私立第三新東京中学校

第二百二十四話・忘れられないこと


アスカは起きた。
僕はアスカが着替える為、部屋を出てまた綾波の元へ戻る。
何だか後ろめたい気持ちを隠し切れないまま・・・・

「アスカを起こしてきたよ、綾波。」

キッチンに戻ると、綾波は全て弁当を完成させて僕のことを待っていた。

「ご苦労様、碇君。」
「うん・・・・」

綾波は決して口にしない。
この数分の間に何があったのかを。
キスをしたとか、そこまでは思わないかもしれないけど、何にもないはずだと
思えるほど綾波も強くない。決め付けようとすることは出来るだろうが、考え
れば考えるほど、こういうのは気になるものだ。
だが、言えば真実が明るみになる。
たとえ僕が言葉を濁したとしても、その様子で答えを知ることが出来る。
そしてその答えがいい答えになると言う確率は、悪い答えになる確率よりも、
遥かに低いと言わざるをえなかった。だから綾波はそのことから離れる為に、
珍しいことに自分から話題を持ち掛けて話を切り出してきた。

「碇君?」
「ん、なに、綾波?」
「今日もひとつだけ、碇君のお弁当にだけ、工夫をしておいたから。」
「あ、そ、そう・・・・」
「何だかわかる、碇君?」
「い、いや、ごめん、わかんないよ。」

僕は綾波に謝る。
そんな事を聞かれても、この僕にわかるはずもないのだが、何故だか僕は綾波
に謝ってしまった。しかし綾波はアスカと違って、僕が意味も無く謝ってもそ
れをたしなめたりはしない。まあ、だからといって僕はそれにあぐらをかいて
いるのではなく、気を付けようと思うのであったが・・・・
でも、やはり人から責められるのと自分で反省するのとでは効果がまるで違う。
特にアスカから注意される場合は、僕もいい加減に聞いているわけにはいかず
に、自然と背筋をぴんと伸ばして緊張する。それに対して自分だと特に恐れる
ことも無いから、結構そう思ってはいても甘くなってしまうのだ。そのため、
やはり僕は綾波と一緒だと気が緩んでしまうのかもしれない。まあ、こういう
のを「幸せ」と世間では言うのかもしれないが・・・・

しかし、いつもとは違って僕の謝る言葉に対して綾波はこう言った。

「謝らないで、碇君。」
「えっ、どうして?」

謝りすぎるのがいけないことだと知りつつも、綾波らしくない言葉に僕は聞き
返さずにはいられなかった。すると綾波はちょっぴり楽しげな笑みをこぼしな
がら僕に答えてくれた。

「だって、わかったらつまらないでしょ?」
「あ、ああ、それもそうだね。」
「私は碇君がお弁当箱を開けて驚く姿が見たいの。折角頑張って考えたのに、
碇君がなーんだってがっかりするようなこと、あって欲しくないから。」
「なるほど。確かに綾波の言う通りだよ。」
「だから、碇君はわからないままでいて。私は碇君が蓋を開ける瞬間を楽しみ
にしてるから。」

綾波はそう言いながら綺麗な笑顔を見せる。
僕はそんな綾波の表情を見て、綾波が変わったことを実感した。ただ笑うにし
ても、その笑い方に厚みが増したというか・・・・とにかく人形なんて言葉が
出て来ないような、そんな表情だった。ふと昨日のことで綾波はこういう風に
繕っているのかとも思ってしまったが、僕はすぐにその考えを撤回した。今綾
波が僕に見せている表情は、とてもではないが作れるようなものではなかった。
特に綾波は演技とかそういうのにとんと縁の無い女の子だ。アスカなら出来な
いこともないが、やはり綾波では不可能だろう。こういうのは資質の問題なの
だから・・・

僕はそう思うと、綾波のことに関してはアスカの言うことが正しかったと実感
した。そして僕も綾波に向かって微笑んで見せた。すると綾波もうれしそうに
微笑みを返してくれる。
やはりなんだかんだ言っていても、笑顔が一番だ。綾波にしてもアスカにして
も、そして僕にしても、みんなが笑っていられたら・・・・それ以上の幸せな
世界はないだろう。苦しみがあるからこそ、幸せには価値があるなんて言う人
もいる。しかし、ほんのひとときの幸せに大きな価値を見出さなければならな
いのは悲しいことだと思う。そして僕も、そんな悲しい人間の一人なのかもし
れない。どう考えてもこれからの見通しは明るいものとは言えないだろうから・・・・

「こら、バカシンジ!!」

僕の考えが折角の幸せ気分から陰気な考えに移行しそうになったその時、僕の
背後から大きな声がかかった。

「ア、アスカ、何だよ、いきなり馬鹿とは・・・・?」

僕は振り向いて声の主に訊ねる。
もちろん振り返って顔を見ずとも、声だけでアスカだとわかるが、それでもア
スカに声を掛けられて振り向かない訳には行かなかった。

「馬鹿に馬鹿って言って何が悪い訳?貴重な短い朝の時間だっていうのに、何
にもしないでぼさっとしちゃってさぁ・・・・」

先ほどとは打って変わってアスカはご機嫌斜めだ。まあ、僕が何もしていなか
ったということよりも、綾波と目を合わせて微笑みあっていたというのが気に
食わなかったのだろう。特についさっきキスをしたというだけに、アスカもち
ょっと敏感になっていたのかもしれなかった。
だから僕もそんなアスカを刺激しないように大人しく謝ろうかと思ってが、そ
の前に綾波がアスカに向かって言った。

「・・・何もしてないことなんてないわ。」

綾波のその言葉にアスカの眉がピクっと動く。僕はまたアスカが怒り出すのか
と思ったが、朝のこの二人の口喧嘩というのはそれほど珍しいものでもなく、
却って何もない時の方が少ないくらいであったので、僕は冷静にそれを見てい
ることが出来た。

「何もしてなかったでしょ、アンタもシンジも・・・・?」
「してたわ。楽しく朝の会話を・・・」
「朝の会話って、アンタねぇ!!そんなの仕事のうちには入らないでしょ!!」
「入らないわね。でも、私にとってはどんなことよりも大切な時間なの。」
「仕事じゃないことをしてても、何もしてないのと同じなのよ!!わかる!?」

アスカが大きな声でそう言うと、綾波はじろっとアスカの顔を見て言った。

「じゃあ、アスカはどうなの?私と碇君はお弁当を作ったけど・・・・アスカ
は何にもしてないじゃない。ううん、何もしてないだけじゃなくって、わざわ
ざ碇君の貴重な時間を割いて、起こしてもらっているって言うのに・・・・」
「う、うるさいわね!!アタシはいいのよ、何にもしなくて!!」
「じゃあ、私達を責める権利も、アスカにはないわね。」
「あ、あるのよ!!アタシはこのうちで一番えらいんだから、アンタ達を監督
するっていう大事な役目があるの。つまり雑用はアンタ達に任せ、アタシはそ
れを指揮する・・・・そういうことなのよ。」

アスカは自分で言いながらだんだんその気になってきたようで、言い終わる頃
には自信たっぷりだった。が、突如部屋の入り口の方からの声がそれを打ち砕
いた。

「このうちで一番偉いのは私だと思うがな・・・?」
「と、父さん!!」

それは父さんであった。
父さんは片手に新聞を持ったまま、ゆっくりと部屋の中に入り、そして何事も
なかったかのように黙ってテーブルに着く。そしてそんな父さんのことを、僕
達は呆然として眺めていたのだ。

「あ、あの、おじさま・・・・」
「ん、何だ?」
「その・・・・一番偉いのはもちろんおじさまです。でも、アタシが言いたか
ったのはこの三人の中で一番って言う意味で・・・・」
「ああ、別に気にすることはない。」
「す、済みません・・・・」
「私に謝ることはない。好きにはじめてくれ。」

しおらしく謝るアスカには大して気に留めた様子もなく、父さんはそのまま新
聞を読み始めた。父さんにそう言われたアスカは少し意気消沈して、何をする
訳でもなく父さんから離れてキッチンへと向かった。
そして僕は、そんなアスカとは反対に新聞で顔を隠している父さんの元へ歩み
寄った。

「お、おはよう、父さん・・・・」
「ああ。」

父さんは新聞から目を離さない。が、それほど特別なことという訳でもなく、
これはいつものことであった。だから僕は別にショックを受けるとかそういう
ことはなかったのだが、それでもやはり寂しい気持ちは隠せなかった。

「・・・・」

綾波はそんな悲しい親子をじっと見つめる。
綾波にとって父さんの存在は未だに親しいものにはなり得ずにいたが、それで
も僕と父さんの関係については悲しく思っていた。

父さんを恐る恐る求める僕と、そんな僕に素っ気無く対応する父さん。
別にそれは僕に対してだけというのではなく、アスカにも綾波に対しても同じ
であったのだが、それは僕にとって慰めにはならずに、親子だと言うのに他の
みんなと変わらない対応をされるというのが、僕に更なる寂しさを感じさせた。

そして自分の居場所を失って父さんのそばにたたずむ僕のことを綾波が見かね
て、そっと僕の手を取る。

「行きましょ、碇君。朝食の支度をしないと・・・・」

こうして僕は綾波に救われた形となった・・・

綾波は朝食の支度をするといったが、朝食の支度など特にすることもない。
今日の朝食は昨日残ったアスカのおでんなんだし、それはもう既に温め直して
ある。だから後はそれをテーブルに運んで、ご飯やら箸やらを並べるだけであ
った。

「アスカも手伝って、テーブルに運ぶの・・・・」

綾波はそっとアスカに言う。それはさっきまで睨み合いの喧嘩をしていた相手
に対する言葉とは思えなかった。が、アスカも綾波と同じく全く気にする様子
もなく、綾波の言葉に応えた。

「わかったわ、レイ。じゃあ、アタシがお箸を並べるから。」
「うん、お願い。碇君は・・・」
「僕は鍋をテーブルまで運ぶよ。ひ弱だけど僕も一応男だからね。」
「うん。じゃあ、私はご飯をよそうから。」

こうして僕達三人はやたらと静かにそれぞれの仕事をこなした。
お互いが干渉しあうこともなく、黙ってことを進める。しかしそれも仕事量の
少なさから、そう長くは続かなかった。

「・・・・」

僕達三人はテーブルに着いた。
そして後は食べ始めるだけだ。父さんはさっきからずっと新聞で顔を隠したま
まだが、僕達三人が視線で示し合わせて一斉にいただきますの挨拶をすると、
父さんも取り敢えず新聞を置いて箸を手にした。

「・・・・」

が、父さんはテーブルの上のものを見て、硬直してしまった。さすがに朝から
おかずがおでんでは、父さんも唖然としてしまうらしい。僕はそれを見て、父
さんの人間的な一面を垣間見たような気がして、少しだけうれしくなった。
しかし、僕はそう喜んでいられるけれども、アスカの場合はそうは行かない。
何せこれは自分が腕によりを掛けて作ったおでんなのだ。そんなに料理に自信
のないアスカとは言え、箸も付けずに新聞を読まれてしまうようなことになっ
ては、アスカの沽券に関わるのだ。

「おじさま、このおでん、アタシが作ったんですよ!!みんな昨日はおいしい
おいしいって言ってくれて・・・」
「そうか。」
「ですから昨日の残り物なんですけど、おじさまも召し上がって下さいね。」

アスカはそう言いながら父さんの取り皿に大量におでんをよそう。
丁寧口調ではあるが、アスカの言葉は明らかに命令であった。まるでいくら父
さんであっても、絶対に食べさせてやると言わんばかりに・・・・
そしてそれを父さんも感じたのか、わずらわしいことの嫌いな父さんは黙って
箸をアスカのよそってくれたおでんに延ばした。

「どう・・・ですか?」

アスカは心配そうに訊ねる。すると父さんはおでんを口にしながら重々しくア
スカの問いに答える。

「ああ、悪くない・・・・」
「それだけ・・・ですか?」

アスカはいかにも素っ気無い父さんの言葉に少し悲しそうな顔を見せてそう言
う。が、僕ならころっとひっかかるしおらしげなアスカにも、父さんはほとん
ど動じるような気配を見せずに、そのままおでんを黙々と食べ続けた。
アスカはそんな父さんにがっかりしたような態度を見せる。僕はアスカの様子
を見て慰めの言葉を掛けようと思ったが、すぐにそんなことは必要がなくなっ
た。

「・・・・おかわり、もらえるかな?」
「は、はいっ!!」

父さんはアスカに取り分けられたおでんを全て食べ終え、おかわりを要求した
のだ。寡黙な父さんが行動で自分に示したことにアスカは感激して、慌てて父
さんにおでんをよそった。しかも、特別の大盛で・・・・

今日の朝食は、ご機嫌なアスカで終えた。
僕も綾波もそんなうれしそうなアスカを見ながら、おいしく昨日のおでんを食
べた。昨日は昨日でおいしかったが、今日はよく味が染みていて深みを増して
いた。少々僕には味付けが濃いように感じたが、ご飯のおかずにはちょうどい
いと思った。綾波も濃い味付けが気になるのか、あまり食が進まなかったが、
それでも気分はいいらしく、穏かな微笑みを絶やすことはなかった。
そしてアスカは、自分の食事などお構い無しで、父さんに付きっきりだった。
さすがに父さんも閉口していたのかもしれなかったが、それでもアスカに付き
合ってあと二回、おかわりをした。昨日は一応アスカを誉めたものの、僕も綾
波も言葉ほどには感激して食べたりはしなかった。アスカは何も口には出さな
かったが、そのことをかなり寂しく思っていたのかもしれない。だからアスカ
は、こうして行動で示されたことにものすごい喜びを感じたのだろう。
元々アスカはうわべだけの言葉よりも、行動を信じるところがある。だからう
るさいくらいにおしゃべりなアスカも、ほとんど何も自分の感情を口にしない
父さんを受け入れることが出来たのだろう。

綾波がみんなに食後のお茶を入れ、少しだけのんびりした時間となった。
父さんは食事中、ずっとアスカに世話をされていた為、いつもの悪徳である食
事中に新聞を読むということが出来ずにいた。だからテーブルの上が片付け終
わると、父さんは早速新聞を広げ読み始めた。

「・・・・」

そして静かな時が訪れる。
僕達三人は熱い緑茶の湯気であごを濡らし、父さんは新聞を読みふけっていた。
僕はそもそもこういう沈黙は嫌いではない。気まずい雰囲気は苦手ではあった
が、穏かにそれぞれがゆったりとしているのは好きであった。

しかし、僕達が思い思いの感慨に耽っていると、いきなり父さんが顔の部分だ
け新聞を下に降ろし、静かにこう言った。

「・・・昨日、MAGIがATフィールドの展開を確認したそうだ。」
「・・・・」
「無意味なことには使うな。MAGIのデータは何とでもなる。しかし、見て
いるのはMAGIだけではない。それを忘れるな。」

父さんはそう言うと、再び新聞で顔を隠した。
僕達はその言葉に驚き、そして何も言えなくなってしまった。
その言葉からいろんなことが推察されたが、それよりも半ば忘れようとしてい
た綾波の力について、再び思い出してしまった。そして僕達三人は、それぞれ
表情を曇らせた。それが誰を思ってのものかはわからなかったが・・・・


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