私立第三新東京中学校
第二百四十三話・レンズ越しの真実
放課後。
春休みの気分からまだ抜けきらない生徒達は、教室に残るでもなく早々に家路
に就く。だから解散となって間も無い今でさえ、ここに残っているのはそれほ
ど多い人数ではなかった。
結局のところ、渚さんがクラスに戻ってきたのは今日の最後の授業の十分ほど
前だった。丁度ミサトさんの社会科だったので、運良く渚さんは叱られずに済
んだ。だが、渚さんにしてみれば叱ってもらいたかったのかもしれない。渚さ
んが教室に入ってきた時、ミサトさんは何も言わずに渚さんに視線を送っただ
けだった。それは渚さんをおかしな目で見るものではなかったが、明らかに何
か知っているものの目であった。ミサトさんは迂闊にそういうところを見せな
いものの、事情を知らない人間ならともかく、事情を知っている人間ならば一
目瞭然であった。
無論渚さんも事情を知る人間の一人である訳で、ミサトさんの態度には意味が
あることを感じ取っているはずである。しかし、戻ってきた渚さんはもういつ
もの渚さんであった。僕はその復活の早さに驚かされつつも、また渚さんが仮
面をかぶるのではないかと少しだけ心配にも思った。
そして一番渚さんを意識している綾波はと言うと、渚さんを視界に入れただけ
でその心を推し量ろうとはしなかった。言わば、渚さんの存在を確認しただけ
である。きっと綾波は、もう決意を固めているのであろう。渚さんがどういう
結論に達しようと、僕のことをアスカに託された今、絶対に守り通そうと・・・・
洞木さんやトウジ、ケンスケも綾波と同じく渚さんを確認したにとどめた。
この三人は揃って渚さんと綾波の力をその目で見ている人達である。だから、
詳細については知らなくとも、渚さんと綾波には何かあると言うことを悟って
いる。
だが、みんな理解していた。僕達は仲間であるものの、それと同時に別世界の
人間であり、隠されたことを深く探ろうとすれば自分の身にも危険が降りかか
ると言うことに。無論、相談すれば嫌がること無く応じてくれることだろうが、
僕達もみんなに余計な面倒をかけたくなかった。それは不自然な関係であるも
のの、僕達の間ではそれが普通のこととして通っていたのだ。
しかし、山岸さんは何も知らなかった。洞木さん達が何かを知っていると言う
ことすらも知らなかったのだ。だから僕のことと同時に、渚さんについても疑
問を抱いていた。渚さんについて考えると言うことはそのまま綾波に直結する
ことであったが、僕達と違って山岸さんには二人に対する思い入れの差など無
かった。だから、綾波よりもずっとずっと謎めいた渚さんを、その疑問の中心
に置いたのであった。
だが、そうは言っても山岸さんは普通の女の子に過ぎない。弁当のことで名乗
りをあげる勇気はあっても、未知のものに接触しようとするほど強くはなかっ
た。それが危険を孕んでいるとすれば尚更・・・・・
だから山岸さんは見る。
その丸い眼鏡のレンズ越しに、真面目な性格を示す真摯な瞳で・・・・
「やぁ、シンジ君。一緒に帰ろうか?」
そう僕に話し掛けてきたのは、問題の渚さんである。
渚さんは何事も無かったかのように振る舞い、それは完全なものであった。
僕には渚さんを追求することも出来たが、そうするつもりはなかった。
渚さんが表面に表している以上に苦悩していることは十分知っているし、それ
が何らかのいい結果に結びつくとは思えなかったからだ。言わばそうすること
は綾波に向かって力の問題をしつこく言及するのと一緒で、お互い傷付け合う
ことにしかならない様に思われた。
綾波が言うように、問題は僕の身の危険にも及んでいるようなので、それと同
じように考えてはならないのかもしれない。でも、渚さんが悩んで悩んで、そ
して導いた結論が僕を傷つけることであると言うのならば、僕はそれを否定す
るつもりはなかった。
もちろん僕だって自分の生命を軽んじている訳ではない。今の僕には、僕を傷
つくのを見て傷つく人がいるのだ。だから僕のせいで誰かを傷つけたくはない。
だから僕も綾波に守ってもらうのと同時に、自分でも自らを守ろうとするだろ
う。しかし、渚さんも悲しみの選択がそれであるのならば、僕は渚さんの気持
ちをわかってあげようと思う。きっと渚さんが僕を傷つけようと言う立場に立
つのならば、絶対に綾波もアスカも、渚さんの気持ちなんてわかってあげよう
とはしないだろう。
だから僕だけは渚さんを理解してあげたい。結論を認めるのではなく、渚さん
も苦しみ抜いたのだと言うことを・・・・
「そうだね、教室に残っている理由も特に無いし、早く帰ろう。」
僕は自分だけしかわからないちょっとした決意を込めた微笑みを浮かべて渚さ
んに応えた。そしてそんな僕の微笑みに渚さんも応えて微笑む。僕はそれだけ
確認すると、みんなを待たせない様に帰る支度を始めた。
「・・・・」
綾波は僕の背後に立っている渚さんが気になるようだ。しかし、言葉には何も
出さない。ただ、意識を僕と渚さんに向けるだけであった。僕にとっては綾波
が渚さんに何も言わないことを取り敢えず喜んでいたが、もう会話さえ成立し
なくなったのだと言うことも十分に考えられたので、何とも言えなかった。
少なくとも渚さんがああいう発言をするまでは、力を持つ存在であるとは判明
していたとしても、僕を傷つける意志を持っていると言う可能性があると言う
ことは明確ではなかった。だから僕もそれを理由に渚さんをひたすらかばい続
けてきたのだが、もうそれも出来なくなった。渚さんの選択次第では、僕を傷
つけると言うことも有り得ると言うのだから・・・・
ケンスケは二年の時と同じように僕と綾波の席に近い。だからみんなが集まっ
てくるまでの間、こういう気まずい雰囲気の中で一人取り残されていることが
多かった。しかし、ケンスケは決して目をそらさなかった。こっちを見ずにト
ウジ達が来るまで自分に関わり合いの無い振りをするのではなく、全てを見逃
さない様にしていた。それはあくまで客観的であって、まるで自分は観察者で
あるとでも言うかのように、徹底的に介入しよういう素振りは見せなかった。
まあ、介入しようとしないのはトウジや洞木さんも一緒ではあるが、この二人
は何かがあれば自己判断の上で何か言ってきた。しかし、ケンスケの場合、そ
ういう事は二人に任せてひたすら沈黙を守って眼鏡のレンズを光らせていたの
だ。そう、カメラには写さずとも、やはりケンスケはケンスケであったのだ。
丁度ケンスケは僕の正面にいる形になっていたので、渚さんよりも綾波よりも
僕の視界に入ってきた。それだからどうこうと言う訳ではないのだが、最近ア
スカや綾波、渚さん達に気を取られ過ぎてケンスケのことを思うことがほとん
ど無かったと言うことに気付くと、少し済まない気持ちにさせられた。
ケンスケは黙っているけれど、きっと僕達を見て色々考えていることだろうと
思う。以前トウジと洞木さんのことで爆発したこともあったが、それを認めて
いる今、その時よりもずっと穏やかになった。無論トウジと二人で馬鹿話をし
て笑っているケンスケの姿が一番目に映るから、おかしなイメージもなく今ま
で通りのケンスケだと言えばそう言えなくも無い。しかし僕がケンスケをあま
り意識しなかったとは言っても他のクラスメイトのこととは比較にならないほ
どケンスケのことを知っているつもりだ。だからそのちょっとした変化が、妙
に気になるのだった。
「ケンスケ?」
「ん?何だ、シンジ?」
ケンスケは態度にこそ表さなかったが、唐突に僕に話し掛けられたことに、驚
きの色を隠せなかった。
「いや、特に言うことも無いんだけど・・・・ちょっとね。」
僕もケンスケに声をかけてしまったものの、何を話すのか考えてもいなかった
ので、訳の分からない受け答えになってしまった。するとケンスケはやけに大
人びた苦笑を僕に見せた。
「・・・・おかしな奴だな、シンジは・・・・」
「ご、ごめん。」
「まあ、いいよ。別に迷惑な訳でもないし、俺も暇してるから。」
「そ、そう?」
僕は帰り支度も終えて、正式にケンスケに向き直った。ケンスケはそんな僕を
見て、珍しく僕が自分と会話をするのかとでも思ったのか、少しだけ意外そう
な顔をした。
「ああ。見ればわかるだろ?俺が暇だってさ。」
「い、いや・・・・そ、そんなでもないよ。うん。」
「気を遣わなくってもいいって。俺達、そういう関係でもないだろ?」
「う、うん。そうだね。」
「でも、どうして俺なんだ?すぐ横には綾波もいるし、後ろには渚がいるだろ?」
「そ、そう言われると困っちゃうな。まずいかな、ケンスケと話をするのは?」
「いや、まずくはないよ。今言ったように暇してるんだし。」
「なんとなくケンスケの声が聞きたかったんだよ。考えてみると最近あんまり
ケンスケと話してなかったからさ。」
僕がそう言うと、ケンスケは思いっきり呆れた顔をして言った。
「おい・・・そういう事は惣流にでも言ってやれよ。俺に言うなんて、何か情
けないじゃないか。」
「ご、ごめん。でも、なんだかケンスケには済まないような気がして・・・・」
「何が?」
「いや、僕の周りばっかりでどたばたしちゃって、ケンスケに迷惑かけっぱな
しだって言うのに、話し掛けもしないなんてさ・・・・」
僕がはっきりとケンスケに話しかけた理由を打ち明けると、ケンスケは改めて
笑いながら応えた。
「ははは・・・シンジに気にすることじゃないって。俺は俺で楽しくやってる
し、シンジの周りにいることで、色々恩恵もあるからな。」
ケンスケはそう言うと、どこからか愛用のカメラを取り出した。
僕はあまりそういう方向には興味も無いし、ケンスケが好きだと言うことくら
いしか知らないが、そのカメラに対するケンスケの扱いが、他のものに比べて
も繊細であるのを見て、それがとても価値のあるカメラなのだと思った。
ケンスケも僕の視線に気付いたのか、そのカメラを説明してくれた。
「珍しいカメラだろ?デジタルじゃなくって、フィルムに感光させるセカンド
インパクト前のカメラなんだよ。」
僕はよくわからなかったものの、カメラについて語るケンスケの喜びを隠しき
れない様子を見て微笑ましくうなずいた。ケンスケはそんな僕の思いを知って
か知らずか、そのまま熱のこもった口調で話し続ける。
「レンズが違うんだよ、レンズが。もう今ではこんなカメラ、世界中どこに行
っても作れないだろうなぁ・・・・」
「そうなんだ・・・じゃあ、価値あるカメラなんだね。」
ケンスケは自分の愛するカメラを褒められて嬉しそうに応えた。
「ああ、親父を拝み倒して買ってもらったんだよ。うちの親父は気前だけはい
いんだけど、それでも流石にこれについては渋い顔してたからな。」
「そう・・・・確かにケンスケはいっつもカメラを持ってるけど、それを見た
のは初めてだよ。」
「まあ、学校には滅多に持ってこないし、本当に撮りたいもの以外は他のカメ
ラで撮ってるから。」
「そうなの?じゃあ、それで撮ったのって・・・どういうのがあるの?」
「ん?それはまあ・・・な。」
「僕には見せられないような隠し撮りとか?」
僕はちょっとケンスケをからかってそう言ってみた。するとケンスケは僕が思
っていた以上に興奮して叫んだ。
「そ、そんな訳ないだろ!?このカメラはそんな下劣なカメラじゃないんだ!!」
「ご、ごめん、ケンスケ。ちょっとからかってみただけだよ。ちゃんとわかっ
てるって。」
「いや、シンジ、お前には口で説明してもわからない!!俺がどれほどこのカ
メラを愛しているのかを!!だから見せてやろうじゃないか、この俺の傑作を!!」
ケンスケは興奮したまま素早く後ろを向き、机の上に置いてあった鞄を手に取
った。そしてまた僕の方に向き直るとその鞄を開け、中から青いファイルを取
り出した。それを僕の目の前に突きつけると、ケンスケは急に落ち着いて穏や
かに言った。
「ま、見てみろって。俺の腕も満更でもないって事がわかると思うから・・・」
「う、うん・・・・」
僕は取り敢えずケンスケが落ち着いてくれたことに胸をなで下ろしながら差し
出されたファイルを受け取った。
ケンスケは普通、撮ったものをデータとして保存しておいて、人にあげる時だ
けプリントアウトしていた。アスカにあげた写真に関してもそういうもので、
ケンスケがこういうファイルを持ち歩いていることは知らなかった。僕も一応
デジタル形式ではないカメラについて知ってはいたが、実際それで撮ったもの
は見たことが無かった。どう違いがあるのかは知らなかったが、ケンスケがそ
こまで強く言うのであるから立派なものであるのだろうと思ってそのファイル
を開いた。
「へぇ・・・綺麗に撮れてるね。」
表現力の乏しい僕にはそれしか言えなかったが、一枚目に見たアスカの写真を
見ただけで、それがよく撮れていることが理解できた。
僕にはいつのアスカだかはわからなかったが、写真の中のアスカはわずかな切
なさを秘めた、本当にいい顔をしていた。
「だろ?まあ、惣流は表情豊かだから、撮りやすい被写体だと言えるな。」
「そうかもね。でも、だとすると結構迷ったんじゃない?」
「ああ。だから惣流らしくないところを選んだんだよ。いつも強気な顔をして
るけど、こういう時の惣流は女の子だからな。」
「だね。」
僕は納得して微笑みながら次のページをめくる。
ひとつのファイルには見開きだと二枚の写真が収まるのに、ケンスケは左半分
しか使用していない。きっと一度に二枚見られるのではなく、作品として一つ
一つ楽しんでもらいたいと言う、ケンスケなりの配慮なのかもしれない。
そして二枚目の写真は渚さんであった。
「あ・・・ほら渚さん、見てご覧よ。」
僕は振り向いて後ろの渚さんに呼びかける。すると渚さんは僕を見下ろして応
えた。
「ちゃんと見せてもらってるよ、シンジ君。」
「そう?ならいいんだけど・・・・でもよく撮れてるでしょ?」
「そうだね。僕もそう思うよ。」
そして僕と渚さんは再び写真に目を戻す。
その写真の渚さんは、なんと仮面の渚さんではなかったのだ。
きっとこれは、昨日の綾波とのやりあいの後、叫んで飛び出した時の顔だろう。
運良くATフィールドのところではなかったが、渚さんの心が読み取れる、そ
んな写真であった。普通に写真に収めるならば、あまりいい顔だとは言えない
が、渚さんにとってはいい顔なのかもしれない。実際僕もそう思うし、ケンス
ケもそう思ったからこそ、このカメラで撮ったのだろう。
「じゃあ、次行くね・・・・」
僕はケンスケの言う通りの傑作続きの写真を見て、次の写真に胸躍らせてペー
ジをめくった。
しかし・・・・
「・・・・・」
「すまん、シンジ。撮らずにはいられなかったんだ・・・・」
ケンスケはまるでわかっていたかのように僕に小さく謝った。
そして僕は何も聞こえなかったかのようにファイルを閉じると、そのまま彼方
を見つめていた。
「撮るべきじゃないとは思ってたんだよ。でも・・・・すまん。」
ケンスケは重ねて僕に謝る。
しかし、僕の耳には届かない。
そう、三枚目の写真はそれだけ衝撃的だったのだ。
それは昨日、学校の廊下で心を閉ざした綾波のATフィールドを叫びながら叩
き続ける、この僕の姿が鮮明に写し出されていたのであるから・・・・・
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