私立第三新東京中学校

第二百三十三話・心、溶かして

「はいはいはい、みんな静かにして〜!!」

朝のホームルームだ。
またまた僕達の担任となったミサトさんが、ざわつくクラスを静めようとする。
しかし、僕達のいなかった昨日一日の間に何が起こったのかわからなかったが、
既にクラスのみんなはミサトさんの性格というものを飲み込んだらしく、なか
なかおしゃべりをやめようとはしない。ミサトさんは一度だけそう言うと、困
った顔をしながらもこれ以上何もしようとはせずに、だらしなく教卓の上に両
肘を突き、手にあごを乗せてぼーっとし始めた。
それを見た洞木さんは、呆れた顔をしながらも、すっと立ち上がって大きな声
を出した。

「静かにして下さい!!ホームルームが始まらないでしょ!!」

ミサトさんはまさにこれを狙っていたのだ。
ネルフでのミサトさんはだらしないながらもやる時にはびしっと締める人だっ
たが、教師になってからというもの怠慢さが目立つ。ミサトさんならば、洞木
さん以上の威圧感を持ってクラス中を大人しくさせることが出来るだろうが、
そういう厳しい面は一度も見せたことがなかった。どうしてなのか僕にはわか
らなかったが、ミサトさんがただ楽をしたいからそうしているのではないこと
くらい、僕にもわかる。これは僕の想像だが、ミサトさんは教育の場で軍人と
しての自分を見せたくないのだろう。だから、常に寛容と自主性を重んじる、
開かれたクラス作りに努めているのだ。
まあ、無論ミサトさんのぐうたらが無いという訳ではない。ミサトさんは滅多
に強権を発動させるようなことはなかったが、ひとつだけ自分の一存で決めて
しまったことがある。それは、また洞木さんを委員長の座に据えることであっ
た。もちろん洞木さんの意向を聞いたことは聞いたのだが、洞木さんはそうい
う仕事をずっと引き受けてきたし、自分の性にも合っていると思っている。ま
た、洞木さんはミサトさんに対する親しみも強いので、ミサトさんの頼みを聞
かないはずはなかった。
きっとミサトさんも、自分の代わりにクラスを仕切ってくれる人間を求めるの
ならば、よく知っている人物からだろうし、だからこそ洞木さんを選んだのだ。

ミサトさんは洞木さんがみんなを注意して、ざわめきが静まり始めると、ちょ
っと姿勢を直してみんなに呼びかけた。

「はいはい、洞木さんを困らせちゃ駄目よ〜!!みんな静かにして〜!!」

こうしてミサトさんは洞木さんの大きな力を借りて、クラスを取り敢えず静め
た。そしてようやくホームルームを開始した。

「さて・・・このクラスには異端者がいるわ。」
「異端者!?」

ミサトさんのなんだか深刻そうなセリフに、クラスメイトの一人が訊ねた。す
ると、ミサトさんはそれがさも当然かのように受け止めて、話を続けた。

「そう、異端者・・・つまり、いきなり初日の自己紹介の時間にいなかったと
いう、悪の三人組よ・・・・」
「裁判だ!!魔女狩りだ!!」

な、何だかクラスの多くがふざけるミサトさんに賛同している。もちろんミサ
トさんの言う悪の三人組というのは、どう考えても僕とアスカ、綾波の三人で
あるに違いない。僕も悪と言われるくらいなら我慢も出来ようが、裁判とか魔
女狩りとかまで出てきては、僕も黙っていはいられなかった。だから僕はふざ
ける連中をたしなめようとしたのだが、そうしようと思って横を見た瞬間、綾
波の姿が目に入ってしまった。顔面を蒼白にしながら両手を胸に当てて、震え
ている綾波を・・・・

「・・・・」

綾波は信じてしまっているのだ。
ふざけて言った言葉を、まさにそのままの形で・・・・
きっと綾波は、誰かに力を見られて、そんな自分を魔女として位置づけられて
いるのだろうと思っているに違いない。綾波の恐れはごまかしようも無いほど
膨らんでいる。そして僕の耳には綾波の歯が震えのためにかちかちと合わさる
音が聞こえて来るような気がした。

胸が痛い。
みんなは綾波の顔色なんて知らない。
誰よりも真っ白な綾波の肌は、綾波の恐怖の印を他の人間にはわからないもの
にしている。しかし、僕にはわかる。確かに綾波の頬は真っ白だけど、心が痛
くなれば青みを増すし、喜びで薔薇色に染まることもある。それはわずかな変
化だったけど、僕にとってはそのわずかなことがうれしいことであった。
だが今は・・・・こんな綾波を見るのははじめてだ。顔色だけはごまかしよう
がなかった綾波も、絶対に仕種に表すことなどなかった。だからそれだけに震
える綾波が怖い。こんな辛そうな綾波をこれ以上見たくない。

そしてそんな時、僕の耳に笑い声がどっと入り込んできた。無論綾波を慰みも
のにしているための笑いではない。ちょっとしたおふざけなのだ。しかし、そ
んな心無い笑い声が、綾波を晒し者にしているように感じた。そしてその瞬間、
僕の理性がぷっつりと音を立てて切れた。

「黙れ!!」

僕はまるで椅子を後ろに倒すかと思われるくらい勢いよく音を立てて立ち上が
ると、大声で叫んだ。

「これ以上笑うな!!」

僕の声は、まるで別人のようだった。
僕の頭の片隅に残された理性が、客観的に僕を観察していたが、もう一人の僕
はまるで睨み殺すかのような視線でクラス中を見渡した。

「・・・・・」

クラスは即座に静まり返る。そしてみんなの注目は僕一点に集中した。
僕は見られることによって一気に理性を取り戻し始めて行った。だが、萎んで
いく感情の中にも、怒りと悲しみが備わっていた。だから僕は、冷静になった
にもかかわらず、みんなを睨もうとするのをやめなかった。
そしてまるで別人と化してしまった僕に驚き入りながらも、恐る恐るミサトさ
んが声をかけた。

「ど、どうしたのよ、シンちゃん・・・・?」
「・・・・」

僕はミサトさんをじろっと睨む。ミサトさんはそんな僕の視線にビクっとして
しまったものの、そのまま屈することなく僕に訊ねた。

「何か気に触ったことでもあったの?ちょっとみんなでふざけてただけじゃな
い。確かにシンちゃんをダシに使っちゃったのは謝るけど・・・・」
「・・・・ミサトさんなら・・・・ミサトさんならわかってくれると思ってた
のに・・・・」
「ど、どういうこと!?アタシには何がなんだか全然・・・・」
「・・・もういいです。先に進めて下さい。」

僕はうろたえるミサトさんに素っ気無くそう言うと、ガタっと音を立てて再び
席に着いた。しかし、いまだみんなの注目は僕のところにあり、元の状態に戻
ることはなかった。そしてミサトさんはと言うと、僕のことをじっと見つめな
がらも、半ば放心状態に陥っているようだった。

するとその時、聞き覚えのある明るい声が僕の耳に飛び込んできた。

「ミサト、さっさと自己紹介しちゃいましょうよ!!まずはアタシからでいい
でしょ!?」
「えっ?ん、ああ、いいわよ、アスカ。じゃあ、こっちに来て・・・・」
「はいはい。それとミサトは邪魔だからあっちに行っててね。」

アスカは席から立ち上がって教壇の元へ向かいながらそう言うと、体よくミサ
トさんを追い払った。そして所定の位置につくと、アスカはまず肘を真っ直ぐ
に伸ばした状態で両手を教壇の上にどっかと乗せた。そして・・・・この僕の
方を見た。一瞬だけ、僕とアスカの視線がひとつに合わさる。アスカはわずか
な微笑みを本当に一瞬だけ見せて、軽くうなずいた。そして僕はその時、アス
カが僕の気持ちを全て理解してくれていることを悟った。重ねて僕を援護して
くれたことも・・・・

「アタシの名前は惣流・アスカ・ラングレー。まあ、アンタ達も知ってるとは
思うけど、一応自己紹介するわね。」

アスカはそう言って自己紹介を始めた。
はっきり言ってアスカはまともに自己紹介などをする性格ではない。だから普
段のアスカならば名前を言ってそれでおしまいだろう。しかし、アスカは根気
よく自己紹介を続けた。僕はアスカに時間をもらったのだ・・・・
僕は心の中でアスカにお礼を言うと、そっと綾波に呼びかけた。

「綾波、綾波・・・・もう大丈夫だよ・・・・」
「・・・・碇・・・君?」

綾波は僕の穏かな呼びかけに、ようやく自分を取り戻して返事をした。僕はそ
こまで綾波が自分を見失っていたことに対して、更なる強い悲しみを感じた。
そして僕は染み入るようにやさしい声で綾波に告げる。

「僕がいるから・・・綾波は怖がらなくてもいいんだよ。絶対に綾波をひどい
目に会わせたりはしないから・・・・」
「碇君・・・・私・・・」
「何も言わなくっていいよ、綾波。怖かったんだろ?それもすごく・・・・」
「・・・うん・・・・」
「ごめんね、綾波。気付くのはいっつも綾波が傷ついてからで・・・・」
「・・・いいの、碇君のせいじゃないし・・・・」
「・・・・いや・・・・・・・」

綾波は僕のせいじゃないと言ってくれたが、僕は自分が許せなかった。綾波を
またもや守れなかったと言うことだけでなく、綾波のごまかしに気付かなかっ
たなんて・・・・

実際綾波はごまかしていた。
僕だけでなく、周りの全ての人間を騙していた。
こんなに脅えやすい魂を持っているというのに、僕でさえ綾波はもう悲しんで
なんかいないと思い込んでしまったのだ。しかし、実際は大間違いだった。綾
波はずっと恐れ続けてきたのだ。きっと少なくとも学校についてからずっと・・・・
それでこんな発言があれば、綾波が恐怖を感じたとしても無理はない。
ミサトさんのうっかりについても大きな問題はあったが、それ以上に自分のミ
スに腹が立った。綾波はアスカと同じく僕に負担をかけないように考えていた
はずだ。
しかし、綾波が隠したとしても、僕は気付いてやるべきなのに・・・・
そして僕が守ってあげるはずなのに・・・・

「・・・・」

綾波はそんな僕に対して何も言わなかった。
ただ透き通るように赤い瞳で僕の見つめているだけだった。
しかし、僕のすぐ隣に座っている綾波は、そっと胸元にあった手を下ろして横
に垂らした。
綾波も何も言わなかった。
僕も何も言わなかった。
しかし、綾波が何を言いたいのか、僕にはよくわかっていた。
だから僕は、黙ってそっと、綾波の手を取った・・・・

「ごめん、綾波・・・・」
「碇君・・・・」
「今の僕には、こうして綾波の求めに応じてやることしか出来ない。綾波の痛
みを癒せても、綾波の痛みの因を取り除くことは出来ないんだ・・・・」
「・・・・」
「力があっても、そのうち何とかなるなんて、随分無責任な考えだよね。綾波
が一人で苦しんでいると言うのに・・・・」

僕はそう言うと、うなだれて綾波の手をぎゅっと握り締めた。
まさに、綾波に合わせる顔が無いと言わんばかりに・・・・

しかし、そんな時僕の頭のところから声がかかった。

「そんなことないわ、碇君・・・・」
「えっ・・・?」

僕は綾波が見える程度に顔を上げる。すると綾波は僕に向かって言った。

「苦しんでるのは私一人だけじゃない。碇君も私の苦しみを分かち合ってくれ
てる。だから私は一人じゃない。碇君と二人なの・・・・」
「綾波・・・・」
「一人で苦しんでたら、私もどうなってたかわからない。でも・・・でも、碇
君が私の苦しみを半分背負ってくれてるから、私は何とかやって行ける・・・
そんな気がするの。」
「・・・・・」
「アスカは私に向かって、碇君に負担をかけるなって言ったけど、でも・・・・」

僕は少し迷った表情を見せた綾波に向かってやさしく微笑む。そしてそっと綾
波に告げた。

「綾波がそれで救われるのなら・・・・僕はいくらでも綾波の苦しみを背負う
よ。僕は平気だから・・・・」
「でも、それじゃ碇君が・・・・」
「・・・・僕は・・・さっきの綾波を見る方が辛いよ。だから・・・・」
「・・・うん・・・・」
「・・・ただ、手を握ってあげるだけなんだけどね・・・・」
「それで・・・・私はそれでいい。碇君のあたたかさを感じられれば・・・・」
「綾波・・・・」
「きっと私の心も溶かしてくれる、そんな気がするの・・・・」

綾波はそう言って、そっと目を閉じた。
視覚を閉ざし、まるで全神経を二つに合わさった手と手に集めるかのように。
そしてもう、綾波の顔色は元に戻っていた。
ほんの少しだけ、その透き通るように白い頬を、ほんのり赤く染めて・・・・


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