私立第三新東京中学校

第二百五十八話・動き始める世界


「カヲル君?」

僕は傍らのカヲル君に視線を向けて声をかける。

「なんだい、シンジ君?」

するとカヲル君はいつものように僕に微笑み返しながら応えてくれた。

「うん、何か食べたいもの、ある?」
「食べたいもの?」
「うん。僕がカヲル君の為に、腕によりをかけて作るからさ。」
「・・・・ありがとう、シンジ君。でも・・・・」
「どうしたの、カヲル君?」

カヲル君は言葉を詰まらせる。
料理のこととなると言葉を濁すカヲル君に、僕は少し心配になって・・・以前
の渚さんであるなら、それだけで終わっていたかもしれない。
しかし、今の彼女は僕にとってただの「渚さん」じゃない。
僕の特別な想いが、彼女の痛みを癒してあげたいと言う方に傾いていった。

「・・・・シンジ君は知っているだろう?」
「え、何を?」
「綾波さん、彼女が以前どう言うものを食していたかを?」
「ああ、コンビニで買って食べてたね・・・・」
「それより前だよ。」
「それより前?」
「ああ。君だって、エヴァに乗っていた頃の彼女の部屋に行ったことがあるは
ずだ。それともないのかい?」
「い、いや、あるけど・・・・」
「なら、彼女がどうやって栄養を摂っていたか、知っているだろう?」
「・・・・いや、知らない。」
「そうか・・・・だったら僕が教えてあげるよ。」

カヲル君はそう言うと、僕と視線を合わせて重々しく告げた。

「クローンには人間的食物は基本的に与えられないんだ。」
「えっ・・・?」
「つまり、錠剤と注射。この二つによる栄養補給しか存在しない。」
「じゃ、じゃあ・・・・」
「そういう意味、綾波さんはかなり甘やかされたクローンだと言えるね。まだ
実験段階の域を抜けないクローン技術は、それだけデリケートなものなんだ。
だからコントロールされた栄養管理が必要とされる。まあ、ある程度安定期に
入れば、必ずしもそうとも言いきれないが・・・・」
「・・・・初めて知ったよ、そんなこと・・・・」
「まあ、そうだろうね。たとえ君がサードチルドレンだとしても、必要以上の
機密は漏らされなかったんだろう。」
「・・・・うん。そうだね。みんな、僕には何にも教えてくれなかったから・・・」

僕はかつての自分、何も知らされぬまま問題の渦中へと引きずり込まれていく
自分をやるせなく思っていたことを思い出した。
確かに余計なことは知らない方が便利なのかもしれない。
しかし、同じ戦う仲間として、喜びも悲しみも分かち合いたかった。
無論、父さんとも・・・・
しかし、実際は僕は何も知らされぬままに戦い、そして傷ついた。
やっぱり僕は、単なる道具だったのだろうか?
それとも・・・・

かつての自分に思いを馳せる僕。
そんな僕をやさしく見守りつつも、カヲル君は言葉を続けた。

「しかし、彼女は覚醒した。」
「・・・覚醒?」
「そう、覚醒だよ、シンジ君。」
「・・・・なんなの、カヲル君?」
「つまり、彼女はただのクローンではなく、人間以上の力を与えられたと言う
ことだ。」
「人間以上の力・・・・ATフィールドとか、そういうことなの?」
「まあ、そうだね。だが、それは彼女が求めた訳ではなかった。」
「えっ?」
「彼女はただのクローンではない。選ばれしファーストチルドレンなんだ。そ
してチルドレンであること、それは単なるエヴァ搭乗者の資格としてのもので
はない。つまり・・・・」

プルルル!!

カヲル君の話が核心に迫った時、突然携帯電話のベルが鳴った。
それはカヲル君の携帯電話のものであった。

「ご、ごめんよシンジ君。電話みたいだ。」
「あ、うん・・・・」

カヲル君はそう言うと、携帯電話を懐から取り出しながら、僕から離れていっ
た。僕はカヲル君の話の続きが気になったものの、他のみんなと違ってカヲル
君は僕に隠し事をせず、全てを語ってくれそうな気がして、僕はそんなに焦り
を感じなかった。
少なくとも、今カヲル君が教えてくれたこと、綾波に関することは、綾波だっ
て知っていたはずだ。まあ、綾波にとって自分の口から言いたくないことであ
るのだから、僕は黙っていた綾波を責めるつもりは微塵も無い。むしろ綾波が
自分のことを僕に告げることによって必要以上に僕に心配をさせると思って、
わざと口にしなかったと言うことくらい、僕には察しがつく。今の綾波ならば、
きっとそう思うであろうから・・・・

電話をするために去っていくカヲル君。
僕はそんなカヲル君の後ろ姿を、見えなくなるまでずっと見つめていた。

「あの・・・・」

そんな僕に、斜め後ろから山岸さんが声をかけてきた。

「あ、山岸さん・・・なに?」
「その・・・いいですか?」
「えっ、何が?」
「渚さんを待つのも構いませんけど、お買い物もしないと、みんなを待たせて
しまいます・・・・」
「あ、それもそうだね、ごめんごめん。じゃあ、山岸さんの言う通りにしよう。」
「済みません、余計な事言って・・・・」

何だか今まで以上に山岸さんの口調は丁寧だった。
それが何を意味することなのか、その時の僕は気付かなかった。
なぜなら山岸さんがそう言おうとも、僕の意識はカヲル君の元にあったからだ。
そして山岸さんは、僕がカヲル君に向ける全てが変わってしまったことに、戸
惑い以上のものを感じていたのかもしれない。
それはきっと、「恐れ」という名のものであろう・・・・


「大体・・・・こんなもんでいいかな?まだ何か買いたいものある?」
「私は特にありません。これだけ買い込めば、何でも作れるでしょうから。」

僕は山岸さんの言葉に、カートに載せられたかごの中の品物を見る。
それは単なる買い物と言うよりも、まさに買い出しと言う言葉が相応しいよう
な、かなりの量を有していた。
僕はそれを見て、久々に大量に買い込んだことをなかなか面白く思って、軽く
笑いながら山岸さんに応えた。

「そうだね。普通なら、一週間分くらいの量だよ。」
「ええ・・・でも、たくさんの方がいらっしゃるんですよね?」
「うん。詳しくはよくわからないけど、アスカがたくさん呼び付けたみたいだ
から・・・アスカに来いって言われて来ない人は、よっぽど勇気のある人だろ
うからね。」
「惣流さん、恐れられてるんですね。」
「まあ・・・そうだね。山岸さんだって恐いだろう?アスカに凄まれると・・・」
「ええ・・・ここだけの話、恐いです。私、ああいう人、馴染めなくって・・・」

カヲル君がいなくなって、二人だけで買い物をしているうちに、山岸さんも僕
への違和感を大分解消したようで、笑みを漏らすようにまでなっていた。
そして僕も山岸さんのような性格の女の子は、むしろ話しやすい感じだった。
大体僕は綾波とか洞木さんとか、割と礼儀正しくて大人しい方が僕の性格にあ
っていると思う。だから、アスカなどは間違いなく僕の苦手とするタイプのは
ずなのだが、どういう訳か僕は中でもアスカに一番惹かれていた。

「だろう?でも、アスカも慣れるとかわいいんだよ。」
「かわいい?」
「うん。みんなは知らないけど、僕はアスカのかわいいとこ、いっぱい知って
るからさ・・・」
「・・・・」
「アスカは絶対に人に自分の心のうちを見せてはくれないんだ。でも、そんな
アスカが大事に隠してるものは、本当に綺麗なんだよ。多分誰にでも見せてる
訳じゃないから、綺麗なんだろうけど・・・・」

僕はまるでアスカを思い浮かべるように山岸さんに語った。
すると、山岸さんは何か思うところがあったのか、小さく僕に訊ねてきた。

「どうして・・・・ならどうして、惣流さんは碇君に本当の自分を見せてくれ
たんですか?」
「・・・・難しい質問だね。」
「惣流さんが碇君のことを好きだから・・・・そう思えば簡単かもしれません。」
「そうだね。でも、それだけでもないだろうね。」
「はい・・・・」
「山岸さん、君はどう思う?」
「えっ!?私・・・ですか?」
「そう、君。人がどういう風に思うか、それも参考になるからね。」

僕は驚く山岸さんに、安心させるように微笑みながらそう言う。
すると山岸さんは少し顔を赤くして、小さな声で答え始めた。

「私は・・・・・・好きとか嫌いとか、そういう問題じゃなくって、碇君が自
分を見せても傷つけたりはしない、そんな信頼に足る人間だと思ったから・・・・
だから惣流さんは碇君に心を開いたんだろうと思います。そしてそれを受け止
めた碇君の姿勢が・・・・惣流さんを碇君に・・・・・」
「なるほどね。そういう考えもあるかもしれないね。」

僕は山岸さんの考えに、妙に納得してそう答えた。
山岸さんは僕の言葉を聞くと、なぜか周りを見回して言う。

「・・・皆さん、遅いですね。」
「そうだね。まあ、さっきまでの僕達みたいに、非効率的な買い物をしてたん
だと思うよ。」
「そうかもしれませんね。惣流さんも何か大事なお話があったみたいですし、
ヒカリは・・・・」
「トウジと楽しいお買い物だからね。きっと新婚さんみたいにほのぼのやって
るんだと思うよ。」
「ですね。」

山岸さんは微笑みながら僕の想像を肯定してみせる。

「でも、どうしようか?みんなを急かすのも野暮な気がするし・・・・」
「・・・・・」
「山岸さん?」
「・・・・いいですか、碇君?」
「えっ?」
「まだ、少しだけ時間があります。よければ碇君に・・・・私のこと、聞いて
欲しいんです。」
「山岸さん・・・・」
「私も碇君に、本当の私、私の心の中を見て欲しいんです。どうしてなのかわ
かりません。でも、碇君になら・・・・そういう気がするんです。」
「そう・・・・」
「駄目ですか?」
「・・・・いや、構わないよ。僕でよければ・・・・」

僕は山岸さんの真摯な瞳に負けて、そう静かに答えた。
すると、山岸さんは喜びを大きく表す訳でもなく、礼儀正しく僕にお礼の言葉
を述べた。

「ありがとうございます。私のわがまま、聞いてくれて・・・・・」

そして山岸さんは、僕に語り始めた。
自分のこと、周りのこと、色々なことを・・・・・



「・・・・もしもし?」
『私よ。』
「博士ですか・・・・何か急ぎの御用ですか?」
『ええ。あの男から命令が下されたわ。』
「命令・・・・ですか・・・・」
『そうよ。そしてあなたに選択権はないの。わかっているはずよ。』
「・・・・ええ、わかっています。十分すぎるほど・・・・」
『結構なことね。でもその前に・・・・』
「何ですか?」
『どうしてシンジ君に言おうとしたの?』
「まずかったですか?」
『まだ早いわ。彼はようやくあなたの真実を知り、また大きく変わろうとして
いる・・・』
「だからこそ、今言うべきだと思ったのですが・・・・」
『焦る必要はないわ。』
「でも、もう一つの人形、そちらも動き始めているのでしょう?」
『そうね。でも、所詮あなたの敵じゃないわ。』
「そうかもしれませんね。たとえ力があったとしても・・・・」
『向こうは所詮紛い物よ。』
「そう言うなら、僕も紛い物ですよ。綾波レイに比べれば・・・・」
『そうね。でも、力はあなたの方が上よ。その意味、わかるでしょう?』
「ええ。覚醒した彼女、その彼女にも変化が訪れていると言うことですね?」
『そうよ。そして私達はそれを待たねばならないの。それを待たねば起こるべ
きでないことが起き得るわ。』
「・・・・サード・・・インパクトですね?」
『そう。レイにはそれが可能なの。でも、私達はそれを求めているのではない
わ。そしてあの人も・・・・』
「・・・・」
『だからあの人は私達の動きを黙認してきた。』
「そうお考え・・・なのですか?」
『もちろんよ。彼は誰よりも計算高い男だわ。』
「・・・・」
『とにかく、レイでは駄目なの。神は彼女を求めたけれど、最終的な選択は彼
女の上には無いわ。』
「わかっています。そして僕でもないことを・・・・」
『当たり前じゃないの。それともあなた、本気で全てをぶち壊しにしようなん
て思っているんじゃないでしょうね?』
「・・・・」
『新しい人類を再建するためには、本当の人間でなければならないのよ。』
「・・・・」
『だからレイもあなたも駄目なの。』
「・・・・」
『・・・・委員会からの命令を伝えます。』
「・・・・」
『・・・碇・・・碇ゲンドウを、あなたの手で消しなさい!!』
「・・・・あなたがそれを言うのですか?」
『そ、そうよ。もう私には関係ないことだもの。』
「本当にそうなんですか?」
『そうよ!!全ては終わったのよ!!それよりあなたはどうなの!?彼を殺せ
ばあなたに大きく傾いたシンジ君の心も、どうなるかわからないわよ!!』
「・・・・・」
『・・・・』
「・・・仕方ありません。命令ですから・・・・」
『そうね。じゃあ、切るわ。』

そして電話は切られた。
カヲル君は携帯電話を畳むと、無表情にスーパーの中に戻っていった。
その内心を誰にも見せぬように・・・・


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