私立第三新東京中学校

第二百二十六話・奇跡は起こる


「いってきまーす!!」

少しだけ早めに学校に行く支度を終えた僕達三人は、元気良く挨拶をして家か
ら出ていった。しかし、家の中には挨拶する相手がいない。一応まだ中には父
さんが入るが、キッチンでの出来事以来、自室にこもったきりで一度も僕達の
前に姿を現そうとしなかった。まあ、それは今日が特別だというのではなく、
いつもの事であったので、僕だけでなくアスカや綾波も全く違和感を感じた様
子は見せなかった。はっきり言って、僕達にとって父さんがいない事の方が当
たり前であって、三人だけの生活の方がずっと自然なのだ。だから却って、父
さんが変な時間にいたりすると、なんとなく違和感を感じてしまうのだった。

今日は・・・と言うか、割といつもの事であるのだが、早めに家を出たため、
僕達はかなりのんびりと歩く。僕は割と歩くのが速くて、こうゆっくり歩くの
はあまり好きではない。しかし、アスカが言うには、洞木さん達を待つ時間が
もったいないのだそうだ。ゆっくり行って丁度待ち合わせ時間に到着するのも、
早目に行って待ち合わせ場所で待っているのも、僕から見ればどっちも同じよ
うに感じるが、どうやらアスカにとってはそうではないらしい。まあ、僕とし
ても反論してアスカと喧嘩になるほどの重大事ではないので、アスカの言うよ
うにゆっくりと歩調を合わせて歩いていた。

「レイ、アンタ、今日は大人しいのねぇ?」

朝方ちょっと口論しただけで、後はずっと大人しくしている綾波に寂しく思っ
たのか、アスカが馴れ馴れしく声をかける。しかし、綾波はまるで挑発するか
のようなアスカの言葉にも応じることなく、そっと僕に身を寄せたままひとこ
と答えてこくりとうなずいて見せた。

「うん。」
「どういう風の吹き回し?」

アスカは少し眉をひそめる。
きっとアスカは、自分と口論している時の綾波の方が安心出来るのだろう。
しかし、アスカとは異なり綾波はあまり好戦的な気分ではなかった。

「何でもないわ。ただ、今日はそういう気分じゃないだけ・・・・」
「そう・・・よくわかんないけどまあいいわ。」
「うん・・・」

綾波は半分上の空でアスカに応えた。
アスカもそんな綾波の様子で、ようやく綾波がいつもとは違う事に気付く。
まあ、綾波がこうして僕に寄り添うように歩くというのは、とりわけおかしな
事ではなく、日常茶飯事の事で、アスカももう口うるさく言わなくなっていた
類の事であった。しかし、アスカの鋭い観察眼は、遅まきながら綾波のわずか
な変化に気付いたのだ。

「・・・アンタ、今日はどうしたの?何だかいつもと様子が違うけど・・・」
「・・・何でもないわ。本当になんでもないの・・・・」
「本当?怪しいわねぇ。言っとくけど、アタシの目は節穴じゃないんだから。」
「・・・・気のせいよ、きっと。」
「嘘。おっしゃいよ、本当の事を。」
「・・・・本当も嘘もないわ。言葉のままよ、アスカ。」

頑として口を割らない綾波に見切りを付けたのか、アスカは矛先を僕に向けて
きた。

「シンジ、一体どういうことよ?アンタならわかるんじゃない?」
「・・・・それは・・・・」

僕は迷った。
果たしてアスカに言っていいものなのかを・・・・
確かにアスカに言えば助けになってくれるだろう。しかし、アスカはまだ綾波
の力を恐れているし、余計な負担をかける事にもなる。そもそも僕が綾波を守
ると宣言したのだから、そんなことくらいで人の力を借りる訳にも行かなかっ
た。
しかし、結局僕はアスカに言う事にした。僕はアスカにかかる負担を恐れるよ
りも、アスカに疎外感を与える事を恐れたのだ。それにアスカは僕達三人の中
で一番頼りになる存在でもあるのだから・・・・

「綾波のあれを見たのは、アスカだけじゃないんだ。だから・・・・」
「あ・・・・」
「アスカなら誰よりも綾波の事を思ってるし、だからこそこうして普通に振る
舞うことも出来る。たとえ気にし続けていても、綾波を傷つけないようにって
思えるから・・・・」
「・・・・」
「アスカだけでなく、トウジ達もきっとアスカほどではないにしても綾波の事
をかばってくれると思う。でも、間違いなく綾波を見た人はそれだけじゃない
はずだよ。特に空を飛んじゃった事なんかは・・・・」
「そう・・・よね。アタシもそう思う。」
「だから、今の綾波にアスカと楽しく喧嘩してる余裕なんてないんだ。そこの
ところ、アスカも解ってあげてよ。綾波も恐いんだ・・・・」

僕は心からそう言ったのだが、アスカは完全に納得した様子は見せずに僕にこ
う言った。

「アンタの言う事は解るわよ、シンジ。レイが恐がってる事もよくわかるし・・・・
でも、本当にそれだけ?アタシには、それだけにはどうしても見えないんだけ
ど・・・」
「いや、それだけだと思うけど・・・・」
「ほんとに?まあ、今のアンタを見れば嘘をついてないって事くらいわかるけ
ど・・・アンタは鈍感だからね。レイが何を思ってるのか、気付かなくてもお
かしくはないし・・・・」
「・・・・」
「レイ、アンタ、ほんとに脅えてるだけ?アタシには今のアンタ、単なる脅え
た小娘には見えないわよ。」

アスカはそう言って、綾波の事をじっと見つめた。まるでその心の奥底を覗こ
うとするかのように・・・・

そして、綾波はしばし沈黙していたのだが、アスカの凝視の前に屈したのか、
その小さな唇をそっと開いた。

「・・・・私、脅えてなんていないわ。」
「・・・どういうこと?アンタ、恐くないの?」
「恐いわ。でも、脅えてなんていない。」
「恐がるのも脅えるのも一緒じゃない。違う?」
「違うわ。確かに人に好奇の目で見られる事は恐い。でも私には、碇君がつい
ているから・・・・」

そう言いながら、綾波は少しだけその白皙の頬を薔薇色に染めた。アスカはそ
んな綾波の様子を見て、つぶさに真実を嗅ぎ取って僕に皮肉たっぷりの口調で
訊ねた。

「アンタ、何レイに吹き込んだのよ?よっぽどレイをうれしがらせるような事、
言ったんじゃないの?」
「い、いや・・・ただ、どんなことがあっても綾波を守るって・・・・」

僕はそんなに大した事でもないと思ってアスカに平然と答えたのだが、そんな
僕の言葉を聞いたアスカは、呆れかえって天を仰ぎながら嘆いた。

「アンタねぇ・・・・そんな事言われりゃ、レイでなくたってのぼせちゃうわ
よ。そんな事もわからなかったの?」
「い、いや・・・・うん。わからなかった。」
「アンタってほんとに大馬鹿ねぇ・・・・レイがアンタにべた惚れなのは周知
の事実なんだから、そのアンタがレイにそんな事言えば、くらくらしちゃって
当然じゃない。」
「そ、そういうもんなの・・・?」
「そうなのよ!!全く、乙女心ってものを全く理解してないくせにそういう殺
し文句を平気で口に出せるんだから、アンタってほんとに人間凶器ね!!」
「そ、そこまで言わなくても・・・・」
「言うわよ!!ご覧なさい、レイのアンタを信じ切った目を・・・・」

アスカは興奮しまくっていたが、実際何が言いたいのかよくわからなかった。
綾波が僕を信じ切っても、おかしい事など何もないではないか。

「そ、それが何か問題かな・・・・?」
「問題よ!!大問題!!」
「どうして?僕が綾波を守り切るって言うのは事実だよ。」
「アンタにそれが出来るの!?これからレイに降りかかる悲劇は、数え切れな
いほどだって言うのに・・・・」

アスカの言葉に、僕はピクっと来た。
まさに問題はここにあるのだから。しかし、僕は既に綾波の前で再度覚悟を決
めていたので、最近の情けない僕とは別人のように、きっぱりとアスカに言っ
た。

「出来るか出来ないかじゃなくて、するんだよ、アスカ。僕は綾波を守るんだ。
出来るかどうかなんて、今の僕には関係ない。」

そして、アスカも僕の言葉ではっとなった。
アスカも知っていたのだ。決意と努力があれば、奇跡は起こるということを・・・・

実際、僕達は奇跡の連続だった。エヴァでの戦闘でも奇跡的な勝利を常に収め
続けていたが、エヴァに乗らなくなってからも、奇跡は続いていた。精神崩壊
したアスカを立ち直らせ、綾波を今のような女の子へと変えていったのだから・・・・

それは、僕が決意し、努力の結果によるものだった。
そしてそれは、アスカにとっては一生忘れられない奇跡となったのであるから・・・・

「・・・・」

アスカはそれを思いうなだれる。僕もアスカの様子を見て、アスカの心をつぶ
さに感じ取った。

「・・・わかるよ、アスカの気持ち。でも、僕はしなくちゃいけないんだ。そ
う思う理由は色々あるけど、とにかく綾波を傷つけたくはない。だから僕は、
綾波を守りたいんだ。」
「・・・・」
「アスカに手伝ってくれとは言わないよ。大変なことだけど、僕は一人でも頑
張るつもりだ。」
「シンジ・・・・」
「まだ駄目なんだろ、アスカは?」
「えっ?」
「普通に振る舞ってはいても、アスカがまだ綾波の全てを受け入れられないこ
とくらい、僕にも、そして綾波にもわかってることなんだ。」
「嘘・・・・」

アスカは僕の言葉に、自分が隠しおおせてきたと信じていたことが、実は知ら
れてしまっていたのだということを知り愕然とした。が、僕はそんなアスカに
向かってやさしく微笑みながら告げた。

「嘘でこんなことは言わないよ、アスカ。僕はアスカの優しい気持ちを知って
るから・・・でも、アスカのやさしさ故に苦しめたくはないんだ。アスカはも
う十分すぎるほど頑張ってくれたよ。そして綾波も、そんなアスカを喜んでる・・・・」

アスカはそんな僕の言葉を聞き、微笑みを見て、言葉を詰まらせてしまった。

「・・・・・」
「綾波も無理にアスカにわかってもらおうとは思ってないって。アスカがわか
ってくれるまで、自分を受け入れることが出来るようになるまで、いつまでも
待ち続けるって・・・・」
「レイ・・・・」

アスカは綾波の名前をつぶやき、視線をそちらに向けた。
すると綾波はアスカに向かって軽くうなずく。

「僕も綾波も、アスカがやさしい女の子だってわかってるし、そういうアスカ
だから好きなんだ。だから僕は綾波を傷つけたくないのと同時に、アスカのこ
とも苦しめたくない・・・・」
「シンジ・・・・」

そしてアスカは僕の言葉に再び僕の方に視線を戻した。
僕とアスカの視線が一つになる。
僕はアスカの蒼い瞳を見つめながら、そっとやさしくこう言った。

「アスカが僕を助けてくれるって言ったこと、僕はいまでもずっと覚えてるし、
うれしく思ってるよ。でも、今回だけは僕に任せて欲しいんだ。これはアスカ
にさえも出来ない、僕にだけしか出来ないことなんだから・・・・」

僕はそう言いながら、精神の昂揚を感じていた。
僕にしか出来ないこと・・・・他の誰にも出来ないこと・・・・
僕はそれを求めていたのだ。
そして僕はそれを悟った今、何も恐いのもがなくなったような気がした。
現に今の僕は、何でも出来るのではないかとさえ思えた。
実際はそうではないにしても、そう思えるということが大事だった。
いつも自分を見下して、何も出来ないと思っていた僕。
でも、僕には綾波がいる。
歪んだ関係かもしれないけど、それが真実だった。
そして綾波が僕を必要としているのと同じく、僕も綾波を必要としていた。
それこそ同じくらいに・・・・


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