私立第三新東京中学校

第二百六十二話・包帯



「・・・どうして・・・・・」



再び静かになった。
アスカも僕も、いつまでもべたべたとはせずに、どちらからともなく自然と離
れた。だが、元のように会話を弾ませることもなく、沈黙の中にどことなく不
思議な雰囲気を漂わせていた。きっと綾波も、それから山岸さんも、そんな僕
とアスカには気付いていたはずだ。しかし、二人とも沈黙を保ったままだった。
まるで何事もなかったかのように・・・・

「・・・やぁ、シンジ君・・・・」

しかし、スーパーの入り口のところで、僕は後ろから呼びとめられた。
今まで僕達の間で問題になっていた彼女に・・・・

「あ・・・・」

僕は振り向いたものの、声が出せなかった。
僕の口からは彼女の名前、「渚さん」というのも「カヲル君」というのも、ど
ちらも出せなかったからだ。

「・・・どうしたんだい、シンジ君?」

いつもの彼女なら、そんな僕に対してもいつものように微笑みを持って接して
くれるはずであった。だが、気付いて見ると彼女はさっきからずっと一度たり
とも微笑みを浮かべていなかった。僕はその事実に気付くと、どっちで呼ぶべ
きなのかという問題も忘れて、唐突に訊ねた。

「・・・・どうしたの、渚さん?」

僕の出した名前は、やはり「渚さん」だった。
僕が、そしてみんなが出した結論がこれだったからだというのもあるが、それ
より何より、僕は渚さんを「カヲル君」と呼ぶ時、意識して呼ぼうとしていた
のは否めない事実だった。奇しくも綾波の指摘した、僕が殺してしまった彼へ
の罪滅ぼしという意識が、僕に彼女を彼として見ようとさせていたらしい。
だが、僕の中では彼女は「渚さん」である方が長かった。だから意識せずにい
れば、そっちの名前が出るのは当然といえば当然であるかもしれない。僕が彼
女を再び渚さんと呼んだのは、みんなが期待しているような努力の結果ではな
かったのだが、それが現実であることに違いはなかった。
そしてみんなはそんな細かい事情までは気付くはずもなく、明らかに安堵の表
情を見せていた。アスカも、山岸さんも・・・・

だが、綾波は違った。
背後から現れた渚さんに、いつも以上の敵意を見せてじっと見つめていたのだ。

「・・・・」

渚さんは驚きの色を隠せない。
綾波に睨まれるということよりも、僕の呼び方が元に戻ってしまったというこ
とに。そしてその時の僕の問いが、今の渚さんにとっては胸に突き刺さるよう
なものだっただけに・・・
そして一瞬の空白の後、渚さんは綾波の方に視線を向ける。
それは綾波と同様に敵意を込めた視線であった。
渚さんは綾波にいつも睨まれたり冷たい目で見られたりと、まともに相手をさ
れたことはほとんどと言っていいほどない。だが、そんな綾波のことなど気に
せず、渚さんは微笑みを絶やさなかった。綾波の視線には、常に微笑みで返し
ていたのだ。
しかし・・・・今の渚さんは、まるで微笑みを忘れてしまったかのような感じ
であった。そして綾波とは違って視線の中に抑え切れない感情を込めながらこ
う言った。

「君の・・・君のせいだな、綾波レイ?」

それは怒りであった。
最近の渚さんは割と感情の起伏も激しかったが、今の渚さんは見ていて痛々し
かった。微笑みを忘れたのと一緒に、綾波への怒りを理性では抑えようとして
いるがあまりの大きさの為にどうしても漏れ出てしまうと言う様子が、僕には
はっきりと見て取れた。そして僕だけでなく、アスカにも山岸さんにもわかっ
ているはずである。そこまで渚さんの変化は大きすぎたのだ。

また、それと同時に僕は大いなる危険も感じていた。
昨日の登校時の出来事が、僕の脳裏に鮮明に蘇る。
渚さんに手首を押さえられた綾波が、ATフィールドを用いて攻撃しようとし、
それを渚さんが同じATフィールドを以って防ぐと言う・・・
言葉で示せば簡単なことであったが、たったそれだけのことがすべてを大きく
塗り替えた。その一件で綾波の、そして渚さんの力がみんなに明るみに出てし
まったのだし、くすぶっていた綾波の力を持つ者としての苦しみが一気に燃え
上がってしまったから。
その時は取り敢えず大事には至らなかった。
しかし、今度はどうかわからない。
あまりに感情を膨らませた渚さんは、綾波を絶命させるまでは治まることなど
ないかもしれない。それは僕の杞憂かもしれなかったが、ほんの少しでも可能
性がある以上、僕も考えない訳には行かなかったのだ。

だが、僕は二人の間に割って入ることが出来なかった。
感情をほとばしらせる渚さんとは対照的に、綾波はいつもと同じく感情など存
在しないかのように、その真紅の瞳を不思議な赤に輝かせながらじっと見つめ
る様子が、他者を入り込ませないような張り詰めた雰囲気を作り出していたか
らだった。そして二人だけの空間の中で綾波は渚さんに答える。

「・・・・だとしたら・・・どうするの?」
「許さない。」
「私は別に、あなたに許されなくても構わないわ。」
「君が構わなくとも僕が構う。どうして・・・どうしてシンジ君に言ったんだ!?」

渚さんは綾波に叫ぶ。
だが、僕はどうして渚さんがそんな些細なことで感情をむき出しにするのか理
解できなかった。確かに渚さんにとって僕に「カヲル君」と呼ばれることは大
きな問題かもしれない。しかし、そこまでのことなのだろうか?渚さんも努力
して僕の心を変えればまた元に戻せるかもしれないのだし・・・

とにかく今の渚さんは僕の理解を超えていた。
あまりに強く拳を握り締めているため、爪が手の平の皮膚を破り血を流すので
はないかと心配するほどであった。

「・・・何を?私は何も言っていないわ。」
「とぼけるな!!」
「とぼけてなどいないわ。」
「シンジ君に喋っただろう!?だからシンジ君は変わってしまったんだ!!せ
っかく距離を縮められたと思っていたのに!!」

白を切りとおす綾波に苛立ちを隠せないのか、渚さんは場所も忘れて声を荒げ
た。だが、そんな渚さんに対して綾波は徹底的に冷静に対応した。それが綾波
の、本当のやり方だったのだ。アスカと喧嘩している時は、綾波は絶対にこん
な顔をしたりはしない。それは綾波がアスカとのやり取りを楽しんでいるから、
本気で喧嘩している訳ではないからと言うことの表われであった。だからこそ
僕もアスカと綾波の喧嘩を微笑ましく見ることが出来ていた訳で、もし綾波が
アスカにこんな対応をしていたら、きっと慌てて二人の間に割って入ったこと
だろう。

「・・・・」
「何とか言ったらどうなんだ!!それとももう言い訳すら出来なくなったのか!?」
「・・・・」
「そうして澄ました顔をして人の想いを踏みにじって・・・この悪魔め!!何
が人間だ!!何が天使だ!!人の想いを解するのなら、この僕の想いを知って
いるのであれば、そんな事は言えないはずだ!!力を疎んで疎んで疎みまくっ
ているくせに、力を濫用して、そしてその結果を私欲の為に使おうと言うのか!?」

渚さんは完全に我を忘れていた。
そしてこれがもう限界なのではないかと僕は思った。
だから慌てて場を破って渚さんに声をかける。

「渚さん・・・・」
「うるさい!!」

しかし、入り込もうとした僕に、渚さんは思わぬ言葉を返した。
まさかこの僕に対してまで、綾波と同じような対応を見せるとは・・・
僕にも自惚れがあったのかもしれないが、ともかく少なくとも綾波よりは好か
れていて、その対応も異なるであるものだと言う認識があった。だが、今のひ
とことで僕のそんな認識はもろくも打ち壊されてしまい、僕はもうこの二人の
間には入り込めなくなってしまった。

綾波は渚さんの言葉に、その真っ白な顔を多少青ざめさせていたものの、表情
は少しも変えようとしなかった。絶対に感情を見せないことによって、渚さん
が敵の作り出した人形であると言うことを、渚さん自身に、そして僕達に示し
ているかのようだった。
だが、入り込もうとした僕への渚さんの言葉を聞いて、少し感情を表に出して
綾波はそれを咎めた。

「碇君にそんなこと言わないで。」
「うるさい!!」
「あなたにとっても、碇君は特別な人じゃないの?」
「うるさい!!お前がそれを変えようとしたくせに!!」

そう言って渚さんは拳を更にぎゅっと握る。
すると近くに落ちていた小石が弾けた。
綾波はその小石の音で、そちらに視線を向ける。
そして僕の方を向くと、ひとことこう言った。

「碇君、下がってて。」
「あ、綾波・・・」
「碇君の言いたい事、私にはわかるわ。」
「な、なら・・・」
「でももう、彼女は止められない・・・・」
「で、でも、綾波・・・」
「碇君を守ることが、私の役目なの・・・だからお願い!!」

綾波はそう言うと、一瞬その瞳を輝かせて、僕の胸に向かって手の平をすっと
押し出すようにした。

「あっ!!」

何もないのに僕は軽く押し出されたような感じを受けた。
そしてそれが綾波のATフィールドであると言うことに気付くまで、時間は全
くかからなかった。
綾波に軽く押された僕は、倒れるとまでは行かないまでも、少し後ろによろめ
いた。そしてそんな僕のことを、アスカがそっと受け止める。

「シンジ・・・」

アスカは目で僕に訴えかけている。
だが、僕は綾波と渚さんをこのまま戦わせる訳には行かなかった。

「で、でも、アスカ・・・・」

僕も目で訴えかける。
するとアスカは僕の同体に両腕を回し、ぎゅっと抱き締めた。
いや、今の場合、行かせないように捕まえたと言う方が、正解なのかもしれな
い。

「だめ。」
「で、でも、このままじゃあ・・・・」
「アタシ達にはどうしようもないのよ!!アンタだってわかってるでしょ!!」
「ア、アスカ・・・」

僕は思わぬアスカの叫びに、少し言葉を詰まらせる。

「あいつらとアタシ達は違うのよ!!アンタは同じだって言い張るかもしんな
いけど、アタシはそんなこと言えない!!アンタがそれに巻き込まれて危険な
目に逢うなら、それを防ぐ為にアタシはレイをだって化け物と呼ぶのもやぶさ
かじゃないわ!!」
「・・・・」

アスカの言葉の内容に、そしてアスカの決意の強さに、僕は何も言い返せなか
った。
そして綾波も・・・・無論まだほとんど離れていない綾波の耳にも今のアスカ
の訴えは聞こえていたはずだ。だが、綾波は振り返らなかった。ただ、渚さん
と同じように堅く拳を握り締めて・・・・僕にはそんな綾波の後ろ姿があまり
にも悲しく映って、思わず涙が出そうになった。

不思議な圧力を感じる。
まるで空気を捻じ曲げているかのように・・・・
僕は始まりを予感していた。
そしてアスカは僕を後ろに引きずろうと、回した腕に力を込めた。
だが、その時・・・・

プルルルル!!

甲高く携帯電話のベルが鳴った。
あまりに場違いな音であった為、僕達は一瞬現実に立ち戻る。
そしてそれは・・・渚さんも同様であった。
誰の携帯電話が鳴ったのか、僕の意識はそこまでは至らなかったが、そのコー
ルはたったの一度で途切れた。

だが、僕にとってその電話は天の助けであったのか、闘いの始まりを予感させ
る雰囲気は掻き消え、空白だけが残った。そして何となしに綾波と渚さんを見
つめる僕。すると渚さんはうつむいたまま、右手をそっと挙げると、手刀を形
作り・・・何を思ったのか、おもむろに自分の左手に振り下ろした。

「くっ!!」

渚さんの声が漏れる。
そして後から・・・・渚さんの左腕が、鮮血に染められた。
それには僕やアスカだけではなく、綾波までもが驚きを隠せなかった。
なにせ渚さんは唐突に自分の左腕をATフィールドで切り裂いたのだから・・・

「・・・どういうつもり、あなた?」

ぽたぽたと血を垂らす腕を押さえる渚さんに、綾波は小さく訊ねる。
すると、渚さんは痛みに軽く顔をしかめながら、綾波に答えた。

「・・・これで今のことをなかったことにして欲しい。」
「・・・・」
「・・・・・頼む。」
「私は・・・・構わないわ。」

綾波は感情を見せずに渚さんにそう答えると、地面に置いていた鞄を手に取り、
おもむろに開けた。そして中からひと巻きの包帯を取り出すと、渚さんに向か
って差し出した。

「・・・・止血をした後は、これを使った方がいいわ。」
「・・・・」
「あなたが人間でいたいと思うならの話だけれど・・・・」
「・・・・済まない。」

渚さんはうつむいたまま差し出された包帯を手に取った。
そして反対側の手でポケットからハンカチを取り出すと、流れる血を拭ってか
ら器用に左の二の腕をきつく縛り上げ、そして黙ってくるくると包帯を巻き始
めた。そして、そんな渚さんを確認すると、綾波は何事もなかったかのように
振り返って僕にこう呼びかけた。

「行きましょ、碇君・・・・」

そして綾波は僕の答えも待たずに歩き始めた。
まるでこの場から早く立ち去りたいかのように・・・・・


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