私立第三新東京中学校

第二百二十八話・操り人形の微笑み


こうして僕達はこともなく学校へと向かった。
アスカは毎日の習慣とも言える綾波との口喧嘩が出来なかったので、その矛先
を渚さんへ向けていた。アスカにとっては渚さんだろうと誰だろうと構わなか
ったのだが、最初に渚さんの格好を見、そしてそうした理由を聞いてしまった
ので、突っかからずにはいられなかったのだ。

「それにしてもアンタ、前の方がよかったんじゃない?」
「そう?僕は別にそう思わないけど・・・・」
「だって、いくらショートカットで男っぽいとは言え、やっぱりそういう服装
をすると女の子に見えるじゃない。だから、そういうアンタから僕だのなんだ
の言う言葉が聞こえると・・・・」

アスカが特有の抑揚のある言い方で渚さんに言うと、渚さんはアスカの言葉を
継いで言った。

「ぞっとするかい?」
「そこまでは行かないけど、まあ、そんなところよ。」
「じゃあ、君は僕がこの格好を維持するのならば、言葉遣いも直した方がいい
と思う訳だね?」
「そうね。それが一番自然だろうから。でもね・・・・」
「何だい?」
「アンタがそうしたら、アンタは特徴のないただの女の子になるわね。」
「・・・・」
「つまり、アンタの意味がなくなる訳よ。アタシやレイはシンジと一緒に住ん
でるから、シンジにとっては他の誰よりも特別な存在になってるけど、アンタ
にはそういうのが無いじゃない。」
「・・・・そうかも知れないね。」
「だから、アンタは元の服装に戻した方がいい訳。わかる?」
「・・・君の言うことはよくわかるよ。現実問題としてその通りだと思う。し
かし、シンジ君は僕が女性の服を着ることを望んでいる・・・・」

アスカの言葉に、渚さんは珍しく少し悩んだ顔を見せていた。そしてそんな渚
さんにアスカが少々冷たい口調で訊ねた。

「・・・・誰がそんなこと言ったのよ?」
「・・・・」
「アタシが思うに、アタシのシンジはそんな下らないことにこだわらないと思
うけど・・・・」
「・・・・」
「アンタは一体シンジの何を見てる訳?何にもわかってないじゃない。よくそ
れでシンジの恋人になりたいなんてことが言えるわね。まだシンジのことを理
解し始めて日の浅いレイでさえ、もう少しちゃんとシンジのことが見えてるわ
よ。」

アスカが渚さんに向けた言葉は辛辣だった。
が、アスカのこういうセリフは、常に言われた本人に為になるようなものであ
った。実際僕もアスカの言葉には色々教えられている。アスカは僕のことを好
きだと言ってくれるけど、お説教をする時には容赦しない。慣れない人にはわ
からないかもしれないが、それがアスカ流の厳しい愛情なのだ。渚さんはまだ
そこまでアスカのことを把握していないだろうが、僕はそういうアスカを何度
も見てきているので、アスカが単に渚さんに辛く当たろうと思ってしているの
ではないということがよくわかっていた。
アスカの場合、喧嘩しながらいつのまにか愛情を注いでしまうようなところが
あって、この渚さんのケースもそうであろう。特に綾波と言う先例があるだけ
に、この僕の推測は割と正しいものだと思われる。実際アスカと綾波は恋のラ
イバルであり、顔を見るのも憎たらしいような間柄であったが、いつのまにか
気がついてみれば、そこらの姉妹よりもずっと親しい関係になっていたのだ。
無論、一緒に生活をし始めたということが大きなきっかけであろうが、それ以
上に喧嘩をしたというのがあると思う。まあ、喧嘩というよりも、言葉を交わ
したということが重要だ。喧嘩だろうと挨拶だろうと、とにかく頻繁に言葉を
交わせば、それにつれて親密度は増していく。そういう意味で、一緒に住んで
いるというのは重要なことなのだ。やはり多くの時間を共にしていれば、それ
だけ会話も多くなり、より近しい関係へと変わっていく。アスカと綾波の関係
は、言わばそういうもので築き上げられてきたのだ。
そしてそのことを考えると、アスカと渚さんの関係がそういう方向に動いてき
たということは喜ばしいことだった。昨日聞いた渚さんの感情の発露、あれを
聞いて僕は渚さんをも守らなければならないという気持ちを抱いたが、実際の
ところ、綾波ほどの愛情を持って渚さんを見ることは出来なかった。もちろん
綾波と渚さんを比較すれば、僕との付き合いの長さは比較にもならないから、
そう感じてしまうのかもしれないが、それでも僕は何故か渚さんとは一線を引
いてしまうところがあったのだ。
だから僕は、渚さんをアスカに任せたかった。それは僕の勝手過ぎる考えであ
るのは十分承知しているが、綾波の悲しみと渚さんの悲しみは共通するところ
があった。だから、僕は自分一人で同じ悲しみを持つ人を二人、守り通すこと
は出来ない。まだその困難さがよくわかっていない頃の僕だったら、二人とも
僕一人で背負い込もうとしただろうが、綾波のことで大分理解してきた僕は、
一人を守り通すことでもかなりの労力を必要とすることを知っていたので、渚
さんにまでは手が回らなかったのだ。

そして今、僕の側には綾波がいる。
僕はこの小さな彼女を守り抜くと、自分自身に誓ったのだ・・・・

「・・・・確かに僕は、君たちほどにシンジ君のことを知らないさ。しかし、
知らないからこそ見えるものだってあるんじゃないかな?」
「そんなの屁理屈よ。そう言うなら、アンタに何が見えるって言うのよ?」

渚さんの言葉に反論したアスカの声は、いつもの力強さをわずかに欠いていた。
やはり渚さんの言葉の中にはアスカの胸に心当たりのあるものがあるのかもし
れない。

「傍目八目って言葉を知ってるかい?僕はまだ部外者の域を抜けていないから
こそわかることだが、シンジ君はまだ、君のことを愛してはいないよ。人を愛
する段階に来ていないんだ。君にはわからないかもしれないけど僕にはわかる。」
「・・・・・」
「シンジ君は他人を愛してるんじゃない。他人に優しい自分、他人を守る自分
を愛してるだけなんだ。だからまだ、自分の殻に閉じこもっていると言わざる
をえない・・・・」
「うるさいわねっ!!」

アスカは黙って渚さんの長広舌に耳を傾けていたが、突然大きな声で渚さんに
罵声を浴びせた。

「アタシだって、アタシだってアンタの言いたいことくらい十分わかってるわ
よ!!アタシのこと、馬鹿にするんじゃないわよ!!シンジに、アタシのシン
ジに酷いこと言うんじゃないわよ!!シンジだって、悩んで悩んで頑張ってる
のに、アンタはわざわざそれを持ち出す訳!?みんながみんな、それを自覚し
てて、胸の痛みとしていつも感じ続けてるってのに、言葉に出さなくってもい
いじゃない!!これ以上アタシ達を苦しませないでよ!!」
「・・・・・」

アスカは完全に爆発していた。
僕はアスカの言葉がよくわかっていたものの、まさかここまで感情をほとばし
らせるとは思ってもみなかった。しかし、それは皆、僕の認識が甘かったのだ。
アスカがまさか、ここまで思いつめていたなんて、ここまで僕のこの事を重荷
に感じていたなんて・・・・

「・・・アンタは馬鹿よ。何にもわかってない。アタシもちょっとはアンタの
こと、考えてあげようって思ってたけど・・・・・やっぱりアンタとレイは違
う。アタシはアンタのあの時の言葉を聞いて、あの時のあれを見せられて、そ
れでアンタに対する考え方を変えようと思ったんだけど・・・・」
「・・・・」
「お願いだから、これ以上アタシ達に踏み込まないで。さっきは冗談で定員オ
ーバーだなんて言ったけど、今度は本気。アタシとシンジとレイ、おかしな三
角関係だけど、今はこれが一番安定してるの。シンジの精神状態もようやくい
い方向に向かいつつあるのに・・・・だからそれを壊さないで。シンジのこと
を想ってるんだったらあっちへ行ってて。これ以上・・・シンジに重荷を増や
さないで・・・・」

さっきとは打って変わった、アスカの心からの懇願であった。僕にはその言葉
は胸に重くのしかかったが、果たして渚さんにとってはどうなのか・・・・僕
には全くわからなかった。
渚さんも少しずつ変わりつつあるとはいうものの、基本的にはいつもの機械的
な表情を浮かべていた。だから、僕が鈍感なのはいつものことだとしても、そ
れを抜きにしてさえ渚さんの感情というものは読み取るのが困難だった。いや、
もしかしたら、感情というものが備わっていないからなのかもしれないが・・・・

そして僕はそう思うと、はたと思い至った。もしかしたら、綾波と渚さん、こ
の二人はほとんど似たような生い立ちなのかと・・・・

実際の共通点として、渚さんと綾波は似た点が多すぎる。アスカと綾波が似て
いるなんてことは考えたことがあるが、それとは比較にならないほど共通点が
あった。対人関係が皆無であり、僕しか頼る人間がいない。そして感情表現の
乏しさと、垣間見せた力・・・・その最後には印象深い真紅の双眸があった。
しかし、よくよく考えてみると、赤い瞳というのは尋常ではない。そんな人間
はまず他に見たことがない。だから・・・・渚さんも綾波と同じ、クローンな
のかもしれない。
僕はそう思うや否や、そんな考えを持つに至った自分が嫌になった。クローン
かどうかでその人の魅力に関係がある訳ではないんだし、そういう目で見られ
ることがどれだけ嫌なことなのか、綾波のことでよくわかっているのだから・・・・

そして、わずかな時間だが、やけに長く感じられた一度のまばたきの後に、渚
さんはいきなり僕達にくるりと背を向けて言った。

「所詮僕は人形にしか過ぎない身。役目を果たせねば消え去るのみ。大事に扱
われていた綾波さんにはわからないかもしれないが、今の僕は違う。人形たる
苦しみはよく知っている。本当に、本当に嫌になるほど・・・・・」
「な、渚さん・・・・」

僕は渚さんのいきなりのセリフ、その中身に衝撃と危険を覚えて思わず声を上
げた。が、僕が動揺を見せるや否や、背中を向けて顔を隠してつぶやいた渚さ
んは、また再びくるりと振り返った。そして今のことは何もなかったかのよう
に、僕に向かって満面の微笑みを湛えて告げる。

「着替えて来るよ、シンジ君。」
「えっ・・・?」
「やっぱり君のために僕を変えるんじゃなく、僕そのままの姿を君に愛して欲
しいからね。偽りの作られた自分を愛されても、そんな愛はいつか破綻するに
違いない。だから僕は、いつもの僕に戻ることにするよ。」
「う、うん・・・・」
「シンジ君達は待ってなくてもいいよ。先に学校に行っていてくれないかい?」
「わ、わかったよ、カヲル君・・・・」

僕はそう言って、はっとなった。そして渚さんもそのことに気がついて唇を喜
びの形に変えて言った。

「呼んでくれたね、カヲル君って・・・・」
「・・・・」
「じゃあ、行くよシンジ君。僕は君のこと、待っているから・・・・」

そう言って渚さんは僕を置いて去って行った。
渚さんは待つ必要はないと言ったのに、僕のことを待っているとはどういう事
なのだろうか・・・?
僕にはよくわからなかったが、何だかやけに気になる言葉であった。そして僕
が渚さんのことを、思わず「カヲル君」と呼んでしまったことも・・・・


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