私立第三新東京中学校

第二百四十一話・命の重み


「碇君。」

何となく山岸さんの方に意識を向けていた僕に、突然それまで静寂を守り続け
ていた綾波がひとこと声をかけてきた。

「ん、なに、綾波?」
「見て。」
「見てって・・・何を?」
「あれよ。碇君のこと見てる。」
「渚さん?まあ、見たっておかしくはないと思うよ。渚さんにも気持ちっても
のがあるんだし・・・・」

山岸さんのことを気にするアスカに対して、綾波はいまだに渚さんに固執し続
けていた。僕も綾波の言いたいことはわかるし、その注意をむげに拒絶するつ
もりもない。しかし、綾波の気にしかたはちょっと度が過ぎているように思え
た。だから僕はちょっとつれなく感じるかもしれないけれど、そう綾波に答え
た。すると綾波はそんな僕の考えを否定したいかのように強く言う。

「そうじゃないの。そうじゃ・・・」
「なに?綾波の気にし過ぎだよ。見つめるだけじゃ人に害は与えられないし、
いざと言う時は綾波がついていてくれるから。」
「私が言いたいのは今の危険じゃないの。今のあれの表情、ただそれだけを見
て欲しいの。」
「表情・・・?」

僕は疑問に思いながらも、綾波に言われた通り渚さんの表情を観察してみるこ
とにした。そして僕は驚いた。あまり気にしていなかったのだが、渚さんはそ
の白磁のような真っ白な肌を更に蒼白にして、まるで今にも殺されそうな表情
をしていたのだ。

「・・・・・」
「見たでしょ?そして碇君にもわかるはず。何が危険で何が危険でないかを・・・」

綾波はさりげなく僕に示唆した。
自分にも僕にもわかることを、アスカだけがわからないと言いたいのかもしれ
ない。無論綾波はアスカと自分とに差をつけるとか、そういうつもりで言った
のではなく、多分山岸さんのことを気にするアスカのことを愚かしいと思って
いるのだろう。
確かに山岸さんは変に僕を意識しているところがあるし、アスカがいぶかしく
思っても別段おかしいことではない。だが、アスカは自分でも嫉妬深いと明言
しているとおり、これは嫉妬の範疇であろう。それに対して綾波は無意味な事
だと思っているのだ。綾波がそう思うにも色々あるし、アスカにもそれなりの
言い分があるだろうが、それにしても今は綾波が言うように、渚さんにより危
機意識を感じるべきであった。

だが、事態は急変していた。
僕の視線を受けた渚さんは、僕に向かって微笑みを見せた。その行為自体はい
つものことであるものの、それは全く異なった面を僕達に見せていた。渚さん
の微笑みは仮面にもたとえられるように完璧に作られたものであった。僕達は
何度かその仮面を崩してしまう渚さんを目の当たりにしたことがあったものの、
それは滅多にあることではなく、基本はあくまで笑顔のままであった。それは
作り物の笑顔であるものの、あまりに完璧で僕達に違和感を抱かせないため、
普通の人は渚さんに悪いイメージを持ち得なかった。まあ、時が経つにつれて
薄気味悪いと思う人々も少なくなく、それが渚さんに友達のいない原因になっ
ていたのだが・・・・

「な、渚さん・・・・」

渚さんの仮面は壊れていた。
その微笑みは魅力に満ち溢れたものではなく、どう見ても無理をしているとい
うのがわかるような、ぎこちないものであった。僕はそんな渚さんを見て、更
に受けた衝撃を隠し切れずに思わず渚さんの名前を口にした。するとそれに触
発されるかのように渚さんも口を開く。

「一つ聞きたいことがあるんだ・・・・・」
「な、何かな・・・・?」

僕は逃げ出せなかった。
実際僕にとって今の渚さんと会話をするのは辛すぎた。しかしいつもとは別の
吸引力で僕は渚さんに縛り付けられていた。片手にはまだ綾波の手もあったし、
もう片方ではアスカともつながっている。僕と渚さんの間にはまるで二人の間
を阻むかのように綾波の存在があったものの、それは僕をしっかりと支えては
くれなかった。無論綾波は絶対死守の構えでいるのだが、渚さんにも、それか
らこの僕にも、綾波の存在は希薄だった。それはもしかしたら自分の居場所を
求める渚さんの強烈な想いがそうさせているのかもしれなかった。

「自分の運命と人の運命、どちらかひとつだけを選ぶとすれば、シンジ君はど
っちを選ぶ?」
「そ、それはどういう事?」
「・・・・」
「渚さん?」
「・・・・」

僕が聞き返しても、渚さんは答えようとしなかった。まさに質問の答えだけを
受け入れるのだと主張しているかのように、渚さんは眉一つ動かさずに軽く唇
を閉ざしていた。そんな渚さんを見た僕は早々に諦めて答えることにした。

「・・・・人の・・・かな?」
「どうして?」
「人を踏み台にしてまで生きていたくない、ただそれだけだよ。」
「でも、僕は生きたいんだ。消えたくはない。」
「・・・何か・・・・あったの?」
「・・・・」
「渚さんがそんな事を口にするなんて普通じゃないよ。一体どうしたって言う
のさ?」
「・・・・」
「・・・・僕達には言えないことなの?」

僕が不安そうにそう訊ねると、渚さんは黙って首を縦に振った。僕はそんな渚
さんを可哀想に思ったが、反対に綾波は冷たく言い放った。

「言えなくて当然よ。敵に内部事情を公開したらどうなるか、はっきりしてい
るんだから。」
「あ、綾波!!」
「個人的感情はさて置き、公的な立場としては敵でしょ?私にはわかる。」
「言い過ぎだよ、綾波!!そんな大それた想像をこうしてみんなの前で口にす
るもんじゃないよ!!」
「想像なんかじゃないわ、碇君。全ての事象を鑑みれば、自ずから答えは出る
わ。」
「で、でも・・・・」

綾波の意見は正当なものなのかもしれない。現に綾波の言う通り渚さんの今ま
での発言はそれを匂わせるものばかりだった。そして更に加えて渚さんは特別
な少女だと言うことだ。あのカヲル君にそっくりなだけでなく、綾波と同じ使
徒の力を備えているのだ。これは綾波の前では口にすることは出来ないが、そ
のことが渚さんを僕にとっても特別なものにしていたのだ。
だが、特別だからこそ僕は普通に見てあげたかった。これについては綾波にも
同じ事が言えて、普通の女の子らしくするのが僕の使命だと思ったくらいだ。
だから僕は渚さんのことも敵だなんて考えたくなかった。その疑いこそ胸のう
ちにあれども、そんなのを認めるなんてあまりにも辛すぎるのだ。綾波が悪く
ないのは明白であったが、僕はどうしてもそれを認めたくなかった。
しかし、僕がそう言う態度を表すと渚さんは小さく言った。

「いいんだ、シンジ君。僕の存在自体、許されざるものなのだから・・・・」
「自分を貶めないでよ、渚さん。そんな言葉、聞きたくないよ。」
「ごめん、シンジ君。でも、君は教えてくれたはずだ。現実から逃げてはいけ
ないと言うことを。」
「そ、そうかもしれないけど、でも・・・・」
「僕にとって現実がすべてであったにもかかわらず、現実は辛いものでしかな
かった。それが僕の真実なんだよ。」
「渚さん・・・・」
「でも、シンジ君は教えてくれた。夢を見ることと、そして現実を直視するこ
と。二つとも僕には必要なことだったんだ。」
「・・・・」
「それはつまり、生きていることの素晴らしさなんだよ。」
「・・・・」
「でも・・・・・」
「でも?」

僕は思わず渚さんの話に引き込まれて聞き返してしまった。その続きの言葉が
如何なるものなのか、この僕にも想像がつくはずであったのに・・・・
だから、渚さんも答えることは出来ずに、ごまかすような形で違う話を口にし
た。

「・・・・死にたくないんだ。どんな事をしてでもこの世界に踏みとどまりた
い。」
「・・・・」
「ひとつ以外なら何でも諦められるんだ。そう、ひとつ以外なら・・・・」
「・・・・」
「生きることの意味を教えてくれたシンジ君の運命を天秤にかけることなんて
出来ない。でも・・・・・僕は一体どうしたらいいんだ?」

そこには悩みに悩み抜いている渚さんの姿があった。僕もしょっちゅう悩んで
いる口だが、ここまで深刻な悩みも持ったことがないかもしれない。そう考え
ると僕の人生は概ね幸せだったのだろうか?そう思えてしまうような渚さんで
あった。
だが、そんな僕に反して綾波が口を開く。僕とは違って綾波も悩みに悩んだ人
だったからだ。

「碇君のいない世界なんて意味があるの?」
「・・・・」
「あなたは教えられたんじゃないの?命の大切さを・・・・」
「・・・・」
「碇君は言ったでしょう?人の運命の方を選ぶって。あなたはそれを聞いて何
も感じなかったの?」
「・・・・」
「自分の命を確保するために人の命を顧みない、それは人の考えることじゃな
いわ。こう言うのはおかしいかもしれないけど、人の命を守ることによって、
人を大切にすることによって自分は守られて行くのよ。」
「・・・・」
「私は生命なんて何の価値も見出していなかった時があった。でも、碇君はそ
れを叱ってくれたの。私には代わりがたくさんいたけど、今はもういない。た
ったひとりの私でも、私は碇君を知っていくまで、いつ死んでもいいって思っ
てた。あなたと同じく、私の存在も忌まわしいものでしかなく、何の価値も有
していないと思い込んでいたのよ。」
「・・・・」
「人の命は全て等価値なの。碇君はそれをよく知ってるから、私達のことにつ
いてまるで自分のことのように考えてくれる。私はそんな碇君のやさしさに触
れて、生きていたい、そして碇君のようになりたいって思ったの。誰よりもや
さしい、私の碇君のように・・・・」
「・・・・」
「どうしてあなたは選択を人に委ねるの?どうして自分で何とかしようとしな
いの?どちらかひとつだけだなんて、人が決めたことじゃないの?少なくとも
あなたは無力じゃない。そう・・・・・力を持ってる。」
「・・・・」
「あなたの力は何のためにあるの?碇君を傷つけるため?それとも自分自身を
傷つけるため?私の力は碇君のためにあるわ。だからこの忌まわしい力も我慢
できるの。他の誰にも出来ない、私にしか出来ない事があるから・・・・」
「・・・・」
「あなたはまだ人じゃないわ。そこが私とは違う。自分の命の意味、それを自
ら見つけられるようにならなくては、まだ人形のままなのよ。」

こうして綾波の熱弁は続いた。
綾波は渚さんを他の誰よりも疎み、危険視し続けていたが、自分と同じような
道を歩みつつある渚さんのことを黙って見てはいられないのだろう。アスカも
綾波に対して嫌いながらもしつこいほど自分を語っていたが、二人は同じ道を
辿るのだろうか?そう思うと、渚さんに対する綾波の道が開けてきたような気
がしてなんだかうれしかった。
しかし、綾波がここまで考えていたとは驚きだった。はっきり言って僕を美化
し過ぎのように感じたが、その言葉一つ一つは十分納得できたし、本当にいい
考えだと思った。そして綾波の言うように、こう言う考えを持つことの出来る
綾波は、まさに人間であると強く感じた。

「・・・・君は変わったね、綾波レイ。」
「・・・・」
「君が変わったように、僕も変われるだろうか?」
「それはあなた次第よ。私には何も出来ないわ。」
「そうだね。本当に君の言う通りだと思うよ。僕も生きているんだから、その
意味を考えなければいけないね。」
「そうよ。」
「ありがとう。君の様にはなれないかもしれないけど、僕も少し考えてみるこ
とにするよ。」

渚さんはそう言うと、ようやくいつもの笑顔を見せることが出来た。いや、こ
れはいつもと同じ物ではない。仮面ではなく、本当の渚さんの笑顔のように感
じた。僕はそう思うと微笑ましく渚さんを見守るのだった。
だが、そこに水を差すかのように、最後に綾波が渚さんに釘をさした。

「でも、あなたが碇君を害するのならば、私は私の全てを懸けて碇君を守り抜
く。それを憶えておくのよ、いいわね。」
「・・・・いいよ。その言葉、忘れない。」
「碇君は、私が絶対に守る。」
「僕は・・・・もうよそう。君には君の道があるように、僕には僕の道がある。
君の言う通り僕はまだ不確かな人形さ。だが、僕も自ら進むべき道を見つける。
まあ、その道が君の逆鱗に触れなければいいんだけどね・・・・・」
「それはあなた次第よ。私は何も変わらないわ。」

確固たる意志を露にして綾波は渚さんにそう言う。すると渚さんも余裕を取り
戻したのか、軽く笑ってこう言った。

「ちなみに言っておくけど、僕はシンジ君を殺そうなんて思ったりはしないよ。
そんなことに意味はないからね。でも・・・・殺してあげた方が、幸せに思え
るようになるかもしれない。」
「どういうこと、それ?」
「僕の言えるのはここまで。君に対する授業料みたいなものさ。」
「・・・・」
「じゃあ僕はこれで。君に言われたことを屋上で風に吹かれて考えてみること
にするよ。」

渚さんはそう言うと、静かに立ちあがってそのまま教室を後にした。
僕も綾波も、そんな渚さんに言葉をかけることが出来なかった。ただ、その発
言の意味を考え、渚さんの存在に対する不信感を抱くのであった。
渚さんそのものは変われるだろう。しかし、渚さんの後ろについている存在が
恐怖の対象であった。渚さんに何かを命じていることは明らかであったが、そ
れが渚さんを苦しめている。渚さんがどういう結論を出したにせよ、渚さんが
人形であることを求める限り、渚さんとは対立関係に陥るであろう。それを思
うと、何だか少しだけ済まなく思った。しかし、自分の意志を持つと言うこと
は大切なことであった。僕はそれがわかっているから、敢えて渚さんを止めな
かったのだ。たとえ渚さんの身が危険な目に陥ることになるかもしれないにし
ても・・・・


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