私立第三新東京中学校

第二百六十話・慣れたい


僕は綾波の心からの訴えかけを受けても、綾波に微笑み返していた。
それは綾波が僕を思っていてくれているという事実が僕をそうさせていたのだ
が、綾波にとってはそんな僕の対応は腹立たしい以外の何物でもなかっただろ
う。
綾波は僕に腹を立てたことなんて無い。
しかし、僕のやり方に苛立ちを覚えたことは幾度と無くあったはずだ。
そんな時綾波はただ、悲しい顔をして僕を見つめるだけだったが・・・・

だがそんな時、思わぬ人物が僕に声をかけてきた。

「・・・碇君、綾波さんの言うこと、聞いてあげて下さい。私には詳しいこと
はよくわかりませんけど、今の碇君と渚さんの関係は、私にとって不健全なも
のに映りました。」
「山岸さん・・・・」

それは山岸さんだった。
僕は綾波に手をひかれてスーパーを出てきた。
そして綾波を追ってきたアスカも一緒になって来たのは気付いていたが、まさ
か山岸さんまでもが僕達の後ろをついてきたとは・・・まあ、山岸さんにとっ
ては思わぬ展開ではあったが、それでも一人ぽつんと残って立ち尽くしている
よりも、僕達に取り敢えずついてくる方が自然と言えるかもしれなかった。

「どうして碇君は渚さんのことを君付けで呼ぶようにしたんですか?今までは
ちゃんと普通に渚さんって呼んでいたのに・・・・」
「そ、それはカヲル君がそう呼んでくれって言ったから・・・・」
「おかしいです、それって。」

山岸さんと知り合ってまだ一日。
しかし、自分が大事だと思ったことには容赦なく発言すると言うその性格は、
既に僕にも十分知れていた。
そんな自分の信念を枉げない山岸さんについては僕は当然好意を持っていたの
だが、今はそんなどうでもいいようなことについて追求されて、少々辟易し始
めていたのも事実だった。

「どうして?」
「だって、渚さんは女の子なんですよ。確かにああいう風に男の子の制服を着
てますけど、れっきとした女の子なんです。それを君付けで呼ぶなんて・・・」
「そ、そんなこだわるようなことかな?カヲル君がそう言ってくれって言った
んだし・・・」

山岸さんの言いたいことはよくわかった。
確かに女の子に向かって「君」はないと思う。
しかし、今のカヲル君にかつての親友「渚カヲル」を重ねて見ていた僕には、
彼女を「カヲル君」と呼ぶことこそが重要なことだったのだ。

「確かに碇君の言う通りかもしれません。でも、碇君が彼女の求めを受け入れ
るのはともかくとして、彼女がそう言い出すと言うことが不自然なんです。」
「でも、カヲル君は男の格好をして・・・・」
「それは彼女が自分を男として見られたいからしてることじゃありません。」

僕が言い訳じみた言葉を発すると、山岸さんはぴしゃりと僕に言った。
こうして見ると、山岸さんはアスカよりも綾波よりも、そして洞木さんよりも
厄介な存在に思えた。僕は良く知らないけれど、潔癖症として噂高い伊吹先生
にも匹敵するような感じであったのだ。

「それって・・・・」
「渚さん、碇君のことが好きなんでしょう?だから碇君を男として見ているか
ら、自分を女として見ているはずです。そうでないと、恋愛関係は成立する訳
ありませんから・・・」

男と男の恋愛関係が成立しないとは限らない。
しかし、それこそ山岸さんの言うように、不健全な考えであった。
男が自分と同性の男を愛してしまえばそれは悲劇にも通じるが、カヲル君はれ
っきとした女性なのだ。だから僕と言う男を愛したとして、嘆くことは何も無
いはずだ。だってカヲル君は女の子なんだから・・・
だから山岸さんの言うように、自分を男として見たがる方がおかしい。
カヲル君は元が男の「カヲル君」だっただけに、男としての自分を考えてしま
うのかもしれないが、今はそこまで突っ込んだ話を山岸さんにする訳には行か
なかった。クローンだの何だの、ただでさえ普通の日常の会話とはかけ離れた
内容のやり取りをここで展開していたと言うのに、これ以上山岸さんを僕達に
巻き込むのはよくないと思ったのだ。

「確かにそうかもしれないけど・・・・」
「渚さんは女として碇君に見られたいはずなんです。綾波さんや惣流さんのよ
うに。だからおかしいんです、君付けで呼んで欲しいなんて。」
「・・・・・」
「碇君と渚さんとの間に何かがあったことくらい、今までの話を聞いていれば
私にも分かります。難しいことが多すぎて詳しくはわかりませんけど・・・・」
「・・・・」
「何が碇君を、そして渚さんをそうさせるんです?お願い、私の目を見て答え
て・・・」

山岸さんはそういうと、そっと自分のかけていた眼鏡を取って、僕に顔を近づ
けてきた。

「や、山岸さん・・・・」
「答えて・・・」

いつもだったら目を逸らしてしまうはずであろうシチュエーションだと言うの
に、この時の僕はどういう訳か山岸さんの瞳から逃れることが出来なかった。
山岸さんの曇り一つ無い澄んだ瞳が、色々と後ろめたいことも多かったこの僕
に逃げを許さなかったのだ。
その山岸さんの瞳は本当に綺麗で、そして眼鏡を取った山岸さんの顔も新鮮に
映って、僕は山岸さんに魅入られてしまった。
すると、今まで成り行きを見守って黙っていた綾波が、山岸さんと見詰め合う
僕に向かって言う。

「あれはフィフスじゃないのよ、碇君。だから彼女の言うように、君付けで呼
んではいけないの。今まで通り、さん付けで呼ぶのが当然なのよ。碇君もあれ
をフィフスとして意識するさっきまでは、頑なにあれをさん付けで呼んでいた
じゃない・・・」
「・・・綾波・・・・」
「そしてあれが碇君を自分をフィフスとして見てもらうように望むことこそ、
あれの目的の為の一歩なのよ、きっと・・・・」
「・・・・」
「フィフスは、彼はあなたの手にかかって自分の命を終わらせることを望んだ。
だから碇君が自分を責めることなんて何一つ無い。きっと彼も、碇君にそうし
てもらって、うれしかったはずだから・・・・」

僕は綾波の言葉に、山岸さんの視線を振り払って大きな声でこう言う。

「殺されてうれしいなんて、そんなのある訳無いじゃないか。」

すると、綾波は静かにそんな僕に向かって答えた。

「・・・・私は殺されたかったわ、碇君の手で・・・・」
「あ、綾波・・・・」
「私の存在が忌まわしいもので、碇君と結ばれることが無いなら、私の存在が
碇君を苦しませるだけなら、碇君に私を殺してもらいたかった。きっとあの渚
カヲルも、同じ想いを抱いたことがあるはずよ。私と彼は、彼も言ったように、
似た存在だったから・・・・」
「・・・・」
「だから私は碇君の知る彼と気持ちを共有することが出来るの。彼がどう言う
気持ちで、碇君にそう言ったのかを・・・・」
「・・・・」
「もう、彼に呪縛されている碇君にとっては、無理なことなのかもしれない。
でも、そうわかっていても私は言わずにはいれないの。お願い碇君、死者を忘
れ現実を見つめて・・・・」

綾波はそう僕に訴える。
山岸さんは、眼鏡を外したまま黙って僕を見つめていた。
そしてアスカは・・・・

ピシャッ!!

「ア、アスカっ!?」

僕がアスカの表情を確認しようとしたその時、甲高い音が響いた。
そして後からやってくる痛み・・・そう、僕はアスカに頬を叩かれたのだった。

「これがアタシの答えよ、シンジ。」
「アスカ・・・・」

厳しくそう言うアスカ。
僕はアスカに叩かれた頬を片手で押さえながら、アスカの名前をつぶやいた。

「いい加減目を覚ましなさいよ。レイもこの山岸って娘も、アンタのことを心
から想って言ってくれてるのよ。なのにアンタは頑なに自分の追憶に浸っちゃ
って・・・」
「ご、ごめん・・・・」
「謝るんだったらその態度を改めたらどう?この頑固者!!」
「で、でも・・・・」

僕がまだごねようとすると、アスカは何も言わず、いきなりもう片方の頬を痛
烈に叩いた。そして僕に冷たい視線を投げ掛けたまま、傍らの綾波にこう告げ
た。

「馬鹿はこうでもしないと目を覚まさないのよ、レイ。アンタがやさしいのは
いいことだけど、シンジの為にはこれが必要なの。」
「アスカ、あなた・・・」
「アタシもアンタと同じ気持ちよ、レイ。」
「・・・・」
「なのにこのバカシンジと来たら・・・・もう目が覚めた!?」
「・・・・」

僕はアスカに両頬を叩かれて、最早何も言えなかった。
その痛みと共に僕の中に現実が流れ込んでくるような気もしたが、やはりカヲ
ル君を吹っ切ることも出来かねた。
するとアスカはそんな僕に向かって少し表情を和らげて言う。

「まだ中学生だってのに、アンタは爺臭いのよ、シンジ。過去を忘れろとは言
わないけど、過去で自分をがんじがらめにするのはやめたらどう?そんなこと
してても、誰も楽しくないわよ。」
「・・・わかってるよ、そんなことくらい・・・・」

僕がそう小さく言うと、アスカは少し僕を馬鹿にしたように言った。

「そうよね、アンタも完全な馬鹿じゃないんだし、アタシ達の言ってることく
らい、頭では理解できてるはずだもんね。」
「うん・・・・」
「でも、心が縛られてるから、素直に理性に従えないんでしょ?」
「そうかもしれない・・・・」
「そういう時はね、シンジ・・・・」

アスカはそう言うと、そっと僕を自分の胸に包み込んだ。

「そういう時は、形から入ればいいのよ。ほら、今のアタシみたいに・・・」
「アスカ・・・・」
「アンタが今まで通り渚をさん付けで呼べば、そのうち意識しなくなるわ。」

アスカはそう言いながら、僕の頬に自分の頬を当てる。

「ほら、嫌じゃないでしょ、アタシにこうされても・・・・」
「う、うん・・・・」
「それはアタシが半ば無理矢理にでもシンジと触れ合ってきた成果なの。アタ
シは何事においても、無意味なことはしない主義なんだから・・・」
「そうだね、アスカは現実的だから・・・・」
「そうよ、現実を常に見つめ続けていないと、自分を見失っちゃうんだから。」

確かにアスカ自身が言うように、アスカは常に現実的だった。
それに反してこの僕は夢見がちと言うかなんと言うか・・・とにかくアスカに
は不甲斐なく映っていたかもしれない。

「・・・・アスカ、僕のこと、いらいらしてただろ・・・?」
「まぁ・・・今はちょっとね。レイほどじゃないけど、結構頑固なシンジにい
らいら来てたわね。」
「ごめん、アスカ・・・・」
「わかればいいのよ、シンジ。それにアタシは自分でも現実的すぎて嫌になる
こと、あるもの・・・・」
「アスカが?」

アスカの言葉に僕は少し驚いて顔を上げる。
するとアスカはさも当然と言わんばかりに僕に答えた。

「そうよ。アタシは過去に縛られるアンタは嫌いだけど、未来を夢見れるアン
タには憧れてるんだから・・・」
「僕が?未来?」
「そうよ。アンタって、結構理想主義的じゃない。アタシは現実を知り過ぎち
ゃってるから、なかなかアンタみたいにはなれないのよね。どこかで妥協が入
っちゃうって言うか・・・・まあアンタの場合、頑固だからって言うのはある
と思うんだけど・・・・」
「そうかもしれないね、アスカ。」

僕はようやく微笑みを取り戻してアスカに答える。
そしてそれを確認したアスカは、誰にも見せないようなやさしさのこもった表
情で僕に訊ねた。

「・・・・もういい?」
「うん・・・多分、大丈夫だと思う・・・・」
「アンタがそう言うなら大丈夫ね。アタシ、結構アンタの決意については信頼
してるから・・・」
「アスカ・・・・」
「なら・・・・謝れるでしょ、二人に?」
「うん・・・」

僕はアスカに諭されて、アスカの身体から離れた。
そしてまず、山岸さんの方を向いて言う。

「ごめん、山岸さん。君にまで心配かけちゃって・・・・」

山岸さんはようやく僕がわかってくれたことを知ると、外した眼鏡をかけ直し
て、軽く微笑みながら応えてくれた。

「いいんです、碇君。わかってくれたなら・・・・」
「ごめんね、本当に・・・・」

重ねて謝る僕に、山岸さんはただ微笑み返すだけだった。
僕はそれを見て、次に綾波に移った。

「綾波・・・・」
「碇君・・・・」
「ごめん、綾波・・・・わかってはいたんだけど、でも・・・・」
「仕方ないのよ、碇君。人の命は重いものだから・・・・」
「・・・・・わかってくれるの?」
「ええ。だから私は碇君を責めないわ。」
「綾波・・・・?」

しかし、綾波がそう言うのとは裏腹に、その表情はあまり清々しいものとは言
えなかった。僕はすぐには気付かなかったものの、少し不自然に思って綾波に
疑問の声を投げ掛けた。

「その・・・・あの・・・・」
「どうしたの、綾波?」

綾波にしては珍しく言葉を濁す。
僕にはそんな綾波が新鮮で少し可愛く思えたが、それ以上に綾波が何を言いた
いのかが気になった。

「その・・・・私には・・・・慣れてないの?」
「へっ?」
「・・・・アスカだったら平気なんでしょ?」
「ああ・・・・そのこと?」
「うん・・・・」
「私は・・・・どうなの?」
「さ、さぁ?どうって言われても・・・・」

僕がなんと答えてよいのかわからずに、そう綾波に返すと、綾波は突然僕の胸
にぽふっと倒れ込んできた。

「あ、綾波?」
「・・・試してるの。」

綾波は自分の胸に両手を当てたまま、僕の胸に顔を包んだ。

「綾波・・・・」

僕はそんな綾波を、微笑ましく見つめる。
綾波は僕の視線を感じながら、小さくこう言った。

「私も、碇君に慣れたい。だからこうして・・・・」
「・・・・」
「今の私、不自然じゃない?」
「うん、不自然なんかじゃないよ、綾波。」
「そう・・・・よかった。」

僕は、そう言って僕にぴったりくっつく綾波の、その小さな背中にそっと両腕
をまわした。綾波はそんな僕の抱擁を受けると、全身をきゅっと小さくする。
僕は更に綾波の身体を少しだけ引き寄せて・・・・

それは綾波に対する謝罪の意味も込められていた。
しかし、僕を心から心配してくれた綾波のやさしさと、僕に慣れたいと言う綾
波の想いと、そして・・・・綾波を可愛いと思い始める僕の気持ちに対しての
ものでもあった・・・・


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