私立第三新東京中学校

第二百二十七話・争う代わりに


待ち合わせ場所。
なだらかな坂を下ったところにその交差点はある。
ここ数ヶ月でかなり背が伸び、洞木さんより頭半分高くなったトウジは、その
背中で他のみんなを隠していた。無論、意図的なものではなかったのだが、少
しだけ綾波に対する反応を気にしていた僕にとっては、不安を生み出す材料で
あった。もしかしたら、綾波を受け入れてくれないのではないかと・・・・
まあ、こうしていつもの場所に来てくれているのだから、最悪の結果にはなり
そうもない。しかし、最悪ではなくとも、綾波に更なる傷をつけるには十分す
ぎる結果が訪れても何の不思議もないのだ。

僕は足を運ぶ速度を速めると、アスカと綾波に先んじてトウジ達に近付いて行
った。いきなり両者を接触させてしまっては、僕も対処の仕様がないというも
のだ。

「お、おはよう、みんな・・・・」

僕の挨拶に、と言うよりは既に僕達がやって来るのに気付いていたため、トウ
ジは何気に僕の方を向いて挨拶を返してくれた。

「おう、おはようさん、シンジ。」
「あ、うん、おはよう、トウジ。」

トウジは何だか少しだけにやにやしている。トウジはふざけることも多いが、
何にもない状態でにやけているほどいい加減な男ではない。何せトウジは僕以
上に嘘のつけない人間なのではないかと思えてしまうくらいだ。
だから僕もそんなトウジに何かあると思って、不安を感じながらもそれを上手
くごまかそうとしつつトウジに訊ねた。

「な、何かあったの、トウジ?」
「せや。お前もこれを見たら驚くで。」
「え、これって・・・?」

僕はトウジの言葉にそれが何なのかを訊ねようとしたが、その前にトウジがす
っと脇へよけて、それを僕に見えるようにした。

「な、渚さん!?そ、その格好は・・・・?」

それはまさしく渚さんだった。
僕はトウジと話をしていたので基本的にトウジしか見ていなかったし、見ても
その隣にいた洞木さんとケンスケだけであって、最奥にいたと思われる渚さん
の姿は僕の視界には入って来なかったのだ。もしかしたら、みんなは僕達にこ
の今の渚さんを隠しておいてびっくりさせようと言う腹があったのかもしれな
い。しかし、そんな些細なことよりも、渚さんの姿は僕にとって衝撃的であっ
た。

「おはよう、シンジ君・・・・」
「な、渚さん、それは・・・・?」
「昨日言っただろ?シンジ君は忘れてしまったかもしれないが、僕はしっかり
と覚えているよ。君が望むなら、僕は女の格好をしてもいいって・・・・」
「い、いや、忘れてはいなかったけど、それにしても・・・・」

そう、渚さんはいつもと同じように制服を身につけていたが、それは僕達と同
じワイシャツにスラックスという男の制服ではなく、アスカや綾波と同じ、第
壱中学から引き続き使用している女子の制服だった。
確かに渚さんは僕に向かってそう言ったのも事実だし、僕もそれを取り敢えず
は忘れていなかった。しかし、渚さんの件よりも綾波の問題で色々ごたごたし
てしまっていたので、僕の頭からは重要事項として残されてはいなかったのだ。
それに、渚さんは今まで自分のポリシーを貫き通して男子の制服を着ていたの
だし、いきなり女子の制服に変えることなんてあるはずもなく、あれはただ勢
いで言ってしまったことなのだろうと思っていた。
だから、僕は完全に驚いてしまって、ただ黙ってしげしげと渚さんの姿を見つ
めるだけであった。すると渚さんはそんな魂消えた僕に向かって、いつもの機
械的な微笑みでなく、少しだけやわらかな陽の光を感じさせる穏かな微笑みを
浮かべて口を開いた。

「覚えていてくれたんだね、シンジ君。僕はうれしいよ・・・・」
「い、いや・・・・」
「どうだい、似合うかい、これ・・・?」
「あ、ああ、うん、似合うと思うよ、うん。」
「そう・・・・ありがとう、シンジ君。わざわざ買いに行った甲斐があったよ。」
「わ、わざわざこれを買いに行ったの!?」

僕は渚さんの発言に新たな事実を知り、更なる驚きを覚えて声を上げた。
すると、渚さんはこれまた珍しく軽い苦笑をこぼしながら僕に答えてくれた。

「ああ、そうだよ、シンジ君。僕は今までずっと男子のあれで通してきたから
ね。女子のものにしろって言われたとしても、持ってないって言って突っぱね
ただろうし・・・・」
「そ、そう・・・確かに持っていなければ、着ろって言われても着られないも
んね。」
「そういうこと。まあ、そんな理由がなくたって、着たくないものは着なかっ
ただろうけどね・・・」
「えっ!!じゃ、じゃあ・・・・?」
「そう。やっぱりあんまりいい気分はしないね。前の方がしっくり来るよ。」
「じゃあ、どうして・・・・?」
「だから言っただろ?全ては君のためだって・・・・・」
「ど、どうして僕なんかのために・・・・?」

僕がしつこく訊ねると、渚さんは少しだけ眉をひそめてこう言った。

「君はもう少し自分自身というものを知った方がいいと思うよ。そして自分の
中に価値を見出すべきだ。大体君には見えていないかもしれないが、君のこと
を好きなのは惣流さんや綾波さんだけではないんだよ。」
「・・・・・」
「だから・・・・これ以上、僕の口から言わせるつもりかい?」
「い、いや・・・ごめん。渚さんの言いたいこと、よくわかったよ。もうこれ
以上うるさく聞いたりしないから・・・・」

僕が納得して小さく渚さんに言うと、渚さんはまた穏かな表情を取り戻して僕
に応えた。

「解ってくれればそれでいいんだよ、シンジ君。僕も、自分の気持ちというも
のを知っておいてもらいたかっただけなんだから・・・・」

そして僕は、そんな渚さんに何と言ってよいのかわからなくなってしまった。
渚さんはつまるところ、自分が男装を捨てて女の子の制服を着たのは、これす
べて僕のためだということであって、それは渚さんの僕への想いの強さを表し
ていた。僕はつい昨日まで、渚さんの僕への想いというのは、いわゆるはしか
みたいなものだと思っていたのだが、どうやらそれも一概には決め付けかねる
ところが多々あって、とにかく100%偽りなどではないということがわかっ
た。しかし、普通なら人に好かれて喜ぶべきはずなのに、僕はアスカと綾波と
いう二つの存在があったため、渚さんの気持ちを改めて知らされても、特に感
じるものもなく、却って煩わしいと思ったこともなくはなかった。そういう意
味においては、僕も渚さんも悲しい存在であったのだ・・・・

しかし、そんな中、僕と渚さんの間に言葉が割り込んできた。

「あらアンタ、今日はどういう風の吹き回し?いっつも男の格好ばっかりして
いたって言うのに・・・・」
「シンジ君のためさ。今まで通りじゃシンジ君と男としての付き合いはこれか
らもしてもらえると思うけど、所詮親友どまりだからね。」
「なに?じゃあアンタはシンジと女の付き合いがしたいって訳?」
「もちろんだよ。僕はシンジ君と恋人関係になりたいからね。」

僕の時とは違って、アスカに対しては渚さんははっきりと言った。まあ、渚さ
んにとってはアスカは最大のライバルでいるのだから、曖昧なことを言うより
もはっきりとしたことを言った方がいいのかもしれないのだろう。
するとアスカも負けじとしれっと渚さんに言った。

「あら、残念だけど定員オーバーなの。悪いんだけど他の奴を探してくれる?」
「・・・・それは出来ない相談だね。僕の気持ちは他の人間に対象を変えられ
るほどいい加減なものじゃないんだ。」
「そんな事くらいわかってるわよ。でも、駄目なものは駄目なの。物理的にね。」
「・・・・そこのところ、詳しく説明が聞きたいな。」

渚さんはアスカの発言に少々頭に来ているのかもしれない。何だか少しだけ頬
をぴくぴくと震わせているのを見てしまったから。でも、アスカもそのことに
気付いているに違いないというのに、アスカは自分の態度を変えようとはしな
かった。こうして直に見ると、僕にとってはまさにアスカは人の気を逆なでさ
せることには誰よりも長けているように思えてならなかった。

「そう・・・・まあ、そうかも知れないわね。」
「・・・・・」
「三角関係ならまだしも、四角関係となるとややこしいでしょ?だからよ。」
「・・・それだけかい?」
「そ!!それだけ。それでアンタには十分でしょう。」

何だか雰囲気は一触即発だ。
アスカは憶えているのだろうか?渚さんが綾波と同じような力を所持している
ということに。アスカは綾波の力を恐れているのと同時に渚さんの力をも恐れ
ているかと思っていた。しかし実際のところ、アスカはまるでそれに気付かな
いようでほとんど喧嘩直前の空気を作りあげていった。

が、僕がこの二人に気を取られていた間に、いつのまにか綾波が僕の真横に立
っていた、僕はそのことに気がつくと、そっと綾波に注意した。

「駄目だよ、綾波、余計なことを考えちゃ・・・・」
「でも、碇君・・・・」

綾波は僕に声をかけられると、それまでのアスカと渚さんに今にも参加しそう
だった鋭い視線を崩して、いつもの綾波に戻って僕の方を向いた。しかし、綾
波のそれはアスカの側につきたいというものであったのだ。確かに綾波の場合、
渚さんとは険悪なままであったし、アスカとはかなり親密になっていたので、
アスカの味方になろうというのは自然の成り行きであったに違いない。だが、
僕は少しだけ考えて綾波にこう言った。

「駄目だよ、綾波。みんな色々考えてああ言ってるんだから・・・・」
「えっ・・・・?」
「アスカと渚さんがこういう風にならなければ、綾波の件はうやむやに終わら
す事は出来なかっただろ?」
「うん・・・」
「渚さんだって、自分のことはともかく綾波のことも気にしていたと思うよ。
だからこういう方向に持って行こうとしたんだ。」
「そう・・・なの?」
「うん。取り敢えず僕はそう思う。渚さんは僕が好きだから女の子の制服を着
たんだなんて言ってたけど、きっとそれだけじゃないはずだよ。自分のことや
綾波のことを詳しく問いただされない為なんだから・・・・」
「・・・・」
「アスカも同じことだよ。わざわざ喧嘩する方向に行かせて・・・・」
「・・・・そこまで考えてるの?」
「いや・・・これは僕の勝手な妄想かもしれないけど、とにかく僕も綾波に関
してはあまり言及されたくなかったから・・・・」
「・・・・」
「みんな綾波のことを思っているんだよ。確かに打算とかもあることあるだろ
うけど、それだけじゃあここまでしないと思う。誰だって朝から喧嘩したいな
んて思わないだろうから・・・・」

僕はそう思いつつ、自分の考えがあまりに理想主義的なことを悟っていた。大
体そこまで人のことを考えられるほど、人間は器用ではないはずだ。しかし、
現実はそういう結果になりつつあった。アスカと渚さんが喧嘩に近い雰囲気に
なることによって、綾波はほとんど違和感なく僕達の中に入り込むことが出来
た。つまり、僕の危惧していたことがあっけなく解決されたのだ。そもそも僕
は初めから身構えていたというのに、渚さんの服装で早くも崩されていたのだ。
それが渚さんの計算によるものなのかどうかわからなかったが、僕はそれが意
図的なものであると信じたかった・・・・

「・・・・」
「綾波を傷つけたくないのは僕だけじゃないんだ。アスカだって渚さんだって、
みんな綾波のことを思ってる・・・・」

僕がそう言うと、綾波は軽く首を横に振って応えた。

「碇君の言う通りかもしれない。でも、私にはわかる。そういう碇君が、私の
ことを一番思ってくれてるって・・・・」
「綾波・・・・」
「碇君が言ってくれなければ、私にはとてもそうは思えなかった。だからきっ
とこの二人もそんなことは考えていないんだと思う。でも、碇君がそう言って
くれて・・・・」
「・・・・」
「私、うれしかった。そして少しだけほっとできたの。それも碇君のおかげよ。
碇君が私を気遣って教えてくれたんだから・・・・」
「・・・・」
「私はもう、喧嘩はしない。争っても仕方ないもの。争う代わりに私はずっと
碇君の側にいたい。こうして碇君の側に・・・・」

綾波はそう言うと、そっと僕の腕を自分の腕に絡めた。そして軽く目を細めて
僕に寄り添った。
しかし、僕は綾波のその行動よりもその言葉について考えていた。

争いよりも幸せを求める・・・・それはごく自然なことだが、なかなか難しい
ことでもあるように僕には思える。第一何かを得ようとすれば争いが生じるの
はやむを得ないところであるし、争いのない人生など有り得なかった。
しかし、綾波の場合、争いは即ち力の発生を意味する。たとえその力を振るわ
ない些細な争いであろうとも、争う以上、力の存在を無視することは出来なか
った。だから綾波から力を取り去ろうとするには、それを使用するきっかけを
なくす必要があった。綾波には力を使う理由に僕を守るというのがあるが、現
実問題としてそれが起こり得る可能性はまずない。それよりも綾波が激して使
ってしまうということの方が十分に有り得る話であった。

だから僕は綾波がそう言ってくれてうれしかった。
競争から人は成長すると言う人もいるけど、僕は争いよりも協力によって成長
したかったし、他のみんなにもそうであって欲しかった。

争いは何も生み出さない。
そして愛しあうことによってより大きくなりたい。
理想主義かもしれないが、僕はそう思っていたのだった・・・・


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