私立第三新東京中学校

第二百四十九話・キスの先に


「・・・・」

突然、綾波がその歩みをぴたりと止めた。

「・・・どうしたの、綾波?」
「・・・・・」

僕の問い掛けに、綾波はすぐに答えようとはしない。
いや、答えようとしなかったのではない。
答えられなかったのだろう。
うつむいてアスファルトの地面を見つめるその様子を見て、僕はそれを肌では
っきりと感じた。僕はいぶかしいと言うより少し不安に思って、その短いちょ
っと癖のある淡い色の髪で隠れて見えない綾波の表情を確かめようとした。
が、綾波は僕のその意図に気付いたのか、さりげなく顔を横に向けた。
そして・・・・そっと僕に告げた。

「碇君・・・・」
「・・・なに、綾波?」

僕は僕の視線から逃げる綾波に、その訳を聞こうとはしなかった。
ただ、いつものように穏やかな声を返しただけだ。
綾波の様子がついさっきのものとも全く違うと言うことくらい、僕にははっき
りとわかる。そして僕はその原因を知りたがっている。しかし、僕は綾波が自
分の口から語ろうとするのを待つ。綾波にその義務はないものの、僕が聞けば
綾波も答えずにはいられないだろう。何だかおかしな話だが、今の僕達にとっ
てそれは事実であろう。だから僕はこういう時、僕と綾波の関係が相当歪んだ
ものであると言うことを再認識させられるのであった。

「・・・・手・・・・」
「ん?」
「・・・・ごめんなさい、碇君・・・・」

綾波は僕から顔を逸らしたまま、つないでいた手を解いた。
アスカのことに話が及んで、少し前に腕組みは止めたものの、手だけはつなぎ
続けていたのだが、そのつながりもとうとう今、なくなってしまったのだ。
綾波のいつもの言動から、自分からそうすることと言うのは相当のことがある
のだろうと思われる。実際つないだ手を綾波の方から外すと言うこと自体、僕
にははじめてのことのように思われた。

「・・・・」

僕は理由を聞かない。
綾波の全てから、その全身から綾波がしたくてしているのではないと言うこと
くらいわかった。そして僕に対して自分からつないだ手を離したことを済まな
く思っていることも・・・・

「・・・・・行って。」
「えっ?」
「彼女のところ・・・・行ってあげて。」
「綾波・・・・」
「私のやり方、間違っていたのかもしれない。彼女は碇君以外のことなら、ど
んな事でも誰よりも強くなれる存在だってわかっていたのに・・・・」
「・・・・・」

綾波の言う「彼女」が誰を指しているのか、わざわざ聞く必要もなかった。
しかし、綾波がここで「アスカ」と名前を出さなかったことが、何故か特別な
ことのように思えてならなかった。
綾波にとっての「アスカ」は一緒に暮らす家族であり、色々教えてくれる姉で
あり、ケンカ友達であり・・・・僕が与えられないもの全てを与えてくれる存
在であった。だから今の綾波は僕達以外の人にも接することが出来るようにな
ったとは言え、第三者と言う概念が希薄であると言える。以前の綾波の世界に
は自分以外には僕しかいなかったが、その扱いは違いがあるものの、僕と同じ
範疇にアスカも入れていると思う。そして洞木さんやケンスケ、トウジも同じ
である。自分にとって特別な人間かどうか・・・・綾波にはそれしかない。
つまり、イエスとノーしかない訳で、自分の周りにいるあまり関係がない人物
と言う曖昧な存在は綾波にとってはノーなのだ。僕もそれに似たところがある
ものの、クラスメイトとそれなりの言葉を交わしている。特に友達と思ってい
なくても、である。付き合いと言うか、義理と言うか・・・・アスカや洞木さ
んならわかってくれると思う。女の子の世界と言うのは男とは違ってそういう
ところが強いらしいから・・・

「お願い、碇君・・・・私の勝手な事だってわかってはいるけど・・・私には
どうすることも出来ないの・・・・」
「・・・・・・・・どうか・・・どうかしたの、アスカに?」
「・・・・・彼女から直接聞いて。」
「・・・・」
「・・・聞かなければよかった。聞こえなければよかった。知らなければよか
ったことなんて、それは数え切れないほど。知らなければ、何も知らなければ、
ずっと楽しいままでいられたのに・・・・」
「・・・・」
「・・・私は憎い。全てを見通す目と、全てを聞き逃さない耳を与えてる、こ
の私の力が・・・・」
「綾波・・・・」

僕は綾波の言葉でようやく気付いた。
綾波は僕に聞こえないようなことでもすべて耳に入れることが出来ると言うこ
とを・・・
人は羨ましく思うかもしれない。
しかし、実際綾波から言わせれば呪われたものでしかない。
人の心は、全てを知り全てを聞くには、弱すぎるものなのだ。
それこそ神の心、そんな物が存在するのかわからないが、とにかく心も人を超
越したものでなくてはならない。もしかしたら、ずっと以前の綾波は、閉ざさ
れていたのではなく、人形だったのではなく、神に近い存在になっていたのか
もしれない。だが、僕がそんな綾波の心を開いてしまって・・・言わば人間に
してしまった。それがどういう事を意味しているのか・・・・
とにかく今の綾波は、心と力のギャップに苦しんでいる。
人の心と、神の力。
綾波は人になりたいから、その神の力を忌まわしく思っている。
だが、神になりたいとしたら・・・・綾波は女神になれるかもしれない。
僕はそんな綾波を望んではいないが・・・・

「・・・・・・・」
「・・・わかったよ、綾波。」
「・・・・・」
「・・・・ごめんね、綾波にこんなこと言わせて・・・・」

僕はそう言うと、自分でもどうしてだかわからなかったが、突然綾波の逸らし
た顔を軽く引き寄せると、その頬にそっと口付けした。そして思わぬことに衝
撃を隠しきれない綾波を置いて、僕は後ろで遅れているアスカの元へ行った。
綾波を傷つけるとはわかっていても・・・・

僕はアスカとケンスケが僕達より後ろを歩いていることは知っていた。
はじめはアスカの賑やかな声が僕の耳に心地よく響いていたものだ。
しかし、その声はいつのまにか消えていた。
僕はアスカが単に喋らなくなっただけだと思って、気にしてはいなかったのだ
が・・・こうして後ろを見ると、位置的にも僕達から大分離れてしまっている
ことを知った。そして僕が見たアスカは、顔をその両手で覆っていた。困った
ようにアスカを見るケンスケの様子から、何かあったのだと言うことくらい、
わからないはずもなかった。

「シンジ・・・」

ケンスケも僕のことに気付いた。
そしてアスカはケンスケの漏らした声で、僕が来たことを知った。アスカは知
るや否や、何事もなかったかのように顔を上げて僕に言った。

「このアタシを冷やかしに来たって訳、バカシンジ?」
「アスカ・・・・」
「それともアタシが相田に襲われてないかって心配してくれたのかな?アタシ
はアンタに心配されるほど弱っちくないってのにさ・・・・」

痛々しかった。
ケンスケがアスカを見る目も、辛そうなものであった。
僕にはアスカに何があったのかはわからない。
しかし、それを隠して、何かがあったと言うことくらい、僕だけでなく誰にで
もすぐにわかることだと言うのに、どうしてそんなに無理をしなければならな
いのだろう・・・・?

「・・・・弱いよ・・・・アスカは・・・・・」
「・・・どういうことよ?」
「誰よりも繊細で、傷付きやすくって・・・・なのにどうしてそんなに無理を
するの?つらいってわかってるのに・・・・」

僕がそう言うと、アスカはもうごまかし様がないと諦めたのか、小さく僕の問
いかけに答えた。

「・・・・アタシは・・・・アタシはアンタの太陽だから・・・・」
「・・・・」
「アンタをいつも明るく照らして、元気付けて・・・・アタシも元気な自分が
一番いいって知ってるから・・・・だから・・・アンタにも、いつも一番のア
タシを見せていたいから・・・・」

アスカはそう言いながら、自分の心の壁が崩れ落ちていくことを僕達に見せて
いた。
詰まる言葉、唇の震え・・・・そこにはいつもの強いアスカはなかった。
僕の知る、誰よりも弱いアスカがそこにいたのだ。

「アスカ・・・・」
「ご、ごめんね、シンジ。アタシ・・・・」
「いいって、いいって、もう・・・・」
「・・・・・・」
「無理なんてしなくっていいんだよ、アスカ。泣きたい時は、泣いた方がすっ
きりするから・・・」
「・・・・」

僕は自分からそっとアスカを胸に抱きとめた。
するとアスカは僕に身を委ねて、その顔を隠した。
アスカは僕の視線から顔が隠れると、すぐに微かな泣き声を漏らし始めた。
僕はアスカをその胸に包み込みながら、アスカはこんなに小さかったのかと思
う。
僕も子供から大人へと成長しはじめて、もう身長ではアスカを越えている。
アスカと初めて出会った頃は、大体僕と同じかアスカの方が少しだけ高かった
と思う。それにアスカにはそれ以上の存在感があった。いつも目立たない様に
していた僕と比べれば、アスカは大きく輝いて見えていた。
しかし、月日が僕達を変えた。
身体だけでなく、心も・・・・

アスカは女の子なのだ。
一時期女の子の方が肉体的にも強い時期があるが、所詮それは一時的なものに
しか過ぎない。やはりトウジの言うように、女は守られ、男は守る存在なのか
もしれない。そう言うのは性差別だと言う人もいるかもしれないが、人を守り
たいと言う気持ちは尊いものだと思う。
だからアスカも綾波も、男女の別を関係なく、僕を守りたいと言ってくれるん
だと思う。そして僕も・・・・二人を、みんなを守りたいと思う。

僕はそう思うと、ぎゅっとアスカのその小さくなった身体を抱き締めた。

「アスカには、僕がいるから・・・・」

陳腐な台詞。
色んなところで使い古されたような、新鮮味も何もない言葉だ。
しかし、今の僕にはそれが真実だった。

「もう、無理することなんてないよ。そんなアスカなんて・・・僕は見たくな
いよ。だから・・・・」
「・・・・」
「だから、僕にもアスカを守らせてよ。アスカが僕を守ってばっかりじゃなく
ってさ・・・」
「・・・・」
「僕だって男なんだから・・・アスカを守ることも出来るんだから・・・・」
「・・・・・シンジは男として・・・女としてのアタシを守ってくれるの?」
「ああ、守るよ・・・・」
「・・・・・」

アスカは僕の言葉を聞くと、更に身体を小さくして、僕の身体に身をもたせか
かった。
そして少しの時が流れる。
アスカはもう、泣いてはいなかった。
しかし、僕の胸から離れようとはしなかった。
周りのことなんて気にしない、無理なんてもうしないのだろう。
だから僕もアスカがもういいと言うまでこの胸を貸してあげるつもりだった。
たとえ日が沈んで星の世界になったとしても・・・・
それが僕の「守る」のかたちであった。

「・・・憶えてる、あの時のこと・・・・?」
「えっ?」

アスカの突然の発言に、僕は少し驚く。
アスカは僕の胸に顔を隠したまま、語り続けた。

「ほら、アタシとシンジの、はじめてのキス・・・・」
「ああ・・・・」
「ごめんね、あの時は・・・・」
「・・・・もういいよ。過ぎたことだし・・・・」
「ファーストキス、だったんでしょ・・・?」
「うん・・・まあ・・ね。」
「・・・・あと、あの時も・・・・憶えてる?」
「あの時って?」
「・・・・・・・みんなと買い物に行った、その次の日の朝・・・・」
「・・・・・うん・・・・」
「アタシって、はしたなかったわね・・・・」
「・・・・僕が悪いんだよ。」
「女なのに・・・」
「僕も、男なのにね・・・・」

僕がそう言うと、アスカはそっと顔を上げようとした。
僕はそれを察してアスカを抱き締めていた腕を緩める。
アスカは僕の瞳を見つめて、真剣な眼差しで告げる。

「なら・・・・今度はちゃんと男として振る舞ってくれる?」
「えっ・・・?」
「アタシは女なの。男を抱くんじゃなくって、男に抱かれるのよ。」
「・・・・」
「シンジからアタシを抱いて。男として・・・女として・・・・」
「アスカ・・・・」
「準備の時間は十分すぎるほどとってあげたつもりよ。」
「・・・・」

アスカは黙り込んでしまう僕に向かってにこっと微笑んでこう言った。

「何も深刻に考えることもないんじゃない?確かにアタシのはじめてのひとに
なっちゃうけど、アタシは何もそれ以上のものを要求するつもりもないんだし・・・」
「・・・・・」
「キスをするつもりですればいいのよ。キスを繰り返してきたアタシ達には、
次のステップが必要でしょ?」
「・・・・それもそうだね。でも・・・・」

アスカの微笑みを見て、何だか僕の心も不安が薄らいできた。
ことは深刻になってしかるべき大事な問題なのに、アスカは本当にキスする感
覚で語っている。ほとんど意識しないアスカに対して僕が意識しまくるのもお
かしな話なので、軽く笑ってみせたものの、やはりすんなりと受け止めること
も出来なかった。
だが、そんな僕の様子を見て、アスカは勘違いしたのかひとこと言った。

「アタシは気にしないわよ、アンタがレイに何をしようと。」
「えっ!?」
「アタシがキスの感覚でアンタに求めてる以上、アタシにはとがめだて出来る
資格はないからね。」
「アスカ・・・」
「でも、アンタとレイの経験値はまだまだだから、今すぐには駄目ね。アタシ
はこの数ヶ月アンタとキスしてきたからもう次のステップに移ってもいいかも
しれないけど、レイはそうは行かないから。」
「・・・・」
「あと100回くらいキスしたら、まあ、いいんじゃない?そのくらいしたら
アタシも許したげるわよ。」
「・・・・」

アスカはそう言うと、僕に人差し指を突き指して言った。

「でも、ぜーったいにこのことはレイに言っちゃ駄目よ。あの娘、知るや否や
一日で100回キスしようとするからね。」
「ははは・・・そうだね。綾波ならやりかねないよ。」
「でしょ?あの娘、そういうとこあるもの。」

アスカはそう言ってから、初めて気がついたかのように遠巻きに眺めていたケ
ンスケに向かって言った。

「アンタ、誰にも言うんじゃないわよ。ひとことでも漏らしたらコロスわよ。」
「わ、わかってるって。そんな人のプライベートを人に言いふらすほど、俺は
野暮じゃないって。」
「わかってるならそれでいいのよ。じゃあ、アンタはヒカリ達のとこに行って
なさい。アタシとシンジは、もうちょっと込み入った話があるから・・・」
「わ、わかったよ。行くって。行きますって。」

こうしてケンスケはアスカに追い払われるようにそそくさと去っていった。
そしてそんなケンスケの後ろ姿を見るアスカの姿は、何だかいつも以上に生気
に輝いて見えた。
アスカの悩んでいた理由がなんだったのか、僕にはまだわからなかったが、も
ういいと思った。こんなにアスカが元気なアスカでいられるのならば、僕もア
スカの求めに応じても・・・・そう思えるような、アスカの姿であった・・・・


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