私立第三新東京中学校
第二百三十一話・隠されし痛み
何だか違和感を感じる。
いつもと違う教室に、いつもと違う机。
結局昨日は始業式にも出席せずに、綾波を追いかけて行ってしまったので、ク
ラスのみんなと一度も顔を合わせていない。別に全員が全員知らない連中ばか
りでもなく、結構前も同じクラスだった人もいれば、反対に僕の事を知ってい
る人もいる事だろう。だからそんなに気にする事も無いし、現に僕と同じく始
業式に出席していないアスカは、全く気にする様子も無く、楽しげに話をして
いる。少々陰気な僕とは対照的に、アスカは元気すぎるきらいはあったものの、
人付き合いは悪い方ではないので、僕達の噂を十分耳にしている連中から、い
ろんな質問を受けていた。
アスカは表情ではにこやかにしているものの、実際内心ではうるさく感じてい
るに違いない。アスカは僕とは違った意味で世慣れているので、どうでもいい
有象無象には本当の自分を見せない。まさに営業スマイルである。
まあ、それにも限度があるのがアスカたる所以で、きっとそのうち我慢しきれ
なくなって、みんなを振り払ってこっちに来るか、さもなくば洞木さんが頃合
いを見計らって間に入る事は目に見えていた。
だから、アスカには特に問題はないものの、なんとなく僕とは違った生き方を
見せられたこともあってぼんやりとアスカの方を眺めていた。
しかし・・・・
「・・・碇君。」
「ん?何、綾波?」
クラスが変わっても、出席番号の関係上、僕と綾波はまた席が隣同士であった。
綾波は昨日はそんな事を気にする余裕も無かったが、今日になって自分の新し
い席を見、そして僕の席を確認すると、喜びの色を隠さずに僕に向かって微笑
んだ。綾波にとっては自分の席の隣には僕の姿があるという事は当然の事であ
ったし、そうでなければおかしいとさえ綾波は思っていたに違いない。まあ、
実際のところそうなったのは確率の高い偶然でしかなかったのだが、綾波には
関係のないことなのだろう。
人は綾波が喜んだ事のみを考えて、僕は無感動にしているとみるかもしれない
が、実は僕も内心綾波が隣であった事を喜んでいる。友達付き合いの苦手な僕
は、やはり全然知らない女の子が隣の席に座っているよりも、十分すぎるほど
わかり合えている綾波の方が手っ取り早いのだ。手っ取り早いというのは何だ
か綾波に失礼かもしれないが、一から声を掛けて友達になるというような事は、
今の僕にもまだ出来そうに無い。だから、綾波にもきっとわかってもらえると
思う。綾波にとっては、僕が純粋に綾波の隣の席になった事を喜んだのだと思
いたいのであろうが・・・
アスカを見ていた僕に、自分もいる事を主張したかったのか、綾波は僕のワイ
シャツの袖を引っ張り、そっと小さな声で呼びかけた。僕は別に綾波をないが
しろにしていた訳ではなかったが、綾波が示してくれたように結果的にそうな
ってしまったという事に気がついて、とっさに何事か聞き返してしまったもの
の、すぐに謝罪しようという気持ちが起こった。
「どうしたの、碇君?何か不安なの・・・?」
「い、いや、そんな事はないよ。ごめん、綾波に心配かけて・・・・」
僕はそう謝ると、アスカの事は頭の中から消して、綾波の方にきちんと向き直
った。綾波は僕が姿勢を正して自分の方を見たことがなんだかやたらとうれし
かったようで、さっきまでの様子が嘘のように元気を取り戻していた。
「ううん、気にしないで、碇君。私はもう平気だから・・・・」
「そう?だといいんだけど・・・・」
「大丈夫。それより碇君こそ大丈夫?新しいクラスのこととか・・・・」
「ん、大丈夫だよ。綾波だって、僕以上に人付き合いが出来ないんじゃない?」
「人付き合いなんて必要ないもの。何か用があれば向こうから声を掛けて来る
だろうし、私からは何も用事なんて無いだろうから・・・・」
「駄目だよ、綾波。僕が言うのもなんだけど、内輪だけの付き合いに固執して
ばかりでは、自分の世界は広がらないよ。もっと色んな人を知らないと・・・」
僕がそう言うと、綾波は突然顔色を曇らせて僕だけにしか聞こえないようなか
細い声で言った。
「色んな人を知って、それで色んな人に避けられるの・・・・?」
「さ、避けられるって・・・・」
「私を受け入れてくれる人なんて、どれだけいると思う?アスカだって洞木さ
ん達だって、やっぱり私に違和感を感じてる。私を気遣ってくれて何にも言わ
ないけど、私にはわかるの。ほんの微妙にだけど、今までとは一線を画してる
ってことが・・・・」
「・・・・」
「私は嫌なの。みんながおかしな目でしか見てくれないなら、本当の自分を隠
していた方がいいもの。わかってくれるでしょ、碇君だって・・・」
「まあ、綾波が言うこともわからないでもないけど・・・・」
「碇君だけが私を受け入れてくれるの。碇君だけは、他のみんなとは違うの。
碇君は私のことを知っても、私から遠ざかろうとはしなかった。むしろ今まで
以上に私に近寄り、私にやさしくしてくれた・・・・」
「綾波・・・・」
僕は綾波の言葉に、少々危機感を覚えていた。
自分を受け入れないが故に僕以外の全てを拒絶し、その殻に閉じこもろうとす
るのは、危険な兆候であった。まさについこの間までの綾波のような・・・
しかし、一方で僕は綾波の気持ちもよくわかっていた。自分の望んだ世界でし
か自分を出さずに、それ以外の世界を拒絶する・・・これは以前の僕であり、
そして今の僕の姿でもあった。僕は変わったのだというものの、根本的なこと
は何も変化してはいない。僕は僕なのだし、細かい点では色々考えるところも
あったが、やはり人付き合いの苦手なところは直らない。もう、今ではほとん
ど諦めの領域に入っているのだが・・・・
「駄目だよ綾波、そんなんじゃ・・・・」
しかし、そうも言ってはいられないので、僕は半ば自分に言い聞かせるように
綾波に言った。すると綾波は即座に聞き返す。
「どうして?」
「だって、綾波は綾波だろ?色んな意味で自分を受け入れるしかないんだよ。
嫌われようと避けられようと、綾波は綾波なんだから・・・・」
「・・・・」
「綾波だって言ってたじゃないか。自分を受け入れてくれるまで待つって・・・・」
「・・・・」
「僕は綾波のその言葉、立派だと思ったよ。ほんと、凄いと思った。とっても
僕には真似出来ないからね・・・・」
「・・・・」
「でも、僕は綾波になら出来ると思うよ。僕が思ってる綾波の強さってのは、
そこのところにあるんだし・・・・」
「私の・・・強さ?」
「そうだよ。僕には無い、綾波だけの強さ・・・・」
「私だけの・・・・」
「そう、綾波だけの・・・・」
綾波は僕の言葉に何度も頭の中で反芻するような表情を見せ、そして何かを悟
ったかのように、きっぱりと答えた。
「うん、わかった、碇君。私、碇君の教えてくれた私だけの強さで頑張ってみ
る。」
「そうだよ、綾波。頑張ってみようよ。それに、案外あっけないことかもよ?
もう綾波は、昔の綾波じゃないんだし・・・・」
僕がそう言うと、綾波はにこやかな笑顔を振り撒いて大きくうなずいた。
「うん、碇君が私を変えてくれたから。だから・・・・」
「だから?」
「だから、これからも私の側にいて。碇君が一緒なら、私もきっと頑張れる。
強い私でいられる。私はそう思うの。」
「そうだね。僕も出来る限り、綾波の側にいるよ。」
「出来る限りなんかじゃ駄目。出来なくても、碇君は私の側にいるの。」
綾波は僕の言葉を聞くと、ちょっぴり顔をしかめて僕に言った。しかし、僕は
その内容の強引さに半ば呆れて情けない顔をしてしまった。
「・・・・綾波も無茶言うね・・・・」
「とにかくそれくらいに考えていて。ほら、こうしてまた碇君と隣同士になれ
たんだし・・・・」
綾波はちょっと僕をからかうつもりだったのか、あまり僕の表情も気にせずに、
改めてうれしそうにそう言う。
それは綾波がとったこともないような態度であり、見せたこともないような表
情であった。本当に最近の綾波は心から楽しそうに笑う。それは僕なんかより
も遥かに自然で綺麗なものであった。そしてそれを見た僕は、たとえ綾波に何
が起ころうとも、綾波はきっと乗り切ることが出来るだろうと思った。
綾波にとって一番の問題は、その特別な力であった。特に綾波は渚さんと違っ
て、大勢の人にそれを見られているのではないかという懸念が常に付きまとう。
だから、我関せずとばかりに静かに席に座っている渚さんとははなから違いが
見られてしかるべきであった。
しかし、実際僕は今の綾波を見て思った。綾波の力が知れ渡っても綾波は大丈
夫だ。いや、むしろそれは隠すべきではないのかもしれない。隠して知られな
いようにしているからこそ、後ろめたい感じ、避けられているような気持ちは
いやましに膨れ上がるのだ。だから明らかになればなったで、一時の苦しみは
あるに違いないだろうが、それは時が解決してくれるだろう。綾波が他のみん
なと違っても、何ら変わりはない事がわかりさえすれば、綾波のことを受け入
れてくれるはずである。
だが・・・・僕にはそれを綾波に勧める勇気がない。
僕はそう思っても、それに確信が持てるところまでは行ってない。だから、僕
の考えが間違いであることを考えると・・・・僕は取り返しのつかないことを
することになる。綾波を本当に実世界では生活出来ないようにしてしまうので
あるから。無論、生活出来ないなんてこともないだろうが、常に人からおかし
い目で見られるなんて僕には耐えられない。よくよく考えてみると、綾波は強
いから大丈夫だなんて、おかしな考えである。もしかしたら、僕の余計な思い
込みのせいで、綾波に辛い思いをさせているのではないだろうか?僕はそう思
うと、無性に綾波に済まなく思った・・・・
「その・・・・ごめん、綾波・・・・」
「どうしたの、碇君?」
綾波は僕の心境の変化に気付かずに明るく聞き返した。僕はそんな綾波を見る
のが更に辛くなって、さりげなくうつむいて顔を隠すと、綾波に向かって言っ
た。
「いや・・・・綾波に余計な苦労をかけさせちゃうんじゃないかと思って・・・・」
僕の視線は床の上にあった。
だから僕は気付かなかった。
僕の身体が、綾波の腕に抱きかかえられたことに・・・・
「そんなことない・・・・私の方こそ余計な心配、碇君にかけて・・・・」
「あ、綾波・・・?」
「これは私の問題であって、碇君の問題じゃないのに、碇君に負担をかけてる。
それだけでも十分なのに、更に碇君は・・・・」
「・・・・」
「私のことは心配しないで、碇君。私は大丈夫だから。碇君がここにいてくれ
る限り、私は私でいられるから・・・・」
「・・・・」
「私が碇君に辛い思いをさせてるなら、それを癒す役目も私にさせて。碇君を
慰めてくれる女の子は、アスカだけじゃない。私も・・・綾波レイも、ここに
いるから。碇君の側に、ずっといるから・・・・」
「綾波・・・・」
「お願い、このままこうさせて・・・・碇君は嫌かもしれないけど、私が・・・・」
しかし、綾波の言葉とは裏腹に、綾波は僕を慰めるというよりも、なんだか僕
にすがり付いているような感じであった。やはり綾波は、僕に依存しないでは
いられないらしい。恐らく昨日の一連の事件で、綾波の心はずたずたなのだろ
う。綾波は何も言わないし、僕やアスカも一生懸命綾波のことを思って頑張っ
ていたから、なかなかそういう実感が湧かなかったかもしれないけど・・・・
考えずにはいられない力の問題。
傷つきながらもそれをひた隠しにしている綾波の姿は、改めて僕の目に痛々し
く映った。何もそこまで隠さなくてもいいのに・・・・
きっと綾波はアスカの言葉を聞いているから、僕にこれ以上の負担をかけまい
としているのかもしれない。僕としては、綾波にそうされるよりも、本当の姿、
傷つき苦しむ綾波の姿を見せて欲しかった。本当の今の綾波を見れば、僕にも
対処の仕様がある。しかし、本当の心を隠されていては、僕にもそれを癒すの
は難しいのだ。
「隠さないでよ、綾波・・・・」
僕は綾波の胸に抱かれたまま、そっとそう綾波に告げた。
「えっ・・・?」
「僕のことは心配しないでよ。綾波にそうされてる方が、僕には辛いよ・・・」
「碇君・・・・」
「綾波が自分の心を隠してちゃ、僕だってどうしようもないから。せめて僕に
は、いつでも綾波の素顔を見せてよ。幸せな顔だけじゃなく、辛い顔も一緒に・・・・」
「・・・・」
「楽しいだけが人生じゃないんだよ、綾波。辛いこともまた人生なんだ。だか
ら僕も逃げない。自分の苦しみからも、そして綾波の苦しみからも・・・・」
「・・・・」
「僕は言ったでしょ?綾波を守るって・・・・」
「うん・・・・」
「それは単に、他のみんなから綾波を守るってことだけじゃないんだよ。綾波
自身からも、綾波を守りたいんだ・・・・」
「・・・どういうこと?」
「綾波自身が、綾波を傷つけてるってこと。僕にはよくわかるよ。以前の僕が、
まさにそうだったからね・・・・」
「・・・碇君・・・・」
僕の言葉に対する綾波の返事は、ただそれだけだった。
綾波が僕を抱き締めてるはずなのに、何だか僕の方が綾波を抱き締めてるよう
な、そんな感じがしていた。果して綾波が僕に気兼ねすることなく、自分の苦
しみをさらけ出してくれるかどうかわからなかったが、とにかく僕は言うだけ
だった。それが僕の、綾波に対する気持ちだったのだから・・・・
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