私立第三新東京中学校

第二百三十七話・恋の始まり


「気にしない気にしない・・・・」

恥ずかしい状況でアスカとの昼食をしていると、少し離れたところで小さくつ
ぶやく声が聞こえた。僕は何事かと思って声のするほうに視線を向ける。する
とそこには外界からの情報をすべてシャットアウトしようとするかのように、
顔を伏せて箸を握り締めている山岸さんの姿があった。
その体勢とつぶやき声からして、きっと僕とアスカのことを気にしないように
努めているのだろう。洞木さん達についてはもう僕たちのすることにとやかく
言わなくなっている。そしてクラスの面々もただ遠巻きに観察しているだけで、
口出ししてくることはなかった。それはクラスが変わってからも同じことで、
やはりおいそれと干渉できない雰囲気を僕たちが醸し出しているのだろう。
しかし、山岸さんはそのどちらでもなかった。洞木さんやトウジ達のように僕
達のことを十分理解しているわけでもなく、また遠巻きにして他人事のように
見ていられるほど無関係でもなかった。つまり、山岸さんは微妙な位置に立た
されていたのだ。無論これは初日だからということであって、そのうち山岸さ
んも洞木さんのようになれるだろうが、今すぐにはやはり無理であった。

しかし、僕はそんな山岸さんを見て思う。
以前の僕と今の僕、その違いについて・・・
昔の僕なら、きっと今の山岸さんのようにしていたかもしれない。女の子とこ
うなることなんてありえないと思っていたし、何にせよ人というものが苦手だ
った。だから自分の周りに壁を張り巡らせて・・・・
しかし、いつのまにか僕はその壁を作らなくなっていた。そうなったのがいつ
のころからなのか、僕には実感がない。でも、これだけは言える。この第三新
東京市に呼び付けられてエヴァに乗ることによって変わり始め、そしてエヴァ
に乗らなくなったことによってそれが加速していったことを。

僕はぼんやりと山岸さんのことを見ていた。山岸さんが僕や洞木さんと同じく
料理好きで、僕の作った弁当をどう評価してくれるかということなどよりも、
昔の僕と全然違っているにもかかわらず何となく昔の僕を想起させることが気
になっていたからだ。しかし、そんな僕にすぐさま叱咤の声が飛んだ。

「こら、なにボケボケっと見てんのよ!?アタシをないがしろにするわけ!?」

僕は露骨に不満の色を見せるアスカに、慌てて謝った。

「ご、ごめん、アスカ!!つい・・・・」
「何がつい、よ。そんなにこの娘がアンタのお弁当をどう評価するのかが気に
なる訳?」
「う、うん・・・・」

本当は違った。しかし、そう答えておいたほうが無難なので、僕はアスカにそ
ううなずいた。それはちょっとした嘘であったが、何だか僕の胸を針でちくち
く刺しているような気がして、いい気持ちはしなかった。
アスカはそんな僕の気持ちには気付いた様子もなく、そのまま話を続けた。

「ったく、そんなのどうでもいいじゃない。アンタの料理の腕前はアタシやレ
イだけでなく、ヒカリも認めるところなのよ。だから今更この娘がアンタを否
定する訳ないじゃない。」
「・・・・そう?」
「そうよ!!だからもうこんなことは気にしないで・・・・食べよ?」
「う、うん・・・・」
「ほら、箸。今度はシンジが食べさせて。」
「うん・・・・じゃあ、なにがいい?」
「うーん・・・そのミートボールにして。」
「わかった。」

こうして僕はアスカに言われるがままに、傍から見ればアツアツの食事風景を
展開していった。こうして僕は山岸さんを気にしなくなったのだが、そんな時、
洞木さんがそっと山岸さんに呼びかける。

「マユミ、マユミ・・・?」
「ん・・・あ、ヒカリ・・・なに?」
「なに、じゃないわよ。どうしたの?碇君のお弁当、口に合わないの?」
「・・・えっ?」

ぼんやりとしている山岸さんを見て、いぶかしげに洞木さんが言う。

「ほんと、どうしたって言うのよ?マユミらしくないわよ。料理のこととなる
と別人みたいになるのに・・・・」
「ご、ごめん・・・・私、どうかしちゃったみたい。」
「ほんと、どうかしちゃってるわよ、今のマユミ。もしかして、そんなにアス
カと碇君のこと、衝撃的だったの?」
「え・・・・う、うん・・・・・」

山岸さんは自分の今の状態をまったく把握していなかった様子であったが、洞
木さんにそう指摘されて、はじめてどうして自分がおかしくなってしまったの
かに気がついた。そして自分の想像が違っていなかったことを知った洞木さん
は、納得した様子で言った。

「そうよね・・・・マユミも年頃の女の子だもんね。それに、ボーイフレンド
もいないみたいだし・・・・」
「ヒ、ヒカリぃ・・・・」
「でも、事実でしょ?」
「そ、それはまあ・・・・私には早すぎるわよ。」
「そんなことないって。あたしもちょっと前までは今のマユミみたいに思って
たけど・・・・」
「鈴原君・・・・ね?」
「うん・・・・」

山岸さんは洞木さんの隣で猛烈に大きな弁当箱に食らいついているトウジの方
に視線を向けて、そっちに聞こえないようにそっと洞木さんに言った。すると
洞木さんはついさっきとは別人のように少し顔を赤らめると、小さくうなずい
た。それを見た山岸さんは感慨深げに言う。

「変わったね、ヒカリも・・・・」
「うん・・・・」
「鈴原君って、そんなにいいの?」
「もちろんよ。女の子にはそっけないところがあるけど、すっごくやさしいん
だから・・・」
「そう・・・・」

トウジのことを聞かれて目を輝かせながら嬉しそうに洞木さんは答えた。そし
てそんな洞木さんの姿に、山岸さんは改めて考え始めた。
恋というものについて・・・・

実際山岸さんは散々聞かされていた。そんなに洞木さんとしょっちゅう顔を合
わせていた訳ではなかったが、山岸さんにとっては洞木さんは自分と同じく料
理を愛する同志として、そして自分以外の人間で一番料理の上手な人だと思っ
ていた。だから洞木さんにとってはそうでなくとも、山岸さんにとっては洞木
さんは特別な人間だったのだ。山岸さんと洞木さんは、学校でもそれ以外でも
話の中心は料理のことであった。実際学校ではなかなか無理な話だが、一旦学
校を離れたら、お互いの家で料理を作ることがほとんどだった。しかし、半年
か一年、そのくらい前から洞木さんが山岸さんに話す会話の内容に変化が訪れ
始めた。
この第三新東京市を襲った災害から始まって、エヴァンゲリオンというロボッ
ト、そしてその搭乗者達・・・・
ニュースでも流れないその話を、料理にしか興味を示さない山岸さんでさえ真
剣に聞いた。そして戦いが終わりまた日常が戻ってきた昨今になっても、まだ
洞木さんの会話の中にはそのことが話題としてあげられた。山岸さんはゴシッ
プ好きではないものの、学校中に広まっている三人の噂について知らない訳で
はなかった。しかし、噂に上る内容と洞木さんの語ってくれた内容では大きな
違いがあった。その時は山岸さんも自分とは縁のない話だと思って大して気に
しなかったのだが、三年に昇級してクラス替えの掲示を見たとき、同志の洞木
さんの名前と共に、その三人の名前があることに気がついた。そして山岸さん
は、その時まで眠っていた疑問を再び呼び覚ましたのであった。

洞木さんの話の中で、山岸さんが気になった人物は二人だった。一人はもちろ
んトウジのことで、一番熱を以って洞木さんが語った相手だからであった。も
ちろん今この二人がどういう関係であるかを、山岸さんは承知している。自分
と同じく料理を愛する洞木さんをこんなにまで変えてしまった人・・・それは
恋を知らない山岸さんにとって衝撃的ですらあった。
しかし、山岸さんもトウジに関してはしつこいくらいに聞かされていたので、
改めてどうこうしようという気も起こらなかった。そして山岸さんが気になっ
たもう一人の人物・・・それが僕、碇シンジであった。はじめはエヴァの搭乗
者としての僕であったが、僕が料理を愛し、そしてその腕前もなかなかのもの
であると洞木さんから聞かされたとき、山岸さんの中で僕に対する認識が変わ
った。
現実として災害続きの第三新東京市では、親を失い自分で炊事をしている男子
というのもそう珍しいことではなかった。しかし、それは大抵生き延びるため
にしていることであり、嫌々ながらにしているというのが普通で、好きでして
いるなんて山岸さんは聞いたことがなかった。だから山岸さんはそういう意味
で僕に特別な感情を抱き、その作る料理を一度食べてみたいと思ったのだった。
しかし、山岸さんは洞木さんから僕を取り巻く環境について聞かされている。
だから洞木さんをあまり刺激しないようにさりげなく僕について聞こうとした。
無論、それの中心は料理の腕前についてであったが、洞木さんの口からはそれ
以外のことについても多くが語られたのだった。
山岸さんの僕に対する認識は噂の中での僕であった。即ちプレイボーイであり、
いつも美人の女の子に取り囲まれており、男子にとっては垂涎と羨望と嫉視の
対象であるというものだった。しかし、洞木さんに料理のことを聞かされて以
来、そのイメージというものに齟齬を来していた。プレイボーイが料理を愛す
るというのも何だか変な話だ。しかし、現実問題として僕はアスカや綾波とい
つもべたべたしていたのは否定できない事実であったし、両天秤になっていた
というのも客観的に見ればまた事実であろう。だから噂には誇張があるという
ものの、概ね真実からそう外れているものではなかったのだ。
その為、洞木さんからいろいろ話を聞かされていたとは言うものの、山岸さん
の僕のイメージというのは噂の中での僕であったのだ。

しかし、こうして実際僕を間近でみて、山岸さんの持っていた僕のイメージと
いうものは大きく変わった。プレイボーイなどとんでもなく、繊細でやさしく
て・・・・弁当もよく味わっていなかったが先に味見した卵焼きは驚愕に値す
るものであった。そしてこれこそが料理を愛するにふさわしい人物であり、自
分にとっても・・・・

だが、その想いは微少なものであった。山岸さんは自分で言うようにまだ好き
とか嫌いとか、その辺がよく分からない。ただ僕のことを自分にふさわしい人
物だと思っただけだ。だから、その人物がこうして自分の目の前で赤面するよ
うな光景を惜しげもなくさらしているのは、なかなかに直視できなかったのか
もしれない。

「ところでどう、碇君のお弁当は?」
「えっ?」

突然洞木さんに訊ねられて、山岸さんはびっくりして現実へと戻る。しかし、
トウジのことを聞かれて少し舞い上がっていた洞木さんは、ご機嫌な様子で山
岸さんに続けた。

「あたしも何度か食べさせてもらったことがあるけど、マユミみたいに丸々全
部食べたことはないんだからね。」
「そ、そうなんだ・・・・」
「うん。碇君はやさしいから頼めば絶対に作ってくれると思うけど、アスカや
綾波さんのこともあるし、そうも言ってられないじゃない。だからちょっぴり
羨ましいんだ、マユミのことがね。」
「・・・・・」

洞木さんの言葉に、山岸さんは黙ってうつむく。それを見た洞木さんは、山岸
さんが折角の弁当にほとんど手をつけていないことに気がついた。

「マユミ、さっきも食べてなかったけど・・・・どうしたの、本当に・・・?」
「うん・・・・」

山岸さんは洞木さんに促されるように、改めて僕の作った弁当を見る。
整然とした弁当。それは作った人間の性格をよく表していた。もちろん食欲を
そそるような出来栄えであったのだが、違った感情を抱いたままの山岸さんに
とってはなかなかすぐに箸をつけようという気にはさせられなかった。だが、
洞木さんの手前、食べない訳にもいかないし、実際にその味には興味があった
のだ。そう思って山岸さんはゆっくりと箸を延ばす。

「・・・どう?おいしいでしょ?」
「・・・・」
「・・・おいしくない?そんなはずないんだけど・・・・」
「おいしい・・・わよ。」
「でしょ?男子の中でここまでの味を出せるのは碇君くらいよね。女の子だっ
てここまで上手に作るのは至難の業なんだから。」
「・・・・」

洞木さんは自分の方を見ずに黙ったままゆっくりと箸を動かしつづける山岸さ
んをいぶかしく思いながらも、もう一度訊ねてみた。

「マユミもそう思うでしょ?」
「うん・・・・」
「・・・・・・・・・碇君のこと、どう思う?」
「えっ!?」
「かっこいいわよね、碇君って。」
「・・・・うん。」
「鈴原がいなかったらきっとあたしも碇君のこと、好きになってただろうな。」
「ヒカリ・・・・」
「だからおかしいことじゃないのよ、マユミが碇君のこと、好きになっても・・・・」
「わ、私はそんなんじゃ・・・・」
「今はそうかもね。でも、恋の始まりってそんなもんなんじゃない?実際あた
しもそれに近いもんだったし・・・・」
「そう・・・なの?」
「そうよ。ほんの些細なことなの。それで興味を持ち始めて・・・・いつのま
にか、いつも目で探すようになってた。そのころはよくわかんなかったけど、
今にして思うと、それが恋だったんだなー、って・・・・」
「・・・・・」
「あたしの考え過ぎかもしれない。だからマユミには失礼かもしれないけど、
でも、その人に相手がいるから好きになるのをやめようとか、そういうのだけ
はやめてほしいな。」
「・・・・」
「あたしは碇君を取り巻く環境、かなり知ってるほうだからマユミに肩入れも
出来ないし、相当の困難が予想されると思うけど・・・・」
「・・・・」
「でも、頑張って、マユミ。恋っていいものよ。つらい恋もあるけど、それは
それでいいものなの。料理がいいのもわかるけど、マユミが男の子にも関心を
持ってくれたこと、あたしはうれしく思うな。」
「ヒカリ・・・・」

洞木さんは山岸さんにそう言うと、やさしく微笑んだ。
それは洞木さんしか見せられないような、そんな笑顔だった。
そしてそれを見た山岸さんは思った。
洞木さんは綺麗だ、と。
そして洞木さんを綺麗に変えた恋、本当の女の子にしてくれた恋・・・・
自分みたいな女の子でも、恋したっていいんじゃないの?
そう山岸さんは心の中で思ったのだった・・・・・


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