私立第三新東京中学校

第二百四十二話・気持ち隠して


渚さんの退室で、僕達の周りに張り巡らされていた妙な緊張感が解けた。
綾波やアスカはともあれ、僕は渚さんを変な目では見ていないし、洞木さんも
人を根拠も無しに差別するような人間ではない。また、山岸さんに至っては渚
さんに対する先入観が無いだけに、余計な緊張もしないはずであった。
しかし、その話の内容と深刻さは事情を何も知らない山岸さんをも凍りつかせ
るものであったのだ。だから、綾波などはもしかしたら聞いているのは渚さん
と僕くらいにしか考えていなかったのかもしれないが、実際のところはみんな
がみんなこの二人のやり取りを聞いていたのだ。まあ、綾波にとっては人が聞
いてようが聞いていまいがどっちでも大差ないのだが。
だが、聞いていようとも下手に突っ込めるような状況ではなかった。綾波の言
葉はまさに魂からの言葉であり、今の綾波の全てであった。みんなにもその重
みがよくわかっているから、今のやり取りには口出しできなかったのだろう。
そして流石のアスカも滅多に見ることの出来ない綾波の熱い言葉に気圧された
かのように、何か言いたそうな顔をしていたものの取り敢えず言葉には何も出
さなかった。僕も今の綾波にかけるにふさわしい言葉など見つからなかったの
で口を閉じていた。
こうして誰からともなく自然と僕達は弁当の後片付けを始めていた。何もせず
に黙っていられないと言うことなのか、とにかくみんなが仕事をしたいと言う
ような雰囲気が出来上がってしまっていた。しかし、家での本格的な食事の時
とは違って、学校での昼食の後片付けなどなきに等しい。僕は手早くアスカの
空になった弁当箱をはじめに包んでいたハンカチで包み直すと自分の鞄の中に
仕舞い込んだ。
アスカも綾波も僕の作業を邪魔せぬ様、手を離していてくれたが、その目は僕
の手元と顔とを行ったり来たりしていた。僕は二人の視線に応えた訳ではなか
ったが、それでもそれを痛いほど感じていた。

そして後片付けも終わり、あとは気まずいお昼休みが終わるのを待つだけとな
った。だが、僕はあるものに気付いて話題を変えるきっかけを見つけた。それ
は全員が自分の弁当箱を仕舞い終わった後でも机の上に置いてあった僕の弁当
箱であった。

「山岸さん、それ・・・」

僕は山岸さんにそう声をかけると視線で示す。山岸さんは僕の弁当箱を無造作
に置いておいたと言うよりも、大事なものを抱え込むかのようにその白い両手
に包み込んでいた。僕は自分の弁当箱を大事に扱われるのを見て悪い気はしな
かったが、速やかに僕に返すでもなく自分で洗って返すために仕舞い込んでし
まうという訳でもない中途半端な状態にわずかな疑問を感じた。

「ありがとう、碇君。このお弁当箱は私が綺麗に洗って返します。」
「い、いや、いいよ。わざわざそんなことしなくても。」
「ううん、私に洗わせて。碇君のお弁当を無理に言って食べさせてもらったの
は私なんだから。」
「でも、いいって、ほんとに。洗ってくれるって言うのはありがたいんだけど、
山岸さんにそれを渡しちゃうと明日の僕の弁当を入れるものがなくなっちゃう
からさ。だからそう言う訳で気を遣うことはないよ。」

僕の言ったことは嘘偽りなどではなく、本当に山岸さんに弁当箱を持って行か
れてしまうと明日が困るのであった。だから僕としては上出来の説得工作だっ
たのだが、山岸さんは弁当箱を覆った手を外そうとはしなかった。僕は山岸さ
んが僕の空の弁当箱に固執する理由がわからなかったので不思議そうに訊ねた。

「返して・・・・くれないの?」
「ううん、違うわ。」
「じゃあ・・・・」
「私にいい考えがあるの。」
「ん、何?」
「私がこれを家に持ち帰って洗うと、碇君の明日のお弁当がなくなっちゃうん
でしょ?」
「まあ、そうだね。」
「でも、私の手元には空のお弁当箱が残るわ。」
「うん。」
「つまり、私が碇君のお弁当を作って来れば・・・・」

そう山岸さんが言いかけた時、横からもう一つの声が唐突に割り込んできた。

「ちょっとアンタ、どういうつもり!?」

それはやはりアスカだった。アスカにしてはよく我慢した方だと言わざるを得
ないだろうが、それでもアスカの気の短さは変わらない。僕はこういうアスカ
にはかなり慣れていたので、またかと言った感じであまり深刻には受け止めな
かった。

「どういうつもりって・・・・」

山岸さんはアスカの大声にちょっと押された感じになって、その受け答えも小
声になった。まあ、山岸さんは大人しい感じの女の子だし、反対にアスカはは
つらつとしていると言うか猛々しいと言うか、とにかく容赦はなかったから、
そうなってしまうのも無理はないのかもしれない。特にアスカは山岸さんに対
して敵意をむき出しにしていたので、ここぞとばかりに爆発するアスカの怒気
はおそらく抑え切れぬほどの勢いを秘めているに違いない。僕はそれを思うと
山岸さんが少し可哀想になって、いざと言う時は救いの手を差し伸べてあげよ
うと思うのであった。

「バカシンジは騙されても、アタシは騙されないわよ、この女狐!!」
「そ、そんな・・・・」
「そんなに自分の自慢の弁当を食べさせてみたい訳!?シンジが料理に弱いっ
て知って、この・・・・」

アスカはそう言いながら、堅く拳を握り締めている。まあ、まずそれで山岸さ
んを殴ると言うことはないだろうが、そういう風に理解できるほど山岸さんは
アスカのことを知っている訳ではなかった。だからアスカの無意識の行動が山
岸さんの目に留まると、山岸さんの恐怖は一層高まった。

「・・・・」
「何とか言いなさいよ!!まあ、今更言い訳も何もあるはず無いけどね。」
「・・・・」
「大体いきなり割り込んでるのがどうかしてるわよ。シンジもヒカリもやさし
いから何にも言わないけど、アタシははじめっからアンタのやり口が気に食わ
なかったのよ。アンタのその、純情ぶった物言いがね!!」

僕はしばらく様子を見ようと思っていたものの、少しアスカの発言には毒を感
じたので注意しようと思った。しかし、僕が言う前に綾波がひとことアスカに
言った。

「・・・声が大きいわ、アスカ。」
「な、何ですって!?」
「だから、声が大きすぎるって事。周りに迷惑よ。」
「周りなんかどうでもいいじゃないのよ!!それともアンタはこの女の味方を
する気!?」

アスカが矛先を変えて綾波に詰め寄ると、綾波は興奮状態にあるアスカに対し
てさらりと言ってのけた。

「アスカが今のままなら、私はこの人の味方をするわ。」
「じゃあ、アタシとは敵って事ね!!」
「そうなるわね。」
「口喧嘩でアタシに勝てると思ってるの!?」

アスカはいっつも綾波との口喧嘩では負け続けているにもかかわらず、綾波の
毒舌家たるところを全く認めていなかったので、勢いに任せてそう言った。綾
波も自分自身の中でアスカをやり込めることなど造作も無いことだと思ってい
るかもしれないが、綾波はそうすることは避けてアスカに答えた。

「勝てるわ。」
「へぇ、自信たっぷりじゃない。どっからそんな自信が湧いてくるのかしらね
ぇ?」
「私には、碇君が居るから。」
「どういうことよ?シンジに関してはアタシの方が分があるわよ。」
「今のあなた、碇君の好きなアスカじゃないわ。だから必ず私の味方をしてく
れるはず・・・・」
「・・・・・」
「無意味な嫉妬をしても疲れるだけ。私はあなたと違って意味の無いことはし
ないわ。」

綾波はさっきからずっと思っていたであろう事をアスカに告げた。アスカもそ
う言われて少し頭が冷めたのか、あまり激しく綾波に言い返そうとはしなかっ
た。しかし、言い負かされたままではいられないと言うアスカのプライドがア
スカの口から言葉を導き出した。

「じゃあ、渚を気にすることは意味があるって訳?」
「そうよ。少なくともこの人の碇君への気持ちを気にするよりは、遥かに意味
のあることだわ。」
「でも、あいつは最近落ち着いてきてんじゃない。一時期どうなることかと思
ってたけど、今日はおかしな動きを見せないし・・・・」

アスカは綾波とは反対に渚さんを気にすることについて無意味なことだと言わ
んばかりに言った。すると綾波はそんなアスカに向かって冷たく言い放つ。

「・・・あなたには本当にそう見えるの?」
「えっ・・・?」
「だから、あなたにはあれが落ち着いて見えると言うの?私とあれの会話を聞
いていなかったと言うの?」
「き、聞いていたけど・・・・」
「なら、あなたにもわかるはずよ。あれが危険だと言うことに。」
「・・・・」
「この人のことなどそれに比べればどうってことないんじゃない?それにお弁
当を作る作らないでうるさく言って・・・・そんなに碇君が信用できないの?」

綾波の言ったことは真実だったのかもしれない。しかし、それがそうであれば
あるほど、アスカが傷つくのを僕は知っていた。口論に負けたくらいではアス
カは何ともないが、僕に関することで自分を否定されることはアスカにとって
大きな意味があったのだ。だからアスカはとうとうここで言うべきではないこ
とに触れてしまった・・・・

「アタシに・・・・アタシに何が出来るって言うのよ?」
「・・・・」
「アンタだってわかってるでしょ!?今のアタシにシンジを守る術が無いって
事くらい!!」
「・・・・」
「アタシだってわかってるわよ、渚の奴が怪しすぎるって事くらい!!でも、
あいつには力があるのよ!!それを無力な人間のアタシがどうやって防ぐのよ!?
ええっ!?」
「・・・・・・・」
「だからアタシはアタシにしか出来ない事をしようと思ってたのよ!!アンタ
にはアンタにしか出来ない事があるように、アタシにはアタシに出来る事をね!!」
「・・・・」
「アンタはもしかしてアタシが渚にシンジを傷つけないでくれって懇願でもし
た方がいいとでも思ってた訳!?それこそアンタの言うように意味無い行為な
んじゃない!?」
「・・・・」
「アタシにはアンタと違ってあいつを止める術なんて無いんだから、アンタが
全責任を持ってあいつを何とかすればいいのよ!!その代わりアタシは他のお
かしな連中がシンジにまとわりつかない様に気を配るんだから!!」

アスカだってこんな事は言いたくなかったのかもしれない。アスカも綾波の力
について触れることは当の綾波以上に敏感に感じていたからだ。詳しいことは
僕にはわからないが、昨日の一件が過ぎてからと言うものの、アスカは今まで
以上に綾波に気を配るようになったのは事実である。だから綾波がちょっと色
々したと言っても、以前ほど細かく言わなくなったし、綾波の苦しみを鑑みて
寛容ささえ見せていたのだ。
そのせいでしわ寄せが山岸さんへと向いたのかもしれなかったが、そういうア
スカの微妙な気持ちを、僕も綾波もわかってあげることが出来なかった。特に
アスカは自分に渚さんを食い止める術が無いことを悔しく思っていたので、相
当内心苛立っていたのだろう。綾波が力を持つ自分を悲しむと言う気持ちを理
解していても、やはり特別な存在であるということを内心アスカは羨ましく思
っていたのだ。綾波は自分の存在意義を「僕を守ること」としているが、アス
カにはそういった物が無い。僕にしてみれば人を愛することに理由なんて要ら
ないのではないかと思うし、アスカだってそのくらいわかっていると思う。し
かしそれを前提にしたとしても、何かがあるのと無いのではやはり違いがある
のであろう。それはあっても無くてもいいものではあるが、なんでもあるなら
ある方がいいに決まっているのだ。

「・・・・ごめんなさい。」
「えっ!?」
「ごめんなさい、アスカ。あなたの気持ち、わかってあげられなくって・・・・」
「レイ・・・・」
「私、あれから碇君を守るのは自分の役目だって言ってたくせに、アスカもそ
うしようとしないことをひどい事だと思ってた。これは私にしか出来ない事な
のに・・・・」
「・・・・」
「アスカが今言ったこと、本当にそうだと思う。だからごめんなさい。」

綾波はアスカの叫びを十分理解したのか、態度を一変させてアスカに謝った。
無論綾波は力のことを持ち出されて辛く感じているはずである。しかし、綾波
はアスカがそれ以上に辛かったのだろうと思ったのだ。そしてそれが自分のせ
いであると考えたため、綾波は自分の気持ちを押し殺してアスカのことを優先
させたのだ。
しかし綾波にそういう態度に出られるとアスカもようやく自分の言ったことに
気付く。

「・・・・アタシこそごめん。」
「・・・・」
「言わなくってもいいことだったのに、つい興奮して言っちゃって・・・・」
「アスカ・・・・」
「許してね、レイ。もうこの事には触れないから・・・・」
「・・・・」
「昨日でアンタの苦しみは全て理解したはずなのに、それなのにこんなことを・・・
ほんとにごめん。」

アスカにしては珍しく、真正面から綾波に謝った。いつもだったらごまかし半
分で人に謝るのが常のアスカであったが、今回ばかりはそういう訳にも行かな
いし、ちゃんと謝らなければいけないと思ったのかもしれない。

「ううん、私がアスカの気持ちを理解してあげられなかったせいだから・・・
自業自得よ。」
「レイ・・・・」
「あれのことは私に任せて。他のことはアスカに任せるから。」
「うん、わかった。」
「でも・・・・」

綾波はそう言って少し言いよどんだ。そして蚊帳の外に居た山岸さんに視線を
向ける。

「彼女にあんまり冷たく当たらないで。碇君が困るわ。」
「・・・・わかってる。」
「このことだけ忘れないで。今碇君が好きなのは・・・・あなたなんだから。」

綾波にとっては認めたくないことであったが、ここでそう言わない訳には行か
なかった。だから綾波は言う時、表情にはっきりとわかる陰りを見せた。そし
てアスカもその綾波の表情を理解していても、綾波の口からその事実を告げら
れることに喜びを感じずにはいられなかった。自分からではなく第三者からそ
ういう考えが出てくると言うのは、アスカの精神的基盤を形成するのに大いに
役立つのである。

喜びを隠そうとするアスカと、辛さを隠そうとする綾波。
同じ隠すのでも、その心は大きな開きがあった。
そして僕は痛々しく微笑みを見せる綾波を心配すると、黙ったままそっと視線
を送るのであった・・・・


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