私立第三新東京中学校

第二百四十話・手料理の意味

ガラガラガラ・・・

みんなの注意を集めない様に、静かに教室の中に滑り込む。綾波も僕の気持ち
を察してか、大人しく僕の手を握ったまま後についてきてくれた。
だが、学校のドアなどあまりちゃんと作られている訳でもなく、使い方も乱暴
極まりないので、作られてまだ一年を経過していないにもかかわらず、たてつ
けは悪いほうであった。それもあってか、入ってすぐにアスカと目が合う。
アスカは綾波と一緒に教室に入ってきた僕を見ても、特に驚いた様子を見せて
はいなかった。やはり綾波の言う通り、アスカも僕のことをずっと見ているの
だろうか?まあ、アスカになら見られていても別段不思議なことではないのだ
が・・・・
だが、僕の目を見てすぐにアスカは僕の手の状態に気がついてそちらに視線を
向けた。僕はこれでアスカもいつもの怒れるアスカに変わるだろうと思って身
をすくめたが、アスカは不思議と何も言っては来なかった。僕は少々唖然とし
ながらも、静かに自分の席に戻った。すると、その時になって始めてアスカが
僕の耳元にぼそっと言った。

「・・・・調子にだけは乗らせるんじゃないわよ。」
「アスカ・・・その・・・・」
「謝ったりしたら怒るわよ。」
「ど、どうして?」
「惨めじゃない、アタシが。」
「惨め?」
「そうよ。アタシはレイに何か有りそうだったから、アンタを廊下に引っ張り
出すのを見ても何も言わなかったけど、アンタがそこで謝ったりしたら、まる
でほんとにやましいことでもあったみたいじゃない。」
「そ、そんなことはないよ。絶対に!!」
「わかってるって。アタシはアンタを信じてるんだし・・・・だからアンタに
はアタシの信頼を裏切るような真似をして欲しくない訳。」
「・・・・・」

僕が少々の沈黙を見せると、アスカはそれを不安に思ったのか、慌てて詳しい
説明を加えた。

「何もアタシはずっとアタシだけを愛して、他の奴には目もくれるなって言っ
てる訳じゃないのよ。アンタがレイを好きになったらそれはそれでいい。でも、
絶対にこそこそしないで欲しいの。」
「・・・・」
「ずるいじゃない、そういうのって。アタシに脈を残しつつ本命はレイ、みた
いな感じでさ・・・・」

アスカはそう言うと、そっと目を伏せた。アスカが何を考えているのか、僕に
は色々と考えることは出来たが、それが何であるのかははっきりとわからなか
った。だが、わからなくて当然なのかもしれない。僕の考えと同じく、アスカ
の気持ちも千々に乱れているのであろうから・・・・
僕はそんなアスカの様子を見て声をかけようとした。が、そんな時、綾波が僕
の握る手に軽く力を込めた。僕はそれにより綾波の存在を思い出し、わずかに
躊躇した。すると当の綾波が僕に向かってこう言う。

「私の分も、アスカに謝っておいてあげて、碇君。」
「えっ?」
「私のせいでアスカを傷つけてしまったのだから・・・」
「・・・・わ、わかったよ、綾波。」

アスカが変われば綾波も変わると言うもので、アスカに声をかけさせるなど、
今までの綾波と同じとは思えなかった。だが、僕は驚きつつもそういう人を気
遣う綾波の方がずっと好感を持てたので、僕は余計な詮索などせずに言われる
ままにうなずいた。そして改めてアスカに声をかける。

「アスカ・・・・?」
「ばか、聞こえてるわよ。」
「えっ?」
「でもいい。レイが優越感からアタシに同情してるって訳じゃないことくらい
わかってるから。」
「アスカ・・・・」
「ま、あんまりいい気分じゃないのは確かだけどね。」
「ど、どうして?」
「だって、レイが認めたなんておかしいじゃない。なんかこう、くすぐったい
のよ、滅多に無いことだから・・・・」
「そ、そう・・・・なんだ。」
「レイの反対を押し切ってとかなら、今すぐここで抱き締めてキスして!!と
か無理言ってもいいんだけど、こういう状況じゃそういう訳にも行かないじゃ
ない。だからちょっぴり・・・・残念かな?」
「なるほど・・・・」
「だからまあ、アンタの余った手で我慢したげるわよ。両手が塞がってるとア
ンタも色々と面倒だろうけど、そのくらいは我慢しなさいよね。アンタにはそ
れくらい責任もあるんだから・・・・」

アスカはそう言うと、自分の内心を隠すかのようにぶっきらぼうに自分の片手
を差し出した。僕もそういうアスカのことを理解していたので、何も言わずに
手を取った。これでもう、言葉は要らなくなった・・・・

僕は両手を使えなくさせられたまま、じっと大人しくしていた。もう弁当箱は
空になっていたし、取り立ててすることも無かったのだ。だから誰を観察する
と言う訳でもなく、何となく周りを見渡していた。するとどのくらい時間が経
ったのか、突然山岸さんが僕に声をかけてきた。

「あ、あの・・・・碇君?」
「え?ああ、何、山岸さん。」
「そ、その・・・・お弁当・・・・」

僕は山岸さんに指摘されて、はじめて山岸さんの目の前にあった自分の弁当箱
に目をやった。すると山岸さんも少しだけ落ち着いたのか、そのまま僕に話し
続ける。

「おいしかったです、とっても・・・・」
「あ、そ、そう。ありがとう。うれしいよ、褒めてもらって・・・・」
「男の人とは思えない出来栄えでした。どうしてこんなにおいしく作れるんで
す?」
「え・・・・?」
「碇君は私が知っている限りでは男子の中で一番料理が上手いと思うんだけど・・・」
「それはまあ、作り始めた時期も早かったから・・・それに、好きだしね。」
「えっ・・・・」

山岸さんは何故か僕の口にした「好き」と言う言葉に反応して突然顔を赤らめ
た。僕は自分でそれほどおかしな事を言った訳でもないと思っていたので、少
しだけ驚いてしまった。だが、びっくりする僕を見て慌てて山岸さんも我を取
り戻してごまかすようにこう言う。

「そ、そうね。やっぱり好きじゃないと・・・・」
「うん。やっぱり料理は僕にとって一番思い入れのある分野だから、自然と熱
も入るしいい加減にしたくはないって言うのもあるね。だから本当に山岸さん
の言う通りだと思うよ。」
「好きが一番・・・なのね?」
「そうそう。好きこそ物の上手なれ、って言うしね。山岸さんも料理が好きだ
から上手になったんでしょ?」
「ええ、私も料理が好きだから・・・作るのも食べるのも、どっちも好きなの。
碇君と同じように・・・・・」

何だか今朝見た山岸さんと今の山岸さんとではどこか違うような気がしたが、
料理の話となるとつい気を取られてしまう僕は、いつもの様には観察力が働か
ずに、至って普通に山岸さんに受け答えしていた。しかし、傍から見ていると
実に危険に見えていたようで、アスカがいつ僕の手の甲をつねってもおかしく
ないような雰囲気さえ漂わせていた。それなのに僕は、基本的にひとつのこと
にしか目の行かない人間なので、呑気に山岸さんと会話を続けた。

「じゃあ、食べさせてあげるのはどうなの?自分の作った料理を食べてもらっ
ておいしいって言葉が返ってくれば、すっごくうれしいし、料理人冥利に尽き
ると思うんだけど・・・・」

僕は何の気なしに山岸さんにそう言ったが、僕の予想を上回る衝撃を山岸さん
に与えてしまった。

「・・・・・」
「もしかして・・・・あんまり考えたこと無い?そういうの・・・・」
「えっ?う、うん・・・・ごめんなさい。」
「いや、別に謝ることじゃないよ。僕はこうしていつもみんなに料理を作って
あげてるけど、普通の人は誰かに料理を作る機会なんてそうそうないもんね。」

自分の言葉で山岸さんを傷つけていたことに多少の困惑を感じた僕は、慰める
意味でそう言葉をかけた。するとそんな僕を手助けするかのように洞木さんが
続けて言う。

「そうよ、マユミ。あたしも鈴原にお弁当を作ってあげるまでは、そういう誰
かに自分の手料理を食べさせてあげる楽しみなんて知らなかったんだから・・・・」
「そう・・・なの?」
「そうよ。大体何の思い入れも無い人に、わざわざ食事を作ってあげる?材料
費だって馬鹿にもなんないのにさぁ・・・・」
「確かにヒカリの言う通りよね。私も料理は好きでも誰彼構わず食べさせるな
んて思っても見なかったから。」
「でしょう?そういうものなのよ。普通はマユミと同じなの。でも、碇君の場
合はあたしたちの場合とは逆だから・・・・」
「逆って?」

洞木さんが話を新たな展開に持って行くと、それまで堅く沈黙を守り続けてい
たアスカが洞木さんに聞き返した。洞木さんは急に割り込んできたアスカを気
にすることもなく、そのまま答えた。

「ほら、碇君の場合、料理なんて義務みたいなものだったじゃない。」
「まあ、そうね。そもそもミサトにじゃんけんで負けて家事のほとんどを押し
付けられたって聞いてるし・・・・」
「だから、碇君もはじめは嫌々だったと思うの。でも、碇君はそういうのに器
用なところが元々あったみたいだし、ほら、ミサト先生はああだから・・・・」

洞木さんは自分の担任の先生の陰口を言うのは受け入れにくいことらしく、あ
まり歯切れのよい回答にはならなかった。しかし、それがいかにも真実を露呈
しているかのように、周りの目には映ったのだった。
そしてそんな言いにくそうにしている洞木さんに向かって、アスカがそっけな
く言い放った。

「そんな気にすること無いわよ。ミサトが家事全般に関して無能なのは自他共
に認めるところなんだからさ。」
「そ、そう?」
「そうよ。自分で認めてないなら、シンジに家事を任せっきりになんてしなか
ったわよ。ミサトはずっと、やれば出来るけどシンジにやってもらったほうが
上手く出来るし効率もいいとか言ってたけど、そんなのごまかしに過ぎないわ
ね。あの女は無能よ、無能!!」

アスカはミサトさんに対しては点数が辛い。だが、それはオーバーだと思うに
せよ、僕もアスカの発言に関して概ねは当たっていると思わずにはいられなか
った。僕はミサトさんのことを本当に大切な保護者として慕っていたから、悪
くは見たくないのであるが、それでもアスカの言葉を否定することは出来なか
ったのだ。
だが、洞木さんは僕とは違った。洞木さんはミサトさんのこともよく知ってい
るとは言え、一緒に暮らしていた僕やアスカとは比較にならない。だから先生
と言う色眼鏡で多少は見方も異なっているのだろう。とにかく洞木さんはアス
カに向かってこう言ったのだ。

「それはちょっと言い過ぎよ、アスカ。先生をそんなに悪く言うもんじゃない
わ。」
「先生?あの女が先生って言う方がおかしいのよ。遅刻はするし酒は飲むしで・・・
ほんと、どう見たって先生なんて大層な代物には見えないわね。大方教員免許
も裏で手に入れたんじゃないの?」
「アスカ!!ここにいないからって酷すぎるんじゃない!?」
「アタシはミサトがここにいても同じ事が言えるわよ。ほんとのことなんだか
ら。」

こうしていつのまにか話はどんどんそれ、アスカと洞木さんは険悪な雰囲気を
作り出していた。一見一触即発にも見えるが、この二人の友情の絆と言うのは
そう簡単に揺るがないと僕は確信していたので、取り敢えず今のところは放っ
ておくことにした。

「おかしくなっちゃったね、山岸さん。」

取り残された感のある山岸さんに僕は軽く苦笑しながら声をかける。だが、そ
んな僕に対して山岸さんは真摯な瞳でこう言った。

「・・・でも、私にはいい話だった。私の知らなかった人に自分の手料理を食
べさせる喜び・・・・私も感じてみたい気がする。」
「そう・・・僕の場合、それなしって言うのは反対に皆無だったんだけど、ほ
んとにうれしいもんだからね。」
「うん。何となくわかるような気がする・・・」
「料理を作っても、楽しむのは自分だけじゃつまらないからね。人も楽しませ
て、みんなが幸せな気分になれる・・・・そんな料理が作れればいいと思うよ。」

僕は山岸さんにそう語りながらも、その内容に少々気恥ずかしさを感じていた。
だが、僕の言ったことは真実であったので、言うに当たって全く臆しはしなか
った。するとそう言った僕に対して山岸さんが小さく聞き返す。

「碇君は・・・みんなを幸せにしたいの?」
「まあ・・・ね。でも、一人を幸せに出来ないのにみんなを幸せに出来るとも
思ってないよ。ただ、一人を本当に幸せに出来れば、他の人も幸せに出来て、
それがどんどん広がって・・・・・まあ、夢物語だけどね。」

そう言って僕はまた苦笑する。一人の作った料理で世界中の人々を幸せにする
なんて、まさに夢物語でしかない。でも、何となくこの山岸さんなら僕の言葉
をわかってくれるのではないかと感じて、この戯言を口走ったのかもしれない。

そして僕の直感は当たった。

「・・・・凄いのね、碇君って・・・・」
「そ、そうかな?」
「うん。私の料理は自己満足でしかなかった。ヒカリに作った時だって、ヒカ
リを喜ばせようって言うより、ヒカリに認められたいって言う気持ちだったん
だと思う。だから私は・・・・・」
「そう自分を責めるもんじゃないよ、山岸さん。そのうち山岸さんにも自分の
手料理を食べてもらいたい人が出てくるって。だから焦ることなんてないよ。
それに僕だって当然自分を認められたい気持ちもあるんだし・・・・」
「そのうち?私は今知りたい。」

そう言う山岸さんの声は、何か力強いものを感じた。
山岸さんのことはあまりよく知らないが、こうしてみる限り大人しくて礼儀正
しくて、ひっそりとしたタイプの女の子だ。だが、一番最初に見せた時のよう
に、これと決めたら突き進むようなところも持ち合わせていた。突然僕の弁当
を食べてみたいと言い出した時にもそうだったが、今この時もそんな迫力めい
たものを山岸さんは持ち合わせていた。

「今って言ってもね・・・・」
「碇君に無理言ってもらったお礼もあるし、少しだけ私に体験させて?人に自
分の手料理を食べてもらうって言う喜びを・・・・」
「・・・・」
「お願い、碇君。」
「・・・い、いいけど・・・・でも、僕なんかでいいの?感想なんて上手く言
えないけど・・・」
「上手くなくてもいい。ただひとことおいしいって言ってくれるだけで・・・・」
「なら・・・・」

僕は半ばしぶしぶ山岸さんにうなずいた。
別に拒むべきところは何もなかったのだが、僕の両手の感触が僕を躊躇させて
いた。アスカはいまだに洞木さんと舌戦を繰り広げている。そして綾波は山岸
さんをまるで吟味するかのようにじっと見つめていた。が、そんな綾波の視線
には気付かないのか、最後に山岸さんは小さく言った。

「よかった、碇君で・・・・・」



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