私立第三新東京中学校

第二百五十九話・フィフスの面影


「・・・・」

突然綾波が立ち止まる。
よくわからないながらも何となく興味をそそるスーパーの棚を、カートを押し
ながら眺めていたアスカは、そんな綾波の変化にすぐには気付かなかった。
だが、視界の隅に常に見え隠れしていた水色が全く見えなくなって、アスカも
ようやく綾波が立ち尽くしていることに気がついた。

「レイ?なにやってんのよ?先行くわよ。」
「・・・・」

素っ気無いながらも、アスカを知るものからしてみればかなりの思いやりを込
められたその呼びかけにも、綾波は全く反応を示すこと無く、あらぬ彼方を見
つめていた。
しかし、アスカもぱっと見では綾波がどうして自分に返事をしないのかわかる
訳も無かったので、少し苛立ちを感じてつかつかと綾波の元に歩み寄る。

「ちょっと、アンタ、アタシの言葉聞いてるの!?」
「・・・・」
「ったく、こっち向きなさいよ!!」

アスカは綾波の方を結構強めに掴み、ぐいと引き寄せた。
すると・・・・

「・・・・静かにして。話なら後で聞くから。」
「・・・・」

アスカは答えられなかった。
綾波の返事も昨今では聞かれなくなった機械的なそれであった。
そして・・・一瞬だけひとつになった綾波とアスカの視線。
それはアスカに威圧感と、そしてたとえようの無い恐れを感じさせるような、
そんな真っ赤に輝きを放つ瞳だったのだ。

「・・・・」

とにかくアスカを押しとどめた綾波は、すぐにアスカから意識を戻し、先程ま
でのわずかにうつむいた体勢に戻った。
そしてアスカは、そんな対応をされても何も言えなかった。
アスカにとって、綾波は綾波、そう、大切な友、「綾波レイ」であった。
だが、今見てしまった綾波はただの綾波でなく、力を具現化した存在であった。
ATフィールドを自在に操り、恐れるものなど何一つ無い・・・

アスカは後悔した。
そして今見てしまったものを忘れたいと思いつつも、絶対に忘れることなど出
来ぬであろうと言う、妙に強い確信めいたものも感じていたのだった。

だが、表面上には出さぬものの、いつもは物事に敏感で聡い綾波も、今だけは
アスカの様子に全く気付いた様子などなく、何かに意識の全てを傾けていた。
そう、これが綾波の言う「聞く」と言うものであったのだ・・・

そして数瞬後、全くそれを予期させること無く、綾波はまるで滑るように静か
に歩き出した。

「レ、レイ!!」

いきなりのことにアスカは驚いて声を上げる。
別段特別なことではなかったが、今の綾波が行動を起こすと言うだけで、アス
カには重大なことのように感じられたのだった。

「・・・・」

だが、アスカの声にも綾波は応じる様子を見せない。
聞こえぬ振りをしていると言う様子でもなく、本当に全く耳に入っていないと
言う様子で、綾波は足音一つ立てずに進む速度を速めた。そしてそんな綾波に、
アスカは荷物のいっぱい載ったカートを置き去りにして、慌ててついて行った。

広いスーパーとは言え、たとえ端から端までであってもそれほどの距離にはな
らない。綾波は間違うこと無く、躊躇うこと無く、目的のものを見つけた。
もの・・・と言うより、それはこの僕だったのだが・・・・

「碇君!!」

綾波の呼び声。
感情を昂ぶらせる時にでも、綾波はあまり大声を出さない。
ただ淡々と、自分の気持ちを相手に訴えかけるだけだ。
しかし今の綾波は、冷静そうではあったが、声はほとんど叫び声に近かった。
僕は突然綾波に呼びかけられたことと、そんな綾波のおかしな様子に気付いて、
振り返ると訊ねた。

「綾波・・・どうしたの、一体?」

僕は穏やかに聞き返す。
だが、綾波はそんな僕の悠長な態度をたしなめるかのように、僕に向かって冷
たいとさえ感じるほどの声でこう言った。

「来て、今すぐ。」

綾波はそう言うと、有無を言わさぬかのように僕の手を掴むと、連れて行こう
とした。僕は綾波に抵抗こそしなかったものの、徹底的に綾波らしくないやり
方に疑問を抱いて、もう一度聞いてみた。

「・・・ほんと、どうしたのさ?そんなに慌てて・・・」

だが、綾波は時間が惜しいと言わんばかりに僕に素っ気無く応えた。

「ごめんなさい。後でゆっくり話すから・・・」
「・・・・そう・・・まあ、綾波がそう言うのなら・・・少しだけ付き合うよ。」
「ごめんなさい、碇君・・・・」

この時の綾波は少しだけいつもの綾波だった。
しかし、そうは言ってもその歩みの速度は緩めること無く、僕の手をひいてス
ーパーの外へと向かって行った。
そして僕達はスーパーを出る。綾波は人気の無いところまで僕を連れて行くと、
ようやく足を止めて僕の方を向いてひとこと言った。

「・・・・どうしてなの?」
「えっ?どうしてって・・・?」

僕は綾波が何を言いたいのかわからずに、驚きつつ聞き返す。
すると綾波は、まるでもどかしそうにこう言った。

「碇君にならわかっているはずよ。」
「・・・・ごめん、やっぱりわからないよ、綾波。はっきり言ってくれれば・・・」

僕は自分が悪い訳でもないのに、何となく綾波に謝って言う。
綾波はそんな僕の答えを聞くと、自分の口からは言いたくなかったのか、少し
辛そうにこう言った。

「・・・・あれを受け入れてしまうの、碇君は・・・?」
「あれ・・・カヲル君のこと?」

僕の声はなぜか明るみを増す。
そんな雰囲気ではないと言うのに、彼女の名前を口にするだけで、うれしく感
じてしまう僕がいたのだ。
そして綾波はそんな僕を見たくないのか、軽く視線を下にして小さくこう言っ
た。

「・・・そうよ。でも碇君・・・・」

綾波が僕に何か言おうとする前に、僕は綾波の言葉を遮って言った。

「それより綾波、カヲル君をあれ、なんて言うのはやめてよ。」
「碇君・・・・」
「綾波がカヲル君を警戒する気持ちもわかるけど、いくら力があるからって、
あれ呼ばわりは可哀想なんじゃないかな?カヲル君だって普通の女の子なんだ
し・・・」
「・・・・」
「綾波だって嫌だろ?力があるってだけで人に白い目で見られるなんて。綾波
が一番そのことを理解してるはずだと思うけど・・・」
「・・・・」

僕はこのことに関して以前から気にしていたのは事実だ。
しかし、ここでどうして唐突にそのことを口に出したのかと言えば・・・やは
り僕にとって彼女の存在が変わって行ったと言うのがある。
そして綾波がそのことを一番心配しているのだと知りつつも、僕はそんな綾波
を受け入れることが出来なかった。僕は彼女を「渚さん」と呼んでいた頃から
綾波は気にし過ぎていると思っていたし、今では危険なんて微塵も感じず、む
しろ誰も教えてくれずにいた色んなことを教えてくれる唯一の人物であったの
だ。だからその事実と併せて、カヲル君はやはり僕の一番の親友なのだと言う
実感が、僕の胸の中に満ちていたのだ。

「・・・・碇君は間違っているわ。あれはフィフスじゃない。」
「・・・どうして・・・そういうこと言うのさ?」
「・・・・・・碇君が、心配だから・・・・」
「心配することなんて何も無いよ、綾波。カヲル君はその気になればいつでも
僕の命を奪えるだけの力を持っているんだろう?なのに僕に攻撃なんてしてこ
ないじゃないか。その事実がつまり、カヲル君は敵じゃない、僕達の友達なん
だってことを証明しているんじゃないかな・・・・」

カヲル君をかばい立てする僕。
そしてその為に綾波に真っ向から対立している。
よく考えてみると、僕がこうして綾波に逆らうようなことはなかったかもしれ
ない。そして綾波も、ここまで自分の意見を枉げずに僕に訴えかけてくるのは
はじめてだと思う。

「・・・・でも、あれは私達の敵の手によって作られたクローンなの。だから・・・」
「クローンに自分の考えを持つことは許されないの、綾波?」
「・・・・・・・」
「僕は綾波にもカヲル君にも、自分の考えで動いて欲しい。たとえ生まれてき
た理由がどうであれ、僕は二人を、自分の意志を持つ人間だと思いたいんだ。
だから綾波が言うようにカヲル君が僕達の敵に何らかの使命を与えられていた
としても、自分の考えでそれを克服すればいいと思う。カヲル君が熟慮の末、
命令を受け入れることを了承するのならともかく、嫌だと思いながらも命令を
実行するなんて・・・」

僕は綾波にもカヲル君を受け入れて欲しかった。
綾波なら、僕と違ってカヲル君の気持ちがわかるはずだったからだ。
そして綾波には自分のことに照らし合わせて、カヲル君を思って欲しかった。
綾波はやさしいからきっとカヲル君のこともやさしく出来るはずだ。
むしろアスカよりもずっと境遇の近いカヲル君に共感を抱き、そしてお互いを
支えあって・・・それが僕の理想であった。少なくともアスカよりも綾波の方
がカヲル君には近寄りやすい存在であり・・・・

そんな自分勝手な考えが、僕の頭の中を渦巻いていた。
綾波にとっては余計なお世話以外のなにものでもないというのに・・・・
そもそも綾波は僕の意を100%受け入れる存在ではないのだ。
僕は綾波を僕の人形にしたくはないと思いながらも、僕の言うことを受け入れ
てくれる綾波に頼りきっていたのかもしれなかった。
だが・・・そんな僕を裏切るかのように、綾波は小さく語り始めた・・・

「・・・・碇君の言う通りなのかもしれない。でも・・・・」
「なに?」
「碇君の周りには、本当にいい人達ばかりだった。こんな私までも受け入れて
くれて・・・」
「・・・・」
「そう、碇君がいまだに恐れている碇理事長も、私から言わせればやさしい人
だったわ。たとえその想いが歪んでいたとしても、その純粋さはあの人のやさ
しさを示してくれたわ。」
「・・・・何が言いたいの?」
「つまり、碇君はいい人しか知らないの。もしかしたらあの人が碇君をそう仕
向けていたのかもしれないけれど、ともかくあの人とキール議長は違うわ。」
「・・・誰?その人・・・?」

僕は耳にしたことの無い人物の名前を聞かされて、綾波に訊ねる。
すると綾波は、ぼそっとひとこと答える。

「人類補完委員会の議長よ。」
「人類補完委員会・・・・」
「全てはこの為に動いていたの。そう、使徒の再来さえも利用して・・・・」
「・・・・」
「でも、あることから碇司令と委員会は訣別したの。」
「考えの相違?」
「そう。だから碇君が攻撃されないのは、委員会も碇君が必要だからなの。そ
して何らかの意図を持って碇君に接してるの。」
「・・・・で、でも、どうして僕が・・・?」
「当然よ、碇君は選ばれしチルドレンだもの・・・・」
「チルドレン・・・・」
「そう、チルドレンが人類補完計画の要なの。エヴァさえも、その為の道具に
しか過ぎないわ・・・」
「・・・・」

先程のカヲル君の発言に続いて、綾波の言葉も僕に新事実をどんどんと明らか
にして行った。最早カヲル君云々よりも、そのことに関心が集まっていたのだ。
しかし、息を飲む僕に対して、綾波は突然話を区切ってこう言った。

「とにかく委員会の目的は碇君の排除ではないと思うわ。そして私やアスカの
ことも・・・だからあれは碇君に近付くのよ。碇君に対して何らかの意図を持
って・・・」
「綾波・・・・」
「あれがフィフスの面影を抱いているのも、碇君の心に入り込むためだと私は
思うわ。確かにあれに人形としての苦しみが無いとは言えない。でも、油断し
ないで。あれに碇君の全てを開かないで。私は碇君が心配なの。碇君が私の好
きな碇君じゃなくなってしまうような気がして・・・」
「・・・・」
「あれはフィフスじゃないのよ、碇君。フィフスの顔を持った別の人間なの。
だから碇君が自分の罪を償いたくてあれに心を許すのなら、それはあれの思う
つぼよ。碇君は私にこんなこと言われるのは嫌かもしれないけれど、私は碇君
に油断して欲しくない。私は碇君を愛しているから・・・・」

綾波の説得は僕の耳に響いた。
これは本当に綾波が僕のことを心配してくれているからだと言うことは僕にも
よくわかった。だから綾波の言葉は僕を不快になどさせずに、むしろ綾波に好
感さえ覚えた。しかし・・・・ここまで言われても、僕はカヲル君を警戒しよ
うとなどとは全く思わなかった。口にこそ出さなかったが、疑わしいと言うだ
けで否定したくはなかった。
いや・・・それもカヲル君を受け入れる口実なのかもしれない。
そう、まさしく僕は「渚カヲル」と言う存在に、完全に呪縛されてしまってい
たのだった・・・


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