私立第三新東京中学校

第二百二十九話・限界


渚さんは去った。
最後に微笑みを残して・・・・

「・・・・」

渚さんの微笑みには何かがあった。
それは僕も最近になってようやく気付き始めてきた事だが、アスカのように何
か裏のある微笑みとも違い、まるで自分の全てを隠した微笑みだった。しかし、
それは同時に偽りでもなかった。
人の心はもろい。僕が強いと思った人でさえ、辛い時には弱さを見せた。だか
ら、渚さんもいつまでも仮面をかぶったままではいられない。自分ではそれを
絶対に見せないようにしていたとしても、やはり自分の気持ちは隠せない。さ
っきの渚さんがまさにそれであり、そしてそれは渚さんが人間の心を持ってい
るという事を証明していた・・・・

僕は渚さんの真紅の瞳の奥に、明らかに何かを見た。
渚さんは助けを求めていた。以前の一人ぼっちの綾波とは違った、悲哀を秘め
た瞳で・・・・
そして、それは渚さんの言葉に裏付けられた。
渚さんも人形なのだ。しかも、父さんに愛されるために生み出された綾波とは
違い、明らかに何らかの目的で操られていると言う、数段落ちた人形・・・・

渚さんの言った言葉は、人形とはまさに使い捨てを意味していた。
替えがあるから、出来が悪ければすぐに処分されるのだ。そして渚さんはそれ
を恐れている。恐らくそのことに関しては、綾波に愛を感じていた父さんとは
違い、明らかに徹底されているようであった。

そして僕はふと思った。
あのカヲル君はどうだったのだろうかと。
カヲル君も渚さんと同じ、ただ操られるだけの存在だったのかもしれない。
だから、操られる自分に価値を見出せず、僕の手によって死す事を求めたのか
もしれない。死によって何が変わるのか・・・・僕にはわからない事だが、死
よりもっと辛い事があるのだろうか?そしてそれは自分というものを全て取り
除かれた、操り人形として生きると言うことなのだろうか・・・・?

そう考えると、渚さんはカヲル君とは違う。
カヲル君は死を求めたが、渚さんは死を求めてはいない。それを恐れているの
だ。だから、渚さんとカヲル君は違う。性別云々以前に、考え方が全く違うの
だ。
しかし・・・・考え方などいくらでも変わる。現に人の考え方が変わっていく
過程を僕は何度も目の当たりにしている。そして、人が変わるのきっかけとな
るもの・・・それが恋だった。

実際渚さんが僕に恋しているのかどうかという事になると、僕にもよくわから
ない。しかし、あの渚さんの感情がすべて偽りであるとは思えなかった。だか
ら、渚さんは恋を知って、そしてはじめて死を恐れるようになったのかもしれ
ない。そう、綾波がそうだったように・・・・

「碇君・・・・」

綾波が僕の腕を軽く引く。僕はそれによって思考の渦から現実に引き戻された。

「ああ、綾波・・・・何か用かい?」
「・・・・・」

何事もなかったかのように平然として綾波の行動に応える僕に、綾波は黙って
じっと僕の顔を見つめた。その沈黙で、僕に訴えかけるかのように・・・・
そして僕はそんな綾波の訴えに気付くと、そっと綾波に告げた。

「大丈夫だよ、綾波。心配しなくたって・・・・」

しかし、僕はそう言いながらも、何が大丈夫なのかよくわかっていなかった。
それはただ、綾波を安心させるためだけの言葉だったのかもしれない。実際僕
には何の結論も出ていないのだから・・・・

「・・・・碇君の事、心配・・・・」
「だから、大丈夫だって、綾波。」
「アスカの言うように、碇君にこれ以上重荷を増やしたくない。あの人は、絶
対碇君に負担をかける・・・・」

綾波は安心させようとしている僕の言葉も聞かずに、心から心配そうな表情を
浮かべて言った。僕は今の綾波のこの言葉の変化に気が付いて、綾波に訊ねる。

「あれ?渚さんの事・・・・・」
「・・・・私も、さっきの言葉を聞いたから・・・・・」
「・・・認めてあげるんだ、渚さんを・・・・・」
「うん。あの人を人間だと認めなければ、私も人間じゃないって事になるから・・・・」
「・・・・」

僕は綾波の言葉に少しだけ嫌悪感を抱いて、わずかに眉をひそめた。すると綾
波は普通ならばまず気付きようも無い僕の微妙な変化を察知して、続けて説明
を加えた。

「もちろんそれだけじゃない。私だって、自分の事だけ考えてる訳じゃない。
あの人の悲しみを考えて、それで自分の中でそういう結論を導き出したの。だ
からわかって、碇君も・・・・」
「・・・・わかったよ、綾波。綾波は、やさしい女の子だもんね。」
「・・・ありがとう、碇君・・・・」

こうして僕と綾波は、いつのまにか二人だけの世界に入ってしまっていた。
そしてようやく会話が一段落ついたところで、慌ててアスカが入り込んできた。

「・・・なんだか、大変な事になったわね・・・・」

それは普段のアスカらしくもなく、神妙な表情だった。

「そうだね、アスカ・・・・」
「あいつ、あのまんまで大丈夫かしら?」
「・・・アスカは心配?」
「ん?まあ、ちょっとだけね・・・・」

アスカはかなり心配に違いない。しかし、それを隠して僕にそう応えた。アス
カは自分の心を隠す事が多いが、その技量はあまり優れているとは言い難い。
何とかごまかそうとするものの、いつも自分の本当の感情を漏らしてしまう。
アスカ自身としては、もっと上手く出来ればいいと思ってるのだろうが、僕は
このままのアスカでいいと思っていた。だって、その方がずっと人間らしいし、
かわいく見えるのだから・・・・

「ふふっ、かわいいね、アスカって・・・・」
「バ、バカっ!!何言い出すのよ、いきなり!?」

アスカは僕の言葉に顔を真っ赤にして叫んだ。僕はいつもアスカにはしてやら
れているので、もう少しこのまま優位に立ってからかいたいとも思ったが、後
が恐いしそれ以上にアスカが可哀想なので、笑いながら謝った。

「ごめんごめん・・・いや、悪気があった訳じゃないんだよ・・・・」
「あ、当たり前でしょ!!悪気があってそんな事言ったら、アンタなんかもう
殺してるわよ!!」
「そ、そうなんだ・・・・」
「もう、アタシが折角心配してあげてんのに、からかうんだから!!」
「ごめん・・・でも、心配って渚さんの事?」
「それもあるけど、メインはアンタの事よ。どうせアンタの事だから、あいつ
の言葉でかなりぐらぐら来てんじゃないの?」
「・・・・うん。まあ・・・・」
「ほら・・・こうしてまた、アンタは辛い思いをすんのよ。アタシとしては、
早くアンタに人生の春を謳歌させてやりたいって言うのに・・・・」
「・・・・」

僕とアスカのふざけた会話も、再び深刻なものへと戻って行った。
そしてアスカは黙って耳を傾ける僕に向かって続ける。

「アタシの言った事、ほんとよ。アタシはアンタにこれ以上重荷を掛けたくな
いの。アンタにはアタシとレイがいるって言うのに、これ以上渚が増えたら、
アンタ、きっと潰れちゃう・・・・」
「・・・・そんなこと・・・・」
「無くないわよ!!アンタは苦しんでる!!そしてアタシもレイも、そんなア
ンタを見るのが苦しいの!!辛いのよ!!アタシはアンタが好きだから、いっ
つも元気で明るく微笑んでいて欲しい訳。その微笑みで、アタシ達を見守って
いて欲しい訳。だからお願い、渚の事は忘れて・・・・」
「・・・・そんなこと・・・出来る訳ないよ・・・・」
「・・・・」
「もう、聞いちゃったから・・・・忘れる事なんて出来ない。自分の忘れたい
記憶を消せるほど、人間ってそんなに都合よく出来てないから・・・・」
「シンジ・・・・」
「大丈夫だよ、アスカ。そんなに深入りしない。僕だって自分がどれくらい持
つのかくらい、ちゃんと考えてるから。だから・・・・」

僕は綾波と同じく、アスカをも安心させようとこう言った。しかし、アスカは
僕の言葉を遮って静かにひとこと言った。

「だから、ぎりぎりまで頑張る訳?」
「えっ・・・?」
「計算が狂ったらどうするの?いっつもぎりぎりで、アンタはそれでいいの?」
「・・・・」
「壊れる寸前まで頑張って・・・・それでアンタは楽しいの?常に辛苦を抱え
て、楽をしたいって思わないの?」

僕はアスカの言葉にはっとして、そして答えた。

「そんなこと、考えた事もなかったよ・・・・」
「アンタは言ってたわよね?何かする事がないと駄目だって・・・・」
「うん・・・」
「それって、いつも自分の限界ぎりぎりまでしなければいけない事なの?」
「いや・・・・」
「確かに何にもないのは駄目かも知んないけど、でも、それでも限界ぎりぎり
よりはマシよ。少なくとも、健康に生きて行けるんだから・・・・」
「・・・・」
「アタシは見たくない。アンタの壊れた姿なんて・・・・」
「アスカ・・・・」
「だからお願い、無理しないで・・・・アタシをこれ以上悲しませないで・・・・」

僕は今にも泣き出しそうなアスカの顔をそっと僕の胸に隠した。アスカは黙っ
たまま、僕の胸を受け入れ顔を埋めた。そして僕はそんなアスカの背中に腕を
回してやさしく包み込んだ。

「・・・・」

アスカは僕の胸の中で静かに泣き出した。
僕はそんなアスカのために、更にアスカを包み込む。
アスカの泣き声は僕の耳にしか届かないような、小さなものであった。
アスカは人に自分の泣く姿を見られる事を嫌っている。今更泣き声が漏れずと
もアスカが泣いているというのは誰の目にも明らかだった。しかし、僕はアス
カの気持ちを大事にしたかった。だから、僕はアスカの泣き声が誰の耳にも入
らないようにアスカを僕の中に隠した。

綾波も他のみんなも、そんな僕達に何も言って来ない。
みんなはわかっているのだ。僕の気持ちも、アスカの気持ちも・・・・
それは単に好きとか嫌いとかいう問題ではない。もしそれが恋愛感情だけだっ
たら、綾波も大人しくしてはいられなかっただろう。しかし、もう僕達の関係
は、一言では言い表せぬほど入り組んでおり、それが僕達の間に奇妙な連帯感
を生み出すに至った。傍から見れば登校途中に中学生の男女が抱き締めあうな
んてとんでもない事だろう。だが、もう僕達にとってはこうする事が自然だっ
たし、黙ってみている事も当たり前であった。無論、綾波の心は平然としてい
るはずはないであろう。理由はどうあれ、自分の好きな人が他の女性を抱擁し
ているのであるから。しかし、それは受け入れられぬ事ではなかった。綾波は
寂しさと同時に、喜びも感じている事だろう。そして今ここで僕がこうしなけ
れば、却って綾波は悲しく思い、僕の代わりにアスカに胸を貸してあげたかも
しれない。綾波もみんなも、僕が僕らしい事をするのに、何の不満もなかった
のだ。

「シンジ・・・・」
「なに、アスカ・・・?」

アスカはいつのまにか泣き止んでいた。そして僕の胸に顔を埋めたまま、微か
な声で僕に呼びかける。僕はそんなアスカのために、いつも以上のやさしい声
で応えた。

「もう、平気だから・・・・何だか泣いたらすっきりしちゃった・・・・」
「そう・・・?」
「うん・・・・ほんとだから。」
「じゃあ・・・」

僕はそう言ってアスカの身体を抱き起こそうとする。
が、アスカは胸元にある手で僕のワイシャツをつかむと、離れないようにした。

「あ、アスカ・・・・?」
「もう少し・・・いいでしょ?お願い・・・まだ少し、時間はあるんだし・・・・」
「・・・いいよ、あと少しだけなら・・・・」
「ありがと、シンジ。やっぱりやさしいね、シンジは・・・・」
「そんなこと・・・ないよ。このくらい、別に大した事ないから・・・・」
「・・・・」

そう言う僕に、アスカからの言葉はなかった。
アスカはただ、与えられた短い時間の全てで僕の胸の感触を感じることだけに
専念していた。短い短い、穏かな朝の刹那を・・・・


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