと言う持ち手を失っている今、荷物は僕と山岸さん二人には多す
ぎるものであった。しかし、僕は敢えて山岸さんには洞木さん程度の荷物しか
持たせなかった。それは単なる僕の強がりに過ぎなかったかもしれなかったが、
僕はトウジのそれに倣いたかったのだ。
トウジの人を守る形は僕の理想と言ってもよく、その姿は僕に色々教えてくれ
た。僕のやっていることは人真似であり、トウジのものとは違うかもしれなか
ったが、アスカが言うように形が重要なのだ。
形から入ることでその精神を理解し、それを自分のものにする・・・それがア
スカ流の考えだった。僕はそれを実践して幾ばくかながらも成果を収めている
と思う。そして僕はそんな自分がほんの少しだけ、誇らしく思えたのだった。

「碇君?」
「あ、なに、山岸さん?」

山岸さんは少し心配そうな目をして僕に声をかけてくる。
確かに僕にとっては重すぎる荷物だったので、辛そうな顔をいつのまにかして
いたのかもしれない。

「荷物・・・重くないですか?私、もう少しなら持てますけど・・・」
「い、いや、心配しなくてもいいよ。僕だって男なんだから・・・」
「でも・・・いくら男の人だって、限界があると思います。」
「そうだね。でも、僕はまだ限界じゃないから・・・・」
「そうですか・・・?」
「うん。それにほら、トウジも僕と同じくらい持ってるだろ?」

僕は両手が荷物で塞がっていたので、視線をトウジの方にやって山岸さんに指
し示した。山岸さんも僕に導かれてトウジを見たのだが・・・・

「確かにそうですけど・・・・碇君と鈴原君では、体格が違います。」
「そ、そう?同じだよ。」
「いえ・・・碇君、細身ですから。鈴原君もそんなにがっちりとしてる訳じゃ
ありませんが、荷物を持つ手もかなりしっかりしてますし・・・・」
「・・・・そうかもね。」
「碇君が私達を心配してくれる気持ち、うれしいです。でも、その為に無理を
しても、何にもなりませんよ。」
「・・・・ありがとう、山岸さん。なら・・・・アスカ達を手伝ってくれる?
結構たくさん持ってるから・・・・」

僕は荷物を持っていることにこだわりたかった。
トウジに憧れめいたものを抱く僕としては、こんなことで音を上げる訳には行
かなかった。大体人を守ると豪語しているのに、たかが重い荷物位でへこたれ
ては、単なる口先だけの言葉ととられても、仕方ないというものだ。
だが、そう言った僕に対して、山岸さんは大きな声でこう言った。

「私は碇君の荷物が持ちたいんです!!」
「・・・・や、山岸さん・・・・」

突然の叫びに、一斉にみんながこっちに視線を向ける。
山岸さんはその事実に気付くと、真っ赤な顔をしながら慌てて弁解をし始めた。

「あ、こ、これはつまり、私は荷物を持ちたいから言ったのではなく、碇君の
荷物を減らしてあげたいから言ったのであって・・・」
「・・・・」
「だ、だからそんな変なことは何にも無いんです。き、気にしないで下さいね。」
「・・・・誰もそんなこと言ってないよ、山岸さん。」

僕の指摘に、山岸さんは更に沸騰したように顔を真っ赤にした。
弁解するつもりが自爆してしまって・・・もう、ひたすら下を見るだけであっ
た。そしてそんな山岸さんを見た僕は・・・・

「はい、山岸さん。」
「え、えっ?」

僕は持っていた袋の一番軽そうなものを、空いていた山岸さんの手に握らせた。
山岸さんは突然僕の手が自分の手に触れ、そして開かされ、荷物を持たされた
事実を、驚きと共に呆然と受け止めていた。

「山岸さんの申し出、有り難く受けさせてもらうよ。」

僕は微笑みながらそう言う。

「い、碇君・・・・」

驚き入る山岸さんに、僕は黙って微笑みかけていた。
そして集まってきていたみんなのうち、アスカが僕に声をかけてきた。

「生意気にかっこつけたわね、シンジ。」
「・・・アスカ、重くない?」
「バカ・・・アタシにはそんなの通用しないわよ。それに、アタシがアンタに
荷物を持たせるんじゃ、この娘の好意が水の泡でしょ?」
「そ、そうだね・・・・」

僕はちょっと調子に乗っていたかもしれない自分に反省した。
だが、そんな僕を慰めるようにアスカは言う。

「無理しなくったっていいのよ、シンジ。アンタはアンタに出来る事をすれば
いいの。無理したって、誰もアンタを褒めてくれやしないわ。大体アンタは・・・
普通にしてればそれで十分なのよ。何も意識しなくたって、アタシにとっては
やさしいシンジなんだから・・・・」
「アスカ・・・・」
「それに、アタシはアンタに心配されるほど軟弱じゃないわよ!!こんな荷物
くらい!!」

アスカはそう言うと、荷物を勢いよく持ち上げてみせる。
あまりの勢いの為に、袋に差したネギが飛び出るのではないかと思えた僕だっ
たが、元気過ぎるアスカを綾波がひとことたしなめた。

「アスカ、卵が割れるわ。」
「い、いいのよ、シンジに卵焼き作らせれば!!アンタも好きでしょ、シンジ
の卵焼き!!」

僕は綾波の指摘に、いつもの二人のやり取りが始まるのではないかと思った。
しかし、そんな僕の考えを覆すかのように、綾波はこう言った。

「・・・そうね。アスカが割れば、碇君の卵焼き、たくさん食べられるわね。」
「でしょ!!だから気にしない気にしない!!」

アスカはそう言って荷物をぶんぶん振り回す。
綾波が気にした卵は割れなかったものの、僕が案じたネギは見事に吹っ飛んで・・・

「ネギも洗えばいいのよね、アスカ?」
「そ!!もともと泥付きが基本なんだから!!」

ネギを拾った洞木さんに、アスカはにこやかに笑顔を振り撒きながらそう答え
た。そして綾波は落っこちたネギを見てまたひとこと言う。

「・・・・白い部分を少し入れれば、卵焼きもおいしくなるわ、アスカ。」
「そう?じゃあ、あらかじめいくつかに折っておこうか!?」

アスカの意見は的外れも甚だしかったが、綾波はそれを指摘したりせずに、た
だ微笑むだけだった。
僕はそんな綾波を見て、アスカと綾波の関係がまた一つ変わったと感じた。
そしてそれは、僕の心を慰め、潤してくれることであった・・・・


続きを読む

戻る