私立第三新東京中学校

第二百四十八話・蕾


「綾波?」
「何、碇君?」
「どうして・・・ずっと黙ってるの?」

僕は腕を組みながら一緒に帰っているにもかかわらず、心ここにあらずと言っ
た感じの綾波を見て、少し心配に思い声をかけてみた。だが、僕が声をかけて
も綾波の返事はあまり歯切れのいいものとは言えなかった。

「・・うん・・・・」
「心配事?」
「・・・・ううん、何でもないの。何でも。」
「でも、そう言ったって・・・・」
「・・・ごめんなさい、碇君。私・・・」
「アスカのこと?」
「えっ?」
「アスカに済まないと思ってるの?」
「・・・・・・・・う、うん・・・・でも・・・」
「・・・強くなったね、綾波も。」
「えっ、どういうこと、碇君!?」

綾波は僕の思いがけない言葉に珍しく声を高める。だが、僕は綾波の歯切れの
悪さ、折角アスカなしで僕と一緒にいると言うのにあまり嬉しそうな様子では
ないことなど、それらから大体の察しをつけていたのだ。

「人の為に自分を傷つけられるのは、弱い人間には出来ない事だよ。」
「・・・碇君・・・・」
「きっとアスカは怒ってるかもしれないね。でも、僕は綾波のことを怒らない
よ。綾波がどうしてああいう態度に出たか、僕にはわかってるから・・・・」
「・・・・」
「でも、誤解されてアスカが怒ってるかもしれないって思ってても、やっぱり
綾波はまだアスカのことを心配するんだね。」
「・・・うん・・・・・」
「やさしいね、綾波は。そういうやさしさって、なかなか人には理解してもら
えない、寂しいものだけど・・・・」

僕は綾波に対して慰めるように微笑む。すると綾波も心が解きほぐされてきた
のか、僕に対して軽く微笑み返すと嬉しそうに小さくこう言った。

「うん・・・・だけど、私は碇君にわかってもらえれば、それだけで十分うれ
しいから・・・」
「綾波・・・」

そして僕達二人は、黙って静かに歩き始めた・・・・


「いいわね、碇君達って・・・・」

ほんのすぐ側で今のやり取りを聞いていた洞木さんが、そっとそうつぶやく。
しかし、あまり察しのいい方とは言えないトウジは洞木さんのように理解出来
ずに思わず気になって聞き返した。

「なあ、今のあれ、どういう事や?わいにはさっぱりやで。」
「もう、鈴原ったら鈍感なんだから・・・・」

トウジに訊ねられた洞木さんは、ちょっと面白そうな、それでいてちょっと困
ったような微妙な表情を見せた。そんな洞木さんの対応にあったトウジは、洞
木さんには悪気など無いと知りつつも、ちょっと拗ねて開き直る。

「わいの鈍感は今に始まったことやないやろ。いいんちょーかてしっとるやな
いか。」
「それもそうね、ごめんね、鈴原。」
「い、いや、わかってもらえればそれでええんや。いいんちょーが謝ることで
もないしな。まあ、そんな事よりもどういうことなんや、さっきのは?」
「ああ・・・・あたしも遅れてきたから事情は詳しくわかんないんだけど・・・」
「かまわんで。その、いいんちょーの推測とかを聞かしてくれや。」
「うん・・・あたしたちが来た時、アスカの様子、どこか変だったでしょ?」
「せやな。それになんやら叫ぶような怒鳴るような声も聞こえてきてたしのう。」
「そうね。だからあたしは急いでアスカのところに行こうとしてたんだけど・・・」
「それで?」
「あたし達が来た時、アスカは機嫌悪かったでしょう。あれってきっと・・・」
「どういうことや?そこがわいにはわからんのやけど・・・」
「つまり、碇君が慌ててあたし達の対応に出たでしょ。それって多分、碇君が
これをきっかけに物事をうやむやにしようとしたんだと思うの。」
「シンジのよくやる手口やな。つまりあいつの言う、逃げ、っちゅう奴や。」
「そうね。きっと碇君は何らかのアスカのフォローをする立場にあったんだと
思う。そして碇君はそれをしなかった。だからアスカの機嫌が悪かったんだと
思うの。」

洞木さんは僕達の状況を分析し始めていた。しかし、結局のところトウジには
核心に触れるところがよくわからずに再度洞木さんに聞き返す。

「まあ、それはええとしても・・・・綾波はどうなんや?そこが問題やないか。」
「うん・・・この辺が難しいところなんだけど、アスカは碇君にフォローして
欲しいと同時に、その事についてあんまり触れられたくなかったんだと思うの。」
「せやからシンジも惣流をかばう意味で逃げたんやな?」
「そうね。碇君、アスカを傷つけたくないって言う気持ちは誰よりも強いから・・・」
「そやな。」
「そしてそういう気持ちは綾波さんも同じなの。」
「・・・・」
「だから綾波さんはアスカの意識を他へ逸らそうと・・・・」
「なるほどな。それで綾波の奴はわがままな嫌な女を演じてみたっちゅう訳か?」
「うん・・・あたしは今の碇君と綾波さんのやり取りを聞いて、そう思ったん
だけど・・・」
「いや、わいもいいんちょーのその推理を聞いてみて納得や。せやけどそうな
ると綾波はつらくなるな。」

トウジはようやくすべてを飲み込んだものの、そうわかって綾波のことを思い、
そっと視線を向けた。そしてそんなトウジを理解して洞木さんはトウジに告げ
た。

「うん・・・・でも、あたしたちにはどうすることも出来ないわ。綾波さんは
不器用な生き方、碇君の生き方を選んだの。その綾波さんの選択をあたしたち
がどうこう言う権利はないし・・・・」
「ただ、見守っているだけやな。」
「うん。鈴原も・・・・あたしに力を貸してくれる?あたしはこの三人の為に、
何か力になってあげたいの・・・・・」

洞木さんは少しだけ頼りなげにそう言う。
もしかしたら、自分が無力な存在であることを寂しく思っているのかもしれな
い。しかし、トウジはそんな洞木さんを支えるかのように力強く言った。

「当たり前やないか。いいんちょーに言われずとも、わいはこいつらの親友や。
そしてわいは、親友の為ならどんな協力も惜しまん男なんやで。」
「そうね。ありがとう、鈴原。あたしだって鈴原のこと、よく知ってるのに・・・」
「ええんや、ええんやって・・・・・」
「ごめんなさい・・・・」
「ええってゆうとるやないか。少し黙っとけ。」

トウジはぶっきらぼうにそう言うと、いきなりその手で洞木さんを引き寄せた。
そして洞木さんの顔を自分の胸で隠す。
洞木さんはあまりにいきなりのことなのでびっくりしたものの、恥かしそうに
顔を真っ赤にしているトウジを横目で見ると、安心して自分の一番居心地のい
い場所に落ち着くことにしたのだった・・・・


こうしてトウジと洞木さんも何だかいい雰囲気になった。
一応一緒に帰っているものの、山岸さんは自分の居場所を失って困った表情を
していた。まさか白昼堂々と中学生が抱き締め合うなんて・・・しかも二組同
時である。そんな光景は少女漫画の世界だけでのことであって、現実には有り
得ないことだと山岸さんは思っていたのだ。しかし、実際に今ここでこうして
目の当たりにしている。
山岸さんも変な関係ではないと思っている。よく耳を清まして会話の全てを聞
いていたから、涙ぐんでしまうほど感動的な場面だと言うことがよくわかる。
しかし、それが自分の親友であり、クラスメイトであるのだ。
自分と同じはずの人間が別の面を見せる。
それは山岸さんにとっては衝撃だった。
だが、そんな山岸さんの様子を誰も心配してはくれなかった。
確かに些細なことであるとは言え、山岸さんは寂しかったのだ。
だから山岸さんはもう一人寂しそうにしている人・・・渚さんに歩み寄った。

「少し・・・いいですか?」
「ああ・・・僕は構わないよ。」

山岸さんのアプローチはやけによそよそしい。
まあ、知り合ってまだ初日だし、ろくに会話をした訳ではない。一対一で言葉
を交わすのは、これがはじめてなのだ。山岸さんは自分自身で格別人見知りの
激しい方ではないと思っているものの、どうも渚さんを見ていると違和感を感
じてならなかった。確かに学校での会話、その他諸々の動向などを鑑みても、
渚さんはいかにも怪しく、近寄り難い存在であるのは否めない事実である。
しかし山岸さんはそれ以上の何かを感じ取っていた。
自分とは違う種類の人間だと言う何かを・・・・

だが、そうと知りつつも山岸さんは孤独には勝てなかった。
別にひとりでいることに苦痛を覚えた訳ではない。
今の状況で黙って口を閉ざしていることに耐えられなかったのだ。

「・・・どう・・・思います?その・・・・渚さんは。」
「・・・君も厳しいことを言うね。」

渚さんは山岸さんの問いに対してそうひとこと応えた。
渚さんの表情はいつものように穏やかな微笑みを浮かべていたものの、その視
線にはどこか冷たいものを感じた山岸さんは、わずかに恐怖を覚えて慌てて謝
った。

「す、済みません・・・・」
「いや、悪いのは君じゃない。君は事実を僕に認識させようとしただけなんだ
から・・・・」
「・・・・」
「まあ、いい。では君の問いに答えるけど、僕は平気だよ。」
「どうしてですか?」
「慣れているからさ。」
「慣れ?」
「そう、慣れ。僕はずっと黙ってこんな光景を見つめ続けてきたからね。」
「・・・・」
「相田君も同じだけど、彼の心はまだ花開いてはいなかったから・・・」
「そう・・・ですか。」

山岸さんは渚さんの言葉に、わかったのかわからないのかはっきりとしない相
づちを打った。するとそんな山岸さんに唐突に渚さんが問う。

「君はどうなんだい、君は?」
「えっ?私・・・ですか?」
「そう。君は間違いなくシンジ君に惹かれ始めている。誰の目から見てもそれ
は明らかだ。」
「わ、私・・・・」
「わからないかい?」
「はい・・・・」

山岸さんはまるで渚さんに責められてでもいるかのように、少しだけ辛そうで
深刻な顔をしてうつむいた。渚さんはそんな山岸さんの様子を見て軽く笑いな
がら静かに告げた。

「君は可愛い蕾だね。美しく・・・そして穢れを知らない。僕は羨ましく思う
よ、君のことを・・・・」
「えっ・・・?」

渚さんの言葉を聞いて思わず山岸さんは顔を上げる。すると渚さんはすっと山
岸さんの頬に手を差し伸べ、軽く手を添えながら言う。

「人は女性が一番美しく見える時は出産した後だと言う。でも、僕は違うと思
うな・・・・」
「・・・・」
「僕は・・・僕は、初めて恋を知った時の、その時の顔が一番美しいと思うよ。
そう、今の君のような・・・・・」
「・・・・」
「シンジ君は恋するに値する人だよ。今の僕には断言出来る。そして・・・」
「・・・・」
「そして、誰よりも儚い魂を持っている。だから僕は・・・・」
「・・・・」
「君とシンジ君、心の形は似ているね。だからお互い惹かれ合うんだ。」
「えっ・・・?」
「シンジ君は自分と似た魂を愛してきた。そう、綾波さんや惣流さんのように・・・・」
「・・・・」
「だから、魂の色の違う僕のことを、シンジ君は求めてくれないのかもしれな
い・・・」
「・・・・」
「でも、僕は変えてみせるよ。そう、シンジ君の全てを・・・・・」

渚さんはそう言い終えると、ようやく山岸さんの頬からその手を外した。
だが、山岸さんは放心状態で何も言い出すことが出来なかった。
何か含みのある言葉、そして自分の気持ち、僕の気持ち・・・・
全てが絡み合い、山岸さんを惑わせていた。
そして山岸さんは思う。
料理だけを愛していた方が、どんなに楽だったかと・・・・


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