私立第三新東京中学校

第二百三十四話・真摯な瞳


「次は・・・シンジ君、あなたの番よ。」

アスカの長々とした自己紹介も終わり、次は僕の番となった。アスカの軽妙な
語り口が、みんなの関心を僕と、そして綾波から逸らし、ぎくしゃくした雰囲
気もなくなっているように感じた。
無論、ミサトさんは忘れてなどいない。しかし、自分のちょっとした発言から
今の状況になってしまったと言うことを多少反省していたので、更に余計な揉
め事の種になるような発言はせず、当たり障りのない言葉で僕に振った。

そして綾波はもう落ち着きを完全に取り戻していた。僕は誰にも見られないよ
うにそっと綾波の手を握っていたのだが、それが思った以上に綾波に安心感を
与えたようだ。僕にはこんなことくらいで・・・とも思えてしまうのだが、手
を握るくらいのことでこうだとすると、綾波はよっぽど乾いていたんだと思う。
誰も知らないところで恐怖に脅えていた綾波は、まさに縋るものを欲していた
のだ。そこまで追いつめられていたのに、気付かないなんて僕はなんと愚かし
いことか・・・・

「は、はい。」

僕はミサトさんに返事をすると、綾波の手をそっと放して立ち上がった。綾波
は僕の手を名残惜しそうにしていたが、仕方のないことだとわかっていたので
素直に諦めて僕を見送った。

教壇の前にぽつんと一人立つ。
あがり症の僕は、こうして一人で大勢の前に立つと、緊張してしまって上手く
口が動かなくなる。しかもそれだけではなく、何だかみんながざわついている。
まあ、それも仕方がないだろう。綾波が今の僕と同じこの場所で恋人宣言して
しまったのだし、さっきは僕が激してしまったのだから・・・・
だが、僕もいつまで経ってもこうしているわけにはいかない。だから僕は重い
唇を開いて言葉を絞り出した。

「い、碇シンジです。よろしく・・・・」

取り敢えず名前は口にした。最低限の自己紹介はこれでいいはずだ。アスカと
比較されてしまうというのが問題だったが、何を言っていいのかわからないし、
もう終わりということにして、僕は自分の席に戻ろうとした。が、それを見た
ミサトさんが、驚いて僕に声をかける。

「ちょっとシンジ君!!もしかしてそれで終わりって訳じゃないでしょうね!?」
「あ・・・お、終わりのつもりですけど・・・・」
「終わりのつもりって・・・名前しかまだ言ってないじゃない!!」
「はい・・・でも、何を言っていいのかわからないので・・・・」
「でも、自己紹介は三人だけなのよ。アスカを見習って、もう少しちゃんとし
た自己紹介にしたらどう?」
「でも・・・・」
「もう、だらしないわね。あなたがそう言うんなら、それでもいいわ。その代
わり、これからしばらく、あなたに対する質問タイムにします。いいわね?」
「そ、それは・・・・」
「何?まだうだうだ文句を言う気?」
「い、いえ・・・・」
「ならよろしい。じゃあ、アタシが仕切ってあげるから・・・・」

ミサトさんはそう言うと、アスカに追いやられていた隅っこから、僕の隣へと
やってきた。そして僕の肩をぽんぽんと叩きながら、みんなに向かって言う。

「碇シンジ君は自己紹介が苦手なので、みんなに質問してもらうことにします。
何か質問があったら手を挙げて。」

ミサトさんはそう言ってみんなに質問を募った。
僕はミサトさんに無理矢理こういう形にされてしまったが、こんなことなら自
分で自己紹介すべきだったと後悔した。きっと聞かれたくないことが色々質問
されるだろう。そして僕は返答に困って黙り込んでしまうだろうと言うのが目
に見えていた。
しかし、ミサトさんはこういう僕の気持ちくらいわかっているはずだ。なのに
どうしてこんな仕打ちをするのか・・・?僕はそう思うと、ミサトさんの方に
視線で訴えかける。するとミサトさんはそっと小さな声で僕に答えた。

「これはシンジ君、あなたに対する罰なのよ。逃げようとしたことへの・・・」
「・・・・」
「それに、あなたには大変かもしれないけど、今ここで色々みんなの疑問を公
式に解いておく方が、後々のことを考えるといいんじゃない?」
「・・・そう・・・かも知れませんね。」
「でしょう?だからちょっち辛いけど、我慢してね。アタシも、それからアス
カもフォロー入れてくれると思うから・・・・」
「はい・・・」

ミサトさんはそう言って、僕を励ましてくれた。しかし、確かにミサトさんの
意見も十分理解出来るのだが、僕にはいささか不安だった。果して僕がみんな
の質問の雨あられに耐え切れるのかどうか・・・?
しかし、僕がそんな考えに浸っている間も、大勢の人達が手を挙げる。ゴシッ
プにまみれた僕達は、質問される材料には事欠かないのだ。

「じゃあ、そこのあなた。質問して。」

ミサトさんは窓際に座っていた一人の女子生徒を指名した。その女の子は人一
番元気良く手を挙げていたので、ミサトさんの目にもとまったのだろうが、前
のクラスから引き続き同じクラスになった娘ではないようで、僕の目にも見覚
えはなかった。それはミサトさんにも同じだったようで、不謹慎にも自分の受
け持っているクラスの生徒だと言うのに名前も覚えていなかった。まあ、ミサ
トさんらしいと言えばミサトさんらしいが、僕はその女の子が少しだけ可哀想
に思えた。

「はい!!」

ミサトさんに指名されたことがよっぽどうれしかったのか、挙げていた手以上
に元気良く返事をすると、女の子は立ち上がった。立ち上がったところを見る
と、その女の子はあまり元気が良いように見えるタイプではなかった。かなり
の細身で、長い黒髪と眼鏡のよく似合う、どっちかというとひっそりと本を読
んでいるような女の子に見えた。そして僕はそんな彼女の印象から、ゴシップ
とは縁もゆかりもないような気がして、不思議な違和感にとらわれた。

「あの・・・・碇君の作るお弁当、それはおいしいって評判ですけど、そんな
においしいんですか?」
「えっ・・・?」

僕は元気よく立ち上がった時とは正反対の大人しめな質問にびっくりしてしま
った。が、よく考えてみるとすごく僕にとっては助かる質問だった。弁当のこ
とならいくら質問されても痛くないし、反対に聞かれるのがうれしいことばっ
かりだったからだ。もしこの娘にアスカと綾波、どっちが好きかなんて聞かれ
たら・・・僕には答えようがない。以前はアスカの方が好きだと口走った僕も、
今の綾波の様子を見て、同じことを告げる勇気はない。かと言って同じくらい
だというのもずるい気がする。それにアスカはわかってくれるとは思うけど、
それでもやっぱり傷つくはずだ。特にアスカには色々迷惑をかけていて、内心
辛いことも多いだろうと思う。僕が綾波をかばうところを見て、気持ちいいは
ずはないというものだ。

僕がそんな事を考えていると、僕より先にミサトさんがその娘に答えてしまっ
ていた。

「そうよ。もうアタシには作ってくれなくなっちゃったけど、そりゃあもう、
おいしいんだから。」
「そんなに・・・なんですか?やっぱり・・・・」
「そうなのよ。アタシはシンジ君がこんなところに埋もれているのがおかしい
気がするわね。学校なんてサボって、どこかにお店でも開いてくれたら、アタ
シはうれしいんだけど・・・って、教師でしかも担任のアタシがいうことじゃ
ないわね。忘れなさいよ、アンタ達。」

ミサトさんの言葉に、教室内は笑いの渦に包まれる。僕もそれにつられて、ぎ
こちない笑いを見せた。が、僕が何気に窓際の方に視線を走らせると、その質
問した女の子は笑っていなかった。何故か真摯な視線を僕に向けている。それ
が何を意味するものなのか、僕にはわからなかったが、どきっとしてしまうよ
うなそんな視線だった。

そしてあらかた教室も静まり、再び質問会を再開しようとミサトさんが思った
その時、ミサトさんもその娘に気付いて声をかけた。

「あらあなた、まだ立ってたの?もう座っていいわよ。」

ミサトさんはそう言って、座るのを促した。が、その女の子はミサトさんの言
うことには従わず、そっと訴えかけた。

「その・・・・食べさせてもらう訳には行きませんか?」
「は?」
「お弁当です。碇君の作った・・・・」

その意を悟って、アスカが大きな声でその女の子に言う。

「ちょっとアンタ!!少し馴れ馴れしいんじゃない!?シンジのお昼はどうす
んのよ!?」
「代わりに私のお弁当をあげます。碇君の作ったのには及びもつかないけど、
食べれないほどじゃないから・・・・」
「だから馴れ馴れしいって言うのよ!!アンタのどこにシンジと弁当を交換す
る権利がある訳!?」
「ありません。けど・・・・食べてみたいんです。惣流さんの気持ちもよくわ
かりますが、どうか認めて下さいませんか?」

その瞳は真剣そのものだった。
そして、それがアスカを動かして行った。アスカが気にしたのは、僕のお昼と
いうより、それを口実に僕に近付く輩だったのだろう。だから彼女が不謹慎に
迫っていたらアスカは絶対に妥協するはずもなかったが、彼女の目にはそんな
ものは微塵も見られなかった。それだけという訳でもないだろうが、まるで料
理を研究しているもののような、そんな瞳であった。

「・・・・そ、そう・・・・なら、あいつに聞いてみれば?アタシがどうこう
言う権利もないんだし・・・・」
「ありがとうございますっ!!」

アスカは視線を外しながら小さくそう言った。そしてそれを耳にした彼女は大
きな声でアスカにお礼を言うと、長い黒髪をふぁさっとさせて大きく頭を下げ
た。

「・・・・いい、碇君?」

彼女は頭を上げると、早速僕に向かって訊ねた。
僕はアスカと違って彼女と弁当を交換することくらい気にもならなかったし、
僕の作った弁当をそこまで求めてくれているのに、料理人としてそれに応えな
いはずもなかった。だから僕は、やけに嬉しそうに答えた。

「もちろんいいよ。よかったら食べてみて。」

僕はそう言うと、さっと自分の席まで戻って鞄の中から弁当箱を取り出す。

「碇君・・・・」

机のところでごそごそしていると、綾波が少し不安そうに声をかけて来る。

「大丈夫、弁当を交換するだけだから・・・・」

綾波はまだ、アスカの抱いたのと同じ不安を拭い去れない様子である。僕はそ
んな綾波を安心させるように、そういって微笑んで見せる。綾波はそれでもま
だ心配そうな表情を消し去ることは出来なかったが、それでも黙って僕を見送
ってくれた。

僕が教壇のところまで戻ると、彼女も自分の弁当箱を持って来ていた。

「はい、どうぞ。」

僕は彼女に弁当箱を差し出す。

「ありがとう、碇君。はい、これが私のお弁当。お昼に代わりに食べて。」
「あ、うん・・・・」

彼女はそう言って僕に自分の弁当箱を手渡すと、後はもう僕には関心がなくな
ったようにいきなりこの場で弁当の包みを開き始めた。それを見たミサトさん
が慌てて訊ねる。

「ちょ、ちょっとあなた、もしかして今ここで食べる気!?」
「済みません、先生。でも、一口だけ・・・・お願いします。」
「ま、まあ、そこまで言うなら構わないけど・・・・」

ミサトさんも彼女の真摯な瞳に負けて、了承してしまった。そして僕は、恋愛
感情抜きにしてここまで僕の弁当を求めてくれる彼女に感動すらしていた。僕
は自分の作る弁当に自信がなかった訳ではなかったが、それでも洞木さんのと
比較するとまだまだと思っていた。だからアスカや綾波が僕の弁当を喜んで食
べてくれるのも、その味の他に、僕が作ったからだというのが大いにあったよ
うに思う。それはそれとして悪い気持ちではなかったのだが、それでも僕の料
理を批評してくれる相手としては、適任であるとは言い難かった。

「手で摘まんじゃうけど、ごめんなさいね。」

彼女は自分の考えに浸る僕にそう言うと、そっと弁当箱に手を近づけ、卵焼き
を摘み上げた。
そして顔にかかって来る長い髪の毛を軽くかきあげると、卵焼きを口に運んだ。

「・・・・どう?」

僕は彼女の批評が気になって、覗き込むようにして訊ねた。すると彼女は僕の
方を見て、にこっと微笑んで答えた。

「おいしいです。思ってた以上に・・・・」
「そ、そう・・・・ありがと。」

僕は彼女の微笑みに少しどぎまぎしながら、お礼を言う。すると彼女はハンカ
チを取り出して手を拭きながら話し出す。

「ヒカリから聞いてたんです。碇君の作る卵焼きは絶品だって・・・・」
「ほ、洞木さんと知り合いだったんだ・・・・」
「ええ。料理友達・・・かな?」

僕は洞木さんにこんな友達がいたなんて知らなかった。僕が洞木さんといると
きはほとんどいつものメンバーだったから。でも、アスカに友達が洞木さんし
かいないと言うのはわかるとしても、あの洞木さんに友達がアスカだけという
のは今にして思うとおかしいことだ。だから僕達は知らずとも、洞木さんには
こういう友達が沢山いるに違いない。
そして僕は彼女に興味を抱いて訊ねた。

「名前・・・教えてくれるかな?」

彼女は唐突な僕の質問に少しびっくりしたが、自分がまだ名乗っていないこと
に気付いて済まなそうに答えた。

「マユミ・・・・山岸マユミって言います。これからよろしく、碇君。」

彼女はそう言って、少し気恥ずかしそうに微笑んだ。
山岸マユミ・・・・料理を愛する不思議な女の子だと、僕は思った・・・・


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